- 江戸で初めての上水道をつくった男 -

お菓子な旗本 大久保主水


5.三河一向一揆の勃発


食糧調達問題で三河一向宗三大寺が蜂起
 田楽狭間(桶狭間の戦い)で義元を討った信長は、勢いに乗って三河の諸城を攻め立てる。一方、岡崎城に戻った元康は、義元の跡を継いだ今川氏真に信長討伐を進言。しかし、氏真は戦う気配がない。そこで元康は、信長が清洲城に戻るのを見計らって、織田方に陥れられていた三河諸城の回復にかかる。信長は元康に再三和睦を申し入れるが、今川氏に恩義を感じていた元康はその申し入れを断り続けていた。しかし、三河の平定に専念するため、元康は信長との和議を結ぶことになり、永禄五年(一五六二)清洲城で攻守同盟を結んだ。美濃や近江の攻略を目指していた信長にとって、願ってもない同盟だった。
 永禄六年(一五六三)、元康は松平家康と改名する。  信長と和議を結んだことで、家康は今川氏真との関係が不和となってしまっていた。そこで家臣の酒井雅楽助正親(さかいうたのすけまさちか)を呼び「今川家に備えるため、各所に砦を設け兵糧を貯えるよう」命じた。正親は家臣の菅沼藤十郎定顕(さだかね)*に、食料調達を任せた。ところが、打ち続く戦乱で領内には備蓄米がなく、百姓からも取り立てることができない状態だった。そこで目を付けたのが、つねに大量の備蓄米を保有していた佐崎の上宮寺、針崎の勝鬘(しょうまん)寺、野寺の本証寺だった。ちなみにこの三寺を三河一向宗三大寺という。
 さて、定顕は上宮寺へ使者を送り「貴寺は多大の米穀を備蓄している。明年収納まで借用させて欲しい。その節は倍にして返す」と申し入れると、寺側の返答を待たずに米を運び出してしまった。これに激怒したのが、上宮寺の住職だ。勝鬘寺、本証寺の住職と相談すると「当寺は守護不入の場所である。領主の御用といえど、このたびの処置は菅沼の独断によるもの。このままには捨て置きがたい」と結論。三寺の檀徒も集まり、僧侶とともに千四百余人が菅沼定顕の屋敷を襲った。菅沼は岡崎城にいて無事だったが、このことが酒井正親に報告されると、正親は抗議の書簡を使者にもたせて上宮寺に送った。上宮寺はこれを聞き入れず、使者は斬殺される。正親はこのことを家康につたえた。家康は正親に命じて、上宮寺の叛徒たちを捉えさせる。これを不服とした一向宗門徒たちは、三寺を陣所として蜂起することとなった。時に永禄六年(一五六三)十月のことである。
*菅沼藤十郎定顕は実在せず、一揆は家康が意図的に仕掛けたという説もある。(『戦国時代の徳川氏』煎本増夫)

昨日の家臣は今日の敵
 一向宗の門徒には家康譜代の家臣も多く含まれていたが、彼らの多くは主君の一大事より宗門の一大事を優先した。主君を捨てて一揆方に結集したのである。その数、三百三十三人。この中には、一揆の後に家康の参謀として活躍することになる本多正信や、渡辺半蔵守綱、吉良義昭、荒川義広、酒井忠尚など有力な武将が多く混じっていた。
 これに対して家康のもとに結集したのは松平一門、大久保一族、酒井左衛門尉忠次(ただつぐ)、酒井雅楽助正親、石川伯耆守数正、本多平八郎忠勝など。大久保一族は一人も欠けることなく家康方につき、上和田に立てこもって戦いに臨んだ。
 十一月二十五日には、針崎で本格的な合戦が行なわれた。年が明けて正月十一日には一揆勢が上和田を襲う。このとき、家康は自ら敵陣を破る戦いをして銃弾を受けている。岡崎に戻って鎧を脱ぐと、鎧に銃弾が二つめり込んでいたのが見つかったという。
 二月に入って、一揆方の蜂屋半之丞・渡辺守綱らが相次いで帰順。さらに三月下旬には、大久保一族の説得もあって一揆に与した者たちが次々と降順していった。
 叛徒たちは「主君に敵対したのは国を奪うためではなく、宗門によるものだった。三寺をそのままにしてくれるなら降参して主君のために忠節を励む」と申し入れてきたので、家康もこれを受け入れた。罪を許し、昨日の敵が今日の味方になったのである。しかし、家康は一向宗と妥協せず、本宗寺・本証寺・上宮寺・勝鬘寺を破却し、僧侶を追放。さらに、領内では一向宗を禁止した。
(2018.05.03)



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