- 江戸で初めての上水道をつくった男 -
お菓子な旗本 大久保主水
<歴代の大久保主水>3代大久保主水 / 大久保三四郎 忠辰
3代主水忠辰は、2代忠元の弟である。したがって、忠辰もまた樽屋(水野藤左衛門)の子ということになるのだろう。日光社参に随行したなどは同様だ。
父(2代主水)のときまでは、年始の挨拶は「独礼」というから、名前を呼ばれ、ひとりで挨拶(将軍に?)し、時服を拝領した。それが、忠辰の代から変更され、その他大勢とともの御目見となり、その際に扇子を献上するようになった、のか? 献上博多の扇子を頂戴したということなのか。よく分からず。
●『大久保惣系譜』
実は忠元の弟
厳有公御代日光山
御社参之節 御上洛之通支度金
拝領之を 御伝馬 御紋之絵符并道中
鑓 免許供奉
延宝八年庚申十月九日卒す
●『御菓子屋大久保氏』(史跡雑纂」所収、大田南畝「家伝史料」)
百六ヶ年以前 慶安三寅年父主水跡御用被仰付
日光御社参の節支度金被下置御紋の絵対(※符?) 御伝
馬 道中鑓御免被遊御供仕候 父主水御用相勤候節
迄 一年始の御礼独礼仕 時服拝領仕来候処相止
年始御目見罷出候節扇子献上仕候 貞享元子年病
死仕候
※時服=将軍から家臣に賜った衣服
●『御用達町人由緒』
十右衛門養子実弟
厳有院様御代 日光御社参之節
御上洛の通仕度金拝領仕
御伝馬に御紋の絵蒔並道中鑓御免にて御供仕候
●『御賄御用達町人家譜』
百六ヶ年以前 慶安三寅年 父主水跡用被仰付 日光
御社参之節支度金被下置御紋之絵対御伝馬道中
鑓御免被遊御供仕候 父主水御用相勤候節迄年始之
御礼独礼仕 時服拝領仕来候処相止年始 御目見罷出候節
扇子献上仕候 貞享元子年病死仕候
●『文政の由緒書』(『佃島赤澤八之助大久保主水平田彦乗』所収・筑波大学図書館蔵)
大猷院様御代慶安元子年父時之通家督
被 仰付候先々之通嘉定御菓子之儀可懸
相心旨被 仰付候
一 同六月十六日嘉定御祝義御定日之旨被
仰出候
右御祝義畢而(おわりて)御金被下し是迄右御菓子
献来り候処向後御代金被下候に付品々少分し
箱詰に而年頭献上可仕旨被仰付候
但此年号難相分
一 慶安二丑年正月二日御菓子献上御礼一同
相済御時服拝領し仕候
一 同年日光 御社参之節 被仰付候
御金被下し 先格之通奉願御菓子献し
一 明暦元未年朝鮮人来聘の節一統御菓子
被下候に付用意の儀被仰付
一 同三酉年御城内外御焼失に付
御膳御用品諸色可差上旨被仰付御膳
掛り之面々御菓子御用場江昼夜相詰メ
御拵有し
一 万治元戌年七月雷火に而焼失仕候処御
菓子御用場御膳所之御形を以御普請
被成下候
一 寛文三卯年日光 御社参御供先格之通
被 仰付御金被下し御菓子献上仕候
一 同十一亥年日光御社参に付先格之通御供
被 仰付御金被下し御菓子献上仕候
一 同年琉球人来り候に付御菓子被下し右
用意可仕旨御賄頭を以被仰付候
権現様
台徳院様
大猷院様 御神忌御法会之節白銀奉献上
拝礼仕候
延宝八申年病死仕候
家督相続が「代慶安元子年」となっているのは、他の由緒書と異なるのだが、間違いなのか、どうなのか。よく分からない。
2項目目を見ると、嘉定の儀式が6月16日に制定されたのは「慶安元子」から、のように読めるのだが、違ってるかな。よく分からない。また、従来は嘉定儀式が終了後、御菓子を献上していたけれど、代金を支払ってもらえるようになった。その代わり、これからは年頭に菓子を小分けして箱詰めにして献上するよういわれた、と読める(自信はないけど)。とはいっても注意書きによると、そうなった年ははっきり分からない、そうである。わりと真面目に書いているように思えてくる。
翌年正月の御菓子献上、時服拝領、日光社参などは従来通りなのだろうか。
明暦三年の大火では江戸城内外が焼失。城内の賄い役が菓子工場に詰めて食事をつくった、というようなことが書かれている。
一方、万治元年には御菓子工場が落雷で被災。この再建をしてもらったようだ。
明暦元年には、朝鮮通信使に、寛文十一年には琉球人接待のための御菓子を献上している。
まったくの無機的な記述でなく、出来事もまじえて書かれているので、活動の様子も多少見えて興味深い。解読には自信がないけれどね。
●『文久の由緒書』
大猷院様御代慶安元子年父家督被下置如父時跡職被
仰付家督之御礼申上献上物仕名披露に而 御目見仕
且先々之通 御上り御菓子并嘉定御菓子之儀可相勤旨
被 仰付同年六月十六日嘉定御祝儀御定日之旨被
仰出右御祝儀畢而御金被下是迄右御菓子献上仕来り候処
向後御代金被下候に付品々少分之箱詰に而年頭献上可仕旨
被仰渡同二丑年正月二日名披露に而 御目見仕御菓子
献上仕御礼申上且嘉定御規式之御菓子献上仕候に付
金時服拝領仕同年四月日光
御社参之節御供被 仰付御金被下先格之通奉願
御菓子献上仕明暦元未年朝鮮人来聘之節一統御菓子
被下候付用意之儀被 仰付同三酉年 御城内外御焼失に付
御膳御用品諸色可差上旨被 仰付御膳掛り之面々御菓子
御用場江昼夜相詰御拵有之御用相勤万治元戌年七月
雷火に而焼失仕候処御菓子御用場 御膳所之御形を以
御普請被成下寛文三卯年四月日光
御社参御供先格之通被 仰付御金被下御菓子献上仕
同年琉球人来り候に付被下し御菓子用意可仕旨被仰渡候段
御賄頭申渡延宝八申年十月九日病死仕候
ここでも家督相続が「代慶安元子年」となっている。あとは大半『文政の由緒書』と同じである。
(2020.08.30)