- 江戸で初めての上水道をつくった男 -

お菓子な旗本 大久保主水


<番外編1>講談『出世証文』に登場する、菓子司大久保主水


 平成十一年一〇月のことだ。都内の寄席で神田陽之助さんの講談を聞いていた。その日の出し物は「出世証文」。題名から内容が分かるほど講談を聞いている分けではない。どういう話か知らずに聞いていると、突然、大久保主水の名前がでてきた。ちょっとびっくりしてしまった。講談といえば清水次郎長や荒木又右衛門などの超有名人か義士伝で知られるような忠臣蔵が中心だと思っていたのに、いまではあまり知名度のない大久保主水が登場する。なのでじっくりと耳を傾けてしまった。
 結論からいうと、ここで出てくるのは大久保主水本人ではない。すでに初代はなくなり、代を重ねている御用菓子職としての店舗としてだった。大久保主水は、菓子司として屋号をもっていない。初代の名前がそのまま店舗の名前となっている。その店の様子について描かれているという意味で、珍しいものだといえるだろう。
 原典を探したところ、「講談全集第一〇巻」に収載されている。国立演芸場の図書閲覧室に探し出すことができて、全編を読むことができた。この話は、江戸で初めて煉羊羹を製造し、売り出した淡路屋喜三郎の伝記といっていい。つまり、大久保主水で働いていた職人喜三郎が、煉羊羹を売り出したという話に基づいているのである。
粗筋はこうだ。
 大阪天満老松町の淡路屋喜三郎という玩具屋は若いのに手堅い商売をしていた。肥後熊本から大きな注文が来たので、浪速丸という船で荷を積み出すが、時化に遭って積み荷は海の藻屑と消える。借金を背負った喜三郎は、自分を信用して品物を貸してくれた問屋に「借金は出世の暁に返済する」という証文を書いて渡す。喜三郎は江戸に出て、職を探しに横山町の桂庵に行く。桂庵というのは、職業紹介所である。そこで先ず紹介されるのが、大久保主水なのである。

『出世証文』

「菓子屋の餡焚きなんぞはどうだね、少しは骨が折れるが、その代わり給金がいゝ。丁度老舗の好い所から口がかゝって来ているんだが」
「結構です、是非差し向けてください」
「神田の千代田町で、大久保主水様という立派なお菓子屋さんだ、名前を訊いただけでも分かるだらうが、由緒ある家柄で、御先祖は立派なお武家だつた。お出入り先は大抵大名かお旗本。広い江戸に数ないという店だ」


 喜三郎はさっそく大久保主水方に出かけ、働きはじめる。半年ばかりたって、喜三郎は職人頭の寅吉に、大阪で評判の煉羊羹の製造を進言する。ところが、

「江戸には煉羊羹というものは、無いようで御座いますね」
「そんな物は無えよ、羊羹は蒸しにきまつてらァな」
「お国自慢をいふ様で変ですが、大阪の東の淡路町に駿河屋という店がありまして、そこが煉羊羹の元祖です。先祖は紀州の駿河町から出たとかいふことで、それは/\随分繁昌して居ります。上品な味で、歯茎や上顎に着かず、江戸の方にも口に合ひさうに思ひますがね、一つ試しにお拵へになってし何うでせう」
「篦棒め、江戸ッ子はそんなものは喰はねえや」


 と、一喝されてしまう。さらに、寅吉が小豆の俵数を誤魔化す手伝いをさせられのに嫌気がさして、大久保主水の番頭に「暇を戴きたい」と申し出る。この後、喜三郎は鰹節問屋に奉公。主人にも気に入られ、娘の婿にと請われる。しかし、借財があることなどもあって、逃げ出すように暇を貰う。そして、これまで貯めおいていた給金を元手に商売を始めることにする。まずは、大久保主水に出向いて菓子を仕入れ、諸方に売り歩く。これが当たって、元手もできた。そこで喜三郎は念願の煉羊羹の製造にとりかかる。
 日本橋近くの式部小路に間口二間の空き家を見つけ、「江戸元祖煉羊羹淡路屋喜三郎」の看板を出した。これが江戸っ子の新物喰い、走り好みの心をくすぐり大ヒット。お客が黒山のように集まった。ある日一人の美しい尼僧が煉羊羹を買いにくる。鰹節問屋の娘だ。喜三郎を思う気持ちが捨てられず、仏門に入ったという。めでたく二人は結ばれ、大阪の借金も完済して出世証文を取り戻す、という話である。
 この物語は、実在したといわれる喜太郎の話からとっていると思われる。鈴木牧之の『北越雪譜』(一八四一)に「練羊羹の起源」という話が載っている。

『北越雪譜』

寛政のはじめ江戸日本橋通一町目よこ町字を式部小路といふ所に喜太郎とて夫婦に丁稚ひとりをつかひ菓子屋とは見えぬ●(たけかんむりに、隔)子造にかんばんもかけず、此喜太郎いぜんは 貴重の御菓子を調進する家の菓子杜氏なるよし。奉公をやめてこゝに住し、極製の菓子ばかりをせいして茶人又は宮家のみあきなひけり。さて此者が工風とてはじめて練羊羹と名づけてうりけるに 羊羹本字は羊肝なる事芸苑日鈔にいへり 喜太郎がねりやうかんとて人々めづらしがりてもてはやしぬ。しかれども一人一手にてせいするゆゑ、けふはうりきりしたりとてつかひの重箱空しくかへる事度々なり、これ余が目前したる所なり。


 おそらく、この逸話から話をつくっているのだろう。「貴重の御菓子を調進する家」が大久保主水で、喜太郎は菓子杜氏だった。そこで菓子づくりを体得し、練羊羹を開発した、ということなのか。ところで、分かるのは、 以下のようなことだ。
・貴重の御菓子を調進する家が神田千代田町にあったこと
・お客は大名や旗本だったこと
・番頭がいて職人を何人も使っている大きな店だったこと
 ただし、この話がいつ頃つくられたものなのかよく分からないので、話にどれだけ信憑性があるかは分からない。もしかしたら、後代の作者の想像による部分も少なくないかも知れない。はしいえ、この話が口演されたであろう明治以降あたりには、大久保主水を連想させる菓子司の存在は江戸・東京の人々の頭の中にあった、ということなのだろう。

(2018.06.05)

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