- 江戸で初めての上水道をつくった男 -

お菓子な旗本 大久保主水


<番外編2>講談『玉川上水の由来』のなかの大久保主水


 講談といえば、落語や浪曲とならぶ大衆演芸だ。講談の中ではさまざまな歴史的人物、そして、伝説などが語られてきている。もっとも、「見てきたような嘘をつき」といわれるように、その真偽となるといささか心許ないものがある。虚像が実像を超え、スーパースターなみに過大評価されたり、イメージだけが先走っているケースはいとまに限りがない。とはいうものの、講談に採り上げられるのは、それなりに知られている人物だったりするのも事実だ。
いまはあまり講釈場でかけられることのない講談のひとつに『玉川上水の由来』がある。神田伯龍が口演したものを速記したものが『評判講談全集第一巻』(昭和五年・大日本雄弁会講談社)に掲載されている。これは玉川兄弟の苦心談に題材をとったものだが、その中に按摩と玉川清右衛門によるこんなくだりがある。

『玉川上水の由来』

按「昔、権現様(家康)の時代に、神田上水を拵へた大久保主水様は立派なお武士、井の頭から小石川までは五里足らず、それでさへ莫大なお金を掛け、大層なご苦労をされて、やつと出来上つたくらゐのものだ。それが玉川を引くとなりやァ、江戸の入口までも十一里に近い --- さうでございませぅ」 清「いかにも十一里除りだ」
按「その十一里もある所を。玉川の土百姓 --- 怒つちゃ不可ませんよ、正直に申すのですから。土百姓風情が田の畦畔(くろ)へ水を引くやうな考へで、何うして出来て堪るものか。初め造作もないやうに申上げて仰せを引受たものゝ半分も出来ないうちに、千両だ、五百両だとお上からお下金を願ひ、それでもやれ見当違ひをした、やれ遣直しだといつてゐる。あれは清右衛門兄弟の計略で、お下金で自分の懐ばかりを肥やさうといふ魂胆だ。その証拠には人夫共に碌々賃銀を払はないのが何よりの証拠だ、だから人夫共が怒つて、掘り上つた水道を埋めてしまふと騒ぎ立て、今に人夫一揆も起りかねまじき有様だ --- まあ大抵斯んな風に申してをります」
清「うむ、さうか」

 こうした世間の悪評に対して、清右衛門は思うところを話し始めるのだが、最初に江戸上水の発展の様子から説明する。

清「お前さんも知つての通り、江戸は極々水の悪いところ、権現様がそれを御心配遊ばして、天正十八年に神田上水をお作りになつたが、その水は僅かに小石川、神田、日本橋の一部分にしか通じていませぬ。四谷、麹町、赤坂の山の手から、芝、京橋の下町一円、江戸大半は水の悪いのに泣かされてゐるという有様。大江戸の繁昌するにつれ、年々人家はふえるばかり、それをお先代、公方様(三代家光)の時にお奉行神尾豊前守様に仰付けられ、新たに上水を引く目論見を立てることになりましたが、なかなか容易な仕事でないので、誰も図引きをするものもなければ勿論之を引受けるものもないという有様、その時でさァ俺等兄弟が、その玉川上水の目論見を立てましたのが・・・尤も俺等兄弟とて何も深い学問があるぢやァなし、若い時分から、こんな図引きや目論見が好きなものだから、最初は面白半分に手をつけたところ、間もなく先代様は御他界、四代様---今の公方様になって俺等兄弟の目論見をおとり上げに成り、その工事方の一切を俺に仰付け下さるといふことになり、神尾様からお下金も頂き、早速工事に着手する段取りといたしました(略)」

 大久保主水は、神田上水道を成功させた武士として紹介されている。しかも、家康の命を受けての事業であることや、上水完成の時代、そして、上水がどの方面に供給されているかまで書かれている。ということは、ある程度の教養として、東京市民の共通の認識となっていたとみてよいかと思う
とはいえ主水が手がけたのは小石川上水で、神田上水ではないのだが、おそらく小石川上水という名称は一般にはよく知られておらず、神田上水として認知されていたのだろう。そして、その始まりは大久保主水という理解だったのだろう。
 それはともかく、神田上水が家康の命を受けての事業で、最初に大久保主水が手がけ、その後、上水が徐々に拡張されていったということ、そして、上水がどの方面に供給されていたかまで、一般庶民が対象の講談で説明されているのは少し驚きである。
ちなみに神田上水全体が完成したのは三代将軍家光の時代、つまり寛永六年(一六二九)といわれている。

(2018.06.05/07.17加筆)

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