『ハリス』坂田精一
将軍からの贈りものは、『ハリスの日記』によれば、砂糖や、米粉や、果物や、胡桃などでつくった日本菓子で、これらが四段になって入っていた。それらは、どの段にも美しくならべられ、形・色合い・飾りつけなどが、ひじょうに綺麗だった。重量は七十ポンド(八貫四百匁)あったというが、この数字は或は誤りかとも思われる。
『嘉永明治年間録』には、
檜重一組(四重物一組、長一尺五寸、横一尺三寸、但し外檜台付、真田打紐付)
干菓子(若菜糖・翁草・玉花香・紅太平糖・三輪の里)
干菓子(大和錦・花沢瀉・庭砂香・千代衣)
蒸菓子(紅カステラ巻・求肥飴・紅茶巾餅)
蒸菓子(難波杢目羹・唐饅頭)
とあり、「大久保主水地、御次菓子師、宇都宮内匠の製造で、代金六十五両」とある。一両で米が六斗も買えた時代だから、菓子とも思えぬ途方もない値段であった。
ハリスは大久保主水の菓子を味わい、どう評価したのだろうか。カール・クロウの書く『ハリス伝』によれば、その反応は以下のようだったという。
入念に吟味された引出物が出る。約七十ポンドもある日本のボンボンだ。ハリスは気味わるがって手を付けない。
引出物というより茶菓子として出されたようだが、気味悪がられたとは・・・。果たしてハリスはその後、菓子に手を付けたのだろうか。
なお、宇都宮内匠というのは、『24. 長崎表御砂糖直買について』で簡単にふれているように、大久保主水の手代が独立したもので、同じ敷地内にあった系列と思われる。御用菓子ではなくお次菓子師となっているから、幕府御用達以外の菓子を別ブランドで販売していたのかも知れない。
大久保主水の菓子は、来日した外国人に対して、幕府が接待用として利用していた。筑波大学附属図書館蔵『佃嶋赤澤八之助大久保主水由緒書』に収録されている大久保主水由緒書(文政元年・九代主水忠宜)に、そのことが書かれている。
寛文11年の記述に、「琉球人来り候に付御菓子被下し右用意可仕旨御賄頭を以被仰付候」とあるが、琉球人がやってくるからということで、接待用に御菓子を用意するよう賄頭から用命されたというのだ。もともと琉球(沖縄)は琉球王国という独立国で中国(明・清など)の影響下にあった。それが慶長14年(1609年)、薩摩藩の琉球侵攻によって薩摩藩の属国のような形になり、江戸幕府への使節派遣(江戸上り)が行われるようになった。江戸上りは寛永11年(1634)から嘉永3年(1850)まで都合18回行われていて、由緒書にあるのはこのことと思われる。由緒書には天和元年、正徳4年、享保4年にも琉球人の訪問のことが書かれており、同様の持てなしをしたようだ。
また、明暦元年(1655)には「朝鮮人来聘の節一統御菓子被下候に付用意の儀被仰付」とある。その後も、天和2年(1682)、正徳元年(1711)、享保4年(1719)、寛延元年(1748)、明和元年(1764)にも訪れていると書かれていて、「先年之通御用向相心掛候様被仰付候」とあるように、そのたび先例にならって同様の菓子でもてなしたと思われる。
この朝鮮人は朝鮮通信使の一行と思われる。朝鮮通信使は慶長12年(1607)から文化8年(1811)年まで計12回訪れているが、明暦元年(1655)はその6回目で、以降、11回目まで連続して御菓子を提供している。由緒書にある明和元年(1764)は、第11回目の宝暦14年のときのものと思われ、改元前の年号を記載したものと思われる。ところで、引用した由緒書は文政元年(1818)に書かれているのだが、文化8年(1811)にやってきた最後の朝鮮通信使(12回目)については触れられておらず、はたして接待したのかどうかは定かではない。
当時の琉球人、朝鮮人が主水菓子を供されて、どういう反応をしたのか、興味深いところである。
(2020.05.02)