- 江戸で初めての上水道をつくった男 -
お菓子な旗本 大久保主水
24.長崎表御砂糖直買について
『古事類苑』は明治政府によって編纂された一種の百科事典で、様々な文献を渉猟し、まとめ上げられている。その飲食の部に菓子の項目があり、一般の菓子店の紹介とともに、『天保武鑑』(113/127)に掲載されている御用菓子司が四軒紹介されている。
白かね町二丁めかし 大久保主水
いゝだ町坂下 長谷川織江
大久保主水地面内 宇都宮内匠
横山町三丁メ 鯉屋山城
※宇都宮内匠は大久保主水の手代が分家した、んだったか、ちょっと忘れたので、後に追記するつもり。
つづいて『視聴草』からの引用で大久保主水由緒が掲載されている。『視聴草』は宮崎成身が雑多な文書を集めて出版したもので、自序は天保元年(一八三〇)。掲載されている大久保主水由緒は「長崎表御砂糖直買被仰付候御由緒可申上旨被仰渡則左二奉申上候」から始まり、前半は「一向宗蜂起之砌(略)当鉄炮腰」「小石川水道見立候」「主水ト申名被下候」など他の由緒書と同様だが、砂糖直買いに関するものだけあって後半は菓子に関する記述が大半を占めるので引用する。
(略)慶長十九年正月五日 江戸於御城 権現様御前召上候節 御献上二始而主水菓子ト名乗申候 此御吉例今以相残申候 右主水儀 百五十八年巳前巳年病死仕候 跡御菓子御用之所 主水実子無御座候付 後家日宝二被仰付 台徳院様(徳川秀忠)御代、大猷院様御代(徳川家光)迄 尼二而御菓子差上申候 其砌主水御菓子御用絶不申候様二と被仰出 藤五郎十右衛門養子仕 主水と相改御用相勤申候 其節右之御由緒を以 於長崎表御砂糖直買被仰付 年々奉請取候
大久保主水が正式に将軍家に菓子を献上したのは慶長十九年(一六一四)正月のことで、このとき「主水菓子」と名乗り、以後、毎年正月には主水菓子を献上したようだ。主水には実子がなかったので、死後は妻の日宝が三代将軍家光の世まで献上。これからも献上するように、と言われたようだ。養子・十右衛門が二代目主水となってからは、長崎から砂糖を直に買い付ける権利を付与され、それがずっとつづいていたという。
*慶長十九年(一六一四)は大阪冬の陣が起こった年であり、二代将軍秀忠の時世である。また、主水が死去したのは元和三年(一六一七)であるから、この百五十八年後は安永四年(一七七五)か。しかし、この年は乙未(きのとひつじ)であり、前年の安永三年(一七七四)が甲午(きのえうま)にあたる。したがって、この由緒書きが書かれたのは安永三年のことで、八代目大久保主水藤原忠英(寛政二年没)の時代と考えてよいだろう。
同じく『古事類苑』には長谷川茂左衛門こと虎屋織江の由緒書も掲載されているので、これも紹介しておく。
(略)元来茂左衛門儀 菓子職仕居候二付 主水方御用故障之節ハ 御菓子被為仰付奉差上候處 貞享四年卯年 主水同様二御膳御菓子御用被仰付奉差上候 右御由緒を以 於長崎御砂糖直買被仰付 年々奉請取候 以上
長谷川茂左衛門の先祖は本国三河で、家康の江戸入国に伴ってやってきて名主を命じられた。しかし元は菓子職人だったことから、大久保主水に何かあった場合に代役を務めるようになり、貞享四年(一六八七)には正式に御用菓子司となり、長崎での砂糖取り引きの権利も取得している。このように、御用菓子司は長崎で海外製の砂糖を買い付けることができたようだ。
サトウキビを原料とする砂糖の輸入は奈良時代の唐僧鑑真の渡来に遡るという。十七世紀半ばから薩摩藩によるサトウキビの栽培が始まってはいるが、江戸時代を通じて長崎貿易の主要な輸入品として唐船・オランダ船によってもたらされた。江戸初期においてその供給地はいずれも主に台湾だったが、その後、中国本土やジャワ産の砂糖が輸入されるようになったという。
基本的には幕府の長崎会所が一括購入し、それを国内の商人が落札し、市場に出まわった。これとは別に、幕府御用菓子司に直接買い取らせる御用砂糖があり、御菓子屋除砂糖(のぞきさとう)と呼ばれていた。(以上、「近世長崎における輸入砂糖とその流通」八百啓介・『和菓子』第九号所収による)
将軍家の御用砂糖の始まりは、『長崎会所五冊物』(内閣文庫)によれば、享保(一七一六〜一七三六)の頃らしいという(『続砂糖の歴史物語』谷口学)。当初は大久保主水が一手に請け負っていたが、のちに長谷川茂左衛門(虎屋織江)が参入していった。
『長崎会所五冊物』
御菓子屋除砂糖之儀者 壹ヶ年御定金六百六拾両之内 五百両者大久保主水 百六拾両は虎屋織江買請被仰付
記録では、寛政元年(一七八九)中に両家が引き取った量は、五万一千百九〇斤(六六〇両)にのぼるという。ちなみに、この虎屋織江は現在の虎屋とは異なる。現在の虎屋はもともと京都で皇室御用達を勤めていて、明治になって東京に移ったものである。
ところで、御菓子屋除砂糖に関連して、『長崎奉行の研究』(鈴木康子)が興味深いことを書いている。
元文四年以来長崎における輸入砂糖の除物の中で、大久保主水は七〇〇両、虎屋織江は三〇〇両を与えられていた。ところが松浦河内守は、一七五〇(寛文三)年から大久保主水へ五〇〇両、虎屋へ一六〇両に減額させた。この際、大久保側から松浦河内守へ抗議があった。それについて『華蛮交易明細書』によれば、
松浦氏ハ御菓子屋大久保隠居吹挙二而、大阪東町御奉行被仰付、且御勘定奉行転役御兼役二而長崎奉行二而御下向之処、寛延三午年御仕方相立、菓子屋除代金減候二付、大久保氏之手代衆殊之外立腹之由松浦氏へ聞候処、成程大久保氏隠居之吹挙二而次第二転役御立身に候得共、恩ハ恩、役儀ハ役儀、格別之沙汰成レハヒイキ之沙汰ハなしと被仰候との事、権者ハ格別之御心得与人情奉感候事
とある。これによれば松浦河内守し、以前昇進する際に恩になった大久保主水の利権を縮小させたことに対して、恩と公務は別物であると公言している。ここに、松浦河内守の清廉、実直な気質、公正に職務を遂行してゆく厳格さが見られる。
松浦河内守信正は寛延元年(一七四八)に長崎奉行となった人物で、四百石の旗本から三千石の勘定奉行から長崎奉行にまで上りつめた。その松浦河内守が大阪東町奉行になる際に大久保主水隠居の推挙があった、ということが興味深い。その恩に報いなかった松浦河内守はさぞや清廉な人生を全うしたかと思いきや、後に部下の収賄事件を見逃した罪で小普請に降格し、閉門となったとWikipediaには書かれているのだが・・・。なお、松浦河内守が大阪東町奉行となったのが元文五年(一七四〇)なので、登場する大久保主水隠居とは元文元年に隠居した六代大久保主水忠郷と思われる。
(2019.03.20)
(2019.07.16 誤字修正、多少の追記)