植物学者 大久保三郎の生涯


1 そもそものはじまり

 そもそもの始まりは数葉の写真だった。中に一連の家族写真があり、夫婦と子供が写っている。誕生祝いに撮ったのだろうか。もちろん夫婦も着実に歳を取っていっている。夫は少し華奢な体つきで洋装。口ひげをたくわえているけれど少し弱々しい印象だ。妻の方は和服で、椅子に座っていても背筋がしゃんとしている。いったい誰なのだろう? 一枚だけ、ヒントになりそうなメモが書き込んであった。
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 御父様へ     きの
 明治三十三年八月十二日写
 三郎四十三年四ヶ月
 紀能三十六年二ヶ月
 敏子満一歳
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 別の写真に、二人の少女が写っているものがある。その裏面には「大久保紀能 リウ」と書いてあるところをみると二人は姉妹で、最初の写真の「きの」は「紀能」のことだろう。「大久保紀能」。これが彼女の嫁ぐ前の名前と考えてよさそうだ。すなわち紀能は大久保の家に幕末期に生まれた女性で、彼女が父親に贈った写真とみて間違いないように思う。紀能の夫の名は「三郎」のようだが、姓が分からない。いったい、どこの誰なのだろう。まったく手がかりはない。ほとほと困り果てた挙げ句に、なんとなく遊び半分で「大久保三郎」と打ち込んで、googleで検索してみた。すると、「東京大学植物標本室に関係した人々」というページがヒットした。そしてそこには、「大久保三郎およびその他の人々」という小見出しがあり、ページを下にスクロールすると写真が登場した。驚いた。ここで紹介されている「大久保三郎」は、手もとにある家族写真の「三郎」と同一人物ではないか。しかしまてよ。三郎は婿養子で大久保三郎となったのか。それとも、夫婦ともに大久保姓で婚姻したのか。いったいどういうことなのだろう?
 しかし、その疑問は「東京大学植物標本室に関係した人々」を読むうちに氷解した。大久保三郎は大久保一翁の子で安政四年に生まれ、明治初年に米国ミシガン大学に留学。帰国すると内務省や宮内省に勤めたのち東京大学御用掛を経て明治十六年(一八八三)に助教授になったという。よくよく見ると、「東京大学植物標本室に関係した人々」というページは『日本植物学研究の歴史 小石川植物園三〇〇年の歩み』大場秀章編という書物の全ページをインターネット上にアップしたもので、東京大学総合研究博物館が刊行物のデータベースとして情報公開しているものの一部だった。
 こんなに簡単に三郎の素性が分かったのだ。さらにインターネットで検索すれば、もっと詳しい情報が書かれているに違いない。と思ったのは軽はずみだった。いくつかの植物に絡んで「大久保三郎」の名前はヒットするけれど、それは植物学者としての成果の一部でしかない。三郎個人のことについては、まったくといってよいほど分からない。それは紀能についても同様で、彼女についての情報はまったくインターネット上には書かれていなかった。
 そんなわけで、図書館通いが始まった。大久保三郎とは如何なる人物か。その断片を探り出し、拾い上げ、つなぎ合わせていく作業が数ヵ月つづいた。そうしてできあがったのが、これから話そうとする物語である。思いがけない展開や事実の掘り起こしもあった。けれど、三郎個人を直接に描き出す資料はさほど多くはなかった。それは彼が大久保一翁の子ではあっても、三郎自身がとくに偉人でも有名人でもなかったからだ。だからこれまでまともな評伝も書かれることなく、歴史のすき間に埋もれたままになっていたのだと思う。たとえ明治期の東大助教授であったとしても、その生涯が通して語られたことはいままでなかったのだ。振り返ってみれば、もっとも詳しく書かれたものは、最初にインターネットでみつけた『日本植物学研究の歴史 小石川植物園三〇〇年の歩み』であり、それ以上のものはなかった。しかし、それでもそうした史料の断片は幕末から明治期にかけて、さまざまな場面に接近遭遇していた大久保三郎を浮き上がらせてくれた。そうしたシーンで、彼自身は決して主役として活躍する見せ場はないけれど、脇役として、エキストラとして、歴史の舞台の思いがけないところで、時代の目撃者になっていたりするのが、分かってきた。そういう役回りの人生を送った大久保三郎の、自分から積極的に人生を切り拓くことなく、どちらかというと流される一方の生き方というものをご覧いただこう。


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