植物学者 大久保三郎の生涯
2 大久保一翁の長男として誕生
慶応三年(一八六七)、大政奉還によって十五代将軍徳川慶喜は将軍の座を返上し、駿府、すなわち現在の静岡県に謹慎の身となった。慶喜に代わって十六代徳川宗家を継ぎ、駿府藩主となったのは田安徳川家の田安亀之助(のちの徳川家達)四歳。それまで八〇〇万石を誇っていた徳川家も、七〇万石の一大名に成り下がってしまった。当然のことながら、徳川家に付いて駿府に移り住めたのは、七〇万石で養える程度の元家臣たちだけに限られたわけで、多くの直参旗本・御家人はそれまで住んでいた拝領屋敷を追い出され、北海道に移り住んだり開拓使となったり、はたまた武士の商法で辛苦を味あわされることになるのだが、それはまた別の話なのでここでは語らない。
さて、維新の江戸城無血開城に勝海舟、山岡鉄舟、大久保忠寛(一翁)たちが貢献したのは、よく知られているところ。このうち大久保一翁(一八一八・文化一四年〜一八八八・明治二十一年)はのちに東京府知事にも就任している人物なのだが、彼には十一人の子がいた。一翁の歌集『桜園集』の系図に従うと、生まれた順に以下の通りである。
女子
九八郎(早世)
女子
順之助(死去)
敬吉(死去)
三郎(さむろう) 一八五七(安政四年)〜一九一四(大正三年)
業(なり) 一八六二(文久二年)〜一八九一(明治二十三年)
女子
女子
立(たつ) 一八七一(明治四年)〜一九四一(昭和十六年)
女子
最初に生まれた男子はことごとく早世してしまっており、なんとか育ってくれる三郎は一翁にとって楽しみな存在だったのだろう。『桜園集』に収められた一翁の歌に、次のようなものがある。
みどり子の おひさきをのみ待身には 春たつはかりうれしきはなし
つくられたのは万延元年庚申で、一八六〇年。「みどりご」とは三歳ぐらいまでの幼児を指す言葉なので、あてはまるのは三郎ということになる。「ヒポクラテスの木」というホームページ http://blogs.yahoo.co.jp/inamatsu06 では、「三郎の出生は一八五七年五月二十三日。万延元年(一八六〇)正月には二歳半。次子の業は一八六二年の生まれであり、みどり子は三郎のこと。三郎の健やかな生長を願う気持ちが痛いほどわかる。」と書いているが、まことにその通りだと言えよう。
ついでに、「女子」とはなんだと思われるかも知れないが、当時の家制度の中では女性は人格が認められておらず、家系図の中に女子の名前が書き残されることはめったになかった。そういうものなので、いたしかたない。
こういったわけで、大久保三郎は安政四年(一八五七)五月に生まれた。幼名は三市郎である。慶應元年(一八六五)二月十一日、父・大久保忠寛(後の一翁)が四十七歳で病気のため隠居すると、八歳で家督を継いだ。『桜園集』によれば三郎が継いだのは故家で、新家は後に弟の業が継承したことになっている。ここでいう新家とは、明治二十年に一翁が子爵を授爵したことによって誕生した華族としての新たな「家」のことだと思われ、一翁まで綿々とつづいてきた幕臣としての故家は三郎が引き継いだということになる。しかし、慶應元年に三郎が家督を相続した時点では授爵云々はまったく遠い未来の話なので、三郎は将軍に御目見得して後、正式に大久保家の家督を引き継いだと考えてよいと思う。
なぜこのようになったかというと、それは三郎が庶子であったことが原因していると思われる。実をいうと三郎までは鶴子が母親で、業以降は正妻・谷子の子であるといわれているからである。正妻を娶る前に配偶者がおり、その配偶者の子供・三郎が家督相続の対象となったについては何か事情があるのかも知れないが、三郎の幼名・三市郎は一翁の幼名でもあることから、三郎は一翁から並々ならぬ愛情を注がれて育ったと考えてよいのではないかと思われる。なお、忠寛は隠居に伴って以後、一翁と名乗ることとなった。
明治維新(一八六八年一〇月二三日)の時、三郎は十一歳になっていた。先に書いたように徳川十六代の家達は駿府に領地を与えられ、それに伴って大久保家も移住してきていた。駿府では父親の存在もあってか主君亀之助(徳川家達一八六三〜一九四〇)の近侍に召し出されている。近侍とは殿様の世話をする、いわゆる小姓のことである。
近侍仲間で、後に画家となった川村清雄によると「亀之助様は丁度七歳(数え年)の赤ン坊ですね、昼間のうちは遊んで居て夜になりますと奥に寝かしたんです、惣べて男の方で二人づゝ床の脇に付いて居りますんですね」というように、幼い亀之助の子守をするような毎日だったようだ。こんなことをしているうち、大久保三郎、竹村謹吾、小野弥一、浅野辰夫、川村清雄ら小姓仲間で洋行への憧れが高まっていった。これも当然のことだろう。すでに明治政府は国費留学生を盛んに海外に送り出していた。それにひきかえ自分たちは、という焦りもあったろう。朝敵として追われた徳川家臣団の一員としては、忸怩たる思いだったに違いない。しかし、洋行費用や学費を捻出しようにも、個人として経済的なゆとりはない。とりあえずアメリカに渡り、働きながら学べばいい、などという話で盛り上がった、というようなことが伝えられている。しかし、考えているだけで行動しない若者たちではなかった。なにしろ、維新期を駆け抜けた青年たちだ。こうした思いを駿府藩の重役である勝海舟や大久保一翁に願い出てみると、なんと学費は徳川家が出してやろうということになった。静岡藩から弁官への願いが残されているが、それによれば「知事家禄之内ヲ以差遣候間」ということになっており、費用は静岡県知事(徳川家達)がもつということで渡航許可を明治新政府に掛け合ってくれることになった。その結果五人は徳川家の私費留学生という身分で、米国留学が認められることになったのである。
静岡藩の重鎮であった勝海舟は、日記に当時の状況を次のように書き残している(『勝海舟日記』)。以下は、関連する部分の抜き書きである。
明治四年一月七日
小田切綱一郎、竹村謹吾已下、米国留学の心願申し聞く。
明治四年一月九日
竹村謹吾、川村、外国行きの願書差し出すべく談ず。
明治四年一月十一日
溝口へ、浅野子息留学の事申し遣わす。
明治四年一月十二日
中村敬太郎米国留学の事内談、一翁へ談ずべき旨答う。川村悴、留学御聞済み、礼。溝口氏、浅野子息留学致すべき旨、内決、返答。
明治四年一月十三日
浅野辰夫留学の礼、申し聞る。
明治四年二月一日
竹村、大久保両人帰郷。ウォルス方にて留学の万事受合い候旨、松屋伊助厚く周旋の趣なり。
明治四年二月九日
竹村、大久保、浅野、明日東京へ出立。米国行きにつき松屋伊助并びにワルス氏へ端物、礼状、并びに米国悴方へ白絽二反、書状等附託す。
●「東京大学植物標本室に関係した人々」