植物学者 大久保三郎の生涯


33 木から落ちた猿

 長男・正を日露戦争で失った三郎だが、次男・永と三男・延も軍人になった。永は海軍機関学校を卒業して海機大佐に。延は大学卒業後海軍主計大佐となった。また、三郎の弟で子爵を継承した大久保立は、海軍造船中将で貴族院議員。徳川家臣の末裔だけあって、そろって軍人一家の趣だが、当時はこれが普通だったのだろう。亡くなった大久保業も軍人ではないが鉄道技師であり、国のために礎となる覚悟で男子一生の職業を選択したはずだ。こうしたなかで、三郎の植物学者・大学教員という経歴は、当時としては軟弱な文化系でやはり異色である。
 そもそも一〇歳前後で維新を迎え、わけも分からず静岡に移住。すでに過去の為政者となってしまっている徳川家達の小姓となり、先の見えない少年時代を過ごしていたはずだ。周囲の、五歳以上も年上の小姓仲間の留学熱に引っぱられ、親の七光りで勢いで渡米。なにが三郎を植物学に目覚めさせたのかは分からないが、生まれつき腕力に物をいわせるタイプではなかったのかも知れない。そういう、日本で押し隠していた本来の陽気な性格が、自由の地アメリカで開花して社交的になった、とみても間違いではないかも知れない。
 しかし、かといって研究熱心でもなく、助手・助教授時代も、他人を押しのけて名誉や成果を追い求めることはしない。生まれが生まれだけに競争社会には向いておらず、花は研究するより、見る方が好きだったのかも知れない、などと想像したくなる。ひょっとして、退官後の三郎の家の庭は、四季折々の草花で賑わっていたのだろうか。

 北海道大学卒業後、明治十四年(1881)から数年間東京大学植物学教室で学び、母校の教員となった植物学者に宮部金吾がいる。明治十四年(1881)は、三郎が東大の御用掛に職を得たまさにその年である。年齢も近かったせいか、二人の交流は長くつづいたようだ。明治二十二年(1889)に行われた宮部の帰朝歓迎会の記念写真には三十二人が写っているが、松村、三郎、宮部は並んで座っている。その宮部に、三郎が明治三十年(1897)、つまり、東京高等師範学校時代に送った毛筆巻紙の手紙が残されている。

「小生非職後は是とて致候事もなく、専門の勉学致度も参考書少なく顕微鏡もなし。木から落ちた猿同様」(『書簡集からみた宮部金吾 - ある植物学者の生涯 -』)

 マイペースで上昇志向もあまり感じられなかった三郎だが、植物に対する愛着は人並みではなかったのか。その無念さがにじみ出てくる内容だ。その三郎は、大正三年(一九十四)五月二十三日、五十七年の生涯を閉じる。奇しくもその日は、三郎の誕生日であった。東京師範学校を辞め、『中学植物教科書 』を出版して以来、植物学関係の雑誌への寄稿や書籍の出版などは一切無い。植物学への未練に埋もれたままだったのか、それとも新聞が報じているように東京高等師範に復職していたのかは定かではない。それとも個人的に何か別の趣味に没頭していたのか。教員を辞めてからの十二年間、何をやっていたのかは分からない。
 日本史の案外と貴重な局面の付近にいながら、あえて主役になるのを避けるかのように、のんびりと流されるように生きてきた大久保三郎。もし三郎がクララ・ホイットニーのように筆まめで、こと細かな日記をつけていたら、かなり興味深い世界が見えたような気がするのだが、欲張っても仕方がない。

※以上は文献だけで分かる範囲を調べ、構成したものである。


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