植物学者 大久保三郎の生涯
32 報道された大久保少尉
朝日新聞の記事を紹介しよう。
「遭難船常陸丸の乗組中名誉の旗手として最後までも隊旗を守り居たる歩兵少尉大久保正(二十四)氏の名は、永く世の記憶を離れざるべし。殊に須佐中佐の命による隊旗を火中に投じて軍隊の名誉を汚さゞらん事を勉めたる後同僚と共に生死不明となりし態度は天晴旗手の任務を尽くしたるものと云うべし。氏は麹町区平河町二丁目十番地に住み、弟永(二十一)、延(十九)、繁(十四)、武(十二)、寛(十才)、妹きん子等都合六人の弟妹あり。少尉は去明治三十一年九月一日中央幼年学校に入り三十四年五月卒業して士官候補生となり某聯隊に属せしが一昨年更に士官学校を卒業して昨年六月少尉に任ぜられ少壮士官中成績最も優れたれば旗手に選まれて出征したるに不幸今回の厄に遭ひて生か死か命を天に任せしものゝ如し」(朝日新聞 明治三十七年六月十八日)
記事によればこのとき父・三郎は四十七歳、母・紀能四十一歳。また、『都新聞』の記事などを併せ読むと三郎には子供が七人いたことが分かる。長男の正(二十四)を筆頭に、弟・永(二十一)、弟・延(十九)、妹・きん子(十六、)弟・繁(十四)、弟・武(十二)、弟・寛(一〇)とつづくのだが、冒頭で書いたように現存する写真の裏には、次のようにとメモ書きしてあった。
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御父様へ きの
明治三十三年八月十二日写
三郎四十三年四ヶ月
紀能三十六年二ヶ月
敏子満一歳
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三郎と紀能の年齢は、常陸丸遭難時の新聞記事と合致するが、敏子という妹の存在は新聞には書かれていないので夭折したと思われる。ちなみに、これまで何度も引用してきた『東京帝国大学理学部植物学教室沿革』にも明治十六年(一八八三)に撮影された三郎の写真が掲載されているのだが、矢田部教授や松村助教授の写真がそれぞれ一人だけの肖像写真なのに対して、三郎の写真は妻・紀能と幼児との三人の写真なのである。この幼児はおそらく息子の永だと思われるが、こんなところに家族写真が載っているというのも珍しい。『沿革』が出版されたのは昭和十五年(一九四〇)なので三郎は亡くなっており、誰が選んだのかは分からないが、顔の部分だけを切り取らずに家族写真で載っているのも、なかなか三郎らしい気がしてくる。
また『都新聞』の記事では、このとき「三郎は静岡に住みし」と書いてある。三郎は明治三十五年(一九〇二)に依願免本官になっているので、すでに東京高等師範の教授は辞している。ということは病気療養かなにかで、幼いときに過ごした静岡に赴いていたのだろうか。しかし、次の朝日新聞の記事を見ると、「現に教鞭を高等師範学校に執りつゝあり」とあるので話が混乱する。いったん東京高等師範を辞めたが脳充血が治まり、復職していたということなのか。それとも単なる誤報なのか。事実がいかなるものだったかは分からない。
さて、次に掲げるのは、その『朝日新聞』の続報である。
「壮烈の最期を遂げたる某聯隊の旗手大久保少尉の事は前号に記せしが其性行と家庭とに就いて聞くに少尉は故元老院議官大久保一翁氏の嫡孫にして厳父三郎氏は現に教鞭を高等師範学校に執りつゝあり其家庭は極めて厳粛なりしかば少尉の人と為りも亦頗る謹厳にして事に処する極めて綿密且つ友愛の情に富み、士官学校在学中は常に首席を占めたり。而して平素是といふ嗜好もなく唯だ一二壜のビーヤを傾け以て読書の倦鬱を慰むるに過ぎず。今回出征の途に上らむとするや既に生還を期せず身は光栄ある旗手の要職に在るを以て戦死の覚悟を固め窃に書斎に入り鬢髪を剃りて遺髪となし之を底に秘し置かれしが厳君は今回の凶報に接し図らずも之れを発見し厳父も其用意の周到なるに感ぜしと云ふ。又少尉が本月十三日広島より発したる書信は絶筆となりしが右書信中には後事を三弟延氏に託したる後「予て希望の野に達するは近き日に有之候も戦死の後は時節柄新聞紙に写真御掲載の義は堅く御断り申候」云々の一節あり。如何に少尉が謹直にして名門を衒はざるかを知るべし」(朝日新聞/明治三十七年六月二十日)
新聞記事なのでそのまま受けとるわけにはいかないが、出征にあたって遺髪を隠し置いたとか、もし戦死しても新聞に顔写真を載せてくれるな、などのエピソードは、変わり者の三郎の息子とはいえそこはやはり武士の家系が関係しているのだろうか。まだまだ江戸時代に生まれ育ち、維新をくぐり抜けた人たちがたくさんいた時代だったことも影響しているのかも知れない。