山村一蔵
山村一蔵の生い立ちと岸和田藩
生い立ち
石碑によれば、山村一蔵は和泉国生まれ。父玄達は七人の子をなし、その第六子として生まれた。和泉はいまの大阪府南西部。家は農家だったが父親玄達のとき岸和田藩に藩医として召し抱えられ士分となった。
岸和田藩の役附を記載した『岸和田藩役録(嘉永六年調)』という名簿がある。これを見ると、「表御殿醫」の末席に「四石貳人 山村弘達」とある。また、『岸和田藩士録(弘化四年調)』の「やの部」末尾にも「四石貳人 山村弘達」とある。この弘達が玄達であるという確証はないが、玄達が医師としての名前であるなら、同一人物と考えて良いのではないかと思う。そう考えると、玄達は弘化四年(一八四七)に、既に藩士として仕えていたということになる。禄高は四石二人扶持。これは、非常に低い。映画で有名になった「たそがれ清兵衛」の禄高が五〇石で、それでも貧乏侍だったことを考えると、玄達は下級武士の中でも最末端のレベルだったといえる。ちなみに嘉永六年(一八五三)調べの藩役録には一〇人の表御殿醫が記載されていて、石高は上は拾石貳人から下は四石貳人までで、山村弘達(玄達)は当然のことながら最末尾である。
岸和田藩士・山村一蔵
時代は下って、『明治六年十月改 岸和田士族名簿』というものがある。成立は不確かだが、明治維新後にまとめられた旧岸和田藩士の名簿のようだ。この中に、「禄高八石 山村一蔵 満廿八歳」とある。一蔵は八石取りの士分扱いで藩士の身分を終えたということか。また、同藩士録には他に山村姓の人物は記載されていない。一蔵は玄達(弘達)の第六子であるが、すでに家督を相続したのだろうか。長男という可能性もあるが、定かではない。
明治六年には、一蔵は東京に住んでいて、大学勤務から外務省に転出した時期である。戸籍が岸和田に残されたままなのか、そういったことも分からないが、一蔵が山村家を相続したのだろうことが読み取れる。
一蔵の生年だが、まだはっきりと分かっていない。明治六年(一八七三)に二八歳だったということは、一蔵は弘化二年(一八四五)の生まれということになる。しかし、石碑では明治十二年に没したとき三十二歳だったとある。いささか勘定が合わないが、それはそれとして事実の解明を待つことにしよう。