山村一蔵


学問に目覚めた一蔵


学問への志

碑文に「群児の嬉戯に与せず、読書を好む」とあるが、幼児の頃から頭脳明晰で、他の子供に混じって遊ぶことはなかったらしい。その代わり、本ばかり読んでいたようだ。岸和田藩では、どこで誰に学んだか、分かっていない。しかし、藩内の学問所に入り、様々な学問に触れたであろうことは想像に難くない。ご多分に漏れず一蔵は西洋の学問が進歩していることを知り、さらに学問を修めたいという欲望にかられた。碑文では「笈を負い家を辞し、城摂の間に学ぶ」とある。城摂とは、京、大坂のことであるが、具体的には書かれていない。いつ頃のことかも分からないが、ひとつだけ手がかりがある。それは、伊藤慎蔵が兵庫県西宮市の名塩に開いた伊藤塾である。

伊藤慎蔵の塾へ

 伊藤慎蔵は、大阪にあった緒方洪庵の適塾で四年間塾頭を務めた蘭学者である。適塾では大村益次郎とも親しく、多くの後進を指導した。安政二年(一八五五)に越前の大野藩に招かれ、蘭学教授として仕官した。すると慎蔵の元には藩外からも入学者が訪れ、大いに賑わったという。入学者の中には緒方洪庵の実子二人もいたほどで、その名声は広く轟いていた。しかし七年後の文久元年(一八六一)、大野藩を退いて適塾に戻る。しかし、妻と愛児を相次いで失つたことから、摂州有馬郡名塩村に隠遁することになった。名塩は亡妻・鹿の故郷であった。そして、鹿を慎蔵に世話したのは、同じ名塩出身の緒方洪庵夫人・八重だった。
 名塩は、現在は西宮市に属している。しかし、瀬戸内側ではなく、市の北側、山村にある。慎蔵はこの名塩に八年間滞在し、洋学塾を経営する傍ら洋書の翻訳などを行なっている。古西義麿『伊藤慎蔵伝をめぐって - 名塩時代を中心に -』によれば、開塾していたのは名塩に住み始めた文久二年(一八六二)の秋頃から慶應四年(一八六八)または明治二年(一八六九)ぐらいまでではないかという。
 伊藤慎蔵が名塩で始めた伊藤塾の内容はほとんど分かっていない。ただし、門人の一人が書き残した『英名簿』が残されていて、その内容が『西宮市史』に収録されている。また、『伊藤慎蔵伝をめぐって - 名塩時代を中心に -』にも引用されている。「慶應三丁卯夏四月 摂州名塩伊藤塾」の塾生名簿には、以下の名前が載っている。

伊藤博文との出会いもあった?

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備中下道郡矢田村之住 妹尾道平
濃州大垣藩清水町 浅井氏ニて 生柳津之住 伊藤俊甫
泉岸藩 山村訥庵
摂州高槻藩 宮本強哉
豊後杵築藩 佐野道雄
摂州浪花船場住 来島竜吉
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 この中の泉岸藩 山村訥庵は、おそらく山村一蔵ではないかと思われる。慶応三年(一八六七)、一蔵は名塩で伊藤慎蔵に洋学を習っていたのである。ちなみに、伊藤俊甫というのは後の伊藤博文である。正式な塾生だったのか、たまたま訪問中であったのかは分からないが、名簿以外の人材を加えてもせいぜい十名ほどの山間部にある洋学塾に、山村一蔵は伊藤慎蔵や伊藤博文らと一緒にいたのである。



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