山村一蔵


上京まで


上京までは謎のまま

その後、一蔵は東京に出てきている。この間の経緯については情報がないので分からない。大阪の開成所、または、東京の開成所などで学んだ可能性もあるが、その資料は今のところ見つかっていない。

カデルリーに学ぶ

長命寺石碑によると、一蔵は上京し、スイス人カデルリーに学び、次いでドイツ人ワグネルに学んでいる。いずれも独逸学が主である。『明治ドイツ語教育史の研究』(上村直己)に、「既に明治元年には英仏の外国教師が招聘されていたが、明治3年(1870)にはスイス人ヤーコプ・カデルリーJakob Kaderly我が国最初のお雇い独語教師として招かれここに英仏独の三カ国語が揃った」とある。また、『東京大学百年史』には、「明治2年末にはドイツ学開講が計画され、ひとまずスイス人カデルリーが語学教師として採用された」とある。『日獨交通資料 第三輯 我が国に於ける獨逸學の勃興』には、カデルリーは商人であったと書かれており、開講を急いだ大学南校が、ドイツ語をしゃべれる人物をとりあえず教師に迎えた様子がうかがえる。

ドイツ語を選択した理由

当時は、「西国(ヨーロッパ)の学に従事する者は英(イギリス)に非ざれば即ち法(フランス)」という時代だったと碑文にある。ところが一蔵は「独り心を徳学に委ぬ」ことを選択した。徳学すなわちドイツの学問である。周囲の人が、なぜ? と不思議がって聞くと、一蔵は「徳これ国を為め、現、英法諸邦の後を歩むと雖も、然し格物致知の学、経国練兵の術は遠くその右に出ず。加うるに人々勇知あるを以て方ぶに久しからず、当に威を欧土に展ぶべし。方今、我が国の学術未だ興らず士気未だ振わざれば則ち予の彼者を学ぶ所以、知るべきのみ」と答えたという。ドイツはまだイギリスやフランスの次に位置しているけれど、学問や国家経営、軍事においてはイギリスやフランスよりも優れている。しかも、人民には勇知があり、ヨーロッパ全土をうかがう勢いだ。このドイツを日本になぞらえ、日本はまだ学問も未熟で、士気も振るわないこそ、ドイツに学ぶのだ、というわけである。人々は一蔵の答えに納得しなかったが、普仏戦争(1870-1871)でプロイセンがフランスを破ると、一蔵を認めるようになったという。一蔵には、先見の明があったというべきか。

カデルリーという人物

日本最初のお雇いドイツ語教師カデルリーについては、これまでほとんど詳しいことが知られていなかった。しかし、静岡大学の城岡啓二教授の研究によって伝記も発見され、かなり詳細なことが明らかになっている。それによるとカデルリーは貧農の生まれで小学校しか卒業していない。農家で働きながら成長し、スイス傭兵部隊に入隊してナポリで兵士として活躍。クリミア戦争時にはフランス軍の兵站部で働いた。ワルシャワでは警官相手に大立ち回りして逃亡。家庭教師をしながらイギリス、アイルランドなどを放浪して地質学、鉱物学の研究をし、シベリア、中国経由で来日した。そして、明治2年12月に大学南校に採用され、日本最初のお雇いドイツ語教師となった。大学南校時代にはドイツ語の教材を3冊作っており、なかでも『カデルリー文典』は日本最初の本格的ドイツ文法書であるという。有能な教師ではあったが、明治4年11月に満期契約終了とともに大学を去っている。その後、カデルリーは高島学校と呼ばれる横浜の市学校で半年ほど働いた後、アメリカ、カナダを経由して1874年6月、12年間に亘る世界旅行を終えてヨーロッパに戻る。カナダで罹患した肺炎の療養のためマルセイユに行ったが、12月31日、同地の病院で死去している。47歳だった。横浜を出港して2年数ヵ月後のことである。
1867年、香港-横浜-サンフランシスコの定期航路が開通し、1869年にはアメリカ大陸横断鉄道が完成。各地で金を稼ぎながら北半球をぐるりと回る世界一周旅行も可能となっており、カデルリーのような破天荒な人物も活躍できたのだろう。小学校卒業にもかかわらず日本の大学で教師になるなど才能豊かな人物だったが、カナダでは鉱物学教授を名乗るなど、経歴詐称なども平気で行なったようだ。それにしても、まさに波瀾万丈。こういう人物も、維新直後の日本でお雇い外国人として活躍していたのである。

東大でワグネルの助手となる

ワグネル(1831-1892)は、明治元年(1868)に来朝。明治3年10月-明治4年3月まで大学南校教師。明治5年3月-明治8年3月まで大学東校教師。以後、東京開成学校、京都府医学校、東京大学、東京職工学校(東工大の前身)などで教鞭を執り、明治25年に東京で没している。(『日獨交通資料 第三輯 我が国に於ける獨逸學の勃興』)



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