山村一蔵
大学南校に奉職
東大の前身・大学南校へ
城岡氏の研究によると、カデルリーは大学南校に採用される前、前身である開成学校時代にも数ヵ月雇用されていた可能性があるという。また、カデルリーは大学南校で生徒への授業が終わった後、教員などにも授業を行なっていたらしい。長命寺の石碑には、一蔵は明治3年大学に就職したとある。しかし、どのような出会いだったのかは分かっていない。大学に奉職する以前に横浜で出会ったのか。大学南校の生徒として出会い、教員として採用されたのか。最初から教員のひとりとして出会ったのか。それは、謎のままである。また、ワグネルと出会い、教えを受けたのは、その後のことであると思われる。
『東京大学百年史』によると、「明治四年(1872)七月行政機関としての大学が廃止され新たに文部省が設立されると共に、大学南校、大学東校は文部省の所轄となり、さらにそれぞれ単に南校、東校と改称された」とあるので、一蔵は当初大学南校に就職し、翌明治4年に自動的に文部省の役人になったということだろう。一蔵は文部省に3年勤めたのち明治6年に外務省に出仕。さらに明治10年には大学に復帰しているが、その間の足跡を官員録で辿っていくと次のようになる。
文部省から外務省へ
●袖珍官員録<文部省> 明治4年10月5日改
十二等 川上正光
十三等 山村経基
●袖珍官員録<文部省> 明治4年11月20日
十二等 川上正光
十三等 山村経基
●官員録<外務省> 明治6年
十等 山村一蔵
●官員録<外務省> 明治7年
十等 山村一蔵
●官員録<外務省> 明治8年9月改
十等 山村一蔵 サカヒ
●官員録<外務省> 明治8年11月5日改
十等 山村一蔵 堺縣士族
●官員録<外務省> 明治9年4月21日
九等 山村一蔵 サカヒ
一蔵は最初に文部省に出仕した際、山村径基という名前で記録されいる。その理由については分かっていない。明治初期にはこの名前で通していたのかも知れない。川上正光は、文部省での同僚である。肩書きは上なので上司なのかも知れないが、単に入省時期が数年早かった、というようなことかも知れない。この川上正光の妹ミツ(光)は一蔵の妻である。(『東京・本郷台町の独逸学校について』(上村直己)
同僚・川上正光との関係
明治5年頃のクラス担当表(『東京大学百年史』)を見るとドイツ語は4クラスあり、それぞれに外国人教師が担任として配されている。さらに、外国人教師を補うかたちで日本人教官も担任を務めている。つまり、1クラスに対して外国人教師と日本人教官が1人ずついたことが分かる。一蔵は独四ノ部を担当しており、外国人教師はグレーフェンとなっている。また、川上正光は外国人教師シェンクとともに独二ノ部を担当しているという間柄だった。