山村一蔵


外務省への転出


ドイツ語の能力を買われ、外務省へ

一蔵は明治6年、外務省に移った。文部省では十三等出仕だったが、十等出仕として転出している。一蔵が外務省に行った理由ははっきりとは分かっていない。しかし、おそらく一蔵が得意とするドイツ語の能力を買われてのことに違いない。また、後に述べるように明治9年、一蔵はドイツ商船遭難救助記念碑建立のために宮古島へ赴き、その仕事が終わると明治10年には医学部教師として大学に戻っている(もっとも、官員録を見ても文部省の名簿の中に一蔵の名前が見いだせないので、正式な所属は分からないのだが、大学の教師だったことは間違いない)。ドイツ船の遭難が明治6年7月であることを考えると、外務省が記念碑のことでドイツとのやりとりで忙しくなる時期と合致しており、まるで、ドイツ商船遭難記念碑建立のために一時的に外務省に転出していた、とも思えるような時期的な一致がある。とはいってもそれは推測であって事実ではない。



back next



|ホームページへ戻る|