山村一蔵
宮古島のドイツ商船遭難
遭難後の顛末
明治6年(1873)7月11日、宮古島の沖合でドイツ商船ロベルトソン号が難破。遭難者8人は島民に救助され、1ヵ月余りを島内で過ごした後に宮古島を出帆。台湾経由で支那に戻っていった。ロベルトソン号の船長ヘルンスハイムは、この一件に関して香港で報告書を作成し、ベルリンのしかるべき筋に回すよう依頼した。また、ヘルンスハイムは義兄にこの一件を知らせている。義兄がシュトラスブルクの新聞にその内容を知らせると、記事として掲載された。この記事を当時の皇太子(後の皇帝ウィルヘルム1世)が目にしたのではないかとヘルンスハイムは自伝の中で書いている。ハンブルク政庁もこの事件を帝国宰相官房に報告しており、宰相官房はヘルンスハイムに返礼の提案を依頼した。ヘルンスハイムは軍艦を派遣して贈りものを運ぶこと、記念碑や石碑を建てることなどを提案し、宰相官房は1874年2月14日付けで、皇帝ウィルヘルム1世が「島にドイツ語と中国語の記念碑を建立する」「望遠鏡、懐中時計などを送る」ことを決定したとハンブルグ市へ回答している。遭難から約半年、記念碑建立が決定した。翌1874年2月18日、ドイツ国内のアルゲマイネ新聞に遭難の経緯と、ドイツ皇帝が遭難の顛末や島民への感謝の言葉を記した記念碑を建てることを裁可したことをつたえている。
外交交渉に翻訳官として参加?
記念碑の建立のため、ウィルヘルム一世は日本国天皇に同意を求めている。国家元首レベルでの交渉である。決定までの交渉文書はいまのところ見あたらない。さて、明治8年(1875)10月15日付けで、ドイツ帝国臨時代理公使フォン・ホルレーベンから寺島宗則外務卿に向けて記念碑の輸送などに関する連絡が行なわれる。以降、弁理公使フォン・アイゼンデッヒャーと寺島宗則外務卿との間で詳細がつめられていく。この際に、独文を和文に訳したり、ドイツ語の文章を山村一蔵が作成した可能性は十分にあると思われる。
記念碑の建立
記念碑は上海で製作された。そしてドイツ軍艦チュクロープ号(艦長はフォン・ライヒェ)に積まれ、まず横浜に入港した。ドイツからは通訳を要請されており、その役についたのが外務省九等出仕となっていた山村一蔵だった。一蔵はチュクロープ号に乗り組み、琉球に向かった。宮古島に到着したのは明治9年(1876)3月16日である。一行は直ちに記念碑建立に最適な場所を選定し、ドイツ人水兵56人および島人足50人を動員して土固めが行われた。作業は3月21日に完了し、翌22日、琉球役人および宮古島役人、ドイツ軍艦乗組員、全島民の列席する中、建碑式が執り行なわれた。一蔵は日本側代表として建碑趣意書を述べるなど、建碑式では中心的な役割を演じている。
建碑式を終えるとチュクロープ号は中国・厦門に停泊した。ここでチュクロープ号は香港へ向かうよう命じられている。そのため、一蔵は厦門で下船することになった。本来は日本まで送り届ける予定だったのだろうか? その点は分からない。艦長は一蔵に、香港から横浜へ直行できると進言したようだが、一蔵はそれを断り、上海を経由するルートを選択した。その理由は、一蔵の船酔いにあった。横浜から厦門へ来るときに天候に恵まれず、ひどく苦しんだようだ。それでも職務には忠実で、琉球や宮古島の役人たちとの交渉も嫌な顔をせずこまめに動いてくれた、と艦長フォン・ライヒェは香港から東京のドイツ公使館へ報告している。また、このことがドイツ本国につたわり、時の宰相ビスマルクが皇帝ウィルヘルム1世に上奏。建碑に尽くした山村一蔵に金時計を贈与するよう通達がされた。この金時計は明治9年11月1日に一蔵に手渡された。
長命寺石碑中に「その外務省にあるや嘗て命を奉じ徳船の将某に陪い琉球に航す。幹事先生日夜奮勉立ちどころに竣工す。某感喜し帰国してこれを徳帝に告ぐ。徳帝金〓(金偏に表=びょう)を寄贈し謝意を致す」とあるのは、この顛末のことである。