山村一蔵


独逸学校を設立


本郷台町に独逸学校を開校

明治10年。東大の前身である開成学校では英仏独の3カ国語で授業を行なっていたのをやめて、英語のみの授業になった。一般学生にとってドイツ語は必須でなくなり、乱立気味だったドイツ語学校は大幅に激減していた。ところが医学部ではドイツ語による授業を行なっており、医学部入学希望者にはドイツ語の試験が課せられていた。学生は、質の高いドイツ語学校に集中した時代だった。明治10年当時、ドイツ語私塾は壬申義塾と訓蒙学舎の2校が残っていたが、そこに割り込んでいったのが一蔵の独逸学校だった。一蔵は現役の東大医学部ドイツ語教員である。また、独逸学校の教師には川上正光、高木計、川俣匡らがなを連ねているが、彼らも東大の教員たちだ。副業も認められていた時代とはいえ、現役の東大教員がそろっている独逸学校に学生が集まらないわけがなかった。独逸学校の開校願いは明治11(1878)年2月4日に提出されている。同年5月には学科増加届が提出されている。一蔵も、ドイツ語入門書を編纂するなど、意欲に燃えていた。

東京市本郷台町

一蔵の住まいは本郷台町31番地、独逸学校の場所は本郷台町40番地だったと思われる。本郷台町は現在の本郷5丁目。東大の近くで、本郷菊坂にも近いところにある。

山村一蔵の早すぎる死

しかし、明治12年(1879)7月15日、一蔵は急死する。妻ミツは明治12年に廃校届けを出すが、同月、高木計を教員とする新生独逸学校の開業届を提出している。
浅草・長命寺にある石碑が建てられたのは、この翌明治13年12月のことである。山村一蔵の墓所は、小石川伝通院の塔頭である真珠院にある。墓石には一蔵の名前と没年だけが刻まれている。現在長命寺にある石碑は、元は真珠院内にあったとも聞く。
ミツの兄・川上正光らを教員とする独逸学校は明治20年(1887)まで存続するが、この年、山村ミツにより廃校届けが出されている。



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