平台に乗るな!



「平台の上に乗らないでください」
 これは銀座の近藤書店の、美術や映画関係の書架の前に貼ってあった貼紙の文章だ。一瞬見間違いかと思った。書架の前にある平台の上にものを置くな、の意味かと思った。
 いるんだ。横積みされている本の上に乗るやつが。まさか、靴のままじゃないだろうとは思うが…。靴を脱いで、靴下で本を踏みつけて、書架の上のほうにある本を取ろうとするやつが、いるんだ。
 書架が高く手が届かないからといっても、いくらなんでも良識を疑うようなやつが存在するのだね。
 衝撃ものの貼紙でした。
 本の上に手をついている人や、荷物を置いている人なんか、目じゃないよ、こうなると。 目指す本のためなら、他の本は踏みつけてもいい。そういう人は、いったいどういう毎日を送っているのだろうか。いっぺん一日同行してみたい気もする。
         ◆
 昔、池袋の芳林堂という書店の、上の方の人気の少ない美術書のフロアでのことだ。
 ある書棚の前でズーッと本をためつすがめつ見ては選び考えているオジサンがおりまして。私もその書棚の本を見たかったのですが、オジサンの足はがっしりと大地に根を下ろした屋久杉のように動かない。仕方がないから横から手を滑らせるようにして、オジサンの真正面付近にある本を引っこ抜いたりしていたら、突然、「ぼ、ぼくが先にきて見てるんだ! し、失礼じゃないか!」
 と怒りを滾らせていったのだ。
 なにが失礼なもんか。だから、
「あなたがこの書棚の前に立っていたからってべつにあなたの権利でも何でもないじゃないの。ほかの客がきたら退くのがフツーじゃない。あなただってぼくだって同じ客でしょ。書店からしたら、買うか買わないか分からない客に書棚を占領されたら迷惑なはずだよ。他の客が買えなくなっちゃうじゃないか」
 なるだけ平静を装って反論してやった。
 オジサンは頬をピクピクさせていたけれど、結局ぼくの目を見たりすることもなく、
「いいよ。勝手にしろ。君が見終わるまで、ぼくはあっちにいるから!」
 そう言い捨てて他の書棚の方へ行ってしまったのだった。
 世の中には妙なやつがたくさんいる。
         ◆
 本を買うとき、一番上の本じゃなくて下から抜き取るのはちょっと気が引ける。けど、他人の手垢がついた本を買うのは嫌だ、という気分がある。ぼくのような行為をすることに非難がましいことをいう人もいる。でも、ま、どっちもどっちじゃないかと思う。
 たとえば、ぼくはあまり人に本を貸さない。
 帰ってきたときにページの断裁面に薄黒く手垢がついていたりすると気分が悪くなるからだ。そんなことを気にするのはおかしい、という人もいるだろうけれど、そのまた逆もある訳だからいいんじゃないの。
 でも、こういう事実だけは知ってほしい。
 男のだいたい半数は、トイレにいった後、手を洗っていないよ。洗ってもハンカチをもっている比率は少ないから、ズボンで拭っているか手を払って自然に乾かしている。
 いいかい。チンポコを引き摺り出して、オシッコをして、またしまってジッパーを上げて、という一連の行動をした手を洗っていない。そういう人が、立ち読みをしたり本を捲ったりという可能性がないといえるだろうか。
 鼻毛を抜いた指、ページを捲るために舌で湿らせた指、昼飯のほうれん草の切れっ端が歯に挟まっているのをつまんで引き抜いた指…。そういう手が、本やさんで活発に行動しているということを。

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