---------- 『植物学雑誌』創刊号
「凡ソ新ニ事物m発明シタル者ハ必之ヲ世二公ニシ 衆人ヲシテ普(あまね)ク之ヲ知リ 益其薀奥ヲ極メシムルコトヲ勉メザルベカラズ 縦令(たとえ)如何ナル発明ヲ為ストモ深ク之ヲ秘シテ衆二公示セズ他人ノ同一ノ事ヲ発明スルニ及ンテ我曾テ之ヲ発明セリ 我已ニ之ヲ知レリト言フト雖モ人誰カ之ヲ信センヤ 斯ノ如キハ啻(ただ)ニ人ニ益スルコト能ハザルノミナラズ 自損シテ其功ヲ放棄スルモノト謂フベキナリ 植物学ニ於テモ亦之ニ同ジ故ニ 此学ニ志ス者ニシテ植物ニ関シ苟モ発明スル所ノ者アラバ 其細大ヲ問ハズ之ヲ同志者ニ公示シ 又其中疑団ヲ免レザルモノアラバ 亦同志者ニ質シテ其解説ヲ求メ 互ニ知識ヲ交換シ 此学ノ進歩ヲ謀ルヲ緊要トス 是ヲ以テ欧米諸国ノ植物家ノ如キハ同士相謀リテ学会ヲ設為シ 報告書或ハ雑誌ニ各自発明等ノ説ヲ記載シテ公衆ニ報道シ 此学ノ昌盛ヲ謀ルニ汲々タリ 然ルニ我邦ニ在テハ従来植物専門ノ会無カリシハ実ニ此学ノ一大欠事ト謂フベシ 余輩窃カニ之ヲ慨歎シ 明治十四年ノ暮 植物学会ヲ創設センコトヲ伊藤圭介賀来飛霞ノ両氏ニ謀リタリ 爾後同志者松村任三 沢田駒次郎 宮部金吾 岡田信利 賀来飛霞 大沼宏平 内山富次郎等ノ諸氏ガ宅にニ会シテ其方法ヲ協議シ 遂ニ一ノ盟ヲ創設スルコトニ決定シ 矢田部良吉氏ニ会長ト為リテ本会ヲ誘掖セラレンコトヲ請ヒシニ 同氏モ亦此挙ヲ賛美シ 其請ヲ許諾セラル 是ニ於テ本会ヲ東京植物学会ト名ヅケ 其第一会ヲ東京大学植物園ニ開キ 当日矢田部会長ハ羊歯科ノ説ヲ演述セラレタリ 是レ本会起源ニシテ実ニ明治十五年二月廿五日ノコトナリキ 爾来之ヲ継続セシト雖モ委靡振ハズ 頗余輩ヲシテ失望セシムルニ至レリ 同十六年四月ニ至リ会長ノ他ニ幹事二名ヲ置クコトニ議定シ 松村任三氏ト余ト其ノ選ニ当レリ 又会費醵集ノ方法ヲ定メシモ猶未雑誌ヲ発刊スルニ至ラズ 然ルニ這回始テ之ヲ発刊スルコトヲ得ニ至レリ 余輩ノ喜復何ヲ以テ之ニ加ヘンヤ 回顧スレバ明治十五年十月頃ヨリ一時会員ノ出席大ニ減少シ 或ハ本会ヲ東京生物会ニ合併スベシトノ説起リ 本会ノ絶エサルコト縷ノ如クナリシモ 今ヤ之ヲ挽回シ雑誌ヲ発刊し 余輩ノ希望ヲ遂グルニ至リシハ 畢竟矢田部会長ガ公務ノ繁劇ニモ拘ハラズ本会ノ誘掖ニ尽力サルゝノ致ス所ト雖トモ 抑亦会員諸氏ノ熱心ニ因ルモノナリ 今後余輩ハ益協力同心シ 以テ後来本会ノ弥昌盛ニ至ランコトヲ企画スト云爾」
研究者たちが自分の意見を堂々と延べ、意見を交わし、知識を得るためのメディアが、いよいよ誕生した瞬間であった。