牧野富太郎をめぐる謎-1

『植物學雑誌』の主唱者は誰なのか?


7.自叙伝を書いたのは、牧野富太郎なのか?


昭和十四〜十五年に雑誌連載されていた『牧野富太郎自叙伝』

 ところで、先に中村浩『牧野富太郎傳』は『日本民族』に連載された『牧野富太郎伝』に寄っていると書いたのだが、これに気づいたのは『牧野富太郎伝』上村登(昭和三〇年・一九五五)の巻末に列記してある参考文献で、そこに「牧野富太郎『牧野富太郎自叙伝』 (日本民族・第二八七〜二九五号・昭和十四〜十五年)」というのがあったからだ。そこで『日本民族』という雑誌を閲覧しようとしたのだが国会図書館にもなく、やっと所在を確認したのは高知県立牧野植物園の図書室だった。ここには昭和十五年一月掲載の第五回(二九一号)、二月掲載の六回(二九二号)、三月掲載の七回(二九三号)につづいて休載の告知があり、五月に最終回(二九五号)が掲載されている。 

※本と雑誌の整合について確認・文章追加の必要あり

ヒーローに仕立てるような風潮?

 これを子細に見ると概ね昭和三十一年(一九五六)刊の『牧野富太郎自叙伝』牧野冨三郎と同じで、自叙伝はすでに昭和十四年(一九三九)から書き始められていたことが分かる。なので、昭和十七年(一九四三)刊の中村浩『牧野富太郎傳』が、昭和三十一年(一九五六)刊の『牧野富太郎自叙伝』と似ていても不思議ではない。
 とはいえ昭和十四年(一九三九)といえば牧野は七十七歳で、すでに高齢である。はたしてこれらの文章をすべて自分で書いたのだろうか。文体などを見ても聞き書きをまとめたのではないか、というような印象がある。
 こうした疑問は、ひとり私だけの思い出はないようだ。平成二十年(二〇〇八)三月二十二日、首都大学東京・南大沢キャンパスにおける「牧野富太郎博士の植物研究とその継承」と題されたシンポジウムにおいて、東京大学総合研究博物館教授の大場秀章は「東京大学を中心に官学アカデミーとの関連では確執や軋轢が言及されるが、どの程度信頼してよいものなのか判断に苦しむところがある」として、自叙伝および伝記(『牧野富太郎 私は草木の精である』渋谷章)の信憑性について検討を加えている。それによれば「断定は困難だが牧野が、矢田部や松村との確執にふれるのは、九〇歳を過ぎた最晩年になってからであることに注意が必要だろう」とし、最終的に「最晩年、有名人となった牧野を東大との確執にもめげずに大成を遂げた一種のヒーローに仕立てるような風潮はなかっただろうか。そもそも自叙伝は牧野自身の手になるものなのか、私は疑問をぬぐいえない」と、かなり否定的なことを語っている。(日本植物分類学会 第七回大会 東京大会公開シンポジウム講演記録・「牧野富太郎伝に向けた覚え書き」大場秀章 (日本植物分類学会誌『分類』第九巻一号)
 牧野と矢田部、牧野と松村との確執については、ここではこれ以上深入りしない。とはいえ、松村との確執について牧野が書いたのは「九〇歳を過ぎた最晩年」ではなく、七十七歳頃のことであることはここに記しておこう。
 とはいうものの、牧野自身の手になるといわれる自叙伝や何冊かの伝記に書かれたことの信憑性が問われ始めていることは事実である。たとえば牧野富太郎に対する否定的な論調は平成十一年(一九九九)の『牧野植物図鑑の謎』(俵浩三)あたりからだろうか。その後も平成十六年(二〇〇四)の『「イチョウ精子発見」の検証?平瀬作五郎の生涯』(本間健彦)の中に、イチョウの精子を発見した平瀬作五郎の業績に対する牧野の権威主義的で嫉妬深い発言が引用されるなど、これまでタブーとされてきた牧野富太郎への批判的な言説も、次第に見受けられるようになってきている。

嘘のつけない牧野富太郎

 とはいっても、牧野富太郎が意図的に嘘をついているとは思えない。なぜなら、牧野は正直な人だからである。とはいっても、正しいことを言う、ということではない。思ったことを、はっきりと口にするような人だ、ということである。たとえば自叙伝などの、他人に対する攻撃的な表現は、牧野が感じたままを正直に吐露しているのだと思う。
 また、牧野が東京大学に足を踏み入れたとき、すでに大学の教師だった大久保三郎に対して、自叙伝では距離を置くような表現をしているのだが、学問的なこととなると大久保三郎の発見や断定は間違いだった、などと露骨に書いているのは、本音が吐露されていて興味深い。大久保への攻撃的な表現も含めて、秘めていた思うところをぶちまけるようなところが、牧野にはある。自分が正しい、本来は自分の手柄だ、というような思いがあるのだろう。だからといって、嘘はつけない。なので、他人の足を引っぱるような表現となって、自著に散見されるのではないかと思う。もちろん牧野の誤解からくる他人への批判あるはずで、たとえばヤマトグサの学名についても、のちに「分類が間違っている」と大久保の死後、牧野が学名を変えているのだが、その後になって間違っていなかったことが判明し、もともとの学名に戻っていたりする。
 牧野は功名心に取り憑かれてはいたし、それがモチベーションとなってはいたけれど、嘘をついてまで自分の手柄にしようとはしなかった。それは、牧野が、研究では負けない、という自負があったからだと思う。とはいえいつでも牧野が正しいわけでもなく、牧野が間違っていることもあった、というようなことである。
 そういうこととは別に、牧野をヒーローに仕立てあげようとする人たちも少なからず存在していて、そういう人たちの手によって真実が隠されてきたという歴史もある。そして、その歴史はいまなおつづいているのである。
 上村登のような人のフィルターを通して描かれる牧野富太郎は、ある意味では虚像でなのある。
 また、愛妻の名をつけたという美談として語られるスエコザサの発見に関する逸話についても、事実とは違うつたわり方をしているのであるが、これについては別途言及することになろう。



・平成24年(2012)頃から書き始めて中断
・平成29年(2017)6月25日頃にアップ


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