---------- 『花と恋して:牧野富太郎伝』上村登
前年の明治十九年あたりから、富太郎は自分の大望の外に、もう一つの抱負を持っていた。それは
「日本の植物学を世界の水準にまで高揚するには、ぜひとも日本の植物学者の研究業績を内外に公表する機関雑誌が必要だ。」
という意見であった。彼は選科生の染谷徳五郎と田中(市川)延次郎の両人に相談してみると
「牧野さん。そいつは実に卓見だ。ぜひそうしなければいかん」
と賛成してくれた。そこで三人は千住の酒屋であった田中の家に集まって富太郎の大好物であった牛鍋を囲んだりして、たびたび案を練った。その結果某書店に発行の交渉も出来、原稿も集めて着々準備を進めたが、一応主任教授矢田部博士に相談してみることにした。
「それはよい考えだ。ちょうど前に設立した東京植物学会に機関誌がないから、その原稿を譲ってくれるなら、学会で発行しよう」
ということであったので、いよいよ東京植物学会の機関雑誌として、『植物学雑誌』は明治二十年二月十五日に創刊された。
となっており、同人が昭和三〇年(一九五五)に書いた『牧野富太郎伝』と、細かな修正はあるが、ほぼ同じである。上村登は牧野富太郎に非常に近い人物で、牧野が『植物研究雑誌』に書いた『「植物學雑誌」發刊當時ノ事情』を知らないはずがない。にもかかわらず、正確な経緯をあえて書かないのは、どういう理由なのだろう。また、牧野に関する書籍を少なからず出している高知新聞社も、牧野については研究しているはずなので、『「植物學雑誌」發刊當時ノ事情』に関して知識があるはずである。にもかかわらず『植物学雑誌』の提唱者は牧野富太郎である、とミスリーディングするのは、牧野富太郎を植物学の偉人に仕立て上げておきたい、という事情があるのだろうか。
現在、簡単に手に入り、広く読まれているのは、この『花と恋して:牧野富太郎伝』だろう。この内容が正しいものとして理解されているためか、インターネットのサイトなどでも、『植物学雑誌』を創刊したのは牧野、という書き方が多くなされている。しかし、これは上村登による創作に他ならない。
まあ、牧野富太郎は日本植物学の父である、と思ってもらっていた方が新聞や書籍も売れるし、植物園も賑わうわけだから、あえて上村登によるミスリードを正す必要はないのかも知れないが。
---------- 『MAKINO』高知新聞社
当時の牧野は友人にも恵まれた。彼らはれっきとした東大生であったが、それは対等な付き合いだった。互いの下宿を行き来し、植物採集も一所に出掛けた。
こうした交際の中から『植物の雑誌を作ろう』という話が持ち上がった。牧野は親しい友人であった市川延次郎、染谷徳五郎の2人の学生と原稿を用意し、矢田部教授に相談した。当時、東京植物学会という学会組織があった。渡りに船と思ったのだろう。教授は学会の機関誌として、その雑誌を創刊することにして、1887(明治20年)、「植物学雑誌」が刊行された。創刊号は牧野や染谷ら8人の論文を掲載した。牧野は、池や水田に生える水草「日本産ヒルムシロ属」についての論文を寄せた。
さすがに上村登の『牧野富太郎伝』や『花と恋して:牧野富太郎伝』のように、牧野が言いだした、とは書いていない。上村登が牧野を神格化していることを理解しているからだろう。とはいえ、『日本植物誌』をつくりたい、と矢田部教授とやりとりする場面では、「いささか小説風」な『花と恋して:牧野富太郎伝』を引用しているのは、なんだかな、という感じなのではあるが。高知新聞社と牧野富太郎、上村登との間には、何かあるのだろうか? と勘ぐりたくなる。