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第55回定期・慈善演奏会

バッハとその弟子たちによるメッセージ

〜社団法人 青少年健康センターの活動を支援するために

J.S.バッハ
イエス、我が喜びよ(BWV227)Jesu, meine Freude

J.C.アルトニコル
ミサ曲(ニ短調)Missa (in d)

G.A.ホミリウス/
真実に歩む人には Die richtig für sich gewandelt haben
神はまこと Gott ist getreu
思い悩むな Ihr sollt nicht sorgen und sagen
人の命は70年 Unser Leben währet siebenzig Jahr
主の祈り Unser Vater in dem Himmel

開催日:2012年11月9日(金)
開演時間:19時(予定)
会場:ウェスレアン・ホーリネス 淀橋教会
(JR総武線・大久保駅徒歩1分、JR山手線・新大久保駅徒歩3分)
(教会のホームページはこちら

指揮: 青木洋也
合唱: 東京スコラ・カントールム

チケット代:
一般前売り券3000円
(当日券3500円、学制券1500円)


◎Johann Sebastian Bach/ヨハン・ゼバスティアン・バッハ
Jesu, meine Freude ..... イエスよ、私の喜びよ(BWV227)

ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(1685〜1750)は、1723年 聖トーマス教会付属学校の音楽監督として、神聖ローマ帝国の商業中心地 ライプツィヒに赴任した。彼の職務は2つの主要教会 聖トーマス教会と聖ニコライ教会のための音楽の実践だが、葬儀や婚礼の音楽も受け持ち、本曲は赴任後間もなく、中央郵便局長夫人の葬送説教で演奏されたと考えられている。バッハのこのようなモテット(ミサ以外の特別な礼拝用の器楽パートのない合唱曲)は6〜7曲が現存するだけである。

葬送説教の主題は新約聖書『ローマの信徒への手紙』第8章11節で、故人の希望という説もある。『ローマの信徒への手紙』はパウロにより書かれた。パウロは生前のイエスとは面識がない。現在のトルコに生まれ、ユダヤ教とギリシア語圏の教養を身につけ、熱心なユダヤ教徒としてイエスの死後キリスト教徒の迫害に向かう途中、啓示を受けてキリスト教を信仰するに至り、トルコからギリシアにかけて伝道した。伝道後は手紙が重要な役割を担ったようで、新約聖書27巻にパウロの手紙は13巻も含まれ、うち7巻はパウロの直筆である。『ローマの信徒への手紙』はその最後の手紙で、ローマ在住のキリスト教徒に自身の考えをまとめて書き送ったものである。バッハが選んだ第8章11節前段の1節、2節、4節、9節、10節では、イエス・キリストの内にある者・神の霊が内に住む者と、肉に従う者・キリストの霊をもたない者を繰り返し対比させ、11節で信仰による復活を述べている。

バッハはこれに、ヨハン・フランクの詞、ヨハン・クリューガーの曲のコラール『Jesu, meine Freude』を組み合わせ、一節ずつ交互に配置し全11曲とした。コラールは教会の会衆が歌う讃美歌で、当時の讃美歌集には数千曲が掲載されていて、バッハはよく自身の曲にコラールを挿入している。

全11曲は第6曲を中心に対称的に構成されている。

1曲目コラールはイエスへの愛の告白で、バッハは元の旋律(本日最後に皆さんと歌う讃美歌のもの)を少し変えている。
2曲目は和声的に「イエスの内にある者たちは、罪に定められることは、ない」[ローマの信徒への手紙(以下同じ)8:1]と言いきった後、各声部が順に「その人は肉に従って歩まない」[8:4]と繰り返す。「歩む」の言葉は特有の動きで装飾され、最後に「聖霊に従って歩む」と終わる。
3曲目コラール定旋律のソプラノは、低声部が音の跳躍やリズムで嵐、悪魔、地獄を表す中を、イエスに守られ揺るがず進む。
本日 独唱者が演奏する4曲目は、器楽的なアルトに支えられた2声のソプラノが「イエスにおいて命をもたらす掟」 [8:2]と和声的に、続いて「私を解き放ってくださった」と交互に飛び立つように歌い、「罪と死の掟」の複雑な和声で終わる。
5曲目は荒々しく「何するものぞ!」と始まり、バスの激しい動きの後、「私はここに立ち、歌う」から各声部が「全き、確かな安らぎの内に」と美しく歌う。コラール定旋律は埋め込まれている。
全曲の中心の6曲目は、テノールが「あなた方は肉には属さない、そうではなく霊の人だ」[8:9]と歌い出し他声部が続く。「霊」という言葉の細かい動きとリズミカルな対旋律で、「神の霊が内に宿るならば」と喜ばしく終え、一転ゆっくりと、「だが、キリストの霊を持たない者は、キリストのものではない」と、表情を変えながら複雑な和声で繰り返す。
7曲目コラール冒頭低声部の「Weg!(この世の宝よ、去れ!)」のリズムはバッハの受難曲にも表れる。定旋律ソプラノ以外の各声部は群衆のように自由に、イエスとともに「不幸、窮乏、屈辱そして死」に立ち向かう。
8曲目はソプラノ以外の3声部が「キリストがあなた方の内におられるなら」と始め、「体は罪ゆえに死んでいても」で複雑な和声に変わり、テノールの「霊は生きている、その義の故に」の、「霊」と「生きている」の喜ばしい装飾を他声部が引き継ぐ。
9曲目コラールはテノールの器楽的な動きとソプラノ二声の装飾を伴い、定旋律アルトは故人の代弁者のように、現世に「おやすみ」と別れを告げる。
10曲目は2曲目と同じ音型で、説教の主題[8:11]を「霊が内に住まわれるなら、あなた方の死ぬべき肉体を甦らせてくださるだろう」と和声的に歌い、テノールに導かれ「あなた方の内に住まわれる神の霊の故に」と力強く繰り返す。
終曲のコラールは前曲の「神の霊が内に住まわれる」に呼応し、「退け! 悲しみの心よ、イエスが入ってこられる」と、イエスとともに苦難に耐える決意を歌い、全曲冒頭の言葉「イエスよ、私の喜びよ」でしめくくる。

十字架にかかってくださったイエス・キリストとその復活を信仰する者を、神は受け入れ、正しいと認めてくださる。こうしてイエスは神と私を結びつけ、仲介してくださった。それがうれしい。
そして、神に受け入れていただける私は、死をも恐れることはない。神は、死ぬべき私の体をも、甦らせてくださる。

バッハは『ローマの信徒への手紙』と『Jesu, meine Freude』を融合した。そして、葬儀の会衆の甦りへの希望と死者へのはなむけを、この言葉に託したのではないだろうか。(中川 淳子)

 

◎Gottfried August Homilius/ゴットフリート・アウグスト・ホミリウス
Die richtig für sich gewandelt haben ..... 真実に歩む人には
Gott ist getreu ..... 神はまこと
Ihr sollt nicht sorgen und sagen ..... 思い悩むな
Unser Leben währet siebenzig Jahr ..... 人の命は70年
Unser Vater in dem Himmel ..... 主の祈り

ホミリウスとの出会い

ホミリウス……?誰なの、それ?
これが一部の人を除いた多くの団員が今回の楽譜をもらった時点での正直な感想です。演奏した経験はない上に、コンサートやCDでも作品に触れたことは非常に少なく、中には名前すら聞いたことがなかった団員もいた位です。私達は「1714年生まれのバッハの弟子」ということ以外、何も知らない状態で練習に取りかかりました。ところが、譜読みを始めて見えてきたのは時代のイメージとはかなり異なる現代的な音楽だったのです。バッハから直接指導を受けた人の作品でありながら、その後の古典派を飛び越えてロマン派を先取りしてしまっているような印象を受けました。そこで、作品をよりよく理解するために練習と平行してホミリウスの人物像や時代背景についての勉強会をしました。すると、バッハの弟子とはいえバッハのもとで勉強した期間は短いこと、ドレスデンで活躍し、当時から高く評価されていたことなどが分かってきました。また、音楽史でいうバロックから古典派への過渡期にあたる前古典派とも言われる時代で、文学界で疾風怒濤運動が、音楽界ではそれに通じる多感様式が流行していて自然で率直、また主観的な感情表現や叙情的、感傷的な作風が好まれていました。そして、ザクセンに隣接するプロイセンでは多感様式とよく似たギャラント様式がフリードリヒ大王の宮廷文化として栄えていました。ロマン派の先取りのような作品が書かれたのはそのためだったのです。一方で、7年戦争が起こりプロイセンによってドレスデンが占領されて聖十字架教会が破壊されるなど、環境が荒廃した時期があったことも見逃せません。

今回取り上げたホミリウスの曲は全てモテットといわれるもので、フランス語で「言葉」を意味するmotを語源とし、中世には世俗曲のことをさす場合もありましたが、15〜16世紀には宗教曲のことをさすようになりました。歌詞は多くの曲が聖書を題材にしていて、今回の曲の題材もすべて聖書ですが、他では自由に作られた宗教詩や聖務日課の固有文のこともあります。ホミリウスの全作品のうちで声楽作品は最も多く、およそ60曲のモテットの他に教会カンタータ180曲、オラトリオ11曲、マニフィカト4曲があり、多くがドレスデン聖十字架教会の聖歌隊のために書かれました。そしてこれらの曲は聖歌隊のレベルをかつてないほどに引き上げることに貢献したとされています。そのような曲と向き合うことで私達はどれだけのものを得て向上できるのか、それぞれが今までの自分に挑戦するつもりで取り組んできました。今日の演奏会でその全てを出し尽くして成長することができたらとても幸せなことだと思います。

ではここで、ホミリウスの略歴をご紹介します。
1714年 現在のチェコとの国境に近いザクセン地方の小村ローゼンタールでルター派の牧師の子供として生まれる。
1722年 父を亡くし、ドレスデンに出ると聖アンナ教会付属学校に通い、オルガニストのシュテープナーからオルガンを学ぶ。
1734年 現存する最初のカンタータ『主なる神は息子であり盾である』Gott der Herr ist Sonn und Schildを作曲。
1735年 ライプツィヒ大学に入学すると同じ時期にJ. S.バッハから作曲と鍵盤楽器を学ぶ。
1741年 バウツェン聖ペトリ教会オルガニストに志願するが叶わず。
1742年 ドレスデン聖母教会のオルガニスト就任でドレスデンに戻ると生涯そこで過ごす。
1753年 ツィッタウ聖ヨハネ教会オルガニストに志願するも失敗。
1755年 ドレスデン聖十字架教会カントール兼付属学校教師、聖母教会、聖ゾフィ教会の音楽監督に任命される。
1760年 聖十字架教会が7年戦争により破壊されると、以後、1785年に没するまで聖母教会を主な拠点として活躍。

7年戦争以降に主な拠点としていた聖母教会も、第二次世界大戦で瓦礫の山となりましたが、1993年から2005年にかけて復元されて、美しいバロック様式の姿を取り戻しました。工事中は元の石をできる限り元通りの位置で生かす工法が注目され、世界一難しいジグソーパズルなどと呼ばれたこともあります。もし、今後ドレスデンに行かれることがありましたら、聖母教会を訪ねてホミリウスとその作品のことを思い出していただけるととても嬉しく思います。(小泉聡子)

 

◎Johann Christoph Altnickol/ヨハン・クリストフ・アルトニコル
Missa ..... ミサ

Altnickol, the Beloved Musician 愛された音楽家 アルトニコル

アルトニコル(1719〜59)という音楽家をご存じの方は多くないでしょう。彼はバッハの弟子として知られています。「弟子」と言ってもその意味はさまざまですが、とりわけバッハに愛された弟子であったといわれています。「アルトニコル」という名前は耳慣れない響きですが、Altは「古い」または「高い」、NickolはSt. Nickolaus(聖ニコラス)に由来すると考えられます。
アルトニコルが生まれたのは現在のドイツとポーランドとチェコ共和国との国境に位置するシレジアSilesia, Schlesienという独自の民族の文化と歴史を持った地域です。彼が活躍した当時はドイツに併合されていました。ザイデンベルク近郊のベルナという町で1720年の元日に洗礼を受けたという記録から、1719年の年末生まれと考えられています。ラウバンのLyceum(高等学校の前身)で教育を受け、1740年から44年初め(20〜24歳)までブレスラウの聖マリア・マグダレーナ教会の聖歌隊歌手、およびオルガニストの補佐をしていました。
より偉大な音楽に仕えたいと志した彼は、奨学金を得て1744年3月ドイツのライプツィヒ大学に神学生として入学し、すぐにバッハに師事しました。バッハが亡くなる6年前のことです。バッハに愛されていた彼は鍵盤や作曲を教わる一方で、美しい声のバス歌手として歌い、優れたヴァイオリン奏者、チェロ奏者、チェンバロとオルガン奏者としてライプツィヒでのバッハのカントルの職務を補佐しました。
1748年1月1日、アルトニコル(28歳)は故郷シレジアのニーデルヴィーザNiederwiesaの教会オルガニストの職にバッハにより推薦されました。この時の推薦状にバッハは「アルトニコル氏は私たちの教会音楽家の補佐として4年間働いてきただけでなく、声楽以外にもさまざまな楽器を演奏できる技量のある音楽家Musicoである」「最後に、彼は私が恥じることのない生徒Ecolierである。」と書いて、アルトニコルの音楽家としての能力に太鼓判を押しており、厚い信頼を受けていたことを伺うことができます。
次いで同年7月24日、シレジアのナウムブルクの聖ヴェンツェル教会St. Wenzel, Naumburgのオルガニストの職にバッハにより推薦されました。この時バッハは、有力者によって強力に推されていた別の音楽家を押し切って弟子を推薦し、アルトニコルはオルガニストの職に就任しました。

1749年(バッハの亡くなる前年)1月20日、彼はバッハの娘エリザベート・ユリアーネ・フレデリケElisabeth Juliane Frederike(1726〜81)とナウムブルクにおいて結婚しました。バッハは自分の娘を信頼する弟子に託したように思われます。その秋10月4日に生まれた子を「ヨハン・ゼバスティアン」と名付けました。(残念ながら生後すぐ亡くなりました。)

バッハの最初の伝記を書いたフォルケルによると、晩年ほとんど視力を失っていたバッハは、彼の最期の作品であるコラール前奏曲『あなたの御座の前に私は進み出で』 Vor deinen Thron tret ich hiermit, BWV668を死の床でアルトニコルに口伝えで筆記させたといわれています。
1750年7月28日、バッハが亡くなると、アルトニコルはバッハのカントルの職務の一部を代行し、バッハの最後の弟子の教育を引き継ぎ、1757年にはバッハに師事していたトランペット奏者を教え、またナウムブルクにおいてバッハ、テレマン、C. H.グラウンらの受難カンタータと、おそらくはバッハの『マタイ受難曲』の初稿を演奏したと考えられています。
アルトニコルはバッハの死の9年後の1759年に39歳の若さで亡くなり、7月25日にナウムブルクに埋葬されました。死の原因は不明です。残された妻であるバッハの娘は数年後にライプツィヒに戻り、腹違いの兄カール・フィリップ・エマヌエルのもとに身を寄せました。

ミサ曲(ニ短調)について
アルトニコルの現存する作品はこのミサ曲と2曲のサンクトゥス、2曲のカンタータ、2曲のモテットのほか鍵盤楽曲などごくわずかです。キリエとグローリアのみのからなるミサ曲はバッハにも同様の作品(BWV232-236)が存在します。合唱と独唱や二重唱の交代があり、合唱部分では、徐々に音階を築き上げていく綿密な感じのフーガが特徴的です。バッハの影響からあえて脱しようとしているようだと評されていますが、バッハが弟子の才能を信頼しその個性を尊重した結果、アルトニコル独自の音楽が表現されているように思います。(春田 直紀)

 

55th

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