第56回定期・慈善演奏会
社会福祉法人『愛の泉』の活動を支援するために
『教皇マルチェルスのミサ 』と『詩編116』二つのモテット
教皇マルチェルスのミサ:ジョヴァンニ・ピエルルイージ・ダ・パレストリーナ
Missa Papae Marcelli: Giovanni Pierluigi da Palestrina
詩編116:ヨハン・ヘルマン・シャイン/クリストフ・デマンティウス
Der 116. Psalm: Johann Hermann Schein / Christoph Demantius
開催日:2013年10月18日(金)
開演時間:19時(18時30分開場)
会場:カトリック目黒教会(聖アンセルモ教会)
(JR目黒駅徒歩約3分)
指揮: 青木洋也
合唱: 東京スコラ・カントールム
チケット代:
一般前売り券2,000円
(当日券2,500円、学制券1,500円)
プログラムノート
◆Johann Hermann Schein/ヨハン・ヘルマン・シャイン ◆
◆Christoph Demantius/クリストフ・デマンティウス ◆
Der 116. Psalm ..... 詩編116
曲集「地獄の苦しみと魂の平安」(Angst der Höllen und Frieden der Seelen)に所収された2曲
曲集「地獄の苦しみと魂の平安」との出会い
本日演奏する2曲の「詩編116」は、曲集「地獄の苦しみと魂の平安」に所収されている16曲のうちの2曲である。実はこの曲集が私共と関係の深い「聖グレゴリオの家」に所蔵されたということを知ったのは2年ほど前のこと、何時か演奏する機会を持てる日を待ち続けていたが、それがさほどの期間を待たずに演奏することができるのは大変な喜びである。
この曲集は、ブルックハルト・グロスマン(と言っても、ほとんど知られていない)が、1616年に死ぬほどの苦しみ(病気とも)から救い出された経験を記念し、ルター訳の「詩編116編」をテクストとして、16人の作曲家に5声のモテットを作曲することを依頼したもので、出版された時期は定かではなく、序文の日付が1623年の復活祭となっていることから、それに近い時期とみられる。紙不足などによって出版は2年ほど遅れたようであるが、当時は1618年に始まった三十年戦争の初期にあり、この影響による経済的停滞が背景にあるようである。グレゴリオの家に所蔵されている曲集は、第二次世界大戦の戦禍を潜り抜けクラクフに完全な形で残されていた1セットのパート譜を、バッハ学者の大家Christoph Wolffが校訂して出版したもの。
曲集の名前は、詩編116-3節の「Angst der Höllen(陰府の脅威にさらされ)」と7節の「Sei nun wieder zufrieden, meine Seele(私の魂よ、再び安らうがよい)」からとられた。
ブルックハルト・グロスマンと16人の作曲家
ブルックハルト・グロスマンは、詳しくはわからないが、イエーナ大学で法律を学び、チューリンゲン、イエーナの裁判所の官吏を勤め、官僚として成功を収めた人物のようである。ラテン語や音楽を学び、文学、音楽に造詣が深い裕福な教養人であり、1585年から1593年まで、トルガウとドレスデンのザクセン選帝侯宮廷礼拝堂で、聖歌隊隊員であった。当時の聖歌隊指揮者は、ロジェ・ミヒャエルであるが、シャインとの関係は、後述する。
16名の作曲家は、グロスマンの幼い時からの知己やシャインの様に、聖歌隊仲間も含まれている。16名の中には、シャイン、フランク、プレトリウス、シュッツなどの17世紀初頭のルター派教会音楽の優れた音楽家が含まれている。
シャインとデマンティウス
ヨハン・ヘルマン・シャインは、1576年1月20日に生まれ、病のうちに1630年11月19日に亡くなっている。ハインリヒ・シュッツ、サムエル・シャイトと並び、ドイツ・バロックの3Sと呼ばれている。
グリュンハインに生まれた後、ドレスデンに移り、ザクセン選帝侯の聖歌隊にボーイソプラノとして参加した。そこで、聖歌隊指揮者のロジェ・ミヒャエルに才能を見出され指導を受けている。1608年から1612年にかけライプチヒ大学で法学を学び、卒業後貴族邸の音楽教師となった。その後、ワイマールの宮廷楽長となり、1615年から亡くなるまでの間、ライプチヒの聖トーマス教会のトーマスカントルとライプチヒ市音楽監督となった。
シャインは、イタリア・バロックの新しい手法(モノディ、コンチェルタート様式、通奏低音)をドイツルター派音楽に採り入れた初期の一人であるが、イタリアを訪れた経験はない。宗教音楽と世俗音楽の歌曲を交互に出版しているが、宗教音楽には洗練されたイタリアの礼拝用マドリガーレの技術を使用しているものがあるのに対し、世俗音楽では、単純でユーモアにあふれたものとなっている。シャインの作品にある表現力は、当時唯一シュッツのみが比肩できると言われていたようである。
クリストフ・デマンティウスは、1567年12月15日に生まれ、1643年4月20日に亡くなった。クラウディオ・モンテヴェルディと完全な同世代で、ドイツルター派教会音楽では、ルネサンス音楽からバロック音楽への過渡期を代表する音楽家。作品の多くは残っていない。ドイツ語による最初の音楽辞典を編纂した、作曲家・音楽理論家・詩人である。
ボヘミア北部のライヒェンベルクに生まれ、1590年代にバウツェンに移って教科書の執筆に携わり、1593年にヴィッテンベルク大学から学位を受けた後、1597年にツィッタウで楽長職に就任、さらに、フライベルク大聖堂の楽長職に就任している。
宗教音楽の分野では、モテット、ミサ曲、マニフィカト、詩編、ヨハネ受難曲があり、特に受難曲は、後期ルネサンス音楽の中で傑出した作品と言われている。モテットは、ルネサンス音楽様式で作曲されているが、ルター派のために作曲されている。ラテン語がほとんどで一部ドイツ語のテクストが使われている。イタリア初期バロックの新機軸(コンチェルタート様式や通奏低音)を避け伝統的な形式や表現手段を用いているが、独創的な音楽言語を創造している点で、パレストリーナのポリフォニー様式との違いがみられる。
シャインは、病弱で病気により44歳の若さで亡くなり、また、妻と5人の子供のうち4人を早くに亡くし、一方デマンティウスは4度の結婚を経験、三十年戦争により子供のほとんどが早世していたようで、私生活の面では恵まれなかった2人にとって、「詩編116」にどのような思いを持って作品としたのだろうか。
詩編について
「詩編(Psalm)」は、ギリシア語訳聖書「プサルモイ」から来ており、「弦楽器を奏でること」から派生した言葉である。一方、ヘブライ語訳聖書の詩編は、「テヒリーム」(賛美)が使われている。これは、「ハーラル」(ハレルヤ=主を賛美せよ)と同根語である。ギリシア語やヘブライ語の意味からは敬虔な内容を連想するが、150編の詩編を読んでいただくとわかるように、嘆きや敵対者から受けた迫害に対する悲しみや自身を苦しめる者に神の罰が下るように願い、巡礼歌、典礼歌、知恵の歌、王のための祈り、激しい言葉も含まれている。「ハーラル」は、神をたたえることと自己の力を誇って他者を見下そうとする人間の両面を表す言葉ということから、「神への賛美」を、人のありのままの姿を神の前にさらけ出す行為と考えられていたのだろうか。
詩編は、第二神殿で用いられた讃美歌集と考えられ、古代イスラエルで創作された宗教歌を脈絡なく収集されたものと考えられていたが、連作的な小歌集が有機的に配列されているとの考えもある。
「詩編116編」について
主に救われた経験を持つ個人が礼拝の行われている神殿で主に感謝するという内容である。他の詩編に比べ、死の悲しみからの救いへの感謝の意味が強く表されている。新共同訳聖書では「詩編116編」は19節までとされているが、70人訳聖書では、1〜9節と10〜19節を個別の詩としているので、前半と後半としてとらえることができるようである。
更に、前半を1〜2節(対訳表では1番1行目から5行目)、3〜4節(1番6行目から2番2行目)、5〜9節(1, 2行目を除く2番全体)に、後半を10〜13節(3番1行目から8行目)、14〜19節(3番9行目から)に分けられる。デマンティウスの曲では、詩編の1〜9節が「Erster Teil(1番)」、「Zweiter Teil(2番)」に、10〜19節が「Dritter Teil(3番)」、「Vierter Teil(4番)」に対応している。
「詩編116編」を、分解して解説する。対訳表と共に、参考となれば幸いである。
●1番
1〜4行目: 主を愛し、呼び続けると宣言している。中間は、主を慕い続ける理由である。
5〜7行目: 苦難にあったけれども
●2番
1〜2行目: 主の御名を呼ぶと明言している。3番8行目、4番5行目にも出てくる。
3〜6行目: 主への信頼を表明する。
7行目: 自らの魂に安心するように語り掛ける。
8〜11行目:主が信頼できる根拠が述べられている。
12行目: 「主の御前に歩み続ける」は、主に感謝の捧げものをする振る舞いを表し、「主に従って生きる」ことを意味している。
13行目: 地上にあって命ある限りの意味。9〜13行目は、詩編56編13節からの引用のため、「あなたdu」と呼びかけている。
●3番
1〜4行目: 苦しみ、逆境の時も、主を信頼していたとの告白である。
5〜10行目:主の救いに応えて満願の捧げものをする。4番4〜9行目と同じ構成。
11〜12行目:「主は忠実な者をむなしく滅ぼすことはない」と信頼の表明をしている。「主の慈しみに生きる人」は、契約(ハスディーム)に忠実な者のことである。
●4番
1, 2行目: 主が主人、自分たちが従者であることを確認し、主への信頼を表明している。
3行目: 原文は、「解いてください」との願いではなく、「解いてくださった」という報告。
4〜9行目:3番7〜10行目と同じ構成。
5〜7行目:3番8〜11行目の繰り返し。
8行目: 「主の家の庭」は、神殿の前庭。
9行目: 「ハレルヤ」は、主に賛美せよ。
(市田 正英)
◆Giovanni Pierluigi da Palestrina/ジョヴァンニ・ピエルルイージ・ダ・パレストリーナ ◆
Missa Papae Marcelli ..... 教皇マルチェルスのミサ
ルネサンス期のイタリア人作曲家、ジョヴァンニ・ピエルルイージ・ダ・パレストリーナ(1525~1594)作曲によるミサ曲。 対抗宗教改革期(カトリック改革期)のローマ教皇マルチェルス(マルケルス)2世(在位:1555年4月9日~5月1日)に捧げられた。 多くのミサ曲と同様に、キリエ(あわれみの賛歌)、グローリア(栄光の賛歌)、クレド(信仰宣言)、サンクトゥス/ベネディクトゥス(感謝の賛歌)、およびアニュス・デイ(平和の賛歌)で形成される6声部の合唱曲(アニュス・デイ第2部はSSAATBBの7声部)。
パレストリーナは、ルネサンス後期にイタリアで活躍し、数多くの教会音楽を残したため、「教会音楽の父」とも呼ばれる作曲家である。
本名はジョヴァンニ・ピエルルイージというが、ローマに近いパレストリーナの出身なので、通常は「パレストリーナ」と呼ばれる。
1537年にローマのサンタ・マリア・マジョーレ大聖堂の聖歌隊員となり、ここで司教を務めるジョヴァンニ・マリア・デル・モンテと知り合った。この司教は1550年にローマ教皇ユリウス3世となり、パレストリーナを教皇庁の楽師に取り立てることになる。パレストリーナは1551年、教皇に招かれて教皇庁のジュリア礼拝堂の楽長となった。当時のヨーロッパ音楽の中心はフランドル(オランダ南部、ベルギー西部、フランス北部にかけての地域)で、教皇庁に招かれるのもフランドル楽派と呼ばれるフランドル出身の音楽家ばかりという状況下、イタリア出身のパレストリーナの登用は異例の抜擢だった。しかし、1555年にユリウス3世が死去すると、後を継いだ教皇パウルス4世の方針によってパレストリーナは教皇庁から締め出された。その後はローマにおいて、いくつかの教会楽長職や神学校の音楽教師を歴任。1571年に教皇庁ジュリア礼拝堂楽長に返り咲き、世を去るまでその地位にあった。
15世紀から16世紀の中頃にかけてのイタリア宗教音楽は、フランドル楽派の作曲家(ヨハネス・オケゲム、ジョスカン・デ・プレ、オルランド・ディ・ラッソら)によるポリフォニー(複数の独立した声部からなる音楽)様式の重厚な作品によって占められていた。しかしながら、マルティン・ルターに代表される宗教改革(1517)に対抗するために開かれたトレント公会議(1546~1563)において、多くの点で内部改革を迫られたカトリック教会は、宗教音楽についても見直しをせざるを得なかった。
なぜなら、フランドル楽派のポリフォニーによる宗教音楽は、あまりにも技巧的で複雑になりすぎたため、歌われている歌詞は聞き取りにくくなっていた上、「恋人よさようなら」とか「口づけしてよ」などといった世俗的なシャンソンが定旋律となってミサ曲のなかで鳴り響くという点も、典礼という観点からすれば歓迎されることではなかった。
トレント公会議の席上、「音楽は単旋律のグレゴリオ聖歌に限られるべきだ」という強硬な意見も出されたようだが、最終的には穏健な線に落ち着き、ポリフォニー教会音楽も容認されることになった。ただし、世俗的なシャンソンを定旋律にすることなどは禁じられた。つまり、カトリック教会音楽全般に単純化と清浄化が求められ、ポリフォニーによる教会音楽についても、余りに技巧的で長大なものは忌まれ、言葉が明瞭に聞き取れなければならないという立場から、ラテン語の正しいアクセントやシラブル(音節)の長短を強調することなどが決定された。
パレストリーナの教会音楽作品は、それまでの主流だったフランドル楽派の複雑で技巧的な音楽とは違って、ポリフォニーではあっても歌詞がはっきりと聞き取れるように、簡潔かつ精密に作られている。パレストリーナがイタリア教会音楽の代表的な作曲家として台頭したのは、まさにこのような時期であった。
彼の作品に見られる、順次進行を主体とした簡素・平穏・緻密な合唱様式は、パレストリーナ様式と称され、教会旋法に基づくものであり、カトリック教会のア・カペラ(無伴奏)合唱曲に用いられている。パレストリーナ自身は音楽理論書を遺したわけではないが、その様式は18世紀のフックスの教本以来、厳格対位法の模範であるとされている。
パレストリーナは、生涯に少なくとも100曲以上のミサ曲、350曲以上のモテットを初めとする数多くの教会音楽を作曲し、中でもこの「教皇マルチェルスのミサ」は彼の代表作である。 作曲経緯は不明瞭だが(夢に天使が出てきてお告げを受けたとの説もある)、今日まで数多くの合唱団によって歌い継がれている名作の一つであることは疑いが無い。
生涯を教会音楽に捧げたパレストリーナが遺してくれたこの美しいミサ曲を こうして歌う機会が与えられたことをとても幸せに思います。東京スコラ・カントールムらしい温かいハーモニーをお届けすることができればと願っています。
(岸本 敬子)
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