第57回定期・慈善演奏会
社会福祉法人 滝乃川学園のために
栄光に向かって 〜ヴィヴァルディとスカルラッティ親子による賛歌
演奏曲目
ドメニコ・スカルラッティ/Domenico Scarlatti
マニフィカート Magnificat
主は我らを養いたもう Cibavit nos Dominus
アレッサンドロ・スカルラッティ/Alessandro Scarlatti
おとめの冠イエスよ Jesu, corona virginum
神を讃えよ Exultate Deo
アントニオ・ヴィヴァルディ/Antonio Vivaldi
グロリア Gloria RV589
開催日:2014年10月22日(水)19時(18時30分開場)
会場:渋谷区文化総合センター大和田さくらホール
(渋谷区桜丘町23-21 <最寄駅> 渋谷駅 徒歩5分)
指揮/アルト:青木 洋也
ソプラノ:藤崎美苗・大田茉里
テノール:富本泰成
合唱・管弦楽:東京スコラ・カントールム
トランペット:中村孝志
オーボエ:森綾香
ヴァイオリンI:大西律子(コンサートマスター)・小池吾郎
ヴァイオリンII:高橋真二・関口敦子
ヴィオラ:上田美佐子
チェロ:十代田光子
コントラバス:櫻井茂
オルガン:重岡麻衣
◆チケット代
一般前売り券3,000円(当日券3,500円、学生券2,000円)
プログラムノート
アレッサンドロ・スカルラッティ・・・神に向かって喜び歌え/おとめの冠り、イエスよ
ドメニコ・スカルラッティ・・・主は我らを養いたもう/マリアの賛歌
作曲家について
アレッサンドロ・スカルラッティ Alessandro Scarlatti(1660~1725年)
ヴェネツィアよりもはるか南、イタリア半島の先に位置するシチリアのパレルモでアレッサンドロ・スカルラッティは生まれました。
ローマに出たアレッサンドロは、若くしてオペラ作曲家として成功してナポリでも活躍し、モンテヴェルディからのバロック声楽の流れを推し進めて古典派への橋渡しをした作曲家として評価されています。しかし、その頃の作曲家は社会的地位も低く、宮廷や教会の庇護で生計を立てるしかなく、アレッサンドロも家族を養う労苦を生涯味わっています。また、過度に世俗化していった大衆への安易な迎合を嫌ったため、晩年は不遇でした。
アレッサンドロが作曲で最も重視したのは、言葉の意味、リズム、響きに音を整えることです。余計な脚色を加えずに福音のテキストにそのまま音をのせたヨハネ受難曲はその特徴的な作品です。この当時の多くの楽曲が演奏されないなかで、アレッサンドロの名前が今日残っているのは、その厳格な音楽への姿勢が堅固な曲風に表れているためだと思います。また、息子ドメニコが独創的な鍵盤楽曲でその才能を開花させたことも父親の音楽教育と無縁ではありません。
ドメニコ・スカルラッティ Domenico Scarlatti(1685~1757年)
ドメニコ・スカルラッティはアレッサンドロの6番目の子としてナポリに生まれました。最初にハープシコード演奏の達人として注目されたドメニコは、オペラやカンタータも作曲しましたが、ヴァチカンでジュリア礼拝堂楽長を務めたのち、ポルトガル王女マリア・バルバラに従ってスペインへ渡り、555曲もの珠玉の鍵盤楽曲を残してその生涯をマドリッドで閉じます。
自筆楽譜は1曲しか残っておらず、書簡や記録もわずかで、その生涯は多くの謎に包まれています。時代を先取りした鍵盤楽曲とは異なり、ドメニコの教会音楽は父を受け継いでいますが、リズムは18世紀のものです。その音楽は、駆け抜けるような軽い響きで、遠い風を感じさせてくれます。
何がドメニコをイベリア半島へ向かわせたのか、生涯の後半をほとんど鍵盤楽曲に費やしたこと、その教会音楽との大きな隔たり、それらが逆にドメニコの音楽に不思議な魅力を与えています。そこには偉大な父の存在、才能あふれるバルバラとの音楽の営み、ハープシコードの名手としてまた音楽家としての自問など、私たちには測り知れない芸術家の苦悩と喜びがあったのでしょうか。スペインではわずかしか作曲しなかった声楽曲ですが、亡くなる前の年に美しいSalve Reginaを告別のように書いています。
曲目紹介
Exultate Deo 神に向かって喜び歌え
テキストは旧約聖書詩編81第2節。1708年の聖体の主日(カトリック行事)に歌われる曲として作られました。アカペラ四部合唱で、おそらくアレッサンドロの合唱曲の中では一番演奏頻度が高いものだと思います。軽快な跳躍の4拍子から緩やかな3拍子へ、最後はallelujaを繰り返して、喜びを歌い上げます。
Cibavit nos Dominus 主は我らを養いたもう
テキストは旧約聖書詩編81第17節。Exultate Deoと同様に1708年の聖体の主日のための曲とされています。アレッサンドロとの共作の可能性もありますが、二人で声部を交互にかけあうように作曲したのでしょうか。ヘ長調から転調を経て再びヘ長調のallelujaで締め括ります。
Magnificat マリアの賛歌
テキストはルカによる福音第1章47節~ 55節。受胎告知に聖母マリアが神を讃える言葉で、中世カトリックの聖務日課の晩課で歌われるようになりました。多くの作曲家が取り上げており、オケ付の壮大なものもありますがドメニコは簡素なアカペラ四部合唱でまとめています。おそらくローマの時代の作曲です。最後のamenはCibavitのallelujaと同様にドメニコの最も特徴的なメリスマで、その旋律は冒頭のmagnificatへ返る曲想になっています。
Jesu, corona virginum おとめの冠り、イエスよ
グレゴリオ聖歌にもありますが、アレッサンドロはソプラノ、アルト、テナーの重唱と弦、オルガン、それに合唱が一部加わるカンタータ風の曲に仕上げています。歌詞は4世紀の聖アンブロジウスという説があります。1720年、亡くなる5年前の作曲と考えられています。哀愁を帯びた美しい旋律ですが過度に流されない品格は、わずかながらもアレッサンドロを今日に伝える所以でしょうか。
(翁長良二)
アントニオ・ヴィヴァルディ/真紅に彩られ、棘に護られ
グロリア導入曲 Introduzione al Gloria
今日のコンサートの主題は、「栄光に向って」ですが、これは、ヴィヴァルディのGloria(栄光の賛歌)を主たる曲に据えたためにつけたテーマです。それに先立って演奏されるこの曲は、ヴィヴァルディがGloriaへの導入曲として1710年代に作ったものと言われています。現在トリノの国立図書館に残された手稿譜には何のメモもないそうですが、調性や曲想からして、Gloriaの導入曲として作ったものであることを疑う者はいないとのことです。
ヴィヴァルディがピエタ慈善院に大いに貢献したことについては、Gloriaの解説に書かれているとおりですが、そのピエタ慈善院の守護の聖人は聖母マリアで、今もこの施設は、“Santa Maria della Pietà” すなわち「慈しみの聖母」の名を冠した福祉施設として続いています。
この曲は、身重のマリアが、年老いてから子を授かった従姉のエリザベトを、100キロを超える長旅をして訪ねたという「ご訪問」を記念するミサのために作られた曲です。「聖母のご訪問の祝日」は、今から50年前までは7月2日でした(現在は5月31日)。ちなみに今日前半のプログラムで歌う「Magnificat」はこの「ご訪問」の際にマリアが述べた詞であり、偶然の一致となりました。
当時のミサでは、栄光の賛歌に入る前に導入曲を奉奏することがあったようで、ヴィヴァルディの作ったこの種のものは8曲が残されています。また、その歌詞も、必ずしも典礼文にあるものでなく、この曲のように自由に作られたものもありました。作詞者は分かりませんが、その詞を見ると、この世の栄光は、萎れてしまえば輝きを失うバラのようなもの、謙遜な聖母マリアの尽きることのない栄光に倣おう、という歌詞は、当時のヴェネチアの世相を映す世俗的なものでありながら、虚栄の戒めを含む、宗教的なものになっています。
(村田隆裕)
アントニオ・ヴィヴァルディ/栄光の賛歌 RV589
Gloria(栄光の賛歌)とヴィヴァルディ
栄光の賛歌とはミサ通常文のひとつで、神の栄光をたたえ、感謝する祈りです。待降節と四旬節を除く日曜日のミサで歌われ、その多くに華やかな曲がついています。この作品にもトランペットを含む比較的多くの楽器が使われ、多彩な表情をもつ曲になっています。この時代のトランペットは戦い、行進、祝祭を表現する役割を担うことが多いものですが、ここでは祝祭だけでなく神の栄光を表す役割も担っています。
作曲されたのは1715年、ピエタ慈善院の「合唱の娘たち」のためという説が有力ですが、詳細は不明です。その後200年ほど忘れられた存在になりますが、1920年代に他の曲と束になった楽譜が発見されました。しかし、スケッチの状態で残っていた部分があり、アルフレード・カゼッラの補筆・編曲で演奏されたのは1938年のシエナで行われたヴィヴァルディ・フェスティバルでした。現在知られているオリジナルの楽譜が出版されたのは1957年で、ニューヨークで開かれた第1回バロック音楽合唱祭で演奏されました。そして、なぜ混声合唱の曲を少女達のために書いたのか、「合唱の娘たち」はこれをどう演奏していたのかという疑問を持つ人により、さまざまな試みがなされ、YouTubeなどに動画が公開されています。
当時のヴェネツィアは、1669年にオスマン帝国との戦いでクレタ島を失い、地中海貿易も衰退して不況に陥っていました。また、当時は厳格な階級、監視社会でがんじがらめの人々は芸術を求め、1年の半分をカーニバルに。この時期には誰もが仮面を着け仮装することで階級や監視の目から解放されて「仮面の君」と呼び合い、本音で話し、真剣に遊び、信心深い人々が熱心に祈り、手の込んだ祭器具や教会音楽を作ることで芸術が発展しました。現在でもカーニバル用衣装専門店があり、観光客向けの土産物とは別次元の精巧なマスケラや衣装が製作されているのはこの伝統が生きているのでしょう。また、名器として有名なストラディバリウスやグァルネリが作られていたのもこの頃で、当時から評価の高かったそれらの真新しい楽器が初々しい音を響かせていたに違いありません。
アントニオ・ルーチョ・ヴィヴァルディは1678年3月4日ヴェネツィアで生まれました。ヴァイオリン奏者の父親ジョバンニはアントニオの才能を見抜いて幼い頃からヴァイオリンの手ほどきをはじめていました。11歳になる頃にはサン・マルコ大聖堂で父の同僚である一流奏者のレッスンを受けさせ、13歳頃から父の代役としてサン・マルコ大聖堂のオーケストラで演奏するようになります。1693年、両親の意向により15歳で剃髪式を受けて神学生になりますが、後にこれが裏目に出ることに。
1703年3月23日に25歳で司祭叙階されます。剃髪式から10年も経っているのは健康上の理由で大学に行かず二つの教会に自宅から通って勉強をしたこともありますが、多くの時間と労力を音楽に注ぎ込んでいたためでしょう。父親ゆずりの髪の色から「赤毛の司祭」と呼ばれますが、ミサをたてていたのは叙階後1年くらいだけ。晩年の手紙の中で、持病のために一度のミサを3回も中断せざるを得なかったためだと書いています。一方、音楽面ではピエタ慈善院のヴァイオリン教師となり、「合唱の娘たち」のための作曲も手がけていました。その後、ピエタ慈善院とは離職と再契約を繰り返しながら1738年まで関わることになります。オペラ歌手兼助手のようなアンナ・ジローとの交際もこの間に始まったと考えられています。
晩年は不遇で、1737年11月アンナ・ジローとの交際を理由に興行の拠点にしようとしていたフェラーラへの出入りを禁止されてしまいます。翌1738年、60歳でピエタ慈善院音楽教師を辞職しました。1739年1月、地元の興行師に任せてフェラーラで上演したオペラが大失敗。1740年3月、ピエタ慈善院のためにシンフォニア1曲と協奏曲2曲を書き、この頃ウィーンに定住することを決意しますが、同10月皇帝カール六世が死去。後ろ盾を失い、健康状態も急に悪化します。1741年6月頃ボヘミアの貴族に協奏曲の束を安値で売却し、7月28日ウィーンにて63歳で息を引き取りました。葬儀はシュテファン教会でごく質素に行われ、6人の介添人と幼いハイドンを含む6人の少年聖歌隊員が奉仕しました。
(小泉聡子)
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