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第60回記念定期・慈善演奏会

W.A.MOZART / Requiem, KV 626

〜60回の恵みの歴史に感謝して

滝乃川学園と日本聾話学校のために

日程:2017年11月17日(金)19時開演(18時半開場)
会場:カトリック東京カテドラル関口教会 聖マリア大聖堂

指揮/アルト:青木 洋也
ソプラノ:藤崎 美苗
テノール:松原 友
バス:浦野 智行
合唱:東京スコラ・カントールム
管弦楽:オーケストラ・シンポシオン
オルガン:重岡 麻衣

<演奏曲目>

J.M.Haydn
Christus factus est, MH 38 キリストは人間の姿で現れ
Alleluja, Confitemini Domino, MH 696 アレルヤ、恵み深い神に感謝せよ
Tristis est anima mea, MH 276,2 私は死ぬばかりに悲しい

W.A.Mozart
Requiem, KV 626 レクイエム
Alma Dei creatoris, KV 277 恵みに満ちた創造主の母は
Herr, könnt ich reden, KV 549 主よ、たとい天使の言葉で話せても

滝乃川学園:www.takinogawagakuen.jp

日本聾話学校:http://nrg.ac.jp/


プログラムノート

ミヒャエル・ハイドンとその作品

生涯

ヨハン・ミヒャエル・ハイドンは、1737 年に現在のオーストリアとハンガリーの国境に近いローラウ村で生まれました。兄は有名なフランツ・ヨーゼフ・ハイドン。1745 年既に兄が在籍していたウィーンのシュテファン大聖堂聖歌隊学校に入学し、ウィーンの作曲家の重要な作品、とりわけ当時の音楽監督ゲオルグ・ロイター(1708-1772)の作品を学びます。12 歳まではオルガニストの代理も務めるなど活躍しましたが16 歳頃、声を壊して退団し、その後数年間は近くのイエズス会学校に在籍したといわれています。
1757 年、グロスヴァルダインの司教フィルミアン伯爵から宮廷楽長の職を得て、名声を高めました。1762年、伯爵はハイドンの地位を更に高めるため、叔父であるザルツブルグのシュラッテンバッハ大司教(1698-1771)に推薦します。その結果、ザルツブルグで宮廷音楽家とコンサートマスターの地位を得ることになりました。当時のザルツブルグ宮廷には副楽長のレオポルト・モーツァルトがおり、後にアマデウス・モーツァルトも同僚として加わるなど、ここでモーツァルト一家との交流ができます。
1771 年に大司教がこの世を去ると、翌年コロレド伯爵(1732-1812、在位1772-1803)が大司教に就任。すぐに緊縮財政をしいたため、音楽活動にも影響が出るのですがこの規制の下で成功をおさめ、5 〜6 年後には楽長候補といわれるまでになります。その後、コロレドと決別してザルツブルグを去ったモーツァルトの後任として、1782 年に宮廷オルガニストの地位を得ました。1800 年にナポレオンの侵攻によりザルツブルグが占拠され、地位も財産も失いますが、兄ヨーゼフの援助により翌年ウィーンに避難。かつて兄が仕えたエステルハージ家から音楽監督の誘いがありましたが、これを断ります。
1803 年にコロレドがザルツブルグ大司教の座を追われると、代わってトスカーナ大公フェルディナンド3世がザルツブルグ選帝侯となりました。新しい体制の下、ハイドンに与えられた地位は大聖堂オルガニストのみでしたが以前より給料は良く、その後ザルツブルグを離れることはありませんでした。1806 年、皇后マリア・テレジアの依頼で作曲していた「死者のためのミサ曲 HM838」を未完のまま残してザルツブルグで友人や生徒に見守られながら生涯を終えました。

作品解説

Alleluja. Confitemini Domino
祈願祭の行列の昇階唱(Graduale)

昇階唱とは、独唱者が独唱唱句を歌い、その他の共同体メンバーが反復句を斉唱するものです。独唱者が
聖歌隊から離れて階段を昇って歌うためそう呼ばれるようになりました。古くは祭壇がある内陣や司祭・修道士など共同体メンバーが着席する共唱席と、一般会衆の席が置かれる身廊を隔てる、大規模なもので厚さ3 メートルほどもあるスクリーンという巨大な衝立の上の、プルピトゥム(舞台)と呼ばれるギャラリーに置かれた書見台まで独唱者が移動して歌っていました。しかし16 世紀以降、多くのスクリーンが撤去されます。昇階唱のテキストは詩編を使うのが原則で、この曲も忠実に詩編136 編のテキストを採用しています。
本日演奏するのは、秋の豊作を願う祈願祭の行列用の曲です。ローマの初代教会の行列は、ミサの前に市街地を通って途中の指定巡礼教会で会衆を集めて祈りを捧げ、ミサが行われる教会まで行列をする大がかりなものでしたが、中世には衰退し、特定の祝日に聖堂内あるいは聖堂とそこに隣接する回廊に限られているのが普通でした。この曲もすでにスクリーンが撤去された聖堂内で、司祭や修道士ではなく専門的に音楽を学んだ俗人グループが聖歌隊として聖堂片側に設けられたギャラリーで合唱するために作られました。

Christus factus est
聖木曜日の昇階唱(Graduale)

ミサの中で最初の朗読に続いて歌われる聖歌で、一曲目と同じく昇階唱ですが、この曲のテキストは詩編からではなくフィリピの信徒への手紙からとられています。この曲も俗人聖歌隊が合唱することを前提に独唱唱句と反復句の区別をせずに全体を4 声で作曲しています。

Tristis est anima mea
聖木曜日の朝課の第2 応唱(Responsorium)

実際には朝課という呼び名の印象からはほど遠い夜半に行われる日課で、「徹夜課(Vigila)」「夜課
(Nocturm)」とも呼ばれていました。応唱とは朗読に対する応答としての曲で、独唱唱句とその前後に共唱者全員で歌う反復句がついたものです。テキストはふつう聖書から、特に詩編からとられているものですが、これはマタイによる福音書からとられています。中世には単旋律でしたが、その後多声のものが現れます。ハイドンは全体を4 声で作曲していて、独唱唱句の部分もソリストが歌うなどの指示はありません。

 

モーツァルトの作品解説

Herr, könnt ich reden

この曲はもともとは宗教曲としてではなく、Piú non si trovano(KV549)という三重唱の曲として作られたもので、他の5 曲と合わせて「六つのノクターン(Sechs nocturnos)」という曲集として編纂されています。
本日はKV549 とは異なる歌詞で歌います。作詞はレネ・マイヤー= スクマンツ(Lene Mayer-Skumanz、1939 年ウィーン生まれ)によるものです。彼女はキリスト教的な立場で童話や児童向けの音楽家の伝記など数多くの作品を世に出し、その多くのものにさまざまな賞が与えられている人気作家です。2005 年に出したベートーベンの伝記は日本語にも翻訳され、また最近では2013 年にヘンデルの伝記が出版されています。
彼女の書は子供の心に直接に語りかけるスタイルで、神がともにいて下さることが体験できる、といわれています。また「ユーモアは私の食べ物」とも語っているそうです。今日歌う曲は、新約聖書・使徒パウロのコリントの信徒への手紙(一)13.1-8 に基づく歌詞ですが、彼女はそれを「主よ」の呼びかけで始めます。聖書では「山を動かすほどの完全な信仰を持」っていても、「誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも」、愛がなければ虚しい、と厳しく説くところを、歌詞ではそれらをすべて省いて、愛がなければ語る言葉はすべてシンバルや太鼓のやかましい響きに過ぎない、という、いささか大げさでユーモラスでもある聖書の表現を残し、万人に理解できる平易なものとしています。

Alma Dei creatoris

この曲は、モーツァルトの宗教曲の中でも美しいものに数えられています。聖母マリアに対する「戦いにおいて力を授けたまえ」という懇願の祈りですが、本来の典礼文にはなく、18 世紀に作られた奉献唱(Offertorium)で、当時の典礼の慣習として歌われていました。当時はオペラのアリアさえ典礼用に歌詞を変えて歌われていたほど、各国で自由な典礼が行われていました。
今では、典礼で歌われなくなっているとはいえ、これらの曲は、コンサートではその美しさのゆえに歌い
継がれています。この清澄な響きは、モーツァルトの生まれ持った敬虔さに基づくものと見ることができます。モーツァルトに「敬虔」、「信仰心」の言葉は合わない、と感じる向きも多いかもしれません。教会との度重なる確執、フリーメーソン会員であったこと、また、あらぬことか棄教の通説などが、モーツァルト不信心説が好んで唱えられる要因となっているのかもしれません。しかし、何百通にも及ぶ私信に基づく研究により、人生の最後まで強く、明るく、楽天的な信仰を持ち続けていたことが明らかになっています(注)。死の床についてもなお作り続けたのがレクィエムでした。
何よりも、モーツァルトの宗教曲から滲み出るものこそがその証ではないでしょうか。
(注)P. カヴァノー著(吉田幸弘訳)大作曲家の信仰と音楽. 教文館 2000 年

 

Wolfgang Amadeus Mozart“Requiem” in d minor KV626 解説

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトのレクイエムの物語は、オーストリアのウィーン郊外にあるシュトゥパパという町で始まります。ここには、18 世紀の終わりから19 世紀頭にかけて、フランツ・ヴァルゼック=シュトッハ伯爵という人物がいました。自身でフルートやチェロを演奏するほどの音楽愛好家であった伯爵は、また、作曲家たちに自分のために曲を書くように依頼し、出来上がった曲を自分の作品と偽って通していました。1791 年にヴァルゼック伯爵の妻が亡くなったとき、伯爵は彼女のためにレクイエムを作りたいと考えました。
ヴァルゼック伯爵は、当時レクイエム・ミサのテクストに特に関心を寄せていたモーツァルトに、レクイエムを作ってもらいたいと考えました。1791 年夏、名を明かしたくない伯爵は、使者をモーツァルトのいるウィーンに送りました。使者は気前良く報酬を提示し、困窮していたモーツァルトは、この依頼を引き受けました。しかし、彼が依頼を引き受けたのは、それ以上に、新しい教会音楽作品をつくることで自分の力量を世に示したかったからではないでしょうか。
モーツァルトは依頼を受けてすぐに、作曲に取りかかったものの、プラハのボヘミア王の戴冠式のための新作オペラ《ティトゥスの慈悲》を作曲するために、一時中断されました。9 月30 日に《魔笛》が初演された後、作曲は再開されたものの、彼の体調が優れないため作業は断絶的だったようです。一時は持ち直し筆をとっていたものの、1791 年12 月5 日深夜に息を引き取りました。
モーツァルトの妻コンスタンツは、《レクイエム》を完成させて報酬を得るために、若き作曲家ヨーゼフ・アイブラーのところへ向かいましたが、彼は数小節スケッチした後に作業を放棄してしまいます。最終的にこの曲は、モーツァルトの弟子で助手でもあるフランツ・クサーヴァー・ジュスマイヤーによって補筆されて完成されました。
1793 年12 月14 日、ヴァルゼック伯爵は亡き妻を記念して、《レクイエム》を指揮しました。「ヴァルゼック伯爵作曲」と記されていた総譜は、モーツァルトとジュスマイヤーの補筆による総譜を、伯爵自身が筆写したものです。つまり、その日に演奏された音楽こそが、今日のモーツァルト《レクイエム》なのです。
この曲では、典礼の5 つの部分(入祭唱、続唱、奉献唱、感謝の賛歌、平和の賛歌と拝領唱)それぞれにフーガが組み込まれています。器楽編成は弦楽の他、バセットホルン、ファゴット、トランペット、トロンボーン、ティンパニ、オルガンからなっています。本日は、クラシカルピッチ(A = 430Hz)で演奏いたします。また、典礼次第に従って昇階唱(Graduale)と主の祈り(Pater Noster)がグレゴリオ聖歌で唱えらます。

 

60th

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