東京スコラ・カントールム 第64回定期・慈善演奏会
天からの声に応えて -バロックの曙光とバッハと
公益財団法人 日本キリスト教婦人矯風会 女性の家HELPのために
日程:2023年5月25日(木)午後7時開演
会場:杉並公会堂 大ホール
ソプラノ 小林 恵
テノール 佐藤 洋
バリトン 小池 優介
オルガン 重岡 麻衣
合唱・管弦楽 東京スコラ・カントールム
指揮・アルト 青木 洋也(常任指揮者)
<演奏曲目>
◆ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(1685-1750)
Himmelskönig, sei willkommen, BWV182
教会カンタータ第182番 天の王よ、あなたをお迎えします
Wer nur den lieben Gott läßt walten, BWV93
教会カンタータ第93番 愛なる神の御心のままに
◆ヤン・ピーテルスゾーン・スウェーリンク(1562-1621)
Paracletus autem, SwWV173, in Cantiones sacrae, no.23
弁護者、父がお遣わしになる聖霊が
Il faut que tous mes esprit, Psaume 138, in Psaumes de David, Livre 1, No.6
心を尽くしてあなたに感謝します
◆ハインリヒ・シュッツ(1585-1672)
Kyrie, Gott Vater in Ewigkeit, SWV420
キリエ、父なる神よ永遠に
(12の宗教合唱曲集より:Zwölf geistliche Gesänge, Op.13, No.1)
プログラムノート
1,はじめに
今回の演奏会は、コラールを導きの糸としつつ企画しました。コラールは宗教改革の過程で生まれ、豊かに展開しました。宗教改革は、1517年マルティン・ルターによるヴィッテンベルク城教会への95か条の論題の提出(打ち付け)を嚆矢として始まり、ルターは身の危険にさらされながらも聖書のドイツ語への翻訳を完成させました。そして礼拝の中にドイツ語(自国語)を取り入れ、会衆が歌う季節ごとの続唱を組み込んで、ドイツ語歌詞による讃美歌の作詞・作曲にも積極的に取り組みました。この自国語、話し言葉へのこだわりは、Figurenlehreという修辞学の概念を応用した音楽理論としてドイツに根付いていきます。
一方でルターはドイツ語による礼拝を強制することはなく、教会の規模や都市部か農村といった違いに応じて、柔軟な改革を進めていました。また、楽器の使用を認めたのも、同じく宗教改革を担ったカルヴァン派との大きな違いでした。各地の教会で息の長い柔軟な改革が進められ、その中で、ハンス・レーオ・ハスラー、ミヒャエル・プレトーリウスら数多くのプロテスタント音楽家が育っていきました。
今回の演奏会では、ルターからバッハへの流れを念頭に、その経由点としてのシュッツ、そしてとても重要な派生点としてスウェーリンクを取り上げます。
2,演奏曲
1)カンタータ第182番「天の王よ、あなたをお迎えします(BWV 182)」
ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(1685-1750)
カンタータ182番は、ヴァイマールの宮廷オルガニストから楽師長に昇進したJ.S.バッハが、30歳の年に、棕櫚の日のために作曲した作品です。初演は1714年の3月25日。この日は棕櫚の日と受胎告知の祝日が重なっていたことから、テキストも二重の喜びを持って、構成されています。しかし、棕櫚の葉は凱旋であると同時に受難の前触れでもあります。
1曲目の舞曲風のソナタでは、ロバにまたがってエルサレムに入城するイエスの足取りが、のどかに、かつ華やかに表現され、続く2曲目の合唱では、ようこそと歌います。その声に答えて、3曲目のレチタティーヴォ(詩篇40篇8-9節)ではイエスが「行きます」と答えます。続く3曲のアリアでは、イエスの視点から、次には民衆の方から受難が歌われ、最後に2つを重ね合わせることにより成立する『受難』が歌われます。7曲目に合唱が歌うコラール(歌詞はパウロ・シュトックマン、旋律はメルヒオール・ヴルピウス)では、傷であると同時に喜びでもある『受難』を自分たちの心の牧場とすることが、象徴的な存在である薔薇とともに歌い上げられます。8曲目では受難により満たされた心で喜びの国に進もうと呼びかけます。
『受難』が傷であると同時に喜びであるという両義性は、キリスト教の教義や信仰の根幹をなしており、これまで多くの文学作品や絵画、映画、漫画などで取り上げられてきました。天の王としてイエスを迎える二重の喜びと、『受難』の苦しみとが交錯するこのカンタータを、「ようこそ」から「幸せの国に行こう」と呼びかけるまでの過程として、歌いたいと思います。
2)「主よ、永遠の父なる神よ(SWV 420)」(1657)
ハインリヒ・シュッツ(1585-1672)
シュッツが生まれたのはJ.S.バッハの丁度100年前、テューリンゲンの小さな村です。ヘッセン=カッセル方伯モーリツにその才能を見いだされ、1609年には当時の音楽先進地であったヴェネチアでジョヴァンニ・ガブリエーリのもとで学びます。当時のイタリアでは、通奏低音書法・モノディ様式・コンチェルタート様式、劇場様式等の新しい音楽技法や様式が生み出されていました。1628年に再びヴェネチアを訪れ、恐らく当時活躍していたクラウディオ・モンテヴェルディと交流したのではないかといわれています。
と書くと、才能ある若者がパトロンにも恵まれ、洋々たる人生を歩んだように見えますが、実際にはシュッツは、33歳から63歳という作曲家として充実した時期を30年戦争(1618 -1648)の中で過ごし、多くの親類を失い、職場を失いました。この戦争によりドイツの国土は荒廃し、人口の20〜30%が失われ、音楽をはじめとする文化活動は停滞しました。楽団員の数は減り、残った団員も無給のままという状況の中で、シュッツは宮廷楽長としての役割を果たさざるを得ませんでした。この苦境の中でも自身の作曲の規範とすることを目指したと言われる作品(Op.11)や作曲法教程を発表しています。また、87歳でなくなる直前まで、一連の受難曲の作曲と発表に取り組みました。
本作品は、ザクセン選帝侯ヨハン・ゲオルク1世の死により事実上職務を解かれた年、シュッツ72歳の作品です。作曲技法としてはルネサンスの「パラフレーズ」類似の技法で書かれ、各パートがコラール旋律を歌い、モチーフごとにカデンツァを持ちつつ、次のモチーフに移っていきます。全体に静謐で抑制の効いた中ではありますが、ルター派の特徴の一つである三位一体の視点から高らかに歌います。
ルターは1526年に発表した『ドイツ語ミサ』において、グレゴリオ聖歌Kyrie fons bonitatisに基づく本コラールを採用しました。その後『ドイツ語ミサ』を元に各地で礼拝書がつくられていきました。また、バッハの作品、クラヴィーア練習曲集第3部(BWV669)としてご存知の方も多いのではないでしょうか。
3)「しかし、弁護者である聖霊が(SwWV 173)」
ヤン・ピーテルスゾーン・スウェーリンク(1562-1621)
J.P.スウェーリンクは、ルネサンス音楽の末期からバロック音楽の最初期において、オランダで活躍した音楽家です。また教師としても、ヤーコプ・プレトーリウス、ハインリヒ・シャイデマンなど、北ドイツ・オルガン学派の育成に貢献しました。
当時はオランダという国はまだなく、現在のオランダ、ベルギー、ルクセンブルクをあわせてネーデルランド(低地地方)と呼ばれていました。この地域は古くから都市の力が強く、また領主も神聖ローマ帝国の中で独立性を発揮していました。神聖ローマ帝国、ブルゴーニュ公領を経て、スペインのフェリペ二世の支配下に入ります。しかしながら、すでにプロテスタントの信仰が浸透していたため、スペインとカトリック教会の支配に対抗する「80年戦争」が続き、1648年に北部7州が独立を果たします。
スウェーリンクは、このような宗教改革と独立戦争の激動の時期にカトリック教会のオルガニストの父の元に生まれ、ネーデルランドの中心都市アムステルダムで過ごします。1577年には15歳で父の後をつぎ、教会のオルガニストとなります。しかし、その翌年にはアムステルダムはカルヴァン派の都市となり、カトリック教会の礼拝は禁止されました。この動きの中で、スウェーリンク自身がどのような対応をしたのかについては、研究者の中でも意見が一致していないようです。
それまで司教の支配下にあり、市議会に対し自治権を持っていた教会は、教会がカルヴァン派となった際に市議会の支配下へと移りました。当時のカルヴァン派の教会では禁止されていたオルガン演奏ですが、アムステルダムでは市議会の要求により、週日一時間程度のオルガン演奏が行なわれました。スウェーリンクのオルガン曲はそこで演奏され、その評判は全ヨーロッパに伝わり、各地から弟子が集まりました。北ドイツ・オルガン楽派の端緒です。
スペインから独立後のアムステルダムは、中継市場・交易の拠点として、黄金時代を迎えていました。独立が遅れた南の州からプロテスタントの豪商が移住したほか、その後も宗教的な抑圧から逃れたユグノー(フランスのカルヴァン派)やユダヤ人たちが流入・移住し、世界商業・金融の中心地となります。世界中から物や情報が集まるアムステルダムで、スウェーリンクは自身は外国へ旅することはなかったようですが、音楽的な関係では、海をへだてた英国や、ドイツやイタリアとも深い関係を築いていました。
この曲は1619年に出版されたラテン語による宗教的歌集の一曲です。今回のプログラムの中では、唯一コラール旋律を用いていません。ルネサンス風の重なりうねる声部構成の間に、言葉が先行しているかのように縦が揃う瞬間が浮かび上がり、作者の意図とはズレてしまうかもしれませんが、ドラマチックに歌いたい衝動にかられます。
4)「詩編138編 私は心を尽くして(SwWV 138)」
ヤン・ピーテルスゾーン・スウェーリンク
1604年に出版されたフランス語による詩篇歌集の中の一曲です。カルヴァン派のジュネーブ詩篇歌集の旋律を定旋律として用いた透明感のある四声の合唱曲です。日本基督教団讃美歌1番「神の力を」として収められています。
5)カンタータ第93番「愛する神の御心にのみ委ねる者(BWV 93)」
ヨハン・ゼバスティアン・バッハ
カンタータ93番は、バッハがライプチヒのトーマス教会カントルに就任した翌年の1724年7月9日・三位一体節後第5日曜日に初演されました。ゲオルク・ノイマルク(1621-1681)による神の意志への信頼をテーマとするコラールの言葉と旋律が用いられています。このコラールは『讃美歌21』では454番として収められ、ドイツの福音派の教会でも現在まで歌い継がれているそうです。バッハはこのコラールをこの曲以外のカンタータでも数多く用いています。
93番のように、一つのコラールの言葉や旋律(ここではノイマルクのコラール)を全曲を通じて使用するカンタータのことをコラール・カンタータと呼びます。93番では、1曲目にコラールの第1節をもちいた合唱曲、終曲7曲目にコラールの最終節による四声合唱(この讃美歌風の曲をコラールと呼ぶことも多い)が配置されています。これは、バッハのコラール・カンタータの典型的な特徴ですが、この構成によりノイマルクのコラールの世界が、より豊かに再現されています。
1曲目の合唱では、コラールの言葉が二度ずつ歌われ、最後には通奏低音が16分音符で神の強い意志を表現する中、確信へと誘われます。2〜6曲目では、コラール2〜5節と新たに挿入された説明(トロープス)が、4曲目を頂点とするシンメトリーの中で、レチタティーヴォやアリアとして歌われます。そこではコラールの言葉や旋律が、声や楽器の中で、様々に展開されていきます。そして、最終曲の7曲目では、最も素朴な四部合唱のかたちに戻ります。進むべき道、それは神の意志を信頼することにより開けるのだと、高らかに歌うノイマルクの言葉を、自分たちの言葉としてお届けしたいと思います。
6)日本基督教団讃美歌267番 神はわがやぐら
東京スコラカントールムでは、演奏会の最後を会場の皆さんとご一緒に歌う讃美歌で締めくくるのを通例としてきました。今回選んだ讃美歌は、ルターの讃美歌としてとても有名な曲の一つです。もう一度最初の場所にもどって、ご一緒したいと思います。
主たる参考文献
礒山雅著『バッハ= 魂のエヴァンゲリスト』講談社、2010年
川端純四郎「スヴェーリンクと北ドイツオル学学派の教会的背景」『礼拝と音楽』152号、2012年
岸啓子・園田順子「H.シュッツの〈Geist1iche Chormusik〉について」『愛媛大学教育学部紀要人文・社会科学』34巻1号、2001年
小林義武著『バッハとの対話―バッハ研究の最前線』小学館、2002年
長與惠美子『コラールの歩いた道』東京音楽社、1987年
水野 隆一「ルター派コラールの始まりと受容:Kyrie, Gott Vater in Ewigkeit を例に」関西学院大学キリスト教と文化研究、19巻、2018年
(井上 匡子)
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