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東京スコラ・カントールム 第65回定期・慈善演奏会

J.S.バッハ ヨハネ受難曲(BWV245)第4稿 〜日本語字幕つき

日程:2024年3月7日(木) 19時開演(18時15分開場)
会場:大田区民ホール・アプリコ  大ホール
(JR京浜東北線 蒲田駅東口 徒歩約3分)

エヴァンゲリスト 櫻田 亮
イエス 加耒 徹

ソプラノ 小林 恵
テノール 中嶋 克彦
バス 小池 優介

合唱・管弦楽 東京スコラ・カントールム
指揮・アルト 青木 洋也(常任指揮者)


プログラムノート

1.はじめに・・・『ヨハネ受難曲』の源流と特徴

今回、東京スコラ・カントールムは、1985年(第11回定期)、2002年(第40回定期)に続き、『ヨハネ受難曲』(以下、本作品と略記)に三度目の挑戦をいたします。前回第64回定期で私たちは「コラールに焦点を当てた演奏会」を行いましたが、それを踏まえて、素晴らしいソリストとオーケストラをお迎えし、青木先生と創る「スコラのヨハネ」にチャレンジします。

本作品は、1724年4月7日、バッハがライプツィヒのトーマス・カントル(聖トマス教会の音楽監督)として初めて迎える聖金曜日に初演されました。その後バッハは本作品を、1725年、1732年、1739年(但し未演奏)、そして1749年と改訂を重ねていきます。今回の演奏は、バッハ晩年1749年に演奏された第四稿によるものです。楽譜の改訂をする、稿を重ねるというと、新しい要素を加えていくと考えがちですが、本作品に関しては、二稿・四稿では初稿に戻る形での改訂が行われており、やや不思議な印象をもちます。それぞれの改訂についての理由や周辺事情に関しては、資料的な制約もあり、未だ研究途上の部分も残されていますが、音楽的な狙いや意図はもちろんのこと、当時の教会や市当局・参事会など聖俗諸勢力の関係の中での職業音楽家バッハの苦心の跡として、ひとまずは受けとめることができそうです。
現在は、独立した一纏まりのコンサートピースとして演奏されることが多い『ヨハネ受難曲』ですが、もともとは、イエス・キリストが受難した聖金曜日の礼拝の中で演奏されていました。その源流は、礼拝の中で行われていた聖書の受難記事の朗読にあります。受難を追憶する礼拝は、イエスの死後比較的早い時期から行われていたことが確認されていますが、それが定期的なものとして営まれる過程で物語としてまとめられ、さらには福音書の形で定着していきました。礼拝の中で行われた受難記事の朗読は、単独の朗詠を経て、13世紀には語り手・イエス・他の登場人物の三人(三声体)による朗詠へと展開していきます。バッハ時代のルター派のプロテスタント教会では、紆余曲折を経てではありますが、聖書の受難記事の合間に自由詩によるアリアや合唱曲、そしてコラールを加え、「オラトリオ風受難曲」と呼ばれる大規模で豊かな音楽作品となっていきました。この展開は、例えばスペイン・ルネサンスの大作曲家の一人トマス・ルイス・デ・ビクトリア(次回の演奏会で取り上げます)の『ヨハネ受難曲』や、バッハの100年前に生まれたハインリッヒ・シュッツ晩年の『ヨハネ受難曲』と比較するとわかりやすいかもしれません。
バッハの時代の受難曲を特徴づけるもうひとつ要素として台本作家の存在があります。なかでも、バルトルト・ハインリッヒ・ブロッケスの台本には、テレマンやヘンデルが作曲をしていますし、バッハ自身も本作品の構成の際に参考にしたと言われています。また、バッハのライプツィヒ時代の協力者であり、『マタイ受難曲』でその台本を用いたピカンダー(本名はクリスティアン・フリードリヒ・ヘンリーツィ)も有名です。これら台本作家たちにより、受難曲には聖書以外のテキストが挿入され、豊かな感情的起伏や表現がもたらされました。同時に、「シオンの娘」や「信じる魂」など、受難の事実を見守る新たな役柄を登場させることにより、受難曲を聴く会衆や観客たちに直接訴えかける構造を持つようになります。同時に、受難記事の朗読に源流を持つ受難曲が、次第にオラトリオへと近づくことになりました。
本作品もまた、同時代の多くの受難曲、そしてバッハ自身の他の受難曲と同様に、福音史家や登場人物であるイエスやピラトらが語る『ヨハネによる福音書』における受難記事(一部『マタイによる福音書』からの引用を含む)と、自由詩によるアリア、合唱曲、そしてコラールから構成されています。同時期に作曲した『マタイ受難曲』『マルコ受難曲』は、台本を用いて作曲・演奏しているのに対して、本作品は特定の台本を用いず、全体を自らの手で構成したと言われています。四度にわたる改訂作業は、バッハ自身の音楽的・宗教的意図を結晶化させていく過程として位置づけることができるかもしれません。
本作品は、コラールのそして合唱の比重の大きさが特徴として指摘されます。合唱は、受難記事の部分では群衆の役割を担い、それぞれの場の状況を醸し出し、表現します。そしてコラールでは信仰心の発露として、会衆の皆さんの心に直接呼びかけています。
冒頭の合唱で打ち出される「栄光」と「受難」というコントラストは、聖書の受難記述、数々のアリア、そしてコラールが重ねられて行く中で展開し、「復活」と「希望」へと昇華していきます。(井上匡子)

2.あらすじと曲紹介
第一部 
冒頭の合唱(第1曲)

受難物語の荘厳な始まりです。弦楽器のうごめくような16分音符の4連音と、フルートとオーボエの不協和音が、イエスの受難を予感させます。しかしその悲しみの響きを超越して、神の御子の栄光が壮麗に歌い上げられます。合唱は三度主に呼びかけた後(3は完全性を表す聖数)、力強いホモフォニー、低音部から上昇するフーガを経て、最後にダ・カーポ形式で前半部分を繰り返します。

イエスの捕縛(第2曲から第5曲)

イエスは、弟子のユダの裏切りにより、ローマ兵及び、祭司長たちとファリサイ派の下役たちに捕縛され、大祭司アンナスのもとに連行されます。
第2曲 福音史家が受難記述を朗唱し、聴衆はイエスの第一声を聴きます。その声に捕縛に来た者たちは圧倒され、狼狽します。
第3曲 このコラールでは、受難を余儀なくされるあなた(du)と、この世の愉悦に生きる私(ich)が対比されることにより、会衆は受難を鍵に自分の人生を内省するように促されます。本作品ではコラールは、受難をどのように理解すべきかを説く、説教のような役割を担っています。
第4曲 イエスは、それが神の御心に従うこととして捕縛されて行きました。

大祭司による尋問(第6曲から第14曲)

第6曲 イエスは、大祭司カイアファのもとに送られました。彼は、イエスが民の代わりに死ぬ方が好都合だと助言した人物でした。
第8曲 ペトロともう一人の弟子(ヨハネ)は、イエスの後を追って大祭司アンナス邸の中庭に入り、様子をうかがいました。この時のペテロともう一人の弟子の心には、悲しみ(第7曲)と従順(第9曲)が交錯していました。第7曲と9曲に挟まれた第8曲は本作品の核心の一つと云われています。実際、第8曲の「Jesu nach und」という句のJe、su、nach、undの4音節に各々つけられている4つの音符を直線でつなぐと十字架の形になります。イエスの十字架は、人の不安や恐れを癒し希望の源となることを、このような形で示したのではないでしょうか。
第10〜14曲 イエスが大祭司から尋問を受けている間(第10曲)、ペトロは大祭司の下僕らから、イエスの弟子ではないかと三度聞かれますが、三度とも否定してしまいます。すると鶏が鳴きました。ペトロは「鶏が鳴くまでに、あなたは三度私のことを知らないと言うだろう。」と言ったイエスの言葉を思い出して、激しく泣きます。第12曲のレチタティーヴォでは、有名な「ペトロが『激しく泣いた』(weinte bitterlich)」との大変感動的な描写がされています。「激しく泣いた」という記述は『マタイによる福音書』からの引用であり、それはバッハはがペトロの否みに、深い意味を見出していた故であろうと考えます。つづく第13曲でテノールがペテロの後悔と悲しみの落涙を下降音型で歌います。

第二部
ローマ総督ピラトによる尋問と裁判(第15曲から第24曲)

第15曲 聖書に書かれていることとしてこの場面のあらすじをコラールで紹介します。
第16曲 夜が明け、祭司長たちと群衆は、イエスをカイアファのもとからローマ総督官邸に連れて行き、総督ピラトに裁判を要求します。
第17~24曲 ピラトの裁判の状況が、群衆との間の激しい応答の様を通して描写されます。ピラトは、イエスを尋問した結果、イエスは無罪だろうと考えます。そこで、過越祭の慣例としてイエスを釈放してはどうかと提案しますが、群衆はイエスではなく強盗バラバの釈放を要求します。そこでピラトは、イエスを鞭で打たせ、それからイエスを群衆の前に立たせ、「見よ、この惨めな人を、王ではあるまい。」とイエスの釈放につなげようとします。ピラトがイエスの釈放に傾いていると見るや、群衆は、「神の子であり王である」と自称した罪状で、イエスを磔刑に処すようにピラトに迫ります。恐れをなしたピラトは、死刑判決を下し、イエスを群衆に引き渡してしまいます。
第19〜20曲 テノールは、イエスの受難に対して感じる苦しい気持ちを歌います。しかしバスは、この出来事に人への救いがあるのだから目を逸らしてはいけないと示唆します。
第21~24曲 合唱は祭司長たちや群衆の激高した叫びです。合唱曲は対称的に配置され、①第21曲f(神の子と自称した者は死罪)と第23曲b(王と自称した者は反逆者)、②第21曲d(十字架につけろ)と第23曲d(殺せ、十字架につけろ)、③ 第18曲b(イエスではなくバラバ)&第21曲b(ユダヤ人の王万歳)と第23曲f(王ではなく皇帝)&第25曲b(ユダヤ人の王と書くな)の合唱曲は、各々旋律が歌われ、歌詞も呼応しています。群衆は、ピラトにイエスの磔刑を決意させるまで、同じ主張を執拗に繰り返すのです。特に「十字架につけろ」の主題は、管弦楽も演奏するため、荒々しさが増しています。第22曲のコラールは、対称に配置されたこれらの合唱曲の中心に置かれ、本作品の構成の中心であり、「受難による罪の贖い」を説く故に、この作品の二つめの核心であると考えられています。群衆が残忍であればあるほど、イエスの犠牲の尊さが際立つ構成となっています。
第24曲 イエスは辱めを受けたあげく、磔刑の行われるゴルゴタへ引き立てられて行きます。

イエス、十字架につけられる(第25曲から第32曲)

第25曲 イエスは自ら十字架を背負い、ゴルゴダの丘へ向かい、そこで十字架にかけられます。
第26曲 コラールは、イエスのこの死の苦しみこそが、わが身を罪から解放したのだと歌います。
第27・28曲 群衆の嘲笑と無関心の中で、イエスは死の際に、母と弟子を通して人と人をつなげる愛を示し、その後に「成し遂げられた」と言いました。
第29~31曲 歌詞には、『ヨハネによる福音書』のみに書かれているイエスの十字架上の言葉「渇く」「成し遂げられた」が表れ、第28曲と第32曲の2つのコラールに挟まれています。その中心のアルトのアリア(第30曲)は、バッハの全作品で最も有名なアリアの一つであり、本作品の三つめの核心でもあります。「成し遂げられた」と歌うアルトは、ヴィオラ・ダ・ガンバの音色と溶け合って、この上なく美しいと感じます。嘆きの歌でありながら美しいのは、救いが「成し遂げられた」という希望があるからに違いありません。
第31曲 イエスは息を引き取られ、旧約聖書の昔から啓示された神の救済の計画が成就されます。バッハはこの箇所でイエスの死を、2つの同じコラール(第28曲と第32曲)で挟むという形の構造で表しました。
第32曲 合唱が「あなたの救いを与えてください」。「それ以上の望みは私にありません。」と歌い、それを追うようにソロが「頭を垂れて無言で答えられた」、「然り(ja)」と歌い、合唱が沈黙した後、さらにソロだけが残って、3度「然り」と歌います。この形は「然り(ja)」の部分を、バッハは人の終焉の時を超えた救いの希望の答えと考えた表れではないかと思います。そして肉体の死の葬りに終わることなく、これが40曲の終曲のコラールの希望に繋がると思われます。

埋葬と希望(第33曲から第40曲)

第33・34曲 そうしてイエスは頭を垂れて息を引き取りました。すると突如、空が黒雲に覆われ岩が砕ける等の天変地異が起こります。この天変地異の記述も『マタイによる福音書』からの引用です。
第35曲 以降、調号が柔らかいフラットに転じ、曲想が変わります。
第36曲 イエスの遺体は、兵士たちによって脇腹を槍で刺され血と水とが流れましたが、聖書の言葉どおり骨が砕かれることはありませんでした。
第37曲 以上聖書に書かれていることの締めの総括として服従の決意と加護を願います。
第38曲 遺体はアリマタヤ出身のヨセフよって十字架から取り降ろされます。ユダヤ人の埋葬の習慣に従って、香料を添えて亜麻布で包まれ、悲しみのうちに近くの墓に納められました。
第39曲 合唱により、亡くなったイエスへの慰めと、イエスの死により天国の門が開かれる喜びとが歌われます。
第40曲 続くコラールでは、からだの復活と永遠の命への願いとが祈るように歌われ、「私はあなたを永遠に讃えます!」と唱和されます。
合唱を終曲とせずコラールが続くのは、第一にイエスの死が即復活に結びついているという『ヨハネによる福音書』の特徴によるのだろうと思います。そして第二に、初演当時、終演後に「とりなしの祈り」と讃美歌「Nun danket alle Gott(すべての者よ、神を讃えよ)」が続いたことから、バッハは受難物語を、イエスの死によってではなく、希望に満ちた復活の始まりによって完結させたいと考えたのではないかと思います。(斎藤成八郎・足立雅子)

3.さいごに

本作品は、本来は受難節の礼拝の中で演奏されたものであり、その意味で信仰に生きる方やキリスト教に興味をお持ちの方には、様々な発見のある作品です。一方で受難の場面は、映画・小説・詩・絵画・彫刻などの様々な芸術の中や、哲学のテーマとして、取り上げられてきました。それらにも親しんでいなくても、「オラトリオ風受難曲」である本作品は、例えば身近な人の死と重ねるなど、それぞれが直面したり抱えている状況の中で、様々な味わい方や受け止め方のできる作品です。受難曲が、とりわけ本作品が世界中で広く演奏される理由の一端といえます。
冒頭に書きましたように、今回の選曲は、大きな挑戦でした。今回はまた「痛みを力に、そしてその先へ」という副題をつけました。これは、本作品が受難という苦しみや痛みをテーマとした作品でありながら、最期は希望に満ちた復活の始まりを想起させるものであることに想いをいたしたいと考えたからです。同時に、本作品への挑戦を東京スコラ・カントールムの新たなスタートとしたいとの想いをそこに重ねました。本日、演奏会にお運びいただいた皆さんとご一緒に、次の一歩を踏み出す力としたいと思います。(井上匡子)

主な参考文献 

ロビン・A.リーヴァ―『説教者としてのJ.S.バッハ』(教文館、2012年)
礒山雅『ヨハネ受難曲』(筑摩書房、2020年)
Andreas Glöckner, Johann Sebastian Bachs “Große Passion” – Neue Überlegungen zu ihrer Vorgeschichte, in Bach-Jahrbuch, 2021.

 

63th

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