今回取り上げた四人の作曲家は、生年にしてわずか20年の間に収まる同時代人であり、ルネサンスからバロックへの過渡期の作曲家です。過渡期と言うと、盛期における充実には達していない中途半端な音楽という印象を持たれるかもしれません。しかし、過渡期とは変革期であり、新しい手法や音楽を求めて模索し、探求し、冒険した時代です。そこには作曲家の挑戦が詰まっています。
企画の際、練習のたびに、曲のバラエティの豊富さに驚きました。この挑戦の要素は一体どこから来たのかと、考えました。宗教的事情、世俗音楽との交互作用、演奏される場所の規模や構造の変化、楽器の改良、社会経済的な変化、他のジャンルからの影響などなど、いろいろなことが考えられますが、まずはこのバラエティの豊富さと振り幅の広さを味わいたいと思いました。
この変革に名前をつけ、自覚的に、あるいは論争的に作曲活動を展開した作曲家の一人がモンテヴェルディです。モンテヴェルディの2曲で、スペインの黄金世紀の音楽家ビクトリアとロボの小曲を挟み、最後に、この変革にアグレッシヴに挑んだバンキエリのミサ曲を演奏します。彼らの挑戦の軌跡をご一緒にお楽しみいただければ幸いです。四人を生年の順に紹介します。
二、ビクトリアとロボ-- スペイン黄金世紀成熟文化の中で
ビクトリアとロボは、スペイン黄金世紀を代表する作曲家です。その他にもクリストバル・デ・モラレス(1500-1553)、フランシスコ・ゲレーロ(1528-1599)などの名前が浮かびます。当時イベリア半島は、レコンキスタの終結、大航海時代の到来、一部の高位聖職者の協力による教会刷新、スペイン・ハプスブルク家による統治(陽の沈むところのない帝国)と、まさに黄金期を迎えていました。世俗権力の勝利と成功は、文化・芸術にも大きく影響し、この時代の芸術と文化の最大のパトロンであったフェリペ2世(1527-1598)の王宮には、エル・グレコ(1541-1614)をはじめとするヨーロッパ屈指の建築家や画家たちが集まりました。数多くの、そしてとても多様な演劇作品が生まれたことでも有名です。宗教劇と世俗演劇が並行して発展したのも、他の地域では見られない特徴です。ビクトリアとロボが生まれた16 世紀半ばには公共劇場が作られ、プロの演劇団と市当局や教会が入り混じり、上演していました。この成熟した文化状況の中、二人の音楽家は生まれ、育ちました。
ビクトリアは1548年にアビラに生まれ、9歳の頃アビラの大聖堂の聖歌隊の歌手となり、14 歳までにオルガンの演奏も学びました。1565年からローマのドイツ学院(イエズス会により設立された外国人向けの聖職者養成機関)で学び始めます。当時のローマには、パレストリーナが、同じくイエズス会により設立されたローマ学院で楽長を務めていました。ビクトリアはローマ学院そして母校のドイツ学院の楽長を務めた他、教会の歌手兼オルガン奏者などの職につきながら、作曲と楽譜の出版に取り組みました。また、新たにドイツ学院に付属されたサンタポリナーレ教会の礼拝堂長として、聖歌隊の指導やオルガンの演奏や管理などに携わり、約7年間で6冊の作品集を出版しました。
1575年の司祭叙階後、ビクトリアはスペインへの帰郷の道を模索します。ローマでの成功により、いくつもの、しかも条件の良いオファーがあったようですが、作曲に打ち込める静かな平穏な生活のため、これらを断っています。彼の選択は、マリア皇太后(フェリペ2世の妹)への出仕でした。マドリッドで最も設備の整った修道院の音楽礼拝堂において、高位の貴族やフェリペ2世や3世の前で演奏し、長期の休暇を与えられ各地に旅行をし、ローマでは自身の作品の出版のための準備をしています。
ロボは日本ではビクトリアよりも知名度が低いかもしれませんが、当時はスペイン黄金世紀を代表する作曲家として高い評価を得ていました。ビクトリア自身も、自らに匹敵する作曲家として高い評価を残しています。もしかするとライバルとして意識していたのかもしれませんね。また、ロボの作品の影響力は、隣国のポルトガル、そして大航海時代の波に乗り、新大陸・メキシコまで及んだそうです。スペインの世界戦略の申し子と言えるかもしれません。
ロボは、アンダルシア地方オスナで生まれ、セビーリャ大聖堂で少年聖歌隊員を勤め、オスナ大学で学位を取得、1591年まで司教座聖堂参次会員の地位にありました。セビーリャ大聖堂にフランシスコ・ゲレーロの助手として採用され、のちに楽長の地位を得ています。その後、1593年にはトレド大聖堂の楽長職に採用されています。ちょうど同時期に、画家のエル・グレコがトレドに滞在しており、もしかすると交流があったのでは…と、想像してしまいます。
ビクトリアやロボの作品は、先達パレストリーナとの比較で、凝った対位法を避け、シンプルな旋律線とホモフォニックな構成を好みつつ、多種多様なリズムの変化や音の跳躍などによる明暗の対比などが特徴です。今回の二人の作曲家の6曲にその一端を感じていただきたいと思います。各作品の内容については、歌詞対訳をご参照ください。また、6曲の教会音楽の中に1曲だけ恋の歌があります。
三、モンテヴェルディとバンキエリ-- 北イタリアの都市文化の中で
16世紀のイタリア半島は、政治的に不安定な時期でした。フランスと神聖ローマ帝国と教皇庁の間で、約50年にわたって断続的に続いたイタリア戦争は、イタリア半島の都市国家を巻き込み、婚姻・姻戚関係も駆使しての権謀術数が尽されました。1527年の神聖ローマ帝国カール5世(スペイン王カルロス1世、スペイン王フィリペ2世の父)による、ローマ却掠により、ローマは破壊され、輝きを失いました。ルネサンスの終わりの始まりです。以降、教皇庁は力を失い、スペインが覇権を握ることになります。
スペイン支配時代は、かつてはネガティヴに評価されることが多かったのですが、現在はスペインの均衡政策のもと、ある種の安定をもたらしたとの評価に変わりつつあります。確かに、地中海経済圏は衰退していきますし、主権国家の成立という点ではイタリアは大きな遅れを取るわけですが、イエズス会はカトリック教会の刷新と新たなエリートの育成を目指した教育機関をローマに設立し、そこからビクトリアのような作曲家も輩出しました。そして、北イタリア、特にヴェネツィアはローマから逃れた多くの芸術家を迎え入れ、ヴェネツィア楽派が生まれます。多くの楽譜が出版され、流通し、新たな音楽の胎動の地となり、バロック音楽の開花を準備することになります。
モンテヴェルディはヴァイオリンの聖地として有名なクレモナに生まれました。弱冠15 歳で初めての作品を出版した後、1590 年にマントヴァでヴィオール奏者及び歌手として迎え入れられます。1592年にはマドリガル第3集を出版し、マントヴァ公に献呈しています。マントヴァでは、マドリガル第4集・第5集のほか、オペラ『オルフェオ』を作曲上演、大成功を収めます。
1612年のマントヴァ公の代替わりと、宮廷内の財政逼迫のため、他の多くの者とともに解雇されてしまいます。無職のモンテヴェルディには、ヴェネツィアの聖マルコ教会から、空席の楽長の席を競うようにとオファーがあり、この座を射止め、終生ヴェネツィアに住み続け、多くの作品を生み出します。1638 年にはマドリガーレ第8集を出版し、1641 年には日本で一般に『倫理的・宗教的な森』と訳される『Selva morale e spirituale』を出版します。
モンテヴェルディの名前は、その作品だけではなく、ボローニャの音楽家ジョヴァンニ・マリア・アルトゥージ(1540-1613)との論争の中で示された「第一作法 prima pratica」(伝統的な作曲手法)と「第二作法 seconda pratica」(新しい手法)という概念とともに、知られています。この論争は当事者だけではなく、同時代の音楽家の間でも話題となり、次に紹介するバンキエリはじめ、様々な作曲家が自身の著作の中で言及しています。変革を求めて模索していた彼らにとっては、言葉(概念)を与えられたということなのだと思います。
さて、今回の2曲は、構成としてはコンパクトな曲ですが、改革者・挑戦者であったモンテヴェルディの足跡を感じていただけるようにと、少しばかり対照的な曲を選曲しました。
「マニフィカト 第2番」は、マリアの賛歌です。年若いマリアが、自分の身におきた大きな出来事(救い主を身ごもる)を、受け止め、受け入れ、賛美します。古今東西多くの芸術家が題材に選んでいる受胎告知ですが、モンテヴェルディの曲からは、マリア自身の戸惑いや、そしてもちろん喜びがほのかに見えるように思います。感情の動きを表現することを目指したモンテヴェルディらしさを感じるのは、穿ちすぎでしょうか。
「主に感謝します 第3番」は、詩篇111番をテキストとして、主を賛美し感謝する歌です。ソプラノのソリストによる先導にコーラスが応えます。神の御業の内容をなぞり、再現するように、曲想が展開します。ソリストお二人の技巧的な動きと、コーラスの早口言葉のような箇所やリズムの面白さをお楽しみください。
二人目の作曲家バンキエリは、マドリガル・コメディと呼ばれる様式を発展させた人物の一人として、あるいはハンガリーのコーラスグループ「バンキエリ・シンガーズ」の名前を思い出す方も多いのではないでしょうか。
バンキエリは、モンテヴェルディとほぼ同時期に、同じ北イタリアのボローニャで生まれました。オルガンと作曲を学び、ルッカやシエナなどでオルガニストを務めた他、ヴェネツィアやヴェローナの教会で奉仕した記録が残っています。
1609年にボローニャに戻ったバンキエリは、アカデミア・デイ・フローリディ(Accademia dei Floridi)を設立しています。アカデミアは、規約を持ち、一定の場所に集まり、講演や作品の発表を行う機関で、文学の他、言語や演劇や音楽、少し後には科学に関するものなど、当時の大学にはない学問分野を担っていました。モンテヴェルディがこのアカデミアを訪れた折には、多くの有力な音楽家が集まり演奏しました。このアカデミアはその後名前を変えますが、バンキエリは1618年に名誉院長の称号を与えられています。
バンキエリが取り組んだマドリガル・コメディは、複数のマドリガルを連続して一つのストーリーの中で演奏します。以前は、オペラの先駆けと位置づけられていましたが、現在では独自の発展をした様式と考えられています。いずれにしても、変革期の作曲家バンキエリの冒険と探求を理解する重要な足がかりの一つです。
今回演奏する「第四旋法のミサ」は、マドリガル・コメディの主導者としてのバンキエリを念頭に置かれていると、肩透かしを受けるかもしれません。でも、どうぞ最後までお聞きください。きっと、あ~っと、ご納得いただけることと思います。(東京スコラ・カントールム 井上 匡子)