ブロウ
2001年10月6日於日比谷
 
ううううむ。
いや、予告編も面白そうだったし、ジョニー・デップだったし・・
いや、悪くはなかったと思うんだけど。
まず、アメリカンな70年代と80年代前半のバブリーな背景に自分がシンクロできなかったのが敗因かもしれません。
(どっちが負けてるのやら・・)
これで、主役がデップじゃなかった場合を考えると、もうどうにもならなかったんじゃないでしょうか??
確かに今までもデップって、しょーもない映画を彼の存在だけで救ってきてますよね・・ええ。
そもそも、アメリカにおける麻薬の歴史に疎いというのもありました。
昔は大麻で、コカインが流行しだしたのってそんなに最近(20年位前)の事なんですか?
麻薬をチビチビ売っていたヒッピーが、やがて産地を抑え、儲けを独占し始めて。
商才を現した彼に、コロンビアの麻薬カルテルのボスがコカインを勧めて彼はやがて米国の裏社会の帝王に。
って話なんですが、ちっともいかがわしい感じや、彼がいかにもマフィアって感じがしないのは。
多分、デップ自身の少年っぽさや、また、本人(実在の人物だそう)の、あくまで商売としての麻薬に対する向き合い方、あたりから来てるんじゃないでH層か?
麻薬を扱いながら、溺れる事もなく、商売の道具としての価値を第一として扱っている。
見ていて、「そんなに悪い事、してんのか?」と思ってしまう辺り・・・いいんだろうか、この映画。
80年代初頭、アメリカで出回っていたコカインの80%以上が、彼のルートから入ってきたものだったそう。
ハリウッドも芸能界も社交界もすべて汚染されていたってんだから、凄いよねー・・その頃のアメリカって・・そんなんだったんだ・・・
彼の金儲けの後遺症が、現在のドラッグまみれのアメリカだとしたら、やはり、彼の罪は重いのかも。
その彼の生涯の脇で、家族ドラマとしても顔も持った映画でした。
最後まで、彼を愛しつづける父親。
そして、父親になり娘を愛するデップ。
アメリカ映画には欠かせないスパイス・・とか言っちゃう私はひねくれているのかも?
でも、麻薬カルテルやその抗争のドンパチはほとんど登場せず、ただ、利益を得る為に働く彼と、その彼が帰宅する度お尋ねモノでFBIが必ず息子を捕まえに来るっていう両親の思いを考えると、本当になんとも言えない気分になりました。
彼が子供の頃、父親が倒産して「金は幻だ。」という話をするくだりがあるのですが、彼も最後に刑務所でその言葉を噛み締めます。
所詮は、地道に働いて、平凡な人生を送った人間が勝利するのだ、と。
「命を浪費してきた。」と、最後につぶやく後姿は本当に悲哀を帯びてます。しかも、ものスゲー無理な中年太りメークだし。(笑)

 

魔王
2001年9月22日於池袋
 
またしても、シネ・リーブル。
何で見に行ったのか、きっかけがなんだったのか、自分でも判らないんですが。
映画館に飛び込んでいました。
上映が始まってから、マルコビッチ主演だとか、マリアンネ・セーゲブレヒ(バグダットカフェ)やアーミン・ミューラースタール(シャイン)が出てるとか気づいたし、プログラムを読んでから監督がフォルカーシュレンドルフ(ブリキの太鼓)だとか、音楽がマイケル・ナイマンだとか制作がジェレミートーマスだとか。
後からです。全部。
そんなわけで、大した前知識も無かったせいで、普通に見ていました。
それでも、途中から、これは単純にストーリーを追うだけではない物語なんじゃないかと思えてきて、情景や、人物達の配置や、衣装や・・・もっと、何かを私たちに告げようと、映画がしているような気がしてきました。
フランス人作家の原作です。
舞台はドイツ、チューリンゲン地方。
(なのに、英語・・・いいけどね・・)
冒頭、学校で騎馬合戦をして遊んでいるシーンから始まります。
フランス人の主人公は、なんというか、間の悪い人間で、でも、善良・・ただし、その善良さは「レインマン」だとか「フォレスト・ガンプ」だとかとは全然違います。
本当に善良なんだろうか?と、思わせる何かがあったりして、でも、やっぱり彼は素朴で善良な人間で。
主人公のアベルは、子供の時に「学校が燃えてしまえばいい。」と、強く願った時。本当に学校が焼け落ちてしまいます。
彼は、それ以来自分は神に、運命に守られている・・と、思うようになるのです。運命の命ずるまま、ただ生きていこうと。
大人になっても濡れ衣で警察に掴まったりしますが、おりしもパリはナチスの占領下にあり、服役よりも戦場へ、そして捕虜に・・捕虜収容所の近くで、ヘラジカと気持ちを通じ合わせている物静かで善良な彼をナチの高官が見出し、自分の下働きとしてゲーリングの別荘へ・・・この高官もゲーリングもアベルには親切で優しい紳士です。
スターリングラードでの敗戦の後、彼ら高官は森から去っていきますが、彼は近くのナチスユーゲントを育てる学校で働きます。
城は元々ドイツ貴族のもので、そこには彼を愛し、慕ってくれる子供達が大勢居ました。
夢のような生活。
美しい森の中の城で、子供達や善良な職員達と働く生活。
少しのユーモアを交えた美しい映像。ここらへんまで、私は若干の疑問を感じつつも、「僕を愛したふたつの国〜ヨーロッパ.ヨーロッパ〜」のような映画なのかなー・・と、見ていました。
しかし、ここから段々と様相が変わってきます。
タイトルである「魔王」。
善良なアベルの言葉を信じてついてくる子供達。
その事に気付いた学校側は、彼を下働きからスカウトマンに任じます。
森で遊ぶ子供達を城へ連れ帰る彼の姿は、彼の意思とは関係なく、まさに『魔王』なのです。
美しく暗い森。長いマントで馬を駈り、次々と少年達を城へといざなう。
彼は少年性の美しさを褒め称え、愛しますが、それは決して少年趣味ではなく、彼のある意味での幼稚性とシンクロするからなのだと思います。
大人になっていないのです。
日本語タイトルの「魔王」は、字幕では「鬼」となっていました。
その後、英会話の先生に聞いた所、「オルガ」とは、森に住む、所謂モンスターの類で、普段は人間に何もしないけれど、人間が近づきすぎたりすると襲ったり、食べたり、子供を攫っていったりするとの事。魔女の住む山の門番だったりすることもあるそうです。そういう意味では、日本の「鬼」や「天狗」に近いのかも・・と、思いました。キリスト教的宗教感より、もっと土俗的な存在なんだと思います。
祖国フランスに対してまったく愛国心の無い、アベル。しかし、当然ドイツに対してもありません。
彼は森の中を夜中にゾロゾロと動く黒い群れを発見します。
(これも寓意的な映像でしたが。)
それは、ナチの収容所から脱走している人々の群れでした。
かつての戦友たちにも出会います。
戦いの終わりが近づき、学校や子供達も危ない事に彼は気付きます。
彼の頭にあるのは、子供達を救うことだけです。
しかし、インプリンティングされている子供達にその思いが通じるわけもありませんでした。
最後に、彼はユダヤ人の子供を肩に背負い、戦闘の中を逃げます。
冒頭の騎馬合戦のシーンとどこかでシンクロする映像。
沼地の中を、子供の重さに押しつぶされそうになりながら、彼はひたすらに子供を「担ぐ」のです。
その、幕切れのシーンの意味は、あとでプログラムを読んでから知りました。
旧約聖書に出てくるエピソードだそうです。
「クリストフォロス」。ご存知の方にはすぐに判ったのかもしれません。
担がれる子供はキリスト。
劇中でも、「たった一人の子供を救うことで救済される。」という言葉が出てきます。
ひたすら「善」で、「無垢」でありつづけた彼。
「善良」で「素朴」であることは果たして真に「善」なのか。
人間には様々な面があるのではないか・・・善良な彼が「魔王」と恐れられたように。
色々と考えさせられました。
原作も非常に観念的で、寓意性に満ちていて、映像化は困難だろうと言われていたそうです。
「ブリキの太鼓」もそうでしたよね〜・・
プログラムに執筆している人たちも、浅田彰だとか哲学者や宗教学者ばっかりなんで、驚きました。
でも、そういう観念的な部分をまったく知らないまま見た私でさえ、色んな思いに囚われたのだから、シュレンドルフ監督はやっぱり凄いんじゃないかと思ってしまいました。
ほぼ全編英語だったので、英会話の先生(無類の映画好き)にも強烈プッシュしてしまいました。

 

「王は踊る」
2001年8月14日於渋谷
 
暑かった・・・渋谷・・・
って、そういう事じゃないか。
あの『カストラート』の監督作品という事で、絶対に見たいと思っていたので、暑さも臭さも(渋谷ってくっさいよね〜〜)モノともせずに出かけました。
結論から言いますと。とても良かったですvv絶品とは言わないけれど、良かったv
太陽王ルイ14世と作曲家リュリの物語です。
リュリって、あんまりメジャーな作曲家じゃないのかもしれないですが、私のようにヴァイオリンをやっていたり、チェロとか弦楽器をやっていた人間にとっては、結構馴染み深い作曲家です。丁度練習曲にいい小品をたくさん書いています。
でも、彼自身の事はまったく知りませんでした。
いつの時代の人なのか、どういう生涯を送った人なのか。
そういう意味でも非常に興味深い映画でした。
リュリがイタリア人で、宮廷付きの音楽家だった事。フランスの舞台芸術はバレエからであった事。ルイ14世がバレエの名手であった事。戯曲家モリエールとリュリの合同作品が数多く上演され人気を博していた事。
まったく知りませんでした・・
リュリが本当に男色家であったかどうかは、ちょっと判らないのですが、彼の王に対するプラトニックな愛は狂おしいほどで、恋愛感情とか、尊崇の念とかをすでに超越しているように見えました。
彼がフィジカルな面まで王に求めていたとも思えませんし、自身の性癖を認めて欲しいと思っていたようにも感じられません。
ただただ、『絶対的』な存在。
まさに『太陽王』そのものだったのではないでしょうか?
ルイ14世は少年時に即位し、実際の政治は母や執権たちに握られていました。よって、芸術や舞台の世界で自らの権力や王である事を殊更に演出する必要があり、生来の芸術好きも手伝って、リュリや音楽・バレエに傾倒していくのですが、やがて、それも必要ではなくなっていきます。
その辺り、映画の中では殊更語られていませんでしたが、あの驚異的な宮殿、ヴェルサイユを作り上げたルイには、すでにもう、芸術で自らを武装する必要はなくなったという事なのではないかなぁ、と、理解しました。
リュリにとっては、王が全て。自分の音楽を王が愛してくれる事だけが自らの存在意義でした。
親友モリエールを追いやってまで、手に入れたかった。
ただの1度も顧みられることのなかった、芸術と言う至上の美で捧げられたリュリの『愛』でした。
背景は、バロック時代です。衣装も音楽も。それはきらびやかで絢爛です。フランス芸術と言うと、この後にやってくるロココ時代が有名で、バロックはどうも古臭い印象があったのですが、いやはや、音楽や衣装を再現して目の前に見せてもらうとまぁ、その華やかな事!
衣装だけでも必見です!そして、リュリの音楽もモリエールの戯曲も、何世紀も経て今なお、新鮮な輝きを保っています。優れた芸術は後世に残っていくんですよね〜・・例えそれが時の権力者の為の芸術であっても。
そうして、芸術を市民が獲得できたのは19世紀過ぎてからなんかなぁ・・と、これまたしみじみ考えたり。

 

「ベンゴ」
2001年7月6日於渋谷
 
スペイン映画です。
アントニオ・カナーレス主演と言う事で、フラメンコのお友達と行って来ました。
結論から言いますと・・・
ストーリーはさっぱり判らん。でした。
フラメンコをやっている者同士で行ったので、まぁ、良かったですが、これがそうじゃない人とだったら、かなりアタタタな状態だったでしょう。
ストーリーは、後でパンフを読んでなんとか理解。
まぁ、話はこの際、どうでもよかとです。
とにかく、フラメンコ、フラメンコ、フラメンコ!!
カンテ、パルマ、ギター、バイレ。
アンダルシアの風景と、ロマ族のルーツであるインドの音楽や舞踊。
ストーリー的に考えると、何故そこでまた歌ったり踊ったりするか?と、思う人もいるのかもしれませんが。とにかく、全編フラメンコのリズムとアンダルシアの強い日差し、男達の悲しみの眼差しに彩られています。
かなり、ゴッドファーザーを思わせる作りで(シシリアンかな?)、ラテン民族特有の家族主義が強く押し出されています。『家族の不始末は、家族の血で償え。』という、アレです。一族の誇りや、家族を守るために取る行動の数々は、はっきり言って、日本人にはかなり理解しにくいものがあるのですが、こういった『熱い血』を共感できずにフラメンコを踊る事は難しいのかなぁ・・なんて思いました。
しかも、妙にかっくり来たことは、映画の中でブレリアを踊るシーンがあるのですが。なんだか、女の子達普段着のジーンズ姿で、しかも厚底サンダルみたいので、踊っちゃうんですよ。しかも、メチャクチャカッコイイ。
友達と、スペイン人になんてかないっこないよね・・。と、しみじみ語り合ってしまいました。
まぁ、それはともかく。
ストーリーは判りにくいし、意味不明の心象シーンは多いし、しかも、話しは暗いし(笑)、フラメンコやっている人にでもなければ、とてもオススメではありません。
しかも、アントニオ・カナーレス踊らないし。
そりゃ、立ち姿だけでもカッコイイし、存在感があるけれど、折角だから踊って欲しかったなぁ〜〜〜。

 

「スターリングラード
2001年5月6日於池袋
 
友達に連れられて行って来ました。
よく深夜にやっていた予告では、「アヴェ・マリア」が流れている中での戦闘シーンが映っていて、ちょっとイヤな印象をもっていました。
私、戦闘や戦争を美化したり哀愁漂わせたりするの、嫌いなんですよ。
友達に言わせると、雑誌での予告はラブストーリーぽかったとの事。
それもなぁ・・・
でも、ジュード・ロウ主演だったので行って来ました(笑)。

ところが。
いやぁ、結論から言うと、すっごい良かったです。
しかも大画面で見てよかったぁ〜・・・
ジュード演じるウクライナの羊飼いが兵士として、ナチスドイツとの最前線スターリングラードに到着するところから物語りはスタートします。
この到着してから戦闘シーンまでが圧巻です。
「プライベートライアン」のノルマンディ上陸シーンもかくやというほどのリアルなシーンに仕上がってます。
彼の目線で、いきなりスターリングラードの市街戦に放り込まれた気分にさせられます。
当時のソビエトはナチスに押されっぱなしで、銃も弾も不足。ただ人間だけは地方から掻き集めてくればなんとでもなるけれど。と、いう状態。
確か、ここスターリングラードの攻防戦が後のナチの崩落に繋がったんだよな・・なんて歴史的事実は知らなくてもなんとか見られます。
軸になる人間たちは、前述のジュードロウ演じる実在の射撃の名手ヴァシリ・サイエフ。彼を戦意高揚のため英雄に仕立て上げようとする政治将校ダニロフにジョセフ・ファインズ。(どこがロシア人だ〜?と、思いましたが、ユダヤ人との事で合格。)ザイエフを狙撃するために送り込まれてきたナチス軍ケーニッヒ少佐を演じるエド・ハリス。そして、やはりユダヤ系ロシア女性のタチアナ。
しかし、ドラマはほぼこの男3人の骨太な作りになっています。ターニャも守られるヒロインというよりは、たくましい強い兵士。共産軍は男女平等なので、女性も銃を持って戦闘に加わります。
敵味方が入り乱れる市街ならでの悲劇や、育ってゆく友情や愛情。
しかし、決してセンチに流されることなく物語りは進みます。それはきっと。登場人物の誰もが寡黙だからでしょうか?映画も寡黙です。声高に何かを語ることなく、何かを主張することなく、だた戦いが進んでゆく。
主人公のザイエフは、今でもロシアの英雄だそうで、彼にまつわる話はあまりにもありすぎてどこまでが本当かわからないそうです。実際の彼は、映画の中で語っていた通り、工場長になり、ほんと近年亡くなったそうです。
まぁ、こういう映画の時の唯一の不満は元の言語じゃないことなんですが・・・
ロシア語は英語。ドイツ語はドイツ語。
ま、仕方ないです。何故かお互いの言っていることが分かり合えてるのもお約束って感じなんでしょうか・・?

 

 

セシル・B シネマウォーズ」
2001年5月5日於池袋
 
予告編を見て、あまりのブッチギレぶりに、なんでだか凄く見たくなって行って来ました、
こんなイカレタ映画に付き合ってくれる人は居ないので、一人で。
シネ・リーブルは時々こういう妙な映画やってくれるので好きです。
さて、今回驚きがひとつ。
プログラムがCDロムだったよ・・・マジ?
小学生の頃から映画のプログラムを集めはじめて○○年。
こんな時代がやってくるとは。
でも出来ればプログラムは冊子がいいな。上映前に暗がりの中でパラパラと見るのがすきなの。
さて、何が「シネマウォーズ」なのかと言うとですね。
とにかくハリウッドをおちょくりにおちょくった映画なのです。
一種のカルト集団(?)が居て、彼らはハリウッド的映画をこの世から抹殺し、真のリアリティ溢れるカルトムービーを作り上げることを目標としています。(なんて、マジに語るのも馬鹿馬鹿しいくらいの集団ですが。)
リーダーはセシル、映画監督。ポルノ女優に、メイクやカメラ、スタッフは皆キレキレの人たち。それぞれが腕にインスパイアされた映画監督の刺青をしていたりします。
彼らは、映画のためには主演女優が必要だという事で、ハリウッド女優(今はもう中年に差し掛かっている大物女優)を、誘拐!!
メラニー・グリフィスが演じているのですが、彼女がまた超イカス!
初めはすんげーステレオタイプなハリウッド女優なんですが、なんつーか、ゴージャスでビッチ。
彼らと共に行動するうち、彼女も段々と目覚めていきます。
決して迎合するわけではなく、女優魂が目覚めていくんです。
どんどん、カッコよくなって、シャープでパンクな感じになります。
彼らの合言葉。
「ハリウッド大作に死を!映画的不正者に死を!」
を叫びながら銃をぶっぱなす彼女は本当にかっこいい。
当然、アメリカ中にあるシネコンも、ファミリー映画も彼らの敵。
「パッチ・アダムズ」を見て、映画館中の客が泣いている(ここの描き方もおちょくりまくりで笑えます)所に、乱入してアメリカンママたちの逆襲にあったり、カンフー映画を見ているところに逃げ込んで、彼らに(客はブルース・リーになりきっているマッチョたちばかり)助けてもらったり。
これでもかという、おちょくりの後、『ハリウッドは君たちを認めない!これが君たちに対する我々の答えだ!』と、登場するのは『フォレスト・ガンプ2』!!
いや笑いました。
指名手配となってしまっている彼らと、彼らを支持する若者たちと、警察と、最後はかなりハチャメチャな上にブラックです。
ジョン・ウォーターズ監督は、「私は、品の良い悪趣味な映画を作っている。」との事です。まぁ、ハリウッド映画大好きで、そういう映画で心から涙してしまう人にはオススメできません。
説得にやってきたセシルの両親のセリフが、なんとも言い得て私にはツボでした。
「セシル〜、ほら言ってごらん〜!『たかが映画。』!」
まさにその通り。なのに、こんなに好きなのはなんでなんでしょうね?

 

「ザ・ウォッチャー」
2001年2月4日於池袋
 
ここまでレビューのアップが遅れた原因は、実はこの映画です・・
いや、なんつーか。キアヌファンとして、一応見ておこうと出かけたのですが。
すっかり気力が萎えてしまったわけです、はい。
いっておきますが,キアヌは主演じゃありません。
主演はどう見ても、斜めから見ても、後ろから見ても、ジェームス・スペイダー。
タイトルロールでもそうなっていたしね。
キアヌの役どころは殺人鬼で、ジェームス・スペイダーはFBI連邦捜査官。かつて、キアヌに愛する女性(不倫関係だった)を殺され、失意のうちに彼女の眠るシカゴへ転属。自堕落な生活を送っている。
そこへ、キアヌが再び現れ、彼に予告のうえ連続殺人を始めるというもの。
なんちゅーか、ある種のサイコサスペンスなんですが。
なんで、私が(一緒に行った友達も含め)こんなに気力が萎えているかというと、ます日本での宣伝がいかにもキアヌ主演の、殺人犯側に重点を置いた作品であるかのようであり、それが裏切られた事。(日本の興行主もエグイよな。)
捜査官の過去のトラウマをいつまでもはっきりと描かず、それがやたらと同じ心象シーンや火事のシーンで繰り返されること。しかも、それがぶれる映像演出で、ムッチャ見にくかった。
結局彼とキアヌの関係は途中で判るんですが、それが今一つインパクトに欠けています。彼の最初の連続殺人も、捜査官に拘る殺人犯なりの理由があるのですが、それがどーも判りにくいっす。
いや、キアヌ演ずる殺人鬼は捜査官を唯一の理解者と信じているようなんですが、見ているうちに、『キミ、愛しちゃってるね?』状態。
殺人犯に気に入られちゃった捜査官はつらいよ。って、感じの映画でした。はい。