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浅野琢也の雑記帳19 2011年 2月〜 3月31日

あさのたくやのざっきちょう Takuya Asano Web 平成23年


「書道ガールズ 青い青い空」
東京公開は2011年3月5日

(お台場シネマメディアージュ)

 

『青い青い空』(あおいあおいそら)
画像はオフィシャルサイトへリンクしています。
(監督 太田隆文)のオフィシャルサポーターです。
静岡県浜松市を舞台にした作品です。


2011年 3月31日

『あしたのジョー』(2011年)曽利文彦監督作品を観た。
白木葉子の過去をドヤ街の愛育園から引き取られた設定に
して力石徹が白木葉子の過去をネタにしようとした記者を
殴った為に収監されている。白木葉子はドヤ街に良い思い出
が無く過去の経験からドヤ街に対して憎しみを抱いている。
段平の「明日の為の、その一」のハガキは原作では2枚で
直接指導したのに対して何枚もジムに飾られていた。
マンモス西がヤクザでジョーと食堂で出会っている設定に
代わっている。防御を教えるため原作で段平がコンニャク戦法
を教えた青山まもるが出てこない。テクニシャン(ボクサータイプ)
の防御は、力石とのリングで身を持って覚えさせる設定で
短縮していた。力石徹の減量シーンの針金の蛇口と白湯の場面
でコップの水を床に捨てる場面の床がタイル張りのシャワー室
だったがマットだったのが違和感を感じた。
他が完璧でオート三輪が写っていたりドヤ街と新興住宅の格差を
「泪橋」で分けているあたりやドヤ街の規模が大きくて良くきて
いた。『あしたのジョー』は丹下段平がジョーと出会ってから
酒を断ってツルハシで肉体労働でジムを建てるあたりも見もの
だ。 香川照之の演技は、本当になりきっている感じだった。
少女マンガに『ガラスの仮面』があり北島マヤと月影千草が
出会い劇団を作るのに通じる物がある。
以外と若い世代も観ているようなので感想を知りたいと思った。
ホセとの試合で燃え尽きる最終回まで連続ドラマで作ると大変
だろうしアニメの一挙放送があれば嬉しいと思う。

2011年 3月23日

『ランウェイ☆ビート』(2011年) 大谷健太郎監督作品を観た。
都立の月島高校が廃校になる前にファッションショーを開くまで
の話である。
豊洲のユナイテッドシネマズで観たので月島はバスの路線で
業平橋(スカイツリー)から新橋(銀座)の路線にある。映画館の窓から見たら
映画の景色が見える。タイトルのファッションショーのステージは
プラットホーム状に、せり出しているので昔は、エプロンと言っていたが
アメリカのテレビ番組でプロジェクト・ランウェイという番組があり
滑走路を意味するランウェイと呼ばれるようになった。
映画の中に登場するファッションがタータンチェックのオーバースカート
や白づくめで切り変え線を多くしてディテールを増やした感じの
ロンドンパンク風の物が多かった。原作に無い白血病の妹がいるあたりは
設定が変わっているかも知れない。業界のドロドロした部分を省略して
ショーが成功して学校が無くなって終わる。高校青春映画としてまとまって
出来ている。
高校の場合は、様々な趣味があってクラブがあるのでファッションショーを
開く高校は珍しい。観客が頭の上で手をたたく演出は違和感があったが
盛り上がっている感じを無理やり作るのに苦労したように見えた。
服飾高専なら学校行事として行うのが普通なので
5月に公開されるパラダイス・キッスを観ると良い。
この映画は校庭の屋外ステージの美術を楽しんだりするのが良い。
デザインコンテストによっては、通常のステージを使用する事もある。
実際のアパレルは展示会だけの所が殆どなのが現実ではある。


2011年 3月19日

東北関東大震災の合間に六本木の美術館で
作品の展示を終えてから電力不足により開催を延期していました
第64回日本アンデパンダン展の開催が19・20・21の3日間は
10時から午後4時まで可能になりました。
その後の予定は国立新美術館のホームページで確認ください。


2011年 3月14日

東北地方太平洋沖地震江東区では、11日に震度5弱でした。

建物が耐震補強工事済みでしたが、かなり揺れました。ライフライン関係は
ガスは、安全装置で止まりましたがスイッチを操作して通常に使えました。
水道・電気は大丈夫でした。横積みしていた本や資料関係が崩れましたが
壊れた物も無いようでした。


2011年 3月 7日

『青い青い空』(2010年) 太田隆文監督作品を観た。
リージョナルシネマとして昨年に公開されて浜松でロングラン
上映された映画である。東京はお台場のメディアージュで単館
上映だった。いきなり駅で不良の喫煙を注意してタバコを没収
して駅員に事情を聞かれる導入部分は、ボックス!の初めの
再開シーンみたい感じだが及第点はつけられる。大田監督の
ストロベリーフィールズは谷村美月さんが出ている。
海炭市叙景にも谷村美月さんが出ていた。『青い青い空』は
当初、書道ガールズというタイトルでスタートしたがタイトルが
被ってしまい書道ガールズ甲子園を主催している日本テレビが
昨年の五月に映画『書道ガールズ!! わたしたちの甲子園』を
公開して現在DVD化されている。美少女部活物というジャンル
も新鮮味が無くなってきたようだ。書道甲子園より前から
ファッション甲子園があり服飾高専でチームを組んで参加する。
ランウェイ・ビート(3月公開)にパラダイス・キッス(5月公開)
とこれも似通ったテーマだ。
代用教員として八代和樹(現代文教師・書道部顧問)が学校に現れて
浜松での書道パフォーマンスを完成させるまでの物語だ。
それを外国人のデビー・ケラー先生の視点から見ることで日本の伝統
と自分の意見を持たないし考えない指示待ち人間を作った教育に疑問
を持って視ている。最初のナレーションが良く出来ていたので最後も
英語のナレーションで締めくくった方が統一感の取れた作品になった
と思える。画材屋で何年物の紙という話から交通事故で障害者になった
人の話に変わる部分は、あれ?と思う。障害者美術展のジャンルに
書道も含まれているから見ておくと良い。三分の一だけしか入選展示
されない。一週間の会期で入場者数は4万人とこの映画の倍である。
社会派作品は裁判制度に社会保障制度に詳しくないとリアルに
表現出来ない。ドキュメンタリーでも本質を映す力のある監督が
日本にいるのかと思ってしまう。大田監督がマイケル・ムーアを
目指しているようには見えない。何年物の紙について私は知らない。
ワインが何年物というのは葡萄の出来で決まる。調べてみると解る
事だと意味があるだろう。
紙の種類は数多くあるが厚み=重さが単位となる事や裏と表は
ワイヤーサイドとフェルトサイドの見極めで識別する事が基準である。
イラストやマンガを描く人にとって羽の筆は、消しゴムのカスを取り除く
ために使う人もいるし馬のブラシを使う人もいる。
筆のうんちくや絵の具のうんちくで肝心の絵の話題から逃げる画家の
事を思い出した。
主役の住田真子みたいに書道部のメインキャストの「おいたち」
というか家庭環境の設定はあった方が観客として感情移入ができて
もっと楽しめたと思う。言葉を話さない飯島三美子など気になるキャラクター
設定だというのにもったいない。「マリ見て」の主役みたいな髪型で
目だっていた。『英国王のスピーチ』を観たばかりなので気になった。
タイトルの「青い青い空」もパフォーマンスで青空と書いた点で整合性
が取れているが「青空」への思い入れが伝わって来ない。
ダイエットのため書道パフォーマンスに加わった天竜塔子の「だから貴方は
銀賞止まりなのよ」というセリフを大田監督が自分自身に投影して入れたのかと
思ってしまう。伝統が時代の要望で変化したのが文化である。
「勝ち負けは関係ない」と言いながらも芸術は映画や書道に文学に美術に音楽と
あらゆる分野でオーディエンスで興行収益を収められたか?新しい分野や
テーマを想像できたか?芸術性はあるのか?という点を自己採点しないと
自分を高められない。基準とする自分の物差しが無いと周囲の意見を
気にしすぎるジレンマに陥る。大会シーンの観客のスタンディング
オベーションに持っていくまでにインパクトある大会の流れが必要だが
ここが弱い。普通に全員が拍手するぐらいで大会出場者と観客の温度差を
埋め合わせてほしかった。ここは「うた魂」みたいに気合がほしかった。
書道部が廃部される時の抗議は、机の上に立つより「書道部 廃部 反対」
ぐらいの横書きの横断幕の小さい物を使う方が演出として効果的だ。
教員は、経験から書面での抗議が怖いわけで署名を集めるなどの政治的圧力を
予感するのでインパントがある。口頭で文句を言って有罪と普通の半紙で
出すのはインパクトを弱くしているかも知れない。
教頭を悪役にするにしても他校にも書道部がある訳だし文字が綺麗な人は
重宝される。受験に専念させるという理由も今では弱い。
印刷物に使用するレタリングや量販店のポップに応用できる。
膨大なフォントを入れているパソコンで対応できる時代ではあるがプリンター
の出力が一般にA4サイズである。役所で使用するサイズがA4に統一され
提出する書類も同様である。その為、A4が入るようにランドセルの規格が
変わった。教科書もA4になったからである。
後は、パンフレットが値段の割りに薄っぺらい。観光マップと歌が中心で
プレスシートかと思った。観光地のリージョナルシネマだから宣伝用配布物
として映画をみた人に配布する冊子にする予算を取れなかったのかと
残念だ。この点は「海炭市叙景」の函館市を特に押し付ける事をせずに
観光なんて意識しないで、映画ファンが納得する作品を劇場主が幹事会社と
なりシネマシンジケートという配給スタイルで加盟している劇場主が納得する
方向に迷いなく進んでいった感じがする。街の良い部分なんて見せないことで
難しい原作を映像化して国際映画祭で賞を取る方向性の違いなのだろうかと
比較してしまった。
まあ、お金も出すけど口も出すサポーターが多いのも浜松の土地柄なのかも
知れない。それでも映画本編で上手く折り合いを付けて観光地の宣伝色を感じ
させない作りだ。それ以上に観光地の宣伝という目的も与えられた中で大田監督と
して最善を尽くした訳でかなりムダになった場面があるだろうし取り直したり
して調整した結果だと思う。ベテランの大監督が撮っても幹事会社の意向で
全く違う出来になるのが映画だ。関係者のコンセンサスを取るのは大変だ。
職人監督として「言われた通り撮っているだけですから」と三池崇史監督は
舞台挨拶で良く言うセリフだが映画監督協会で出版した本に監督の年収の
アンケートや最低賃金のアンケートなどの部分に書いてあったセリフなので
関係者ウケしている。大田監督は、今後どの方向に進むのか興味深い。
とにかく「青い青い空」DVDでなく都内の映画館で観られた点は、期待以上
だった。
国際映画祭JFFLA2011 -Japan Film Festival Los Angeles-
開催期間 4/8〜4/17に出品されるので結果が楽しみだ。

2011年 3月 3日

『踊る大捜査線 THE MOVIE3 ヤツらを解放せよ!』(2010年)本広克行監督作品を観た。
テレビと映画の両方を見続けているので、ヤッらを開放せよ!の意味が解った。
自殺願望と犯罪趣味を持った犯人たちの犯人グループ「野良犬」が過去に青島刑事が逮捕した
女性版ハンニバル・レクターみたい日向真奈美を崇拝するグループの中でリアル社会で
充実していない若者の中から犯罪が起こる。引越しで盗まれた拳銃で射殺された死体が
犯行グループの人間で殺人なのか自殺幇助なのか解らない状態だった。
ただ、銀行とバスジャックで金を手にしても置いていっていることから生きるのを
犯人達は、放棄しているグループなのだと感じとれる。
警察署の引越し業者は、派遣社員で身元もはっきりしない。これが終身雇用制の時代で
正社員だったなら仕事のミスが三年後や五年後に起こっても責任が問われ自身の信用に
関わると起こらない事件だといえる。「人が犯罪を作るのではない。犯罪が事件を作る」
という日向真奈美の言葉は「人が犯罪を作るのではない。社会環境が犯罪を作る」とも
解釈できる。「ああ無情」的だ。私が以前に見た香港国際警察の青島コートみたい服を
着たジャッキー・チェンの相棒のネタが青島係長の部下に中国から来ている研修の刑事が
いて香港警察の制服姿の父と写っている写真を見せて警察官の父の言葉で「魔女には
ひれ伏せ、讃えれば毒を吐き出す」といっていた。これは印象的だった。
犯人の前で中国拳法の構えをしたのはオーバーすぎだと感じた。これでは西村映造の
作品で忍者・芸者・てんぷら・寿司・サムライ・芸者を出してアメリカ人を喜ばせる
手法に見える。真下正義が署員の名前を覚えようとしている当たりと署長と副署長が
定年で新しい署長が決まっている辺りから元、の職場に戻ってくる木下恵介監督の
パターンだと先が読めた。拳銃保管庫から盗まれた拳銃の管理番号まで配慮して三丁
だけ盗まれている。犯人グループは五人なので不自然だ。必要最小限の数だ。
移転先の湾岸署にテロ対策用の防護壁を付けてシステムが乗っ取られシャッターが降りて
署員と引越し作業員が閉じ込められるあたりは機会に頼るより人間に頼れという事を
言っているようだ。職場では名前と顔が一致しているのは重要だ。
イベント映画として成功しているし、和久平八郎の甥・和久伸次郎が新人で配属されて
来る。形見の「和久ノート」に哲学的なことが書いてある。「死ぬ気になれ!
その時だけ生きられる。」それと青島コートが見つかり犯人を爆発から守るあたりも
連続ドラマと映画の連携が取れている。
登場人物も今まで関わりがあった人物を登場させることで、あの時の人と観客が思い
出せる。続き物なので観て損は無いと思う。要塞みたい構造は外国の大使館にこそ
必要性が高いのではないかと思う。犯人グループの名前が黒澤明の「野良犬」から
付けているようだ。日向真奈美が医療政務所にカウンセラーとして来ていた須川圭一
を操っるのに手懐けるオムライスを作ってやった話で遊◎機械/全自動シアターの
「僕の時間の深呼吸」のオムライスのレシピを思い出した。


2011年 3月 1日

『英国王のスピーチ』(2010年)トム・フーパー監督作品を観た。
アカデミー賞受賞作品だけに編集のタイミングが絶妙だった。
ジョージ五世がイギリス国王の時代であった1934年にエリザベス妃が
言語聴覚士であるオーストラリア出身のライオネル・ローグを紹介さる。
エリザベス妃はアルバート王子の仮名を使ってライオネル・ローグ
に予約を入れて1人で直接訊ねていく。エレベーターのドアが手動で
一瞬、誰かがドアの開け閉めをするタイミングを取ってから自分で
操作して部屋に行くあたり上手い。そして治療はローグのみすぼらしい
オフィスでないと出来ないと言われる。
ローグは当時では、本流とはいえない療法をもって成功していた。
過去のトラウマが原因で吃音症になるのは現代では知れているが
自信と度胸を付けるのが大変だ。そこで精神的プレッシャーが無い
状態を作るため1シリング賭けて最新の円盤レコードを作る録音機を使い、
王子にヘッドホンを付けてBGMで自身の声を聞けない状態にする。
そしてシェークスピアの『ハムレット』の長いセリフをレコードに
録音する。王子はレコードを再生して聴かないで、自分のセリフが、
ひどく録音されたと思い込むと同時に治療の効果が明確でなさそうに
思いこんでしまう。ローグは録音したばかりのレコードを王子にプレゼント
する。
娘のマガレットとエリザベスに何か話しをしてとネダられてパパは魔法使いに
ペンギンにされて南極に置き去りにされた。ニシンみたい形のハネで飛べない
し歩けない。だから泳いで帰って来て洗ってもらい魚を食べさせてもらった。
そしてママのキスで変身した。アホウドリにだ。羽根が長いからマガレットと
エリザベスを同時に抱きしめられる。という話をした。調度、燕尾服を着ていた
のでペンギンの感じが出ていると思った。
それからしばらくして父ジョージ5世のクリスマスのための
ラジオ中継の後で国王は王太子デイヴィッド王子とアルバート王子の
将来を心配だと告げる。国王はデイヴィッド王子について次期国王
として不適格だと考えているようであり、弟であるアルバート王子が
王族の責務をこなせるようにならねばならないことを強調して
きつく接する。帰邸後したアルバート王子は、ローグから受け取った
レコードを聴いてみる。そこには彼の吃音の症候はまったくない
『ハムレット』の台詞が録音されていた。
王子はエリザベス妃と自分の声を聞いて驚く。そして、王子は
ローグの治療を受けることにする為、再度、訪問する。
「王の謝罪を待つ者は、長く待たねばならない」というのはジョーク
らしい。
治療中はアルバート王子に対しても、愛称で呼び合うことを承知さて
リラックス出来る環境を作り出して療法を始めようと再度提案する。
口の筋肉をリラックスさせる練習や、呼吸の訓練、発音の練習などを
繰り返し行う。治療の時にエリザベス妃も手伝い王子の胸や腹筋に
乗っかって重りになったりする。王子もローグの家の薄汚れた絨毯に
横になったりする。ローグの部屋は禁煙で私の城だからここのルールに
したがってもらうとタバコを吸う時は、窓の所だけのようだ。
エリザベス妃が付き添ってきて手伝う事が無いと自分でお茶を入れて
飲んでいる。
ローグは、家族にも患者が何者か教えないで何年も治療していた。
ローグの家は広くないためローグの妻は来客中は外出している様子だ。
外出からローグの妻が少し早く戻った時にエリザベス妃が自分の家にいる
のに驚いてローグが奥の部屋からアルバート王子と出てきて紹介する
場面も面白かった。ローグには二人の男の子がいたが映画では
第二次世界大戦後の事は出てきていない。
1936年1月にジョージ5世が崩御し、デイヴィッド王子が「エドワード8世」
として即位した。しかし新しい国王はアメリカ人2度も離婚歴がある
ウォリス・シンプソン夫人と結婚するとバルモラル城で行われたパーティで
国王とシンプソン夫人の下品な姿を目の当たりにする。
アルバート王子はキルトを履いていたが革のスポランは型押しでサイフの
機能がない飾りのように見えた。
見かねたアルバート王子が兄王に離婚歴のある女性との結婚はできない
ことを指摘する。王は吃音症治療は王位がほしいからなのかと言い出す。
兄弟の関係は険悪になる。アルバート王子が国王になることを望むと
ローグに言われてアルバート王子は治療を中断してしまう。
結局、エドワード8世は、即位して1年も満たぬうちに退位して
アルバート王子が国王として即位することを余儀なくされる。海軍士官の公職を
だけだったアルバート王子は、この負担に大きな苦しみを感じる。
この時代ヨーロッパにおいてドイツのヒトラー政権のナチスズムやイタリアの
ファシズムにソ連の共産主義が台頭し、一触即発の機運となっていた。
英国も王家の継続性を保ち国民の奮起をうながすため、立派な国王を必要としていた。
英国王として即位したアルバート王子は、父親の跡を継ぐという意思表示も含めて
「ジョージ6世」を名乗ることになった。しかし、新国王の吃音症は依然として
深刻な問題だった。同年12月12日の王位継承評議会での宣誓は散々なものとなった。
ジョージ6世は再びローグを訪ね、指導を仰ぐこととなる。
1937年5月、ジョージ6世は戴冠式でローグが近くに臨席することを望んだが
カンタベリー大司教をはじめとする政府の要人は、ローグが公の資格をもたない
療法者なので他の専門家による治療を受けるように要求してローグを国王から
遠ざけようとする。今回はジョージ6世が、それまでにローグとの間に築き合って
きた信頼関係を第一とし、また彼自身が吃音症を克服しつつあることを自覚して、
ローグを手放すことをせず、彼の治療方法を信頼することにする。
戴冠式での宣誓はスムースに進行し、ジョージ6世はその様子をニュース映画で
家族とともに観る。さらに、そのニュース映画の一部としてアドルフ・ヒトラーが
見事な演説によってドイツ国民を魅了している姿に強い印象を受ける。
何を言っているか解らないが上手い。と言って宣戦布告の演説だと知らされる。
1939年9月3日、イギリスはドイツのポーランド侵攻を受けてドイツに宣戦布告。
第二次世界大戦が始る。そして同日、ジョージ6世も大英帝国全土に向けて国民に
演説をラジオの生放送で行うこととなる。ローグが付き添ってマイクの前に立って
リラックスさせて赤いランプが電波を出している間中に点灯しないように改良したり
気を遣っていた。赤ランプが点きっ放しだと悪魔の目みたいだとジョークを言っていた。
そして演説は大成功だった。
最初は苦戦したが後半は国王の演説に国民が聞き入っていた。演説が終わって
ローグがWだけ発音が今ひとつみたい事を言うと「私だと皆が分るように」と
ジョークが出るようになった。
未来惑星ザルドス(1974)のバックグランドミュージックと同じ「ベートーヴェン
交響曲第7番第2楽章」と思われる曲が流れていた。
そしてローグは特別に意味のある勲章と国王の生涯の友人であった。
と言うストーリーだ。派手な戦闘シーンがある訳でも無い平坦なストーリーだが
幼児期に乳母に虐待気味に育てられ食事が抜かれたのを親が気づかず3年も
酷い目に合って胃が弱くなって直らない。プラモデルが欲しくても父親が
切手集めが趣味で買って貰えずローグの子供のプラモデルを治療を受けている、
ご褒美に組み立てさせて貰うあたり王様も人間なんだとシンパシーを感じた。
公職は海軍士官だけと言うあたりで20世紀の終わりにイギリスとアルゼンチンが
短期間だが戦争になってアルゼンチンのエクゾセミサイルで沈没させられた
イギリスの軍艦に王子が乗っていて戦死したというニュースを思い出した。


2011年 2月27日

『野のユリ』(1963年)ラルフ・ネルソン監督作品を観た。
メキシコなのかアリゾナなのか解らないが旅を続けている黒人の
青年ホーマーの車のラジエターが熱くなり水を貰ったのが荒地を
耕して畑を作り崩れている教会を建て直そうとしている修道女たち
と関わることになる。シドニー・ポワチェがホーマー・スミスを
演じアカデミー主演男優賞を取った作品だ。修道女たちはホーマー
に仕事があると屋根の雨漏りを直させてもお金をくれない。
ホーマーもカトリックだが宗派が違う。修道女たちはベルリンから
来たと言う。ホーマは東かと訊ねると東ベルリンから亡命してきた
のでドイツ語で地元の人ともコミュニケーションが取れていない。
この地区は教会の建物が無くて神父がキャンピングカーで移動して
青空の下で礼拝する状態だ。腕の良い建設屋のホーマーは現金収入
を得るべく地元の建設業者で週に2日、重機の操作のバイトをする。
この会社の重機のデザインがモダンで近未来のSFを思わせる
感じでカッコいい。
そして教会のレンガを1人でレンガを積み上げている。材料が集まら
なかったが地元の人達が良い見世物だと集まって来て眺めている。
そのうちに手伝いたくなる。そして材料も集まりホーマーのバイト
先の社長も死んでからの保険だと資材を寄付してくれる。
そして教会が完成してホーマーは旅に戻る。自分の担当地区に
初めて屋根のある礼拝堂が出来た神父は感激してマザーの手を
握りしめていた。地元の建設業の社長は学校と病院もほしいと
修道院の院長に強請られている。院長は教会を建てても神に
感謝の祈りをする。ホーマーは自分にもお礼の一言あっても
良いと言うが、神が貴方を使わしたからと感謝の一言も無し。
支払いの請求でドイツ語の聖書とホーマーが自分の英語の聖書を
出して権利を主張する場面で「 野のゆりがどうして育つのか、
よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。 しかし、
わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、
このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。」
みたいにお茶を濁される。これが映画のタイトルのもとだった。
ゴスペルの「エイメン」を教える場面もあった。


『レナードの朝』(1990年)ペニー・マーシャル監督作品を観た。
ロビン・ウィリアムスが演じるドクター・セイヤーが面接を受け
ている場面から始まる。なんでもミミズから薬効のある成分を
抽出する研究をしていて臨床経験は医師免許を取るための実地の
時だけらしい。法的に医師の頭数を揃えるために採用される。
実際に勤務してみると意識が無いような状態で30年も入院して
いる患者が多いことに気づく。そして1920年代に脳炎に
かかった病歴がある事が共通点だと気づく。そんな時に新薬として
パーキンソン病の治療薬が開発される。異なる病気で臨床試験も
されていないのでレナード・ロウの家族の承認を貰って投与して
みると意識を取り戻す。最初は、ジュースで薬を飲ませて効果が
無くてPH(ペーハーのアメカリ性や酸性の影響)の関係だと
ミルクで薬を飲ませ直すと効果があった。そして同じ病状の患者に
も投与してレナードと同じように意識を取り戻すが薬の投与を
続けると薬が効かなくなって意識の無い状態に戻ってしまう。
だんたん効き目が無くなっていくのは辛い。この患者を演じた
役者さん達の演技力はスゴイ。一時はコミニュケーションが取れた
患者の意識が殆ど無くなるのは担当している人間としては辛い。
その後、どうなったのか解らないが患者にしてみると意識が無い
から眠っているのと代わらないから苦痛が無いのが救いのようだ。
短時間で治療法が見つかったりする病気がある一方で治療法が
30年前から代わらない病気もある。映画は実話が元なので
医療技術の進歩を願うしかないのだろう。
ロバート・デニーロがレナード・ロウ役で意識を取り戻した時に
ピッピーが流行っている中、ブラウンのジャケットに蝶ネクタイ
だったが服は父親の物を着ている設定なのかと思った。
レナードがベンチに子供の時に彫った名前が残っていた。木の
ベンチがペンキを定期的に塗って30年も残っているのは
ビックリした。
昔、アンドロメダと言う映画で謎の細菌でアルコール中毒患者と
泣いている赤ん坊だけ助かって酸とアルカリに弱いウィルスだった
というオチを思い出した。


2011年 2月26日

『東京物語』(1953年)小津安二郎監督作品を観た。
1953年の尾道(おのみち=広島県)から東京で
医学博士になって開業医をしている長男と「うらら美容院」を
経営しながら後身の育成に講師も引き受けている長女の所と
戦死した次男の未亡人の所の様子を見に両親が上京してくる。
紀子はわざわざ仕事を休んで二人を東京名所の観光に連れて行く。
大学生の様子を親が見に上京するのと違い孫までいる。
観光旅行にも連れていけないので熱海の旅館で温泉旅行を
させるが温泉の宴会のドンチャン騒ぎで眠れない。
かえって疲れる。そして東京に戻り尾道出身の友人と飲みに
行く。元警察署長に行政書士か司法書士と教育長の3人が
現役を退き息子の世話になっている。ただ東京は部屋が余分に
無い。来客を泊める余裕が無い。子供の様子を見て尾道に
帰ったら母親が危篤になってしまう。医者の兄と美容師の兄妹は
病状から喪服まで用意している。大阪の三男は出張で遅く着いた。
長女の志げは一番下の妹京子にとみの形見の着物を持って帰ると
言っている。
紀子は未亡人で血縁では無いから再婚してもいいんだと気を遣わせ
ないように義理の父に言われている。そして母とみの懐中時計を
片身に渡す。「贅沢を言わなけりゃいい家族だよ」と息子や娘の
現在の地位まで成功するのだって努力と勤勉に素質が無いとなれない
ことを冷静に受け止めている。何と言っても酒は普段から飲まない
から3人で飲んでも許せる。
さてこの東京物語の時代を現在にして「東京家族」というタイトルで
山田洋次監督がリメイクするが「おとうと」みたい違和感の無い
ストーリーと設定を今度こそ期待したいと思う。


『第七天国』(1927年)フランク・ボーゼイジ監督作品を観た。
第七天国ってなんだろうと特典映像を注意して観たら淀川長治の
解説では東西南北があって、地があり海があって、天がある。
という事らしい。「シーコウとディアナでヘブン」という
合言葉も作る。
姉と暮らしているディアナは、街娼で客を取れと妹を鞭で叩く。
ある日、街で倒れているディアナをシーコウが介抱する。
そこへ神父が現れて様子を見ている。シーコウは教会に5フラン
献金して道路掃除人にして下さいと祈ったけどなれなかった。
金髪のお嫁さんも5フランで祈ったけど見つからない。
だから無神論者だという。それを聞いていた神父がシーコウに
道路掃除人の鑑札を渡す。そしてドックタグみたいになっている
ロザリオにメダイユが付いた物を一組渡し何時か必要な時が来る
と話している。その時に警察官が街娼を捕まえてディアナの姉も
捕まっている。姉は妹も仲間だと言うがシーコウが僕の妻だと
ディアナを匿う。そして警察が部屋に確認に来るまで同棲する
事にする。
パリの下水道掃除人のシーコウは、下水道の
マンホールを見上げて道路掃除人になりたいと願っている。
住んでいるのはパリのアパートの七階でエレベーターも無ければ
水道は五階の水汲み場まで汲みに行く不便な住まいだが窓から
エッフェル塔も移っている。「シーコウの口癖は、僕は上を向いて
いる。だから出来るヤツなんだ。」とガッチリした大きな身体で
言う。シーコウは頼もしく優しく温厚で真面目な若者だ。
同居していると道路掃除人の同僚が七階の隣の建物
と行き来できる板を通って部屋に出入りする。朝は出勤のキスを
忘れていると言う。ホースの水で道路を洗うのが仕事になる。
そんなある日、シーコウはウェディングドレスを買って来る。
そんな時にドイツと戦争になり総動員法でシーコウや同僚に
神父さんも徴兵される。パリにドイツ軍が近づいたらタクシー
やバスに自家用車に兵隊を乗せて前線に運ぶなんて事をやって
みせる。フランス革命の国なんだと感心する。
午前11時にロザリオを握って「シーコウ」と「ディアナ」は
互いの無事を祈る約束をする。シーコウは戦場ディアナは軍需
工場で闘っているとディアナに気がある大佐に言い寄られても
断る。戦争に行って四年が経った。シーコウは伍長に昇進した。
戦争が長引いたら将軍まで昇進してしまうとまで言う向上心と
前向きのプラス思考がスゴい。世界恐慌前でも若さと健康があれば
何でも出来ると感じる。
しかし塹壕に逃げ込む時に重傷で死亡してしまう。衛生兵兼
従軍の神父さんがシーコウからロザリオを遺品として預かり
遺言も覚えた。そして休戦となりディアナにシーコウの戦死の
書類を大佐が届けに来ていた。
そこへ神父が形見のロザリオを持ってきて遺言を伝えた。
すると一時的に視力を失ったシーコウ本人が帰って来てディアナ
がシーコウの目の代わりに世話をすることでハッピーエンドらしい。
「上を向いて歩こう」の発想の元なのかも知れない。
シーコウのサッシュベルトが何とも言えない。腹巻みたいだが
アニメのワンピースに出てくる三刀流のゾロみたい感覚に見えて
くる。


2011年 2月20日

『喜びも悲しみも幾歳月』(1951年)木下恵介監督作品を観た。
昔の映画だけどカラーである。辺境の地で光を放っているが
注目されない灯台守にスポットを当てた名作だ。
主人公は三浦半島の観音崎灯台に配属され妻を連れて帰ってくる。
北海道から沖縄まで転勤して戦争中も灯台が攻撃されて多くの
殉職者を出しながら戦後も勤め続けて台長(だいちょう)に
なって観音崎灯台に戻り娘が海外に結婚して船で旅立つまでの家族
と職場のドラマである。劇中の会話で当時は灯台が750もある
と言うのには驚いた。灯台は、海上保安庁の管轄なので夫婦で
地方に赴任する駐在さんみたい感じだ。航海の安全を守る為の
任務なので不審船を取り締まったりということは無かった。
当時の運輸省(現 国土交通省)は海と空では航空管制まで
幅広くやっている。灯台の海や空はビジュアル的に美しい。
たが、実際に生活するのは大変だ。島に店が無い所もあるだろう。
10日に一度、船が来る所もあった。怪我や急病で医療を受けられない
可能性だってある。戦争中の描写から憶測すると赴任地の漁師から
魚を分けてもらったりして餓えることは無いようだ。
灯台を空中撮影して機銃掃射音を入れるとアメリカの飛行機目線で
攻撃しているように見えた。特殊効果も使われていない。
そして灯台ごとに殉職者名がテロップとして書かれる演出だ。
職員が身体を壊して灯台の明かりが消えると漁師は星と灯台の明かりで
現在位置を把握するが嵐の時には雲で星が見えなくなり暗闇で
命をつなぐのは灯台の光だけになる。戦争で徴兵されて出征していく
若者を見送りに行った若い職員が徴兵逃れの非国民と言われて
主人公が報告を受けて部下の仇と乗り込んで言く。相手は上官が
来てくれたと上座にあげて接待されて酔いつぶれて台車で運ばれる。
灯台という海上保安官では最前線で平時も戦時働き続けることを
理解しているのだろう。人間は自分の場所が無いと精神的に辛い。
僻地手当てが付くような離島に赴任したりするため長男は、高校を
卒業する前に都会に馴染めず不良に刺されて死んでしまったり
最初の赴任先に全国を転々とした間に精神異常になった妻と暮らす
先輩がいることから仕事の厳しさを覚悟するあたり色々である。
木下恵介作品といえば二十四の瞳では戦前と戦後を挟んで同じ分校
に赴任する流れである。戻るべき所が自分の実家なら寅さんで
山田洋次監督みたいになるのだろうが職場が中心で最初の赴任先に
20〜30年かけて戻ることで幾年月も勤め上げる事で感動を呼ぶ
パターンなんだと感心した。日本アカデミーの時期なので山田洋次
監督のリメイク版の「おとうと」は年老いた姉の所に定年していて
可笑しくない弟が転がり込んでくるあたり結核で学生で若く死んで
いくオリジナルの「おとうと」とは違うと感じた。
『喜びも悲しみも幾歳月』に話を戻すとGPSが普及して衛星から
船の位置を知ることができたり灯台の制御が信号管制みたいに遠隔
操作で行えるようになっても灯台は残してほしい。変わらずに同じ
場所にある事はスゴいことだと思う。制服は戦前は詰襟で戦後は
海保のダブルで作業時はベージュのツナギだった。
華やかに見える仕事ほど地味で大変な努力が必要だ。ただ腰を
落ち着けた人生を送るには、自分の居場所や戻る場所が必要だ。
それは寅さんの実家であったり木下恵介作品の最初の赴任地だったり
するのかも知れない。
灯台の空中撮影は鳥の目を持っているような気分がした。
自分の目の他に「虫の目と鳥の目」を持っていれば良いアングルで
絵を描いたり写真を撮ったりできる。水中撮影だと「魚の目」と
いう事なのだろう。「海猿」も海上保安庁の仕事がテーマだった。
ヒロインの「踏みつけられても蹴られても一生、付いて行く覚悟です」
現在だと女性の権利を主張しすぎて男性が引いているのも少子化の
原因かも知れない。


『路傍の石』(1938年)田坂具隆監督作品を観た。
時代背景は明治時代の中期。尋常小学校6年生の愛川吾一は勉強が
出来て度胸もあり、担任の教師・次野に何かと目をかけられていた。
没落士族で父親の庄吾が働きもせず山林の所有権をめぐる裁判や
自由民権運動に入れあげ、母・おれんが封筒貼りや仕立物の内職で
ようやく生計を立てていた。成績優秀な吾一だが、経済的な事情から
旧制中学校への進学を諦めるしかなかった。
それを見かねた近所の書店の主人で慶應義塾出身の黒川が学費援助を
申し出るが、プライドだけは高く、さらにおれんと黒川の関係を疑う
父にはねつけられてしまう。 結局、小学校を卒業した吾一は街一番の
呉服商・伊勢屋に丁稚奉公に出される。
主人や番頭と対面するなり、「吾一」の名前が読みにくいからと「五助」
に改名させられた吾一は、主人の機嫌を損ねて辛く当たられ、先輩に
いじめられ、辛い奉公生活をおくる。伊勢屋の息子は元同級生で劣等生の
秋太郎、娘は吾一の初恋の人・おきぬだが親から立場が違うと使用人として
辛く当たる。劣等生だが金の力で中学校に進学し学生服を着た秋太郎の
登下校を、吾一はうらめしげに眺める。秋太郎に宿題を押し付けられ
吾一が仕事の休み時間に代わりにする。習ってもいない算術が出来る
吾一は凄いと思う。そんな時に母親の・おれんが生活苦の中、入院を
薦められるが入院する金も無く困窮の中、心臓発作で急死する。
伊勢屋では悪い噂が立つのと吾一が仕事を、さぼって本を読んでいるので
役に立たないと出入りの古物屋に東京に連れていく様にしてしまう。
母を失ったが、故郷へのしがらみが無くなった彼は東京にいるという父を頼り、
上京して父が住むという本郷区根津の下宿屋を訪ねる。そこでは置屋みたい
場所だった。身寄りがあるのに奉公人をやっかい祓いする。
吾一は、下宿者で雑用や使いっ走りをやらされる。ランプ磨きに床の雑巾がけ
をやらされる。美大生の下宿人は親の仕送りで大学に行っている。
吾一も夜間の学校に行きたいと言うが断られる。
若田という美大生が「ダルマさんダルマさん お足をお出し 自分のお足で
歩いてご覧」と言う絵を渡す。世の中には声を出す絵と出さない絵がある。
という。初めて出前を食べる。翌日、ランプを磨いていると出前持ちが
どんぶりを二つ下げに来る。吾一は、文句を言われてランプのガラスの部分を
全部、地面に投げつけて割って下宿屋を飛び出して都会の中に消えていく。
その後が気になる終わり方で続編は見ていない。

明治時代が舞台だが何時の時代にも親身になってくれる他人もいれば利己的な
身内もいるという事だろう。 山本有三の小説のタイトル「路傍の石」の意味は
吾一の目から見て人生の足を引っ張る大人達なのかも知れない。
それとも頼る親のいない吾一の境遇なのかも知れない。宝石の原石は誰かが金を
かけて掘り出して磨かないと輝かない。そんな事を言っているように感じた。
どこにでも在りそうな話でありとくに価値のあるとは言えないけれども、
しっかり、そこに根が生えたように生きる吾一の生き方を暗示しているのかも
知れない。時代によって景気や社会情勢が違うから親身になってくれる他人も
いれば利己的な身内の比率や種類も異なると感じる。
「靴に入った小石」だとジャマになるが道の端にある石は気にしないと存在に
気づかないということかも知れない。


2011年 2月13日

『川の底からこんにちは』(2010年)石井裕也監督作品を観た。
タイトルがホラーっぽいので気にしていなかったが予告編を観て
笑えそうなので観た。オモチャのメーカーで派遣社員で働くOL
が実家で父親に代わって水産会社を立て直す話だ。ビールを飲んで
肝臓の健康に気を遣ったり子持ちのボーイフレンドと実家に戻ったり
なりゆき任せな人生が笑える。しじみのパック詰めをする会社だが
しじみが売れると資源が枯れてしまうが会社を立て直すのが先決と
頑張るしかない状況を生きているのが何とも言えない。
公務員の叔父が父親に100万貸す事になるが余命の無い事を
知っている。実家を抵当に取られるよりは香典の前渡みたいな
ノリで貸したようだ。
ゴミの分別でエコロジーなんて金持ちでないと出来ないとホンネを
漏らしたりする。しじみのパック詰めで売り上げ二倍にするあたり
どんな秘策かと思ったら工場のおばちゃんと子供を置いたまま浮気
に行ってしまうボーイフレンドの保育園に通う娘が写っている
パッケージに変えて豪華に見える分480円が530円に値上げ
してあったりする。父親に置いて行かれた幼女がテレビで児童虐待で
子供が殺されるニュースを見て殺さない?と聞くあたり時代を映して
いる。置いたまま出かけるあたりで、ネグレクトになっている気が
するが、良く出てくるセリフに「ど〜せ、大した事ない女」と
聞いているから、いいかげんな男でも仕方ないかと思ってしまう。
工場の従業員は、しじみ漁師の奥さんが工場で働いているから
結束は固い。父親は、余命の宣告どおり亡くなってしまう。
火葬場から帰って来て肥やしを撒いている畑のスイカ
を食べて「おばちゃん達」「え〜マジ」と呆れてしまう。
こう不況が続くと本来、面白いハズの映画を面白いと感じなくなり
景気の良い時に興味を持たないテーマに以外な面白さを感じる。
シンパシーのズレが生じているのが解るが評判が良いから皆も同じ
時代を生きているから良いのだろう。気合で持ち直して目先で生きる
しかないのがビール飲んで、しじみ汁飲んでマッチ・ポンプなのか
自転車操業で行く先が見えないと言うのが良い味になっていた。


『王様と私』(1956年)ウォルター・ラング監督作品を観た。
イギリス人の家庭教師(ガヴァネス)から観たタイ王国の話だ。
シャル・ウィ・ダンスが使われていた。時代背景が1860年代でシャムと
呼ばれていた。外交上、野蛮人と思われない為にディナーを主催したり
劇中でアンクル・トムの小屋を演じたり近代化の波に翻弄されている
ようにも見えた。アンナはイギリスのガヴァネスに該当するから習慣を
知らないとアンナが家来では無いという意味が解らなかったりする。
ダンスして王様は体調を崩して、子供達に看取られてあっけなく死んでしまう。
病気の原因は解らない。ユル・ブリンナーが王様役だった。
次に王様になる子供と病床で話をする場面もあった。
『Shall We Dance?』が悲しげな感じに聞こえた。
日本人のアニメ好きにはタイと聞いたらブラック・ラグーン
のロアナプラという架空の都市を連想してしまう。


『男と女II』(Un homme et une femme, 20 ans deja)(1986年)
クロード・ルルーシュ
監督作品を観た。
『男と女』の20年後を描いた作品だ。精神病院から男が逃げ出して
自殺するニュースが付箋になっている。20年後に2人は、子育てして
仕事も続けスクリプターから女は、製作総指揮を行う映画プロデューサー
になっている。
戦争映画で、大コケして次の企画に自分達の思い出を映画化しようとする。
男は、パリ・ダカールラリーを主催する地位になっている。息子は
ボートレースの船の設計をしている。映画の撮影の途中に女は二人で
砂漠を車で戻る時に遭難して二人で死にたい程に愛している。
そして、わざと間違った道を教えて無線壊してタイヤをパンクさせる。
水も捨ててしまう。でも男は冷静に捜索隊が来るのを待つ。
タイヤにガソリンかけて火をつければ発見されると思っていたら
枯れた木にガソリンをかけて煙を出してラクダに乗った人達に助けられる。
無理心中のゴシップも男が事故だともみ消してくれる。
死にそうになってから映画の内容を現代に変更して精神科医が患者を
使ったトリックで妻を殺害させたサスペンスを入れた。そして公開され
警察が見落としていた時間差のトリックが実際の犯行と同じ事が解り
ニュースで放送されて大ヒットになる。クロード・ルルシュ監督は
ドキュメンタリーで「白い恋人たち」という映画と「男と女」が代表作
だ。映画の恋愛物は、分別ある大人の恋の方が感動する。

2011年 2月 5日

『SHINOBI 忍』(2005年)下山天監督作品を観た。
甲賀卍谷と伊賀鍔隠れに潜む五名づつが徳川家康の命令で
殺し合いをしている間に服部半蔵が二つの隠れ里を滅ぼして
しまう計画だ。リーマンショック前に作られた作品なので
15億近い興行収益を上げているがSHINOBIファンド
方式など実験的な試みとエンドロールのクレジットの流し方
が出資者からみると映画作りに参加していない門外漢的に見える
感じがした。恋愛話はロミオとジュリエット的な状況だが
お互いの使命に忠実であるあたりは忍びなんだなーと思った。


『野菊の如き君なりき』(1955年)木下惠介監督作品を観た。
『野菊の墓』(のぎくのはか)という伊藤左千夫の小説が原作で
ドラマ化に映画化に舞台化されている。
二つ違いの従姉弟の純愛小説である。とぎついニュースが白昼に流れる
時代でも昔を懐かしむ意味でみるのには良いのかも知れない。
キャメラのレンズのフチを、ぼかして観衆は障子に穴を開けて覗いている
ような手法が使われている。


2011年 2月 2日

『道』(1954年)フェデリコ・フェリーニ監督作品を観た。
旅芸人のザンパノはジェルソミーナを1万リラで買い取った。芸は鎖を胸の筋肉で
切ってみせることだ。知能が少し低いが誠実なジェルソミーナとオートバイの
後ろにキャンピングカーみたいものを取り付けたオート三輪みたい車で旅に出る。
道化師の格好で太鼓を叩いたりトランペットを吹いたりするジェルソミーナは、
不器用でザンパノは辛く当たる。街に旅芸人が集まっている。そこで綱渡りの男
に出会う。サーカス団に合流するが綱渡りの男はザンパノと昔にトラブルがあった
らしい。ある日、ザンパノはナイフを持って男を追いかけ逮捕される。
綱渡りの男と警察から戻らないザンパノを残してサーカス団はバラバラに別れる。
ジェルソミーナは連れて行っても良いという人もいたがジェルソミーナは釈放される
までザンパノを待ち続けた。そして2人で芸をする日々をすごした。
教会でシスターから2人で食事を貰ったりシスターは2年ごとに修道院を移動する
という会話をしていた。
橋の手前でパンクした自動車を直す綱渡りの男を見つけてしまう。
ザンパノはゴム弼の缶を蹴っ飛ばし綱渡りの男を殴り男は時計が壊れたと言いながら
倒れてしまう。その男を川に放り込み車を橋の下に落として殺す。
ジェルソミーナは綱渡りの男の死を見て放心状態になってしまった。ザンパノは、
役に立たなくなったジェルソミーナを眠っている間に置き去りにしてしまう。
5〜6年の時が流れる。海辺の町にサーカスが来ている。ザンパノも合流して芸を
している。洗濯をしている少女の口から耳慣れた歌を耳にした。
鉄条網ごしにザンパノがたずねると、海岸にトランペットを持ったジェルソミーナと
思われる女が海岸に倒れていたらしい。そして暫くして死んだ。町長が葬ったとも言っていた。
海岸にやってきたザンパノは砂浜に倒れ込んだ。
「小石にだって存在意味がある」という劇中のセリフが記憶に残る。


『A.I.(A.I. Artificial Intelligence)』(2001年)スティーヴン・スピルバーグ
監督作品を観た。
少年の型をしたロボットに「愛」という感情をインプットされたロボットのデイビッド
は、母親の愛を求めて人間になろうとする。地球温暖化で都市は水没し子供を生むこと
を制限された未来の物語だ。ヘンリーと妻のモニカに難病で意識が無いままなので
デイビッドは息子の代わりに起動される。しかし息子マーティンが奇跡的に回復する。
デイビッドは森に捨てられてしまう。それでも「もう一度ママに会いたい」
とデイビッドは熊のロボット・テディとさまよう。捨てられたロボットの一団とともに
ロボット狩りのグループに捕らえられる。檻の中で、デイビッドは陽気で親切なロボット、
ジゴロ・ジョーと出会う。ジョーは寂しい女性の慰み者として春をひさいでいたが、
殺人事件に巻き込まれたため街を逃げ出していたのだ。デイビット達はロボット破壊ショーの
ステージに引き出される。恐怖に怯えるデイビッド。あまりに人間に似たその姿にショーの
観客たちが困惑する。そして水没したマンハッタンで青い妖精の像を発見する。
潜水艦の故障で海底に2000年埋もれたままになる。人類は滅亡して自己修復や改良する
能力のあるロボットだけが地球で歴史を研究したりDNAから絶滅した生物を蘇生させる
ことなどをしている。但しクローンは1日しか生きられない。しかしディビットは母親を
創ってもらった。
子供は、親を選べない。だが不思議なことに難民や貧困層にかぎって子沢山みたいだ。
親類・縁者に祝福されるどころか両親にも望まれない売春やレイプで生まれた子供が
いる可能性もある。ロボットに「愛」の感情を入れるどころではない。
そんな事を考えていたら眠ってしまった。映画のストーリーまで2000年眠って目が覚めた
所から見た。2000年の間には氷河期もあったようだが人類が滅亡した世界なので
興味が失せてしまった。テーマが難しいのが難点のようだ。人間の創造と破壊の二面性
にヒントがありそうだ。最近のスピルバーグ作品は時空を越えてしまう設定が多くて
かけがえの無い時間の概念については、感情移入に力を入れられないと感じる。

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