これまでの「今日のコラム」(2002年 12月分)

12月1日(日) 師走初日の日曜日、久しぶりにスーパーにいった。スーパーでは妻が買い物をしている間に商品のネーミングをみるのが楽しみの一つだ。誰もが知っているお米の名前は考えてみると随分気合いが入っている。コシヒカリ、あきたこまち、ササニシキ、ひとめぼれなど(カタカナとひらがなの表示はどうして変えたのか?)。まだ、まなむすめ、どまんなかなどというのもある。これが、農林100号というだけなら面白くないし美味しそうでもない。次の業界もネーミングに凝っている。いわく、金の粒、太郎、ブラック伯爵家、極小一番、、国産大粒、夏闘甲子園などなど・・。勿論、納豆の名前だ。お米と納豆と、純日本的な食物にネーミングの情熱がみられるのがうれしい。
「今日の作品」に「熊のぬいぐるみ」(ペン画)」を入れた。こうしたペン画は何も雑念がなく描くことができるので楽しい。また次も描きたくなっているのでしばらくは白黒ペン画を続けようかな・・。

12月2日(月) 話言葉は難しいと思うことが多い。会話レベルの言葉でも不用意に発した相手の一言で気が滅入る。大抵、相手はそんなに傷ついているなど想像もしない。また自分が同じように相手を傷つけているかも知れない。議論をする場合は話し上手は聞き上手などと云われるが強引に話の切れ目に割り込まなければ一言も云えないという場面もよく経験する。たまには相手が聞き上手、話し上手で心地よい座談ができる機会もあるがむしろそれはまれなケースだ。中学生の頃、年輩の家庭教師から「君は口べただね」と云われたことをまだ忘れない(教師はこんなことをいうべきではない)。一緒に習っていた「話し上手」の仲間は話が商売の弁護士になった。勤め人時代に一度政治家の講演会を聞きに行ったことがあるが、政治家がこれほど話が上手いものかと心底感心した。話の内容は忘れてしまったが話しぶりには感心というより感動した覚えがある。その政治家も今は失脚し名前もでない。口べたと云われた中学生は「巧言令色 少なし仁」という言葉をみつけて、人間は中身だよと慰めた。しかし最近はやはり言葉で伝えるためにそれなりの努力をすべきとの思いが強い。以心伝心では相手に伝わらない。外人に必死になって思いを伝えるように誰にでもきっちりした言葉を発することが必要だ。I love you.は口にだして云わなければならない。
12月3日(火) 東京都写真美術館で開催されている「遙かなる大地(中国文化の源流を求めて)ー馮学敏写真展」へいく。馮学敏(ひょうがくびん)さんは1952年、中国・上海生まれの写真家。まず「紹興酒の故郷」、「長白山参の故郷」、「景徳鎮・磁器の故郷」、「プーアール茶の故郷」などのテーマで展示が続いた。どれも中国文化への愛着と妥協のない写真芸術へ挑戦が感じられて、こちらも気合いを入れて見ることになった。写真がこれ程に表現力があるところで絵筆を握る人達は何を描こうとするのだろうと画家のことが頭をかすめた。写真展のハイライトは最後の「稲作の故郷」にあった。ここでは雲南省の「棚田」の何と表現していいか分からぬ、すばらしい写真をみてもう画家のことは頭になかった。internetでは馮学敏さんの紹介がnikon web gallery(ここ)にあり、この「棚田」の写真を数点見ることができる。芸術的な美しさ、表現力は勿論すごいと思うが、世界にはこんな「棚田」も存在するという現実を知らせる力が写真にはある。馮さんが私の友人の知り合いということで写真展を見に行ったが会場で当人のサインまでもらい、満足して帰路の自転車を走らせた。
12月4日(水) 米国で「少年ジャンプ」のアメリカ版が発行され大評判になっているというニュースがあった。売れ行きも好調らしい。日本の劇画やアニメは以前から世界で高い評価を得ている。絵のキメ細かさとストーリーの面白さが相まってとにかく質が高い。日本人の創造性、職人的技術は劇画やアニメの世界で力を発揮してこれからの輸出の花形となるかも知れない。劇画をつくる人をクリエータというのかどうか知らないが、最近イラストを描いたりパソコンソフトのデザインやCGを扱う人たちをクリエータというらしい。creatorは創作者(時には創造主としての神を指すこともある)であるからオモチャ作家、折り紙作家、詩人や作曲家もクリエータといってもよさそうだがもっと狭い意味で使っているようだ。そのクリエータさんから我が家に毎日E-メール(ある種の情報と自由作文)が自動配布される。大抵はそれほどずれた文章にはお目にかからないけれど、先日は驚いてしまった。「展覧会で、ピカソのわけの解らない絵を観て、感動している人たちが信じられない・・、子供の落書きのような作品・・」と真面目に書いているのだ。それこそ今の時代にピカソの凄さが分からないクリエータがいることが信じられない。勿論ピカソにも駄作がないこともない(特に専門外の陶芸)けれども、この人は本当にピカソを見たことがあるのだろうかと思ってしまう。ピカソの展覧会に行く人はピカソを理解し、またクリエータの中味も見破るに違いない。デジタルクリエータはまだとても劇画やアニメを創る人の域には行けないと思った。
「今日の作品」に「トナカイのぬいぐるみ」を入れた。クリスマスも近い、我が家のドアにはこのトナカイを取り付けてある。

12月5日(木) ダレソレの音楽はすばらしいがとても紳士とは言い難い醜悪な人間だったとか、魯山人の焼き物は乾山を凌駕するほど上手だが、当人は極めてつきあい難い性格で金力や権勢の前にはかけがえのない友も捨てた・・などと云われることがよくある。人が成し遂げた業績とその人の人間性とか人格は必ずしも一致しない。特に芸術方面ではその傾向は顕著になる。いい「仕事」をすれば少々人間として欠陥があっても許されるところがあるのかも知れない。一方で芸術仕事にはその人の人間性が表れるともいわれる。確かに個人の作り上げる作品はその人自身の反映であろう。醜悪な作者と輝ける作品の矛盾は作者が亡くなると解消する。もうつきあいもいらないので過去は美化されて作品だけが残る。作品が美しければ作者の性格などどうでもいい。外見だけでは分からない心の衝動が作品を作り出すのは分かる気がする。
12月6日(金) 陶芸では新しい経験をしている。経験とは「失敗」ということである。断面約60mm角、長さ約240mmのブロックの塊が二本脚の形をしたものを素焼きにだしたら見事に「破裂」してしまった。大きな破片を集めると10個ほどで、後は粉々。トラブルがでるとやる気が湧いてくる習性だ。破片をジグソーパズルのように合い口を探して組み立てると外観はほぼ保つことができた。本来なら無条件に捨てるところを自分で補修して再生しようと目論んでいる。全く同じ形状で、同じように作ったもう一つは問題なく素焼きが完了した。「破裂」を起こした原因追及を徹底的にやりたいのも習性だが、どうも要因が多すぎて決定的な判定はできていない。・・陶芸の話題と合わせて、以前制作した陶芸「自在一輪挿し」を「サンタさんの遊び場」にした写真を「今日の作品」に掲載した。この四角い一輪挿しは外観は破裂したブロックと同じ塊であるが内部は空洞にして水を溜められるようにしている。「陶芸コーナー」にはこの一輪挿しを使い紅葉を生けた写真も掲載した。これから陶芸欄には利用している様子を適宜紹介したい。
12月7日(土) 親戚の結婚披露宴で美味しい食事とお酒でほろ酔い機嫌。ビール(おかわり3回)、シャンパン、白ワイン(おかわり4回)、赤ワイン(おかわり3回)は最近にしては多目。コラムを書こうとすると酔い方が少ないのではないかと思えてきた。「李白 酒一斗 詩百篇」、これは李白は大いに酒を飲むが大いに詩も書くと杜甫が李白を評した言葉とされる。李白は「360日 日々 酔いて泥の如し」といわれたほどの大酒飲みだが飲めば飲むほど詩を書いた。酔うと確かに些細な身の回りの雑事を忘れて壮大な詩やロマンチックな詩でも書きたい気分になるのは分かる。もっとも、李白は伝説では酔って川に映る月をとらえようとして溺死したというから、ロマンチックになるのも過ぎたるは及ばざるがごとし。やはり、今の私の”ほろ酔い”程度がいい。
12月8日(日) 12月8日というと真珠湾攻撃=太平洋戦争開戦の日だ。マスコミではほとんどこの話題は取り上げられない。自分史ではこの時ほぼ1歳。その後苦労したのは親ばかりで幼児にとってはひもじいとか空襲の怖さなど全て自然の成り行きでしかなかった。
最近のニュースでは野次馬としては道路公団の民営化推進委員会の対立が面白い。中でも、「鉄道屋(=元JR東日本会長)が(道路を)決めるのはおかしい」「それなら委員長は鉄屋(=元新日鐵会長)でないか」「物書きの素人がなにがわかるか・・(道路族議員)」など感情的な発言に本音がみえる。私の持論として専門家ほど視野が狭くなり融通がきかなくなる。けれども本当の専門家は専門についての限界を知っているから常に謙虚であるはずだ。専門家面して変えない、できないを通すのは既得権の確保のためと誰にでもみえてしまう。強力な既得権グループがどれだけ謙虚になるかは最後は世論(選挙)の動向できまるのだろう。少なくともこの委員会は従来になく「議論」がみえるものとなった。経歴や組織の権勢だけでは思い通りにいかない会合、これだけでも大進歩に思える。

12月9日(月) 東京は12月にしては珍しい雪。所用で日本橋に行ったついでに丸善に寄った。はじめは新刊書に目を通す。毎回よくこれだけ本の「新商品」がだせると感心する。本屋以外ではパソコンやデジカメなどを扱う電気屋はいついっても新製品を見るのが楽しい。昔からオモチャ屋をみるのも好きなのだがオモチャの新しい名品はなかなかでないものだ。話は戻るが、本屋さんの新刊書もタイトルとか装丁は魅力的なのが多いがパラパラと中味を見てみると買わずにおくケースがほとんどだ。一つのベストセラーがでると柳の下に3匹も4匹もドジョウがいると出版社は思っているのか、売れた本の二番煎じも目に付く。本で商売をすることは分からないではないが少なくともそれを前面に見えるようにせずに「高い思い」の本をもっと見たい。その点、続けて見た「絵本」のコーナーは内容が豊富だ。外国の翻訳本も含めて種類が多いだけでなく質が高い。幼児向けの絵本といっても描き手が決して手を抜くことはなく気合いを込めてかつ愉しんで描いているのが分かる。子供に迎合することなく、そうかといって大人の独りよがりでもない夢のある本をみつけると本当にうれしい。特に外国の絵本にはハッとする発想や独創性があるものが多い。自分で絵本を作れないかと思ったこともあるが、まだまだとても子供の絵本など夢の夢と悟っている。
12月10日(火) 自分の車の歴史を思い出すと何となく微笑みが湧くことがある。中学生の頃には自分が自動車を運転することなど考えもしなかった。家で車を持つことは外国の映画だけの世界に思えた時代だ。それが大学を卒業する頃には中古の自動車が家にきて、免許も取った。結婚後自分で車を持ち妻も運転するようになったが、自動車は勿論中古。360cc(すばる)から1200cc(シビック)まで中古で出世して、以後新車で1500,最後に2000ccとなった。いまの車はもう13年間使っている。・・車の経緯をみても満たされていないことは決して不幸ではない。満たされないから希望があるし意欲も起きる(ただし車に関してはもうこれ以上ベンツにもジャガーにも乗りたいとは思わないが)。最近の若者ははじめからスポーツタイプの高級車など平気で乗ることができる。けれどもそれは必ずしも幸せなこととは思えない。最高のものを持って後はグレードダウンを心配するより、少し不満で夢を持った方がハッピーだろう。いま不景気だというがバブル時代が異常であって今が当たり前と思えば将来は希望がいっぱい!
「今日の作品」に「犬のぬいぐるみ」を入れた。コーギーのぬいぐるみは残念ながら持っていない。

12月11日(水) 12月10日はアルフレッド・ノーベルが1896年に64歳の生涯を閉じた日に当たる。よく知られているようにノーベルはニトログリセリンを使用して火薬より強力なダイナマイト(=ギリシャ語デュミナスで力の意)を発明し巨万の富を築いた。それでもノーベルは生前「危険はものを発明し大儲けした死の商人」など悪評が絶えなかったといわれる。遺言により「人類の未来に大いなる貢献をした発明家・研究者たちに」私財を提供するために制定されたノーベル賞とともにノーベルの評価も高まっただけでなく、スエーデンという国の誇りにさえなっている。今朝からストックホルムで行われたノーベル賞授賞式(ノーベルの命日に開催、小柴さんと田中さんの日本人ダブル受賞)のニュースが続く。スエーデンとかストックホルムは私にとっても非常に懐かしい。仕事で色々な国に行ったけれどスエーデンは一番印象がいい。というよりスエーデン人と気が合ったというべきかもしれない。スエーデンは日本の1.2倍の国土面積に東京より少ない人口(890万人)であるのに、テニスでは世界トップレベルであるほか、昔から高度な技術力を持っている。進取の精神に富み、好奇心旺盛というタイプが私の付き合った友人には多かった。普通は仕事の関係が切れればつながりもなくなるが、スエーデンの友人は今でも親しいメル友だ。
12月12日(木) あるデパートで絹谷幸二の小さな絵(3号程度か)が450万円の値段がついているのをみてびっくりしてしまった。絹谷幸二は私も好きだし芸大出身の人気画家であることは分かるが、それにしてもいかにも彼らしい(他にも同じパターンのがいくつもある)富士山と太陽の絵ではあるが会心作とは思えない絵が450とは!平山郁夫の簡単なスケッチがその価値とは無関係に100万ー200万円の値段が付けられるのを糾弾した本を読んだことがあるが、この業界ではバブルが復活したようにもみえる。価値が本物であれば作家の死後値段があがっていくところが、現役バリバリの画家が十分に報われるのはいいことかも知れない。ただ、こんな値段のつく先生方はひょっとすると自分を大家である上に天才と勘違いしたりしないかと余計な心配をする。恵まれすぎた環境から深い心の表現とか時代を突き破る力がでるのだろうかと思うが、絵画は作品が全てだ。お金がある人が購入するのは勝手だが、本当の評価は50年後ということだろう。
12月13日(金) 最近無性に油絵を描きたくなってきた。このところしばらく油絵を描いていない。私の部屋には昔描いたいくつかの自分の油絵が見えるように置いてあるが、不思議なことに突如として描き直したくなる。前の配色とか構図が我慢できなくなって半分は衝動的に手を加えたものもある。どうも人間の感性というのは絶対的な到達点は存在しないのでないかという気がする。勿論、うれしいとか悲しい、あるいは絶望的な時、希望に満ちあふれる時で気分とマッチする絵が異なっても当然であるが、感情とはまた違った感性の変化があるようだ。例えばピカソを見たことがない人がピカソに触れれば影響を受ける場合もあるだろうし、それまで接したことのない日本の浮世絵で西洋人はショックを受けることもある。個性というのもその人のあらゆる体験と環境の結果であろう。いい絵というのはいつまでみていても飽きない。何度も展覧会にいって同じ絵を見る度に新しい発見をしたり余計に好きになったりする。世の中には繰り返して接したり、時間が経過する内に見方が変わって以前ほど好きでなくなることは多いがやり直しがきかない。描き直すことができるというのは油絵のすばらしいところだろう。
12月14日(土) 「今日の作品」に「抱き人形」を入れた。この抱き人形は、もう10数年前だろうか、妻が近所のドイツ人の奥さんにドイツ流の人形の作り方を習って作ったものだ。頭の部分は子どもの靴下を使うなど人形作りにも独特の技やノウハウがあるものだと感心した覚えがある。長年本棚の最上部に置いておいたら最近娘の子供がめざとく見つけて机上に降りてきた。絵としては人形以上にパソコンに力を入れて描いたのが分かる。パソコンは私が毎日、毎時、愛用しているアップル・power-bookG4。描き手はパソコン画面のバックにフェルメールの「デルフトの眺望」を秘やかに描いて喜んでいる。キーボードの配列もそれなりに正確に描いたつもり。人形は10年前でも、10年後でも同じかも知れないが、このパソコンは今しか絵に描けない。これからも現代の名作機器を描き残すなんて楽しいかも知れない。
12月15日(日) どんなことにしても「この人は何をやりたいのだろうか」という見方で他人に接すると発見がある。スポーツでもそうだが積極的に攻めるよりもミスの少ない受け身に徹して世の中の勝負事に勝つタイプもいれば、守るよりも自分の足跡を何か残すために動くことが生き甲斐の人もいる。ところが面白いことに一般的には前者のタイプと思われる勤め人にも後者のタイプの人はいるし、また個人的に活躍している人々が「やりたいことが何かみえない」こともある。言葉では一応能書きがあるけれども本当のところ何を目的として活動しているのか分からない政治家、文章は存在するけれども当人のやりたいことが見えない作家、批評はするけれどもどうすべきか云わないジャーナリズム、今の時代に何を表現していいいか分からなくなった画家・・。一方では普通の主婦にしてもはっきりした意志を持って活動する人々も多い。大袈裟な理想というものでなくても、他人のために働くといった目標があるだけで輝いて見える。できることなら人はそれぞれに真にやりたいことがあった方がいいが、やりたいことというのは絶え間ない模索と発見により常にリニューアルされるものに思える。
12月16日(月) スエーデン・ストックホルムに新しいデザイン・マクドナルドがオープンしたという記事をみた。マクドナルドの店が総ガラス張りでデザインされ、最大の特徴は全て名品といわれる椅子を使っていることだという。まず、入口にはハーマンミラー社のLCM(=Lounge Chair Metal legs、 姿はここ)が並べてある。LCMはイームズ夫妻が1946年にデザインした歴史的名品で日本でもお馴染みだ。更に内部には、同じくイームズ夫妻の1950年デザインSide Shell Chair DSR(=dining side chair-rod、姿はここ)が何十脚。こんなマクドナルドならゆっくりと座っていたくなるだろう。東京の店ならば直ぐにでも行ってみたい。以前ストックホルムのある工場を見学したとき、当時我が家で懸命に手に入れたワリシーチェアが工場の団らん室に無造作に並んでいたことを思い出した。ワリシーチェアはブロイヤーが1925年に設計したスチールパイプを使用した椅子の名品、ワリシー・カンデインスキーが使ったというのでワリシーチェアと呼ばれている(姿はここ)。北欧の生活に密着したデザイン感覚は見習うところがありそうだ。
12月17日(火) 心霊現象や幽霊といった超常現象に興味を持つのは自由だが現代の科学では大抵のことは物理現象として解明される。夜のある時間になると家の障子がカタカタと音を立てて目に見えない不気味な訪問を受ける。家の周囲には何もないのに、これは呪われたに違いない。新しいマンションに引っ越した以降体調が優れないので何度もお払いをしたのに直らない・・などなど。これらは1kmも離れたところにあるボイラーの低周波の音が障子に共鳴して音を発生させるとか、耳では聞こえないマンション設備の低周波音が身体に影響を及ぼしているとか、低周波(あるいは超低周波)騒音に関する事例は一種の公害としてクリアになりつつある。普通の人が耳で聞くことができる音の周波数の範囲(可聴範囲)は40-14000HZ(一秒間の周波数)程度とされる(音楽の標準ラの音は440HZ)。100HZ以下の低周波騒音も問題になるが、耳には聞こえない1-20HZの超低周波騒音は始末が悪い。人間の身体も構造体としての共鳴振動数があって、振動数約5HZで背骨が共鳴するといわれる。背骨が共鳴すれば神経系統、脳にも影響を受けるから耳には聞こえない音で体調を崩す可能性は十分にある。ただ一方では生物としての人間はそれほどヤワでないと思いたい。太古から地球の回転音など聞こえぬ仕組みでできあがっている身体がどう現代に適合するか・・。
12月18日(水) 友人と「永遠の蒸気機関車/くろがねの勇者たち」という写真展(東京都写真美術館、2003-1-19まで)にいった。蒸気機関車には徹底したマニアが多く、私などは全くの門外漢であるが面白さはよく分かる。一つはエンジニアとして蒸気機関車という機械そのものが非常によくできたメカニズムであるのに改めて感心する。石炭を炊いて蒸気を発生させるボイラが先ずある。蒸気をシリンダに送り込みピストンの往復動を動輪の回転運動にかえる。こうして蒸気の力だけで20両、30両の車両を運ぶことができるすばらしい機械だ。容姿でいえばメカとしての必要な部分だけで構成されている姿が無条件に美しい。機関車が走るスピードであれば流線型も必要がないし、配管が胴体に縦横無尽に走っていても何ら問題はない。話は飛躍するが、美とは必要なものの中にあり、余分なものに美はない思える。必要なものはすべて美しい。植物や動物が美しいのは必要なもの以外何もないからだ。人間の肉体もこれほど完璧なものはないと云えるほど美しい(必要でない駄肉が醜悪であるのはいうまでもない)。機能美だけでは遊びだとか無駄にみえる芸術文化の美は語れないと云われるかもしれないが、人間にとっては遊びも芸術も「必需品」だから美になりうるのだろう。・・時々、蒸気機関車を思い出して必要なものだけを備えているか、駄肉がないかを見直すのが美を追究する奥義かも知れない・・。
12月19日(木) いつも何となくTVがつけっぱなしになっている時間にTVのスイッチを切り、あえて音楽もかけずに物音一つない静かな状態で居間に座っていると信じられないほど豊かな時間が持てることを実感した。普段、時間を有効に使おうとテレビを見ながら筋トレに励んだりすることばかり考えて時間はあっても「静寂」な時間とは無縁な生活をしている。けれどもほんの15分、30分間を音声も情報(新聞、書物、internetなど)もなしに過ごすだけで逆に豊かな気分になり元気が回復するのは不思議なほどだ。休養のために出かけた旅行先の宿舎でテレビばかり見ていることをバカげていると思いながら実は同じようなことを家庭でやっていた。最も安上がりのリフレッシュ法はテレビを消すことだ。新しいアイデイアや創造のエネルギーも静寂の中からのほうが生まれやすいのだろう。
12月20日(金) 最近たまたま二回続けてデパートに行った。はじめは日本橋の老舗といわれるデパートに寄った(買い物ではない)。前に来たのがいつであったか思い出せないので数年ぶりだったろうか。ところが陳列してある商品の雰囲気が余りに古めかしく買いたい物がないのに驚いてしまった。ただし値段は高価なものを並べて店員ばかり目立つ。後日、渋谷の大手のデパートで待ち合わせ店内を見て歩いた。ここは場所貸しのブランド店舗が並んでいるけれどやはり欲しい品物、あるいは魅力ある商品が見当たらない。顧客のターゲットとしていい歳をした男性など眼中にないといわれるかも知れない。それにしても客がいない。有楽町のそごうデパート跡にできたビッグカメラは1Fから5Fまで見てまわっても飽きない(ここでは自転車部品まで売っている!)。新宿の小田急ハルクには数年來いったことがなかったが、これも電気・カメラ専門店に変わってからは数回訪れている。お客が来ないことを不景気のせいにしているとデパートに明日はないと思える。
12月21日(土) 「今日の作品」に入れた「メリークリスマス/candle stand(陶芸)」は苦渋に作品だ。12月6日のコラムに書いた素焼きの時に破裂した復元品であり、その後破裂により他の人の素焼き品も壊したことの賠償金額をどうするかでゴタゴタしたいわく付きの作品でもある。楽しいはずの陶芸も金銭トラブルがからむと一挙に意欲が減退する。それでも接着剤により復元しクリスマスのキャンドルスタンドとして今この様に飾ることができる。全く同じもう一個は現在釉薬をつけて本焼き中で二個の組合せで更に色々なキャンドルスタンドとしての機能が発揮できる予定だ。今晩、陶芸教室での忘年会があった。この破裂品の二次被害者の人が快活に”よくある話し”と破裂トラブルを深刻に問題にしていなかったので救われた。苦労した子どもほど可愛いという言葉通りに、このつぎはぎだらけの素焼き作品は私にとっては手放せない一品となっている。
12月22日(日) 最近、なんでも「わざとらしさ」が目に付いてしょうがない。例えば陶芸では普通の徳利をあえて首を曲げてみるとか、お茶碗の縁をゆがめるとか、あるいは、角皿の断面を荒く削り跡を残して仕上げるなど崩した造形が大流行だ。作者が初めて完璧でないものに美を発見し信念を持ってそのような形を制作したものは、確かに見る者にショックを与えるし、いいものはいい。けれども作り手がただ安易にそれを真似したわざとらしいものばかりが目につく。絵の世界やまたテレビのコマーシャルなども同じことが云える。下手でもいい、くずれてもいい、勢いとか訴える力があればいいのだ・・というのは分かる。ただ、オリジナルはくずしても力があるがコピーには力がみえない。要は未熟なままに、わざとくずした「手抜き」作業があらゆるところで多すぎる。・・そうはいうものの、実行者としては物真似でないものを創り上げるのは容易なことではない。自然体で自分の必然性のあるものを表現することが一番難しい。
12月23日(月) 天皇誕生日の休日。朝7時まえ、日の出の時間にはいつもと同じようにアール(コーギー犬)と一緒に西郷山公園の丘の上にいた。眩しい太陽が顔をだしたが西南西の方向に見えるはずの富士山は厚い雲に覆われていた。それから丁度15時間後、夜の10時まえにアールの散歩で同じ道を一走りして帰ってきたところ。夜の散歩道はさすがに人通りは少ないけれどクリスマスの飾りが華やかにきらめいていた。一日を振り返ると、この15時間の間に特別な日として日常的でない行事や働きがあったことが夢のように思える。はじめと終わりが決まりパターンであると中味は幻となってしまうのか。ふと一生を終える瞬間には自らの人生が夢・幻に感じられるという話を連想して物寂しくなる・・こういう感覚は酔いのせいだろう。
12月24日(火) 「間抜けな」お父さん役は板に付いている。日本人にとっては間抜けの「間」は言葉では言い表せないが感性の根底に確かに存在しているようにみえる。mistakeは善悪の問題でなく「間違い」であって「間」がずれただけ。間が悪かったり、間合いを計るというのも微妙な感覚で数量では示されない。言葉としても、人間や仲間、世間、すべて「間」でつながっている。「間」は日本人独自の文化を創造する際に強力なヒントになると改めて考えさせられる。音楽は勿論のこと、絵画や彫刻でも「間」が価値を決めるといってもいいかも知れない。間を持たせようとしても間が抜けたことになりかねないが、当面「間」を一番に意識して物事を見てみようと思う。
「間もなく」クリスマス。イブに「今日の作品」
candle stand(陶芸)の新しい写真を入れた。
12月25日(水) 毎年クリスマスになるとこのホームページをどうすればいいか考える。e-mailでクリスマスの挨拶を交換するスエーデンの友人などがこの時だけは外国でホームページを見て感想を送ってくれるからだ。勿論日本語の文章やこのコラムは読むことができない。もう少し英語併記を増やそうかとも思うがシーズンが過ぎると忘れてしまう。それにしても自己満足でなく訪れた人が何か楽しく面白いと思うページにしたいとは思う。作家の邱永漢さんは「ほぼ日刊イトイ新聞」に執筆していて日に何万というアクセスがあるので「ハイハイQさんQさんデス(ここ)」というページを独立させたという。お金儲けの話はさすがに関心度が抜群であるようだ。お金とはほど遠いこのページは相応にささやかな工夫を加えながら続けていきたい。
12月26日(木) 年末年始の読書用に「謡曲集」を図書館で借りた。謡曲はいわば能楽のシナリオでシテやワキ、謡いなどが織りなすドラマ本である。これまで能は何回か見たことがあるが謡曲を読むのは全くの初体験だ。少し見始めたが(現代語訳もある)言葉の一つ一つに無駄がなくストーリーも洗練されているのには改めて驚くばかり。例えば、観阿弥作とされる「卒塔婆小町」。かの絶世の美女と謳われた才女、小野小町が百歳の老女となって現れ高野山の僧侶と宗教問答をし相手を論破する。最後に小町は狂乱状態になるが、かつて栄華を極め今は乞食となった百歳の主人公が壮絶に語られている。正月にまた読む楽しみができた。
12月27日(金) アール(コーギー犬)が犬の雑誌に掲載されることになって、今日は我が家で写真撮影をした。こうもり傘を逆さまにした反射光まで使ってどんな写真が撮れたことやら。はじめての経験で何か子供の父兄会に出席しているような感じだった。雑誌の発行はまだ3−4ヶ月先。
クリスマスが過ぎたのにMerry Christmasではおかしいと「今日の作品」を無理矢理「年末も紅葉」に入れ替えた。この絵は実は丁度一年前に描いた紅葉の絵に加筆したものだ。前の絵を見ている内にバックの青色が気に入らなくなり描き直した。妻からは描き直すよりは前のをそのままにして新しく描いたら・・といつも云われる。反抗して強引に加筆するのだが、この絵に関しては妻の勝ちかもしれない。まあ結果が良くなくても経験が成果になることもある。ホームページでは前の絵と並べて比較できるようにした(ここ)。

12月28日(土) 最近「技能」について考えさせられることがあった。「技能」といっても人は何を思い起こすだろうか。陶芸でいえばロクロで薄く確実に形を作る能力、絵画なら絵の具をムラなく塗るワザ、自動機械ではできない超鏡面を手仕上げでなしとげる技術、ソロバン技能の達人もいる。パソコン技能、営業技能、金融技能など専門職は見方によってはすべて技能職といってもいい。普通の人ができない技能が重要なことは云うまでもない。けれども技能を過大視することもない。技能に秀でた人は云うまでもなくその分野の達人であって、世間常識や法律知識、思想、見識とは無関係である。また、技能とそこから産み出される結果とは別物である。むかし、魯山人がロクロも自分ではできないのに他人の作った形に手を加えた上に絵付けをし傑作といわれる焼き物を輩出したことに抵抗を感じたが、確かに魯山人がロクロを廻す必要はないと思うようになった。ロクロの名人がいい作品を作れるとは限らないが、魯山人は誰も作れない作品を作ることができる。どの分野でも技能の先にあるものを見つめていきたい。
12月29日(日) 孫がくると、決まって象さんの絵を描いてくれと頼まれる。お馴染みの象さんだが象はただ身体が大きいだけでなく極めて興味深い高等な動物であることを知った。一つに象の長距離交信能力がある。大きな耳を持った象は人間には聞こえない低周波の音を聞き分けまた発信することができるという。低周波の音波については12月17日のコラム(ここ)でも触れたが、波長が長いので距離で減衰することが少なく遠くまで伝搬する。象は数キロ(非常時には10キロ以上)離れた仲間と交信できるそうだ。象はまた遊びの精神があるとかユーモアを解するとも云われる。動物で遊びができるのは高等な動物だけで、カラスが大風乗って遊ぶ現象はカラスの知能の証明にもなる。象さんにしても鯨にしても大型で生き残っている種はそれだけ優れたものを持っているということだろうか。これから描く象さんは耳の動きから表情までもっともっとよく見て描こう・・。
12月30日(月) 年の瀬の押し迫った近所の住宅街を歩いてみて、玄関などに正月用の飾りを付けた家が例年より少ないような気がする。これも不景気のせいだろうか。最近、ある若者がバブル景気を待望していると話しているのを聞いた。彼は勤め始めて未だバブルを経験したことがない、先輩にバブル時期の景気の良いボーナスの話などをきいてバブルよ来い・・という訳だ。云うまでもなく景気回復とバブルは別物だし、バブル時期がよかったというのも極一部を除いて幻影だろう。私の30数年の体験からも世間の景気と個人の分配とはほとんどリンクするものではない。・・バブルに無縁であると不景気にも無縁となる。我が家の正月飾りはお得意の”手作り”とした。ついでに玄関先に置く正月用の花指しを竹(我が家の工作用在庫品)を使って作った。これに松と千両と早桜を生けて仕上がり。自分ではユニークな飾りと思って気に入っている・・。
12月31日(火) 「去年今年(こぞことし)貫く棒のごときもの(高浜虚子)」
年が替わるからといって何も断絶があるわけではないけれども、大晦日になって掃除をしたり片づけをする習慣は変わらない。きれいになったとは誰も認めてくれない掃除でも自分の満足にはなっている。元旦のe-mailの準備をはじめた。これも他人のためというより自分で面白がっている。ノルマでやると思わなければ、酒も飲まずに励むこともまた楽しい。「酒五合 寝てすむものを 大晦日(幸田露伴)」

 

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