これまでの「今日のコラム」(2003年 4月分)

4月1日(火) 4月1日、月と年度が変わるだけで気分もあらたまる。タイミングよく桜も見頃。もう正真正銘、春がきた!春にちなんで今日は一茶の俳句づくしとしよう。子供に暗記させる俳句のサンプルに一茶の「日本は 這入口から 桜かな」とある。小林一茶の生涯(1763-1827)を考えると鎖国時代に「日本」の意識がそれほどにあったのかと思っていたが、案外に一茶には「日本」の言葉がでてくる。「けふからは 日本の雁ぞ 楽に寝よ」(津軽海岸での句でこれが日本の最北端だった)なんていう句もいい。子供用の句にもう一つ:「ぶらんこや 桜の花を 持ちながら」(原版では「ふらんど」でブランコの意という)。この句をみると今では桜の花を持ってブランコ遊びなどすると周囲から冷たい視線を浴びるだろうななどと余計な心配をする。一茶の歳を感じさせる句は余り好きではない。「夕ざくら けふも 昔になりにけり」程度の年寄り臭さは許せるが、「よるとしや 桜のさくも 小うるさき」となると何をほざくかと一茶翁に文句も言いたくなる。「あっさりと 春は来にけり 浅黄空」(一茶)

4月2日(水) 少し格式のあるホテルに泊まると部屋に「和英対照仏教聖典」が置いてあるのに気がついた人は多いだろう。聖書はよくホテルで見かけたが、ある時、仏陀の教えの現代訳と英語訳が並べて読みやすく編集されたこの本に出会って感激した覚えがある。後にこの本の発行には沼田恵範氏という個人が大きく係わっている事を知った。沼田氏(1897-1994)は精密計測機器メーカー、三豊製作所(現在、株式会社 ミツトヨ)の社長(創立者) でもあったが、私財を投じて「英訳仏教聖典」を刊行したり仏教伝道協会(ここ参照)を設立し、世界に仏教聖典を普及するためにこの本をホテルに寄贈することを推進した。以前、私にとっても三豊のノギスとかマイクロメーターといった計測機器はお馴染みであっただけに、計測機器メーカのトップがこのような慈善事業に注力している姿が驚きであった。仏教聖典は世界中に660万冊以上配布されているという。経済人とか経営者と云われる人は数知れないけれども沼田氏のように97歳まで思想の普及に活躍し死後もなお評価されるケースは少ない。
4月3日(木) 今は昔のように先祖代々の生活用品とか工芸品を引き継いでいくことは難しい。家を継ぐというシステムが無くなったこともあるが何より倉でもない限り収納スペースがなくて保管は不可能というケースが普通だろう。10数年前に父が亡くなった直後に、長兄が「収納スペースがない」という理由で父母が持っていたアルバムを全て”バリバリと”破り捨てた記憶が鮮明に思い出される。私はアルバム整理には割合にマメな方で年毎に家族のアルバムを自分でまとめる。家族写真というのは家族がいる間に見て楽しむもので世代を越えて引き継がれないとの思いは前述の体験によるのだろう。このところフォトショップ(パソコンの画像処理ソフト)で写真を整理していてこのアルバム写真もやがて破られることになるのかと思うと少し辛い。アルバムだけならばともかく何か文化や知恵の伝承も破り捨てられる気がする。スペースだけならCDに焼き付けることもできる。結局、伝承が出来るか否かは引き継ぎ手の精神と考え方にかかっているように思える。
4月4日(金) 「世の中は 三日見ぬ間に 桜かな」。開花が遅いと思っていた近所の桜もアッという間に満開になった。これまで桜は見るばかりで、絵に描いたことはなかったが、犬の散歩の時スケッチブックを持参して今を盛りの桜を描いてみた。<「今日の作品>に掲載> 改めて桜の花を観察すると、枝(あるいは幹)のいたるところから簡単に花を咲かせる仕組みになっているように見える。ピラミッドの先端部に栄養を届けてトップの花を咲かすというのでなく、フラットな組織体で後先関係なく養分が供給されるといった均質的な開花システムだ。したがって樹木全体が一斉に開花出来るのであろう。一方で、スケッチをしていると桜は華やかな一面はあるが何か健気(けなげ)で寂しげに思えた。盛りの中で直ぐに散り去ることを予感させる。描いてみると以前にも増して桜が好きになった。
4月5日(土) 前にコラムに書いたことのある「たそがれ清兵衛」(日本アカデミー賞受賞)や「千と千尋の神隠し」(動画部門アカデミー賞受賞)の例に見るとおり、いい映画やドラマは緊迫感があり一場面毎に無駄がない。2時間程度の時間枠の中に気力がみなぎり見ていて飽きることがない。それに対してTVの大河ドラマは一年間という膨大な時間を持てあましているように見えてまるで緊迫感がない。NHKの「宮本武蔵」をはじめに見たことがあるがとても毎週見ようという気にならなくなった。たまたま中村錦之介主演の映画「武蔵」をTVでみると大河ドラマと異なり息を付かせぬ面白さがある。ドラマは時間が長ければいいとは限らない。同じようなことは他のものにも当てはまる。私などは展覧会でただ大きいだけの絵画を見るより小さくても珠玉のような絵に感動する。小説なども長いものがいい訳ではない。何にしても気迫が凝縮しているもの(それは静寂な気迫もある)が好きだ。人生ドラマも「人生は短い」という緊張感がなければ気の抜けた大河ドラマになってしまう。
4月6日(日) 「春は、曙。 ようよう白くなりゆく山際少しあかりて、紫立ちたる雲の細くたなびきたる」(枕草子)。この時期「春」というだけでこの名文を思い出すことができる日本人は幸せだ。今のシーズンは和風が似合う。好天の日曜日、犬を連れて花見にいく。「花」というと桜。いろはがるたの「花より団子」も桜。昔はへそ曲がりが「花より団子」と云うほどに逆に花見を楽しむ人が多かったのだろう。今日の花見も団子はなくても花の見物人で賑わっている。風流は途絶えていない。「酒なくて 何のおのれが桜かな」と酒の入ったグループもあるが酒も桜の引き立て役にみえる。万葉時代から続くと云われる花を観賞するという風習が何の違和感もなく現代にいきているのがうれしい。アール(コーギー犬)も花見を楽しんだことだろう(?)。
4月7日(月) 今日、2003年4月7日が鉄腕アトムの誕生日であることは多くのメデイアが教えてくれる。50年前に2003年というとどんなにすばらしいロボットが生まれていることかと誕生日を決めた手塚治虫の気持ちがよく分かる。残念ながらいま現実のロボットはアトムと比べると赤ん坊にも満たないものであるが、当時科学技術の未来には無限の可能性をみていた。鉄腕アトムの漫画が発表された1952年には私は小学生。1949年に湯川秀樹が日本人初のノーベル賞を受賞したのことが子供心に科学への夢を膨らませたものだが、手塚漫画はもっと身近な娯楽でもあった。考えてみると、この頃やはり夢物語であった「月世界旅行」は現実に達成されてしまった。パソコンやインターネットは想像以上の進化といってもいいかも知れない。アトムは何故難しいか。昔も今も「心」の問題は簡単には解決できない。心優しいロボットなど所詮”夢”であるのだろう。
4月8日(火) 本を整理していたら「アンジュール/ある犬の物語」(ブックローン出版)という絵本がでてきた。久しぶりにページをめくると息もつかず一気に終わりまで見てしまった。見る度に、憤り、励まし、安堵など交錯した感動を持って読み終える絵本というのはそうあるものではない。「読み終える」と書いたがこの絵本には文字が一つもない。ベルギーのガブリエル・バンサン(女性)が鉛筆デッサンだけで作ったある犬の物語だ。はじめのシーンでは走っている自動車の窓から犬が放り投げられる。捨てられた犬は走り去る自動車を追っかける。どんどん、必死になって追いかける。ついには自動車は見えなくなってしまう。車の道をとぼとぼ歩いていくうちに犬を避けようとした車同士が事故を起こしてしまう。犬はそれでも歩き続ける。地を嗅ぎ、空に吠えて歩く。・・やがて小さな街でひとりぼっちの子供と出会う。子供と犬が感情を通じ合ったところで物語は終わる。言葉がなくても鉛筆一つでこれだけのストーリーと感動を伝えることができるのがすばらしい。この絵本は大切に保存することとした。
4月9日(水) 水彩画と油絵を比較してみると、それぞれ描き終えた後の精神にズレがあることに気がつく。それは水彩画は完成した後まず手を加えることのない一発勝負であるのに対して、油絵は重ね塗りによりいくらでも後で加筆ができることによる。前にも書いた事があるが、絵というのは時間が経つと見え方が変わることがしばしばある。よし、これで完成!とした絵が2−3年経過してみるといかにも欠点ばかりみえる。いや、2−3年など経なくてもその時の気分により1時間後には加筆したくなることもある。それが時により自分で前には無視していた良さが見えてくる場合もあるから複雑だ。後で加筆しても直さない方がよかったということも確かにある。よい、わるいの絶対評価はないから好みの感覚だけである。だから思い切りよく描いて終わりという水彩画の方が好きだと思うことがある。人生は描き直しのできない水彩画の面白さだろう。
4月10日(木) 早朝、犬の散歩の時に目黒川沿いの桜が気になって見にいった。やはりこの前の日曜日(6日)には川の両側に満開の桜が咲き誇っていたのに、昨日の強い風雨でほとんどが葉桜になっている。けれども少し離れたところにある枝垂れ桜(アールの写真あり、ここ)は前にも増して満開。どう風雨に絶えたのか分からないが強靱な桜もある。このホームページの「今日の作品」に掲載していた桜にも散ってもらって代わりに「雑草に春」を入れた。この時期、桜だけでなく一日一日で緑の変化する様も感動的である。庭の雑草が春を待ちかねていたように色づいた。石畳の隙間の土色が黄緑に変わっている。
4月11日(金) 目で見た瞬間にその詳細(=網膜に投影された姿)を記憶してしまうという特技が、脳にある種の障害を持った人に備わっている事例を聞いたことがある。その人は常人では再現不可能な細かな配置や特徴を一瞬のうちに脳裏に焼き付け、全く苦労なしに当然のこととして描き表すことができるという。また、痴呆症の老人が自分の息子や娘を全く認識できなくなるという話はよくあるが、自分の娘が分からなくなった人が、その娘さんの顔の輪郭、目鼻立ちなどを極めて正確に描くこともあるという。娘と認識できなくても、ものは見える。ものを見て描き表す能力というのは認識する力とは別個にも存在するようだ。脳の働きは奥が深くてまだまだこれから解明されることは多い。「能力がある」とか「ない」という言葉を軽々しくは使えない。
4月12日(土) 今朝の新聞で山口県長門市に「金子みすず記念館」が開館したとのニュースをみた。金子みすず(約600編に及ぶ童謡風な詩を残した)は1903年(明治36年)4月11日に現在の長門市に生まれたというから、生まれて100年を経た誕生日に記念館ができたことになる。26歳の若さで(昭和5年)服毒自殺した金子みすずは、死後73年たって開設された自分の記念館をどんな気持ちでみているだろう。私が金子みすずを偶然に知ったのはもう10年以上前であったか、金子みすずが自分の手帳に書き込んでいた童謡(詩)をみつけて世間に紹介した矢崎氏(今回、記念館の館長になられた)の著書を読んだことにはじまる。西条八十に認められながら世間的には全く無名で夫に詩を書くこともよしとされず苦労し、夫から悪性の病気をうつされる、離婚、更に2ヶ月後に自殺と薄幸の生涯が強烈な印象だったが、それ以上に、純粋で彼女自身の感覚があふれたみずみずしい詩に引きつけられたのを思い出す。その後、金子みすずの詩には多くの曲もつけられて”歌曲”までできているようだが、私は元の詩だけの方が好きだ。金子みすずの詩には仏教的な世界観が感じられるが、非常に日本色の強い「千と千尋の神隠し」が世界的な評価を得ることができる今、この「金子みすずの詩」を翻訳して広く世界に紹介できないものだろうか。(みすずの詩はinternetでも多く紹介されている:一例として 、 ここ
4月13日(日) 絵がいいと思うのは言葉とか理屈がいらないところだ。今日のようにお酒が入りコラムの改訂もシンドイ時、絵を一つ入れるとそれで済んでしまう。めずらしく油絵の「菫(すみれ)」を「今日の作品」に入れた。この菫の絵と合わせて水彩で細かい具象の絵も描いたので後日掲載したい。「すみれ」という名前はお馴染みだが描くことによって「すみれ」」の細部を観察した。すみれは雑草である。春の到来と合わせて我が家の敷石の間に紫の可憐な花を咲かせたが種類は何百種類もあるという。「山路来て何やらゆかしすみれ草」 (芭蕉)のすみれが我が家のすみれと同じであったかどうかは分からない。恥ずかしい話だがこの敷石の庭を見て10数年経過しているが、雑草の菫に気がついたのは今年が初めてである。「手に取るなやはり野におけすみれ草」
4月14日(月) 「声がよくなる本」を愛読している。咽喉(声帯)の医者である米山文明氏が書き下ろした本だが、今更歌をうまく歌おうとか演説をはじめようなどの魂胆は全くないので健康本のように楽しく読める。例えば、声の表情をつくるフェイストレーニング。口を広く、大きく開ける下顎のトレーニングから、唇のトレーニング、強くまばたきをしたり目玉をぐるぐる回す顔のトレーニングなど発声練習以前のトレーニングは風呂に入って実践する。発声練習で意外だったのは、普通の声は息を吐くときに発声するが、息を吸いながら母音を発声する訓練だ。「イ」を発音する口形で息を吸い込み発音をしてみると確かにできる。この「イ」の口形のまま言葉を吸い込み発音をすると腹話術ができるということも分かった。何にしても云われた通りに自分でやってみると上達するのが実感できるから面白い。「サ」行の練習文に、いまの季節に合う文章があった:「桜咲く桜の山の桜花 咲く桜あり 散る桜あり」
4月15日(火) 「菫(すみれ)2」を「今日の作品」に掲載した。一昨日の「菫1」と合わせて「今日の作品」ページに並べて掲載もしてみた。今日、載せた「すみれ」は菫の花と葉をそのままスケッチした水彩。前のは石畳の間からのぞいたすみれのイメージを油絵とした。同じ対象を描いた絵を並べてみると特別の感慨が湧く。今日のすみれのような見たままのスケッチは描くことの原点の楽しさがある。けれども絵としては何百年も同じように人はこのような花をスケッチしたことだろう。絵の個性をいう以前のスケッチだ。「すみれ2」の油絵もまだ具象性は強いし、現代の絵としては遠慮もみえる。もっと過激に、そして楽しく自分を表現してもいいのだろうか。二つ並べてみた「すみれの絵」に更に三つ、四つと新たなすみれの絵を付け加えてみたくなった。
4月16日(水) 最近、我が家で新しい”やかん”(薬缶=もとは薬を煎じるために使われた)を買った。子供の頃、蒸気機関の発明者ジェームス・ワットはやかんの蓋が蒸気で持ち上がるのをみて蒸気の力に気がついたと教えられ、自分の家のやかんを思い出し納得したものだ。今のやかんは蒸気がでても蓋は動かない。その代わり注ぎ口にキャップをかぶせておくと蒸気が笛を鳴らしてお湯が沸いたことが分かる。「蒸気」から連想する蒸気機関車などは過去のものだと蒸気の力を軽んじてはいけない。石油(あるいは石炭)を燃やす火力発電にしても原子力発電にしても全て蒸気の力で発電機を回す。現代の産業・文明の基礎には蒸気が大きく絡んでいるのだ。火力発電の場合、薬缶に相当する蒸気発生器であるボイラは高さが40m以上のものもある。このボイラで作られた蒸気をタービンの翼に吹き付けてをタービンを回す。タービンに接続された発電機が回ることにより電気が発電される(発電の原理は「フレミングの右手の法則」などを中学で習う)。一個の薬缶(ボイラ)で20万馬力という巨大な力(電力)が現実に作られていることを今の子供は習っているのだろうかとピーピー鳴るやかんを見ながら思った。
4月17日(木) 古い本をみていると、島崎藤村(作家、1872-1944)がこんなことを書いている:「面白く思って筆を執るということは、時とすると言い表そうとすることを妨げる。真に言わんと欲して胸を突いて起き上がってくることは、ただ面白いというものではないと思う。人を面白がらせること、自分で面白がること、どちらにしても邪魔になりがちなものだ」。藤村の言わんとすることは分からないではないが、世の中、「面白い」ものはそう多くあるものではないとも思える。テレビのバラエテイーはウケ狙いばかり目について笑えることは少ないし、新聞なども面白くして読者に媚びる姿勢が見えすぎて一向に面白くない。 私もこのコラムでしばしば「面白い」という言葉を使う。それは、興味深いとか感動的というニュアンスである。人生面白くなければ生き甲斐がないとも思う。本当に面白いもの、それは「胸を突いて起き上がってくること」でもあるのでないか。
面白いかどうかは別として「今日の作品」に「折り紙」を掲載した。

4月18日(金) 静岡では気温が30度を超す夏日になったという。東京でも26度を超え、部屋の窓をあけて風を通す。窓から外をみるだけでも気持ちのいい金曜日だ。窓は外界をみることができる特別な場所。「窓」という言葉は何か胸ときめかせるイメージがある。鎖国をしている時代は長崎の出島が外国の事情を知る狭い窓であった。窓を閉め切っている国は今も暗い。個人としても外の世界と交流できる窓口を閉ざすとアイデイアは枯渇する。どんな独創でも外界からの刺激を受けて創造の力を得ている。自分としてももっと大きな窓を開け、場合によっては他人の窓から中を覗かせてもらうくらいに外の世界から新鮮なエネルギーを取り入れたいな・・初夏を思わせる風を浴びながらそんなことを思う。
4月19日(土) 陶芸をもう一年続けることにした。そこで何かインスピレーションが得られないかと色々な陶芸作家の創作作品を見て歩く。最近の陶芸は徳利の注ぎ口を極端にひん曲げてみたり、あえて超凸凹の湯飲みを作ったり、板皿にしてもザラザラした溝をラフに付けてみたり・・とにかく「わざとらしさ」ばかり目立つ。この種のものは余り好みではない。崩れた美といっても作者が本当に心の底から湧き出す必然性がないと、物まねかリピート注文のように見えて迫力が感じられない。絵画でいえば、ルオーの厚塗りはルオーだから力があるが、同じ事を真似てやると嫌みである。「わざとらしさ」がなくシンプルであっても作者の意志は明瞭に伝わる。作者が力まずに自分を素直に前面に押し出している作品に説得力を感じた。結局、陶芸の創作のヒントを得るには、陶芸とは別に、工芸や彫刻の展示会、あるいはコンピュータグラフィックの世界など異分野を見るのがいいのかも知れないと思った。
4月20日(日) 新聞を購読していないことは前にも触れた。その代わり、毎日数種の新聞社のinternet記事やコラムなどはチェックする。internetの記事は見出しの大きさに差がないので予断を持たずに内容だけをみることができる。たまに新聞をみるとセンセーショナルに大きな見出しを付けているのでこれが同じニュースかと驚くこともある。新聞社は見出しの付け方で自己主張する。今日のinternet記事では「北京のSARS感染者339人、死者18人 大幅に修正 」というのがあった(中国衛生省が感染者数を40人から339人、死者を4人から18人に修正を余儀なくされた)。こういうニュースは反対にどの新聞社なら見出しをどうすると推察してみると面白い。SARS (Severe Acute Respiratory Syndrome、重症急性呼吸器症候群])関連ではもう一つ興味ある記事があった。「SARS連想、マスク姿の乗客に仏TGV車内でパニック 」。 フランスでは風邪などでマスクをする習慣はない。マスク姿の乗客がSARS感染者でないかと騒ぎになり列車が1時間以上遅れたという話。フランスではうっかりマスクなんかできないということだ!
4月21日(月) 咳が止まらないし熱っぽい。すっかり風邪をひいてしまったようだ。「妻の名を呼ぶこと多し春の風邪(山崎ひさを)」という俳句があるが、私は妻の名を呼ぶこともなく勝手なことばかりして妻に叱られる。雨上がりに自転車で原宿まで所用ででかけたが、頭がボーとしていたので車と人にはいつも以上に気をつけるようにした。家でも何も集中してやる気がしない。冷水でも浴びて逆療法をしようかとしたが止められた。いっとき横になったらアール(コーギー犬)がすり寄ってきて慰めてくれた。アールの散歩に行けば少しはよくなるかも知れない。
4月22日(火) 「スーパー楕円」という形状がある。デンマークのビート・ハインという数学者が数式を駆使して考え出したもので、円と正方形の中間というべき形状となる。円は直径と同一寸法の正方形と比べて面積が78.5%(=πr自乗/4r自乗)になってしまう。また、正方形や長方形では角の部分が無駄なスペースになる。そこで正方形の角が楕円で丸みを帯びた形であるスーパー楕円が使いやすくしかも無駄のない形状として提唱された。ハーマンミラー社のテーブルがスーパー楕円ということで有名だ。また東京ドームなど球場の形にも応用されている。陶芸の皿ではこのような形状を見たことがないので得意になってスーパー楕円の皿を作り始めた。ところが誰もこの形がスーパー楕円という特殊な形状だとは思ってくれない。こちらから形状の意味を説明したりするが、それでも誰も興味を示さない。そう、陶芸でも絵画でも出来上がったモノがどうなるかが問題で、能書きは必要ない。数学の方程式では陶芸の善し悪しは決まらないのは確かだが、誰も試みていない楕円公式でどんな完成品ができるか楽しみにしている。
4月23日(水) 花束をいただいた。薄いピンクの薔薇とアルメリア、それにガーベラ(これもピンク)と白のストックとフリージアが清楚にまとめてある花束だ。この花束の中からピックアップしてスケッチしたのが「今日の作品」に掲載した「白のフリージア」。何も考えずに描き始めて出来上がったものをホームページに掲載しようという段になって、丁度一年前のこの時期に「フリージア」という名の「今日の作品」を掲載したことが分かった(ここ)。去年のフリージアは背景に大きな月を配してやる気がある。今年のは喉をゼーゼーさせながらも風邪の全快へのほのかな希望を白のフリージアに託しているところ。冒頭の花束の中からなぜフリージアを選んだのか分からない。多分、「あどけなさ」(白のフリージアの花言葉)以上に連結された花の蕾の面白さにひかれたのだろう。
4月24日(木) 「今日のコラム」の経緯を素直に綴ってみよう。はじめに、今日は「ファジー理論」を書こうと思った。1990年代に一時ブームになった「あいまい理論」で、白黒はっきりした判断では片づかないファジーは面白いかと思った。けれども現代にファジー理論は新味はなく思えて止めた。次に関連して「最適化制御」をテーマにコラムを書こうかと思った。ロボットや株取引、戦争に至るまで最適化は現代にマッチする話題になると思ったのだが、これも気が乗らなくなった。最適化に関連して「最小自乗法」を思いついたがこれも独りよがりに思えて止めた。・・時にこんなことがある。絵を描くテーマについても考えすぎると全て”不適”に思えてしまうといった経験がある。「独りよがり」でも何でもかまわない、自分だけの世界と考えないとコラムも絵画作品も続かない。コラムのテーマに「最適化」は不要、「ファジー」(あいまい)OKということだろう。
4月25日(金) 外出したついでに、今、話題の「六本木ヒルズ」を見学してきた。六本木ヒルズ(東京・港区・一般説明はここ)は既成市街地の大規模再開発プロジェクトで今日がグランドオープン。プレオープンに招待された小泉首相が「世界に例を見ない街づくりだ。普通じゃない発想が盛り込まれている」と絶賛したとのニュースがあったが、こちらは雨の中、地下鉄(160円)を使って見学にいっただけなので少し辛口の感想を述べたい。まず、東京ドーム8個分という広大な地域に、文化施設(美術館etc)・商業施設・ホテル・庭園・オフィス・住宅などを配したことは分かるが、統一されたコンセプトが希薄でいわばドキドキするような刺激が今ひとつ。特に建築や通路のデザインがありきたりで、10年前の恵比寿ガーデンプレースと同等では物足りない。京都駅ビル(設計 原広司)やせんだい・メデイア・テーク(設計伊東豊雄 3月4日コラムで触れた)のように設計者が特定できずに、ゼネコンが総責任となっているせいかという気がした。自分流には自転車が走りにくい(内部の歩道は自転車が走れず、駐輪場も少ない)のが気になる。あとは代官山アドレスのように、犬を連れて歩いてはいけませんなどとならないことを祈るばかり。まあ、今日はオープニングの下見、これから順次、いいところも見つけていきたい。
4月26日(土) 風邪の咳が完治しない。テニスをして汗をかけばよくなるかと期待したけれども、しつこい咳は変わらない。体調がほんの少し優れない程度で元気のない自分をみて、ハンデイを持つ人が成し遂げる仕事を改めてすごいと思う。世の中には身体が不自由でも信じられない精神力の人がいる。久しぶりに本棚の「花の詩画集(星野富弘)」を見た。星野さんは事故で手足の自由を失い、わずかに動く口に筆をくわえて詩画を描き続ける(webでの作品参考ここ)。星野さんはこう書いている:「私が一つの作品を仕上げるのに、だいたい10日から15日かかります。一日にどんなに無理をしても2時間くらいしか筆をくわえられません」。 ・・咳ごときで甘ったれたことを言う訳にはいかない。
4月27日(日) NHK教育TVの「アクターズ・スタジオインタビュー」という番組がある(今日は16時からだった)。映画監督や俳優をゲストに迎えて、毎回、ジェームス・リプトンが司会とインタビューをする番組だが、見る度に、ジェームス・リプトンというインタビュアーが作り出す卓越した雰囲気と凄さに感心させられる。ジェームス・リプトンはまず相手について出来うる限りの情報を集め、また勉強をして自分のカードを山と準備している。その上で、相手に対して暖かい愛情というか尊敬の念を漂わせてインタビューする。けれども、ジェームス・リプトンは決してへつらいの態度を示さず、またへらへらした表情もみせない。最後に10個のきまった質問をするのも特徴だ。「好きな言葉は?」(情熱)、「嫌いな言葉は?」(無気力)、「好きな音は?」(ゴルフボールを芯でとらえた打音)、「嫌いな音は?」(ドアを閉めるガチャンという音)、「他のやりたい職業は?」(レーサー)、「嫌いな職業は?」(仕事一筋の重役)、「天国の入口で言って欲しい言葉は?」などなど。今日のゲストはシルベスター・スタローン。彼の回答(括弧内)がまた彼の人間性を表現していて面白かった。・・こういう番組をみると、日本の一部キャスターやインタビュアーの傲慢さが余計に気になってしまう。
4月28日(月) 時々、お金と時間が有り余っていたら「映画」を撮ってみたいと思うことがある。ストーリー、演技、画面構成、音楽などすべてに”黒沢”のように凝って作る映画ほどの道楽はないだろう。現実には、お金も時間もあったとしても、これはとても自分では出来ない映画だと脱帽するものに出会う。先日みた「wataridori」(ロードショウ公開中)がそんな映画だった。フランスの監督が3年かけて世界20カ国で100種類もの渡り鳥の物語を映画化・・と宣伝文句にあるが、この映画の面白さは「驚異の映像」にある。雁の雛が孵って最初にみたものを親と思う「刷り込み現象」(2003-3-18コラムで触れた)を利用し、渡り鳥の視点で撮影した信じられない映像の連続だ。人間を親と思い、親が乗っている小型飛行機を追っかけて一緒に飛行する渡り鳥をカメラで撮影したというが、渡り鳥の一員になって空を飛んでいるような感動を味わえるのはこの映画が初めてだろう(無数の鳥に対して、人間と同時に飛行機の音にも慣れるように刷り込みを行った執念は尋常ではない)。それと数千キロを周期的に往き来する渡り鳥をみていると、人間が地球上に作った国境の身勝手とちっぽけさを思う。
4月29日(火) 今日はみどりの日(前の天皇誕生日の方が馴染み深い)の休日。午後、池上本門寺(東京・大田区)千部会の植木市にいった。本門寺は日蓮上人(1222-1282)が61歳(数え年)で波乱の生涯に幕を閉じた地に建てられたお寺とされる。(東京・大田区には日蓮が足を洗った「洗足池」など日蓮に関連した地名が残っている) お千部の植木市として本門寺の植木市は有名であったようだが、今日いってみてその規模が小さくなってるのに驚いた。私などは30年ー40年前の状況は知らないが、昔を知る人によれば今の10倍はある大植木市であったという。しかし、考えてみるとこんな都心で植木の需要が無くなっているのは当然でもあろう。今は植木を植える庭はもう持てない。それでも、我が家には鉢植えの黄色とオレンジ色のナスタチウム(花や葉は食用にもなり寄せ植えをすると防虫効果もある)を買った。そしてもう一つ、アメリカハナミズキも手に入れた。来年以降のみどりの日にはハナミズキがどれだけ成長しているか、本門寺の植木市が細々でもいいから続いているか、楽しみに見続けたい。
4月30日(水) 新緑が目にまぶしい。若葉の緑は非常に微妙な色合いで、コンピュータで色を配合するとしても全ての葉っぱ一枚一枚が違った表現になりそうだ。色は色見本にしたがってマンセル記号で表記されるが、日本語は独特の色を表す言葉が多く、文学作品ではこの色の表現がより豊かな想像の世界をひらいてくれる。「その日は千曲川の水も黄緑に濁って見えた(島崎藤村)」・・これは分かり易い。「それはひわいろ(鶸色)のやわらかな山のこっち側だ(宮沢賢治)」・・「ひわいろ」とはヒワという小鳥の羽を連想させる色で黄色が若干強い「黄緑」。「女は箪笥からスカーフをだし、薄いはねのような若草色の絹で埃を払う(瀬戸内晴美)」。「若緑 双葉に見ゆる姫松の 嵐吹きたつよをもみてしが」。「浅緑 染め懸けたりと見るまでに 春の柳は萌えにけるかも(万葉)」。まだまだ、黄緑系統の色の名前だけでも、もえぎ色(萌葱色)、草色、苗色、柳色、わさび色などがある。・・色をこれほどまでに使い分けるデリケートな感性が日本文化の特質なのだろうか。

 

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