これまでの「今日のコラム」(2003年 11月分)

11月1日(土) 他人にはできない足跡を残したり独創的な仕事をした人は世間と遊離していたとか外界を超越して暮らしたなどと思うのは大きな誤りである。どんな人も友人、知人、周囲の環境、時代に大きく影響される。周りから学び磨かれてその人が存在している。オランダ生まれのゴッホは暗い絵ばかり描いていたが、パリにでかけて当時花盛りの印象派の絵画に出会い、ロートレックやゴーギャンらの友人を得る。更に明るい太陽の南仏に暮らして描く絵はわずか2−3年の間に以前と比べて格段に明るいものとなる。日本の浮世絵にも強く影響を受け、模写までしたことはよく知られている。模写といえばゴッホはドラクロアやミレーの模写もしているが、どんな模写をしても、また、どんなに友人に影響されてもゴッホが描く絵はゴッホ以外の誰のものでもないところが面白い。・・土曜日の恒例、自転車で神宮のテニス場にいった帰りに「青山芸術祭」(netではここ、11月3日まで)に寄った。デザインアワード2003という催しでは表参道、青山通り(東京)などに126作品のフラッグ(「私のイメージする日本」というテーマでデザインされた50cm*80cm程度の旗)が展示されている。投票用紙をもらって好きな作品に投票することもできる。それと"Hairdressing Awards"というヘアドレッサーの賞もあるのが青山らしい。街の活性化としての催しであろうがこの街は私にも心地よい刺激を与えてくれる。

11月2日(日) ヴァレリー・アファナシエフ(1947年モスクワ生まれ、現代のカリスマ的ピアニスト、1974年ベルギーに亡命、パリを拠点に活動中)音楽の一ファンである私は彼と頭に共通性を見いだして特に親しみを覚えている。頭といっても「頭脳」でなく「髪」であるが・・。そのアファナシエフ(来日中)がファックスでインタビューを受けた内容を採録したものが「意味の取り違えがある」として文書(アファナシエフ名の訳文)で本来の発言の趣旨などを解説している。「・・このインタビューで質疑応答の両義性から生じた誤解から・・”いいえ”という答えが”はい”と解釈され、”はい”という答えが”いいえ”と解釈されてしまった・・」という詳細の内容は明確でないが、「演奏において大切なのは結果であるより寧ろ過程なのだ・・」と受け取れる発言は誤解されたもので「最重要なのは結果」であることなどを説明している。興味があるのはアファナシエフは日本人のインタビュアーとの行き違いを「・・道教の思想家がしばしば語っている”対極との出会い”の具現化がしばしば起こることの実例のように思えました(訳文より)」と書いているところ。単に「インタビュアーのボンクラがいい加減なことを書いて・・」などと云わないところが世界のアファナシエフだ。道教は相矛盾したもの、必然的に対極にあるものの考え方を教えてくれる。陰があるから陽が成り立つ、昼は夜があるから昼となる、悪がなければ善はあり得ない。人の考えを正確に聞き出すには陰陽の見極めが必須であろう。対極の出会いに気がつかないのは他人事ではない。
11月3日(月) 今日の休日、東京は雨。「文化の日は爽やかな秋晴れ」という約束を天気の神様は伝承するのを忘れてしまったとみえる。徒然なるままに・・「徒然草」(1330年頃編纂)でも紐解いた。第117段、「友とするに悪き者」の七つ:「一つには、高くやんごとなき人。二つには、若き人。三つには、病なく身強き人、四つには、酒を好む人。五つには、たけく勇める兵。六つには、虚言する人。七つには、欲深き人」。吉田兼好(1283-1350or1352)がこの時代にこれほど本音で書き残しているは驚異だ。「健康で病知らずの友」(三番目)や「強くて調子のいい友」(五番目)を敬遠するのは、他人の痛みが分からないところを云っているのだろう。670年前に書かれた内容がどれをとっても現代でもそれほど違和感がないのは考えると凄いことだ。「 よき友」は次の三つ:「一つには、物くるる友。二つには医師。三つには、智恵ある友」。徒然草一つとってみるだけでも日本の文化の質が分かる。
11月4日(火) 青臭い云い方で少し気が引けるが、私が毎日自分自身に言い聞かせるキーワードは「勇気」である。最近、全ての行動の源に勇気が欠かせないとの思いが強い。このような事をあえてコラムに書くことにも勇気がいる。電車でお年寄り(私は年寄りでない)に席を譲るにも多少の勇気がいる。競技スポーツをする時には勇気はより実感しやすい。勝負事であるから自滅することもないことはないが、リスクを覚悟で勇気を持って挑戦しなければ勝ちは覚束ない。一方で状況に応じてむやみと攻めずに自重するのも勇気である。 絵を描く場合あるいは陶芸においても「勇気」が何より必要となる。勇気を持って新しい試みに挑戦する、時に基礎を学び直す勇気もいる。勇気の反対は現状維持、安全第一、何もしない、大勢(流れ)に順応、意見を云わぬことなど・・。近頃は若者に「勇気」などという言葉は死語であるかも知れない。満たされて何もしないで済むのであれば勇気などいらない。けれども若者には本来的によき勇気が備わっているはずだ。それより年齢を重ねて安定志向に成りがちな熟年以降にこそ、意識して変わる勇気、行動する勇気を持ちたい。
11月5日(水) ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ(1853ー1890)が没後100年以上を経た現在、世界中で名前を知られてその絵は何億円という超高値で取引されるのは、ゴッホの弟テオの奥さん、ボルゲル夫人がいなければありえなかった。よく知られているようにゴッホの37年の生涯で売れた絵は「赤い葡萄園」という絵一枚であった。それも自ら命を絶たんとする37歳の年に友人の姉が購入したものだ。弟テオはボルゲルと結婚した後もゴッホが絵を描くに当たって経済的な援助を惜しまなかった。ゴッホの死の翌年にテオが追うように亡くなり夫人は未亡人となる。それでも夫人は義兄の絵の価値をあくまで信じていたし、夫テオと兄ヴィンセントとの10数年に渡る手紙のやり取りを几帳面に整理して保存した。ボルゲル夫人の凄いところは、ゴッホの死後、実に24年(!)経った1914年に書簡集「ゴッホの手紙」を出版したところである。まず、この書簡集が評判となり続いてゴッホ回顧展で売れなかった一連の絵画が世間に認められるようになる。もし、ボルゲル夫人がいなければゴッホの絵はほとんど暖炉で燃やされていたかも知れない。以前、ゴッホ美術館(@オランダ・アムステルダム)で一作一作をゆっくりと見てまわったことがあるが、その時もある意味で生前売れなかったことはよく理解できた。自分の客間に飾ってパーテイーの席で楽しもうという種類の絵画ではない。しかし、「ゴッホの書簡集」と共に絵を観賞すると、訴える力強さは比類がない。何より世界中のどれだけ多くの人がゴッホの絵で勇気づけられたことか。ゴッホの絵を語る時、逆に”売れる絵”とは何かを考えさせられる。
11月6日(木) このホームページの表紙、「今日の作品」に一週間以上同じ絵を掲載しているのが気になっている。毎日の成果がないかというと、そうでもない。このところ油絵を描いている。水彩画であると一気に描いて終わりとなるが、油絵の場合終わりがない。少しずつ描き足していく過程を「今日の成果」として掲載するのも面白いだろう。それともやはりHP用に毎日デッサンをするか。・・「今日の作品」の改訂はできなくても「コラム」は改訂できる。こうしてコラムを綴る自分の姿をみてみよう。暗くなり始めた頃に帰宅して自分の部屋に直行。直ぐにパソコンをひらき「ダッタンそば茶」(つぼ木製茶本舗・大阪/原材料中国)の粒をおやつ代わりに口に含みながらキーボードを叩きコラム改訂開始。せめてお茶でも飲みたいが思うに任せぬ事情あり。何かないかとパレットの下をみれば「手づくりの味・飴菓子」(植村製菓・愛媛県宇和島)発見。今度は飴をなめながらキーボードも快調になる。・・コラムの改訂も、こんな小春日和の日向ぼっこを延長したような平穏の中にある。
11月7日(金) 「アラベスク」というとシューマンやドビュッシーなどの音楽を連想したり、バレーの踊りを思い起こす人もいるだろう。最近、私は模様としてのアラベスクに興味がある。アラベスクはアラビア風の模様、転じて装飾が多くて華やかな楽曲となったりバレーでは腕の曲線や脚の直線にアラベスクをみる。アラベスク模様はイスラムの教義が偶像崇拝を禁じたため抽象的かつ平面的な装飾模様として発展したとされる。幾何学模様や唐草(植物)模様、組みひも文様など多様な広がりを持つ。西洋では溢れるほどのキリスト像や宗教絵画があるのに対し、イスラムの世界での抽象文様は人間の美意識が全く異なったやり方でこうして発露できるものだと驚くばかりだ。・・「今日の作品」に「ユリ(油絵)」を掲載した。これはいま制作途中の絵。これから先、どんな風に完成させるか予測がつかないが未完成でも「表紙」の気分を変えたかった。バックはアラベスクとは云えないが幾何学模様としている。
2003年後半の絵=ここ

11月8日(土) 妻は私が入浴後の体重が入浴直前に計った値より400グラム少なくなるといってもガンとして信用しない。そんなに減ることはあり得ないと頭から決めつけている。私は技術者・科学者の系列であるから事実のみをみる。先ほどあらためて入浴前後の体重を比較するとまたまたピッタリ400グラム減っていた。体重計の精度は50グラム、風呂に入る前後には真っ裸で計測する。事実がそのようであれば次には理屈を考えてみる。計測の誤差は50グラムなので要因としては除く。体重が減る要素としては、汗、垢、それに風呂に入っている時間の新陳代謝量であろうか。以前、睡眠中の新陳代謝による体重の減少は500-700グラムあるというデータは採取した。土曜日の夕方、運動で疲労した状態で30分間風呂に入る間の新陳代謝は7時間睡眠中の1時間分ぐらいに該当するとみれば、新陳代謝分は100グラム。運動後の垢も無視はできないと思う。身体の表面積当たりの垢の量なんてデータがあるかどうか知らないが、50グラムの垢は多すぎるか?残りの250グラムは汗。汗は時間により250-300グラムでも出るかも知れない。ただし推論だけでは説得力は弱い。「・・それでも体重は減っている・・」とつぶやきながら、更にデーターを積み重ねつつ・・いつか妻を納得させられるだろう。
11月10日(月) 昨日は箱根にいった。東京から箱根には東名高速を使うと1時間半ほどで着いてしまう。曇り空であったが雨はまだ降り出す前だったので車を止めて箱根旧街道(東海道)を約2時間歩いた。スタートは箱根旧街道・一里塚(江戸より23里とある)。石畳を敷き詰めた旧街道には遊歩道として各所に案内板があり興味深かった。例えば江戸時代初期に作られた石畳には独特の石積みの技術があり排水路も巧みに工夫されている。また箱根に出没した「雲助」は悪党のイメージがあるが実は小田原で登録された人足で悪いことをする人ではなかったという。雲助に登録できる条件:1.力もち、2.荷造り上手、3.歌がうまいこと。今も昔も歌は人を和ませるサービスだったところが面白い。途中、甘酒茶屋で甘酒を飲み元箱根までのウオーキングは昔の箱根越えとは比較にならないだろうが、自動車を使わない街道歩きはなかなか楽しい。
「今日の作品」に「箱根・仙石原にて」を掲載した。旧街道とは随分違うが即席の現地スケッチ。

2003年後半の絵=ここ
11月11日(火) 絵画では評論家が画家の意図や心理を詳細に解き明かして説明されることが多い。無心に絵を鑑賞しようとする時に作者が自ら語ったのでない推測の解説は邪魔になる。芭蕉の俳句:「道のべの 木槿(むくげ)は馬に 食われけり」も余計な解釈の被害を受けた一つである。木槿(net例ここ)は朝開花して夜にはきちんと花を閉じて落花する短命な花で、「槿花(きんか)一朝の夢」とか「槿花一朝の栄え」と云われる。このことから芭蕉の句ははかなさを詠んでいるとみなされたり、道のべに枝を突きだしている木槿は馬に食われるように、出る杭は打たれる、出しゃばらぬようにと諫めた教訓的な句と解釈される。このことから正岡子規はこの芭蕉の句を教訓的で「最下等に位する」詩歌と決めつけた。誰でも説教をされるのは好きではない。新聞のコラムなどでも教訓話に出会うと嫌みである。けれどもこの場合、鑑賞者の解釈次第でいかようにもなる典型で、芭蕉批判は子規の若気の至りであろう。ただ時代を考えると余命少ない正岡子規(1867-1902)が必死に新しい俳諧を模索している健気な思いも伝わってくる。何にしても鑑賞する立場では評論家の解説をきかずに自分の感性で接するのが第一だ。筆者、作者としては自分の思いとは別に勝手に解釈されるのは宿命だろうか。
11月12日(水) 今日は我が家で飼っていたコーギー犬、アンの命日になる。2年前の11月12日にアンは介護する私の腕の中で息を引き取った。散歩にも行けないアンの異常に気がついてから2-3日しか経っていなかったし、10歳になったばかりで死ぬなんて考えもしなかった突然の別れだった。私の場合、アンの娘アールも一緒だったので翌日もアールの散歩にも行くなど生活のリズムに変わりはなかったが、それでもアンのいない淋しさは格別だった。・・動物には全て寿命がある。時期のバラツキはあるけれども死だけはどんな動物・人間にも完全に平等であるところが自然の見事さであろう。人間も含めて死があるから生きている期間が尊い。死は特別なものではなく悔やんでもはじまらない。後で悔いのないように共に存分に生きることしか出来ることはない。・・そんなことを考えながら、アールをみる。アールは今、アンが息を引き取ったこの部屋でキーボードを打つ私の足を枕代わりにして居眠りをしている。
11月13日(木) 丸紅のインターネット直販サイトでパソコン価格を一桁少なく表示してしまい、誤りに気がつかぬまま1500台分の注文に応じざるを得なくなったというニュースがある。本来198000円のNEC製の新型デスクトップPCが19800円の超格安という情報は2チャンネルなどの掲示板を通してアッという間に広がり、丸紅が”異常に多い注文”から誤表示に気がついた時には1000人が約1500台を注文済みであった。丸紅は民法上の”錯誤”を理由に契約の取り消しを計ったが猛烈な抗議を受け”社会的信用”のため結局表示価格のまま注文済みの客には販売することになった。損害は約2億7000万円とか。誤表示の原因は丸紅側の”単純なインプットミス”というがそこが問題だ。どんな数字にしても表に出すまでには二重、三重の確認をするのは当たり前ではある。これをダブルチェックというが重要度に応じて人が入れ替わり何重にもチェックを行う。そこには元来人間は必ずミスを犯すという大前提がある。私が関与した機械設計の図面の場合は一枚に何百とある数値をチェック済みの数値には赤点を打ち全数値を確認するのが第一段階。CAD(コンピュータによる設計)でも同じ事。このようなチェックを何重にやっても誤りは皆無にはできない。最近のコンピュータによる個人仕事の場合、個々人のミスを如何に組織として事前にくい止めるか・・丸紅PCを他山の石として取り組むべきテーマは大きい。
「今日の作品」に「秋の食材」を掲載した。台所で見つけたサツマイモ・茄子・ピーマンを描いた。
2003年後半の絵=ここ

11月14日(金) 「善きサマリア人」は欧米では常識的な言葉のようだ。新約聖書の「ルカによる福音書・第10章25-37節」(net例:ここ)では善きサマリア人が隣人の喩えとして語られている。「自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ」といったイエスが「私の隣人とはだれですか」と問われて、瀕死の旅人を介護しお金まで払ったサマリア人の例をだす。アメリカには「善きサマリア人の法律=Good Samaritan Law」という名の法律が全米50州で採択されているという。この法律により善意の救助行為が結果として相手(傷病者など)の状態を悪くしても免責され救助者は保護される。医療関係で救助行為を擁護するケース以外に、プロバイダの法的責任を問う場合にも同じような趣旨で善意のプロバイダを保護するアメリカらしい法律もある。CDA (Communication Decency Act=通信品位法)に「善きサマリア人」条項があり、オンラインの世界で違法で有害な情報を除去する行為を保護している。実際にトラブルがあるとこの条項の意味は大きいようだ。とかく行動の結果だけをみて非難し自分は何も関与しないで済ませようとする人が多いのは事実。何もしなければ、傷病者は死に、やりたい放題の有害な情報が世界中にとびかうかも知れない。それにしても「善きサマリア人」を擁護する法律が必要なところが少しさびしい。
11月15日(土) 米沢藩中興の祖、上杉鷹山の歌「為せば成る 為さねば成らぬ何事も 成さぬは人の為さぬなりけり」は小泉首相も取り上げて広く知られるようになった。これは教訓を詠み込んだ「道歌」の一つであると同時に、同じ言葉を繰り返して並べる「畳語歌」でもある。11月11日のコラムでも取り上げたが正岡子規などは道歌の類を忌み嫌ったようであるが、元より文学的な鑑賞の対象とは性格が異なる。道歌も畳語歌も万葉の昔から日本人が言葉遊びとして楽しんだ作品とみれば作者の顔や性質まで想像できて面白い。冒頭の歌と同じ、道歌と畳語歌の組合せの別例:「人の非は 非とぞにくみて非とすれど 我が非は非とぞ 知れど非とせず」。この歌など自分にいつも聞かせてやりたいもの。私の好みの歌は:「南無釈迦じゃ 娑婆じゃ地獄じゃ 苦じゃ楽じゃ どうじゃこうじゃというが愚かじゃ(一休の作伝)」。最もポピュラーな畳語歌も最近は余りお目にかからないので記しておこう:「月々に 月見る月は多けれど 月見る月は この月の月」。
11月16日(日) 早朝、久しぶりに恵比寿ガーデンプレースに散歩に行った。アール(コーギー犬)を連れて街並みを楽しみながら歩いているうちに、ある所でしばらく立ち止まって塀越しに他人の家を見てしまった。この近所ではひときわ品格がある平屋の邸宅で以前には表札に「観世○○」とあったお屋敷が財務省の名前で売りに出されたと思っていたら、今朝見ると名前を聞いたことがない建設会社の持ち主になり母屋が解体されようとしている。玄関脇の立派な樹木も切り倒されるのだろうか。云うまでもなく相続絡みの現物納入で、皇后陛下の実家(正田邸)が財務省のものとなり取り壊されたのと同じケースだ。普段は気にもしないがこう云う時には国家権力の凄さを目の当たりにする。いわば国は人が亡くなると黙って膨大な財産を没収する。画家などはなまじ売れっ子であったら残った絵画に値を付けられて子供は親の絵を持ち続けることもできないと聞いたことがある。美術品のコレクターは個人の名前で所持していると相続時には散逸してしまうので美術館を作って法人の持ち物とすることはよく知られている。観世邸の取り壊しをみて何故か「年金」を思った。徴税により国は所得の再配分を計るという。年金は配分というより繰り延べ賃金の性格であるかも知れないが、文化は年金のように細切れ分配はできない。文化財というほどのものでなくても、ある種の環境について例外的な継続を計る知恵はないものだろうか。
11月17日(月) 現在、上野の東京都美術館で第35回日展が開催されている(11月24日まで、net情報ここ、昨年の入賞作なども見ることができる)。日展に行くと大抵くたびれた末に幻滅して帰ってくることが多いので今年はまだ行く予定を入れていない。その原因は一つに余り数が多く焦点を定めきらないことにある。日本画、洋画、彫刻、工芸、書の五部門に2000点以上の展示。応募作品は12000点以上というから応募費一点10000円で1億2000万円が収入になる・・と”せこい”計算までしてしまう。しかも日展も一つの展覧会に過ぎない。同じ場所でこれまで院展、二科展などは開催済みでこれから今年中でも20余りの展覧会がある。日本の美術愛好家のパワーは驚異的である。音楽界もまた同じ傾向ではある。年末になるとベートーベンの第九が演奏されるが、今年予定されている日本全国での第九演奏会数は137件! 日本フィルだけで12回も演奏する。毎日毎夜開催される音楽会の数は膨大なものであろう。・・自分の意志で展覧会に行き、音楽会に行くとしても、どのような絵にであい、どのような演奏に接するかは人との出会いのように偶然の要素が大きい。まさに一期一会。プラスのエネルギーを得られるような出会いがしたい。
11月18日(火) 現代は情報化社会。インターネットを使えば世界中の情報を入手できるし他国の文化に接することも容易になった。その代わり、外界からの刺激に慣れ親しんでしまうと文化のギャップにも感動がなくなってしまう。そんな自分の感覚をぶち破り強烈なショックを与えるのがスペイン・バルセロナに今も建設中の「サグラダ・ファミリア聖堂」である。この建築の設計者のアントニオ・ガウデイー(1852-1926)については10月22日コラム(ここ)でも触れたが、ガウデイーの特別展(@東京都現代美術館、12月14日まで、net紹介ここ)をみてあらためて世界は広いと思った。サグラダ・ファミリア聖堂は完成された過去の建造物ではない。1882年に着工されたこの教会はガウデイーが交通事故で亡くなった時(74歳)にはまだまだ未完成。その後、戦争・内戦で幾度も中断しながら、現在もなお建設中である。順調にいけば2040年頃に完成するかも知れないとか・・。ガウデイー建築のユニークさがベースにあるとしてもこれだけ長期に一つの建築を造り続けるのは日本などでは考えられない文化であろう。収益も効率も名声も無関係に後世への遺産を残す。こんなバルセロナは私が是非とも訪れたい街の一つだ。<internetではSagrada Familiaへの訪問は簡単、例:ここ
11月19日(水) 日本テレビの視聴率不正操作問題について特別の関心はない。昨日報道されたこの問題に関する経営陣の責任の取り方について議論があるようだがこれもどうでもいい。けれどもテレビの一視聴者として感じるところはある。第1に私などは視聴率というものをはじめから信用していない。それ以上に視聴率至上主義もナンセンスと思っている。更に云えば視聴率を上げることを至上命題としてきた経営陣はスポンサーとの商売を有利にしようと目標作りをしたに過ぎない。テレビ局の顧客はスポンサーであり、スポンサーは視聴者が少しでも多い番組に金をだす。番組の善し悪しと視聴率の高低は反比例するとは云わないが、比例することはない(「よしあし」をどう定義するかが難しいが)。下劣番組(以前、一億総白痴化と云われたが差別用語で使われなくなった)でも高視聴率なら制作者は得意になり経営者が評価する体質が問題であろう。真に心に残る質の高い番組がみたい。・・こう考えると、次に視聴者として「みる・みない」以外に選択の余地が欲しい。止めたい番組のスポンサーに対して商品の不買同盟をつくるとか、一方で心に残る感動の番組のスポンサーを応援するとか・・。今回の視聴率不正問題は視聴者がテレビ局の顧客となり、番組内容について顧客の満足度を測れるシステム(双方向)ができれば過去の笑い話となるだろう。
11月20日(木) 「学則不固、・・過則勿憚改」(論語)。「学べば固ならず」は学ぶことにより頑固でなく寛容になると解釈する。先人の思想や優れた人たちを知れば知るほど多様性を理解できるのは確かだ。後段、「過ちては改めるにはばかることなかれ」は文字通りで意味は分かるが実践するのは容易ではない。この様な言葉と出会うと「信念」との関わりを思う。頑固に周囲の雑音に左右されずに信念を守り通しそれが思想として意味をなすこともあるし、ただの頑固者で終わる場合もある。絵を描くケースと類似させて考えるとどうだろう。信念は自分がどう描きたいかの意志。 ただの我流でなく外界を十分に知った上で自分の描きたいスタイルを確立するのが第一段階。自分流を一つに固定せずに新たな形態に変化させるのが次のステップ。ただ絵画では頑固者がいい場合もあり結果でしか論評はできない。・・いずれにしろ、絵画のスタイルでも他の考え方も、自分の信念などにどれだけ執着する意味があるのか疑ってみて、誤りがあれば改めるといった柔軟性は持ちたいと思う。
11月21日(金) 久しぶりに丸一日講習を受けた。コンピューター用会計ソフトの使い方の研修会。私にとってはほとんど実用的な価値のないソフトだが日頃無縁な会計言葉に接してリフレッシュした。今日の話題は講習会場(@渋谷・こどもの城)の隣にある国連大学(netはここ)を訪れたことに関連する。以前からこの建物(東京・渋谷駅から徒歩10分)が気になっていたが中に入ったことはなかった。今日は国連世界食糧計画(World Food Programme)の「世界の学校給食写真展」(@UNギャラリー)などを中心に見学してきた。いま”8億人以上の人々が空腹のまま眠りにつく”という飢餓の実態と学校給食活動が紹介されていた(11月29日まで)。この国連大学は余り知られていないが日本政府が拠出した1億ドルをベースに本部施設が完成したもの(土地は東京都が、建物は日本政府が無償貸与)。国連の中で日本はおとなしいけれどもお金は出している。2001-2003年国連の通常予算の日本の分担率が何と約20%(アメリカについで2位)。国連や関連機関に拠出したり出資した金額の総計は、国民一人当たりの負担額でみると16.4ドル(2001年)と世界一多いという。その割に日本が世界中から感謝されているという実感はない。イスラムの「ザカート(喜捨)」では持っている人が出し、持っていない人が受け取るのが当たり前とか。私たちはそれ程に持っていることになっている・・。
11月22日(土) 時々、ホームページには余計な文章がない方がいいと思うことがある。ただ新しい絵や作品があればそれだけで十分かも知れない。「絵に描かれた女性は全ての人に愛される。何もしゃべらないから・・」とか。女性に限らず、饒舌な語りから現実を知られてしまうより、想像力を膨らますことができる未知の世界の方が美しく夢がある。・・ 今朝撮影した銀杏の写真を掲載した。東京・神宮外苑の銀杏並木は例年よりも色づきが遅いようだ。

11月23日(日) テレビで「何でも鑑定団」という番組を見ることがある。見る度に妻と話しが合うのは「我が家には鑑定してもらうお宝はないねえ」。これぞという銘の入ったお宝が偽物ですと鑑定されるところが一つの見せ場になる番組であるが、本物の場合には鑑定される値段が興味深い。市場でいくらで売れるかの市場価格を査定するのであって、当然ながら物の絶対価値とは関係がない。希少価値が値段を決める大きな要素で、例えばオモチャの類でも蒐集マニアがいれば高額の値段がつく。市場価値が高くても欲しくもないものもあるし、逆に値段がつかなくても好きなものもある。骨董品の価格の成り立ちをみていると、新しいものの真の価値など簡単に判定できないことがよく分かる。市場価格とは関係なく自分が気に入ったものが自分のお宝・・私にはこの単純な方程式で判断するのが相応しい。
11月24日(月) 休日というだけで時間はお休みモード。気分もゆったりしている。紅葉真っ盛りの京都・高台寺からテレビが生中継をしていた。2−3年前に訪れたことのあるこのお寺を懐かしく見ていたが、ふと我が家にも秋の飾りを作ろうと思った。結果が「今日の作品」に掲載した「大皿の秋」。前に陶芸で制作した大皿(ここ)が何にも使われていないので、裏返しにしてそれぞれの仕切毎に拾ってきた落ち葉や山茶花を入れてみた。水を注いで水に浮かぶ紅葉とする。今年は楓の色づきが遅くて今回は使わなかったが12月になれば赤い楓も加えることができるだろう。制作時間は約五分。この後、自作のお茶碗で抹茶を点てると最高の休日となったのだが、現実はインスタントコーヒーを入れて飲むこととなった。
11月25日(火) 珍しくシューベルトの「白鳥の歌」を聴きながらパソコン仕事をした。「白鳥の歌」はシューベルト(ウィーン生まれ・1797-1828)が短い生涯(31歳)の最後の年に作曲した歌曲集。白鳥は死の直前に美しい声で鳴くと云われるが正にシューベルトの辞世の歌である。私の持っているCDは歌フィッシャー・デイスカウ、ピアノジェラルド・ムーアという定番物だ。シューベルトの歌曲というと「冬の旅」が有名だが私も一時これに凝ったことがある。自ら音痴であることには絶対の自信を持っているが、10数年前、週末の休日を利用して「冬の旅」の歌に挑戦をはじめ、中学の音楽で習う「菩提樹」など馴染みやすい曲から順次ドイツ語の歌詞で曲を覚えた。ある時、その頃たまたま親しかったドイツ人と無謀にも「菩提樹」を合唱したところ、ドイツ人は丁度我々が中学で習う程度のメロデイーしか知らなかった。シューベルトのオリジナル曲は中学教科書の倍以上の長さがあるが、その時はドイツ人のくせに全曲を知らないとは納得できなかったことを思い出す。考えてみると200年も前の歌曲などドイツの人も今は聴く人は少数派に違いない。その代わり「白鳥の歌」も「冬の旅」も現代では全世界の遺産となった。シューベルトはまさかこのアジアの片隅でパソコン仕事のバック音楽となるとは想像もしなかっただろう。
11月26日(水) 賭け運は強い方とも思えないが、この歳末にはジャンボ宝くじでも買ってみようかと思い始めた。所ジョージのTVコマーシャルに影響されたのでもなく、去年ハズレの仇討ちのために買おうと云うのでもない。およそ賭け事に興味を抱いたことはないが、志ん生の落語を聴いていて宝くじもまた面白いかとふと思いついたのである。落語にでてくる富(くじ)では一分(=一両の1/4)が1000両になったという。千両は庶民には夢のような大金であり落語の題材にもなったが、くじの倍率からみると現代の宝くじの方が桁違いに大きい。年末のジャンボ宝くじは300円で一等賞金2億円、実に67万倍だ! ということは宝くじを買う人口は江戸時代と比べると大ざっぱに二百倍に増えていることだろうか。当たる確率は少ないが倍率はすごい。これは落語「鶴亀」にあやかってジャンボ宝くじを買わなければならない。
11月27日(木) 「今日の作品」に「球形花器(陶芸)」を掲載した。この花器は10月4日に粘土をこねて作り始めた(素焼き、本焼きのタイミングで完成まで随分時間がかかってしまった)。球形に粘土を積みあげていき、一度穴があいていない状態(空気を密封する形状)に作り上げてから外面を軽く叩いて粘土の表面を締める。粘土はまだ柔らかいのだが風船のように内部の空気は行き場がないので潰れることはない。その後半乾きの粘土を削り上部から三分の一程度の位置にあるクレーターには全て穴をあけた(下の方は水室)。お花はどの穴にも差し込むことができる。釉薬は普通はザラザラ感をだすところだが、あえて光沢のでる黒系統の天目釉薬をベースに色々な釉薬を混ぜてみた。以前、ミニチュアのグローブ(穴あき球:ここ)を造ったことがあるが、今回は実用的な花器として使えるように直径15-16cm(大きさ比較のため写真には単三電池を並べた)とした。出来上がってみると自分でも工夫して生け花を生けてみたくなったが、まだ花が間に合わない。
2003年陶芸作品一覧=ここ
11月28日(金) 「誇りを持て。けれども決して慢心してはならない」。慢心による油断が大敵である。先日、11月16日に行われた東京マラソンで高橋尚子が2位に甘んじたのは正に油断に思えた。勝負の真っ最中に高橋のコーチである小出監督がテレビの実況中継に出演してサービスするのは初めは絶大なる自信に見えたけれども、結果的には慢心のなせるワザであったのだろう。慢心とは「おごり高ぶること(心)」、油断は「気を許して必要な注意を怠ること」と辞書(新明解)にはある。ついでに慢心を和英辞典で引くと"pride"。Pride will have a fall.(驕れるもの久しからず)の例文まででている。こうなると、プライドは「誇り」でもあるので冒頭の言葉は何と訳すのだろうかとプライドを捨てて頭をひねる。我々個々人でも、日本人としてでも、誇り高くあれば傲慢になり、傲慢を諫めると卑屈になる例は多い。英訳はともかく、やはり冒頭の通りに、プライドをもって同時に謙虚に注意深くありたいものである。
11月29日(土) 「時には 母のない子のように  黙って海を見つめていたい。 時には 母のない子のように  一人で旅に出てみたい。 だけど心はすぐ変わる  母のない子になったなら  誰にも愛を話せない 」:寺山修司の作詞である。デビュー間もない新人歌手カルメン・マキがNHK紅白歌合戦(1969年)でこの歌(田中未知作曲)を歌った情景を何故か鮮明に覚えている。紅白にはじめてGパンで出演したと歌手が評判になったが詩も曲も心に残るものだった(net視聴ここ)。・・寺山修司の文庫本を読み返していてこんなことまで思い出した。寺山修司(1935-1983)は詩人という範疇に留まらず演劇、評論、映像など広範囲の分野で活躍した。「書を捨てよ、町へ出よう」、「家出のすすめ」、「田園に死す」、「トマトケチャップ皇帝(実験映像)」など代表作のタイトルを読むだけでも新鮮な響きがある。何よりその強烈なオリジナリテイーは今触れても刺激に満ちている。肝硬変で47歳の若さで世を去ってから20年。いま存命であれば現代をどう表現するだろうか。寺山は、主治医に「60までは生かして欲しい、そして文筆活動をしたい」といっていたそうだ。
11月30日(日) 「今日の作品」に「ガウデイー曲面花器(陶芸)」を掲載した。この花器は10月22日のコラム(ここ)でガウデイー曲面を陶芸に応用することを思いついた経緯を記している。出来上がってみると何がガウデイー曲面か分からないかも知れない。ただ波形の凹凸を付けただけの花瓶に見える。ガウデイー曲面としては最上部の波と最下部の波の位相を90度ずらしたところに特徴がある。そして、一方の波のトップと他方のボトムを直線でつなぐところから始まり、上下の波の間を全て直線でつなぐところがポイントだ。結果を見ると当初興奮してアイデイアを披瀝したほどのものではないかも知れないが、これも新しい試みの一つ。自分としてはやることはやったという満足感はある。何も能書を並べずに黙って見ているだけで十分という作品は簡単にはでてこない。
2003年陶芸作品一覧=ここ

これまでの「今日のコラム」(最新版)に戻る

Menu  + Today  + Corgi  + Puppy  + Gallery +  Ebisu /Daikanyama  + Links