これまでの「今日のコラム」(2004年 1月分)

1月1日(木) 今年は正月に旧約聖書の創世記を読むと決めている。創世記は第50章まであり思ったより長い。イントロ部を引用する。「はじめに神は天と地とを創造された。地は形なく、むなしく、闇が淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。神は”光あり”と言われた。そうすると光があった。神はその光を見てよしとされた。神はその光と闇とを分けられた。神は光を昼と名付け、闇を夜と名付けられた。夕となりまた朝となった。第一日である。・・」。続いて神は6日間に、海、木々、星、生き物など、そして最後に自分に似せて人を創造し、第七日目には休息をとる。こうした旧約聖書の天地創造の由来と合わせて古事記の世界を繙くとまた非常に興味深い(古事記のnet例ここ)。古事記の場合も混沌(カオス)の中から天地が生まれる。陰陽の始まりも光と闇そのものであり共通の発想が面白い。一方で、旧約聖書の神が唯一、強力な意志と力を持っているところなど古事記との大きな違いだろうか。それぞれの天地創造神話からは年の初めに相応しい想像力を駆り立てられる。

1月2日(金) 元旦は朝食前に明治神宮にいった。家から15分ほどで行くことができるので初詣のあと家へ帰りお雑煮。続いてアール(コーギー犬)の散歩。その後、今度は自動車で墓参り。夕刻からの親戚・家族との集まりの前には神さまとご先祖様へのご挨拶はすっかり終わっている。若い頃は何でも自分の力でできると思った。神頼みや他力本願は自分の努力を偽るものに思えた。それが今は他の力なしには何もできないと思う。アイデイアの閃きはもう神頼り。健康であることは勿論、生きていることさえラッキー。ただし自分で行動することがなければ神さまも助けようがないだろう。どんな環境を作り、どんな力を引き出したいかは自分の意志次第。天命を待つにはまず人事を尽くす・・こんな感覚で新年スタートとした。
1月3日(土) 正月も3日目になると胃を休めたくなる。少し落ち着いて、今年は何に挑戦しようか考え始めた。思いつくままに書き出してみると、例えば、俳句、生け花、木工工作、パソコンでは音楽ソフト活用などなど。書きながら、今ひとつ強いインパクトがないと思う。俳句なら現代俳句、生け花なら前衛とはどんなものだろう。私は伝統ある完成された良さは認めるけれども何か従来の殻を破るものが好きだ。モデルと同じでないものを作りたい。そうはいっても、まず行動すること、やってみることが第一かも知れない。2年前に陶芸を始めた時、教室でこれほど自由な造形ができるとは想像もしなかった。考えすぎずに身体を動かして行動する・・これは今年の、いや今年に限らず、これからの一生のテーマとしよう。
1月4日(日) 今は4日、日曜日の朝7時過ぎ。その前に、アールの散歩にいき高台の公園(西郷山公園・東京/目黒)で富士山を眺めて帰ってきたところ。今年になって「今日のコラム」はその日の朝一番に更新している。元旦には大晦日のページではなく、コラムと表紙を新年に合わせたいと思ったからだ。以前はその日の夜にコラムを更新していた。早朝にコラムを書くことにすると、あれこれと周囲の文句を綴ったり腹を立てる内容が思いつかないことに気がついた。いわば生まれたばかりの赤ん坊のように、これからやりたいことや新たなアイデイアが浮かぶ。睡眠から目覚めた直後は、気持ちがポヂテイブでありネガテイブにならないのは興味深い。時間が経過しインターネットで新聞を読みはじめるとだんだん大人の世界を知るように雑念が湧き出てくる。朝の1時間は前向きの創造に使える非常に貴重な瞬間でないかと思えてきた。
1月5日(月) 年賀にいった親戚で薦められて本を借りて帰った。読み始めたら止まらず一気に読み終えた。最近、読後これほど爽やかになった本は珍しい。「博士の愛した数式」(小川洋子著)という本。交通事故のため新しい記憶は80分しか続かなくなった数学者(数学に関する記憶は天才的)の物語で、面倒を見る家政婦とそのこどものとの心温まる交流が「数式の美しさ」を媒体として語られる。例えば、28という数字は約数を合計すると自分の数になり、同時に連続した自然数の和となる完全数でもある(28=1+2+4+7+14=1+2+3+4+5+6+7)。「それがどうした」という内容に美しさを見いだすのは人間だけであろう。そんな美しさに共感する母子をはじめこの小説には悪人が一人もでてこない。正月にいい本を読んだ。・・この本のネット書評(例)はここ
1月6日(火) 「今日の作品」に「書き初め(申)」を掲載した。”書き初め”というと、まず筆を思い起こす。筆と硯を準備して”カキゾメ”を始めようとした。さて書く段階になってしばし考えたが適当な文字が浮かばない。それではと半紙を横に置き換えた。申(さる)だけをベースに書き、後は頭の中を真っ白とする。何も考えず筆の動くに任せる。弱々しく、細々と、また意味のない線を綴りながら、こんな「描き初め」もよしとした。・・年初からこんな書き初めだけをやっている訳でもない。14年間愛用した自動車、プリメーラのマフラーが壊れて近所のオートバックスで見てもらったらマフラー交換以外に修理しようがありませんの一点張り。たかがマフラーの接続パイプが切断しただけ・・と自分で在り合わせのアルミテープを使って修理した。テスト運転をしてみると前のような排気の騒音は見事になくなっている。勿論、テープ固定も抜かりはない。写真を撮ることができれば「今日の作品」は「プリメーラ用特殊マフラー」が出来上がっていた。

1月7日(水) 元旦のコラムに旧約聖書の創世記から「天地創造の由来」を引用した。その後、正月行事の合間に創世記全50章を忍耐強く読み進んだ。ノアの箱船でお馴染みのノアについて、「ノアは五百歳になって、スム、ハム、ヤペテを生んだ」とか「ノアは洪水の後、なお三百五十年生きた」などの話しを面白がっているうちはまだいいが、兄弟、肉親同士が憎悪し、殺し合う場面が何度も繰り返される物語は楽しいものではない。物語と書いたが創世記は正にイスラエルの歴史書でもある。「神は彼に言われた、”あなたの名はヤコブである。しかし・・あなたの名をイスラエルとしなさい。”こうして彼をイスラエルと名づけられた」。「神はまた彼にいわれた、”わたしはアブラハムとイサクとに与えた地をあなたに与えよう。また、あなたの後の子孫にその地を与えよう”(その地とはカナン=現在のパレスチナ)」。ヤコブ(イスラエル)と12人の子らは飢饉の時にエジプトで食物を求めるなどしながら最後には12の部族となってイスラエルを引き継ぐ。この創世記の次がモーセの「出エジプト記」(=紀元前1300年)。正月に「創世記」を読むアイデイアは悪くなかったが、闘争の歴史が3000年以上を経過してなお争う現代のパレスチナ問題にまでつながって、のんびりした気分は吹っ飛んでしまった。
1月8日(木) 昨日はコラムを今日(8日)の日付で掲載してしまった。最近の事情は知らないが10年ほど前、老人のボケ程度を調べる際に生年月日を問うた後「今日は平成何年、何月何日、何曜日ですか?」などと聞く医者がいた。こんな質問をされると私などもアルツハイマーにされかねない。ホームページを維持していると少々の間違いを気にしない図々しさが養われる。このコラムの文章でもミスタイプや妙な表現などよくあることだ。それが事前に読み直した時には分からず、NETに掲載したとたんに気がつく。自分の手を離れると他人のものとなり、他人の非は直ぐに気がつくのがこれほど顕著なものかと苦笑するばかり。自分の作品をHPに掲載するのも第三者として作品を観察するには最適だ。・・「今日の作品」に「書き初め()」を掲載した。絵などの作品の場合には”ミスプリ”も”間違い”もない代わりに、掲載した状態から日時を経ると見方が変化することが多い。心理状態により”好み”もまた変動する。「書き初め()」としてはもっと大胆でもよかった気もするが時が経つとどう思うだろうか。

1月9日(金) 「埋火(うずみび)や壁には客の影法師 (芭蕉)」。埋み火(うずみび)とは灰に埋めた炭火。冬の夜、赤々と燃える炭火で暖をとりながら親しい客と対座している。何も会話は交わさないがお互いに気心は通じあう静かな豊穣の時を過ごす。壁には炭火で映し出された黒々とした影法師。・・「影」は時として現物以上に想像力をかきたてる。「今日の作品」に掲載した「オンシジウム&影」は影からはじまった絵だ。冬の低い日差しに一本のオンシジウムの影が机上に伸びていた。画用紙を持ってきて影をそのままなぞって描いたのが左側の影。数分間で描き終えた黒い絵の全体を再度影に重ねると、もうわずかに影がずれている。影は太陽の動きをも知らせてくれる。続いて描いた本物の方がはるかに細かい表情をみせるが、今回の作品は細部を一挙にまとめた影が主役。そういえば、冒頭の俳句で「影法師」は芭蕉自身の影をお客さんと見たのかも知れない。
1月10日(土) 今日からコラムは以前のように書いた当日にその日の日付で掲載する事とした。日記形式であり昼間にHPを開くと前日のコラムを見ることになるが、どうもその方が自然に思える。・・昨日(9日)朝7時丁度に東京・西郷山公園(目黒区)でみた情景は忘れられない。東からは日の出直後の眩しい太陽、雲一つない広い空。南西方向には朝日を浴びる富士、そして西の空にはくっきりと満月。この日の夜、9時前に犬の散歩で出かけるとまた夜空に大きな満月がみえた。今朝(10日)の朝7時には同じ場所で激しく流れる雲間からやはり大きな満月がみえた。その後、東京では雲はすっかり取り払われ快晴になった。今夜の月はどんなだろう。散歩はこれからだ。・・最近はこんな月だとか太陽、更に宵の明星(金星)など世界中の人が同等に見ている天体に妙に感激するようになった。火星に着陸した探査機もすばらしいとは思うが、世界中の人どころか、1000年前の人たちも全く同じ月をみて暮らしたと思うとこれもまた別の意味で人間の営みの深さを感じる。=月花の愚に針立てん寒の入り(芭蕉)=
1月11日(日) 幼児をみていると一つ一つの失敗が全て貴重な体験になって活かされていく過程がよく分かる。転ぶこと、頭をぶつけること、子供同士の喧嘩など、何でもが学習の素材となる。教えられて学ぶのでなく身をもって体験することが成長の基本であるように思える。企業なども失敗をどう扱うかで企業風土が計られる。新しいことに挑戦した結果の失敗を暖かく見守ると口では言えるが現実にはそれほど甘くはない。詰まるところ成長盛りの若い気風をもった組織ほど”失敗”に対する許容度が大きいと云えるだろう。H2Aロケットの打上失敗に関して原因調査結果が報道されている。この種の”失敗”には若い世論を喚起しなければならない。挑戦するところに失敗は付きものである。失敗しないことは極めて簡単。何もしないことだ。これしきの失敗にくじけるなとマスコミがまず応援してほしい。
1月12日(月) 私の周辺で医療ミスと思われる体験話を続けて聞いた。一つはかかりつけの病院で大したことはないが一晩入院しなさいと入院させたれた話し。ご主人は入院したが奥様の付き添いは必要ありませんと断られた。翌日、余りにご主人の容体がおかしいので奥様は主治医を無理に呼んで診察を頼んだが、それまで肝心の主治医は会合を理由にろくに診察もせず、夜中の容体急変時も全く放置されたままであったという。3日目にご主人は亡くなってしまった。もう一つは3年前に肺の検査で影が認められたが、これは生まれつきでしょうとその後も毎年「問題なし」の判定であった。それが最近の検査で肺ガンとの判明。かなり末期的な症状でもはや手遅れとか。ニュースにもならず訴訟も起こされないこんな対応ミス・判定ミスは膨大な数になるだろう。その場になると医者の言うことを聞かないわけにはいかない。せめてもの教訓は”医者”の言うことは50%だけ信用して残りは疑ってかかること。そして一人の判断に任せずに成るだけ多くの医者の意見を聞くことだろうか。”医者”を全ての”専門家”に置き換えて、この教訓を広く応用したい。
「今日の作品」に「 西洋カエデ」を掲載した。庭にはまだ西洋カエデの黄色が残っている。

1月13日(火) 昨日は「成人の日」だった。成人になった若者の「叱り方」を考える。20歳といっても叱るべき状況はいくらでも起こる。企業では新入社員の叱り方について、「憎く思ったら叱るな、可愛いと思った時に叱れ」と指導されたことを思い出すが、現実にはそう格好良くはいかない。「叱る」のは、躾や態度・行動の修正など色々な目的があるが、相手が納得し、また相手のためにならなければ意味はない。問題は20歳といっても千差万別であること。人によっては完成された人格であり叱りは勿論説教など不要な年齢である。また一方で教育以前の躾から教える必要のある20歳もあることは確かである。ありきたりであるが、やはりそれぞれの人に合った対応が要求されるのだろう。それにしても基本的な躾や態度の修正は20歳では遅すぎる・・と子供の教育を思う。犬は子犬の時期に躾なければ成犬になって教え込むのは何倍も苦労する。人間は犬とは違うからなおさら子供のときに何でも習得できる。20歳になれば”叱る”よりも大人の人格として対等に議論をしたい。
1月14日(水) 一枚の絵でも鑑賞する時に人が立つ位置(距離)で印象が大きく変わる。以前、このコラムで書いた覚えがあるが、絵は遠景、中景、近景とみる位置を変えてもそれぞれの場所でそれぞれに感動できる絵がいい(本来は建築物の評価法からきている)。自分で絵を描いてみて、見る位置を変えること、それと時間を経過させることが、自分の絵を見直すにはいい方法だと思っている。人間の目は面白くて、目前の対象物を一生懸命に集中して見ていると思いこみが強くなって自分勝手に見えてしまう。3m離れたところに絵を置いてみるだけで、いままで見ていたものと違う側面が目に付く。・・昔、笑顔が爽やかな学者都知事について「彼は富士山のようだ。遠くで見ている分には美しいが、近くに寄ると見られたものではない」と評されたことがある。人には逆に、遠目には冴えなく見えても、緊密に付き合うと実に味があるという人も多い。身近にいると魅力に気がつかないなんていうこともよくあることだ。何にしても時々は距離を変えて見直すと新発見があるかも知れない。・・今日描き終わった絵を3m離して見た途端に愕然として絵に加筆する事件があったのでこんなコラムになった。
1月15日(木) 「今日の作品」に「散歩道」を掲載した。毎日2回、早朝と夜にアール(コーギー犬)を連れて散歩をする道を描いたもの。この絵のように朝日を浴びて妻も一緒に散歩をする場合もある。毎日の散歩道など、見慣れた風景は絵を描く気が起こらないものだが、これから出来るだけ身近な素材をどんどん描いて見ようと新年を契機に考えた。描くつもりになると、いままでは気にもしなかった街の建築物や樹木、店のデイスプレーに至るまで全てが目に新しく映る。今回掲載した「散歩道」は昼間は車も多いメインの道路だが、散歩のコースは絵でみる歩道を左側に折れた路地を通る。狭い路地もまたスケッチ画の格好の題材になりそうだ。・・実のところは年末にこの絵を描いた場所の近くで絵を描いている人に出会った。ハッとして我が町を見直すと絵を描く素材はいくらでもころがっているように見える。まさに、灯台もと暗し、テーマは手許に隠れている。・・単純なことで他人に影響された典型である。

1月16日(金) 今年の芥川賞には19歳の綿矢りささんと20歳の金原ひとみさんが選ばれ、若者のダブル受賞と評判になっている。内容については読んでいないのでコメントのしようがないが、少なくとも若い女性二人が選ばれたことに明るい兆しを感じる。小説といういまどき面倒極まりない”労働”に果敢に挑戦する若者がいることを知るだけでもうれしい。この機会に芥川龍之介を読みたいと本棚を探したが、芥川全集は既に処分してしまっていた。そこでインターネットを使って芥川を調べてみる。芥川龍之介(1892-1927)自身、20歳前後で世に知られているのではないかと思っていたが、帝大在学中の22、23歳で名作「羅生門」や「鼻」を書いている。やはり早熟には違いなく、全作品をその後の10年余に凝縮しているところが余人のできないところだろう。聖書を熟読していたという芥川自身が「神々は不幸にも我々のように自殺出来ない」(或る阿呆の一生)という箴言を残して薬物自殺したのが35歳。・・20歳前後の芥川賞受賞者のこれからのプレッシャーは相当なものだろう。受賞者には世評などを気にせずにとにかくも強く(=toughに)生きて欲しい。
1月17日(土) 「12人のチェリストと100人のうたとトーンチャイムの仲間たち」というコンサートにいった(@千葉ぱ・る・るホール)。阪神淡路大震災から9年目の記念日である今日、震災遺児への寄付や鎮魂の曲も用意されていた。聞き終わった後でゆったりと癒された感じを覚えると同時に自分も新たなやる気が出てきたのはなぜだろう。展覧会でも音楽会でも私は自分が元気をもらえるかどうかでよしあしを判断する。プロ、アマ、肩書きなど一切関係なく相手に発散するエネルギーがあるかどうかである。今日の音楽会はアマチュアの集団が音楽を本当に楽しむ様が好ましく、また指揮の日比野和子さん(実は私のいとこ)の情熱と前向きな姿勢がびんびんと伝わってきて爽快だった。この同年の従姉が何か誇らしく思えて余計に楽しくなったのは間違いない。
「今日の作品」に「顔/エジプト大使館にて」を掲載した。散歩道でいつもみる「顔」を描いた。陽の加減でとぼけた顔に見えるがほんの少し違う角度でみると全く別の表情を見せる。明日は横顔掲載の予定。
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1月18日(日) 「今日の作品」に昨日の続きで「顔2./エジプト大使館にて」を掲載した。エジプト大使館の格子状の門に顔の像が飾ってあるが、この顔が古代エジプトのファラオなのか、どういういわれの像なのか知らない。絵を掲載する前に大使館に電話して確認したいと思いながら機会を逸してしまった。昨日はこの顔の真正面の絵を掲載したが横から見ると全く違った表情をみせる(昨日と今日の作品比較はここ)。日本の能面が同じ面でありながら見る角度によって威厳ある顔になったり悲しい顔になったり、またやさしい表情もみせるなど、千変万化であると言われるが、このファラオ(と仮定している)の顔も同じ事が云える。今回二つの角度で顔を描いてみて微妙に変わる表情の面白さを再認識した。どちらの表情がいいとか悪いということもないし、好き嫌いもない。両方がいわば真実の顔だ。・・私たちは一つの現実を見る角度がほんの少し違うが故に、好きとか嫌いが分かれたり、いいの悪いのと議論することがある。思い切って見る位置を少し変えると、お互いに相手の言うことが理解できるかも知れない。
1月19日(月) インターネットのレストランガイドで六本木近辺のフランス料理店を調べた。100人以上のアンケートで一番評価が高かった店に昼食の予約をいれる。今日は私の誕生日。珍しく正装して(といってもジーパンでないという程度で)六本木ヒルズの側の店にでかけた。仕事途中に時間を割いてきてくれた息子夫妻など5人が集まりささやかなバースデイパーテイ。誕生祝いというのは半分は口実でただ集まって美味しいものを食べることができれば幸せだ。このフランス料理店(ル・ブルギニオン)は正にレストランガイドの評判通りであったのがことさらにうれしい。
「今日の作品」に掲載している「顔/エジプト大使館にて」に関して、この像のことを教えてもらおうとエジプト大使館に電話したところ、相手(日本人)は「分かりません・・」。手をこまねいているとHPを見た知人から「これはカイロ博物館にあるアクエンアテン王のレプリカでないか」と連絡をもらった。細長い顔、分厚い唇に特徴があるアクエンアテン王は少年王ツタンカーメンの一つ前の時代(BC1365頃)に太陽神を唯一の神とする宗教改革を断行した古代エジプトの有名な王であるという。
前段のレストランガイドにしてもエジプト王の情報も・・インターネットというのは何とも有難い道具であると実感した記念すべき誕生日だった。

1月20日(火) 正月には間に合わなかったが陶芸の作品「片口」が焼き上がった(「今日の作品」に掲載)。片口というと日本酒をお猪口に注ぐ仕草が思い浮かび、器をみるだけで和の雰囲気になる。制作途中でたまたま片口を販売している店でお客が片口の機能を確認しているところに居合わせた。機能といってもお客はお酒を注ぐ時に”液だれ”がないかを調べたくて、その場で水を入れて注いでみたのだ。その結果、やはり垂れてしまうわね・・といって買わずに帰ってしまった。専門家の制作した注ぎ口でも完璧にはできないようだ。粘土を仕上げる時に御大の先生に水切りをよくするポイントを問うた。答えは、注ぎ口の切り口に下手に丸みを付けぬ事と釉薬を薄めにしてエッジをなるだけ残すことであった。そのように作ったつもりだが出来上がった作品は水切りは余りよくない。不具合がでるとエンジニア魂が目を覚まし解決法を考えた。流体が重力に従ってある堰(せき)から流れ出る形態は流体力学でも明らかだ。問題は注ぎ口には重力方向に厚みがあること。液体の粘性と表面張力で厚み方向に液が垂れる。それなら・・と、二液姓の接着剤を極微量、爪楊枝の先に付けてエッジの形状を修正した。接着剤が半分乾いた状態の時に鋭いエッジに仕上げるのがコツ。結果は気持ちのいいほど水切りがよい!・・液だれ修理のノウハウを習得してしまった。醤油指しでも紅茶ポットでも液だれが気になる時は修理要領教えます(?)。
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1月21日(水) まだテレビのない子供の頃に学校で「歯の磨き方」を教わったことを覚えている。その後、歯磨き一つにしても縦に動かさなければ駄目とか歯茎を擦らなければ意味ないとか、色々な説がでる。運動中には水を飲まないことが昔は定説であったが今は飲むべきとされる。健康に関する「学説」はしばしば変わる。最近、皆が必死に下げようと努力してきたコレステロール値は無理して下げる必要がないという説をみた。コレステロール値が240以上であると心筋梗塞になりやすいとして、食事の改善とか薬物治療をするのが常識であった。ところが統計をとると確かにコレステロール値を下げたグループの心筋梗塞による死亡の割合はほんのわずかに減少する(100人に一人が2-3年寿命がのびる=週刊朝日記事による)けれども、癌など他の病気での死亡率は増加するという。・・学説は文字通り一つの”説”であるとしても、常識とされる知識も簡単にくつがえされる。学説と報道は50%しか信用してはならない・・。
1月22日(木) 知人から譲り受けた「気功」の入門ビデオをみた。気功は「気」によって「自養其生」(自ら生命を養う)として自己の持つ免疫力や治癒力を高める健康法といわれるが、身体の体操として動きを見た場合、健康を作り出すあらゆる動作が組み込まれているのにあらためて感心した。私は以前から一日五分間あればできる「真向法」を続けている。これはヨガの動きのエッセンスを4種類だけとりだした簡易体操というべきものだが、これでも毎日続けるていると週末のテニスの動きに違いがはっきり出る。気功はこの運動が更に強化されている上に、気の力を呼び起こす。気とはlife energy(生命エネルギー)、Cosmic energy(宇宙エネルギー)。なにより外の力に頼ることなく内在する力を最大限とりだすという発想が「気に入った」(これも気だ)。マッサージやアロマテラピーにお金をかけるなら、気功を習うのもお勧めかも知れない(基礎は教えてもらった方がいい)。ただし、真向法の経験からも問題は継続する「気力」の如何だろうか。
「今日の作品」に「片口2(陶芸)」を掲載した。前回の片口に続く作品。裏を返す”お遊び”もできる(陶芸コーナー参照)。

1月23日(金) 陶芸ではこれまでに見たことのない造形のアイデイアが次々に浮かんでくるけれども、絵画の独創アイデイアが極めて貧困な理由を考えてみた。絵画は古今東西の情報が身近に満ちているのに対して、陶芸は他人の作品が見えていないだけかも知れない。陶芸の世界でも絵画の印象派からキュビズムなどに相当する全ての試みがなされているのに、何も知らないと己の独創と勘違いすることもあるだろう。また別の見方として、絵画は二次元、陶芸は三次元がからんでいるのでないかとも思う。三次元の造形の方がより自由な発想ができるし発展性もある。・・と考えてくると、これも少しおかしい。二次元の平面でさえアイデイアがないものが三次元で独創性などでるはずがない。こんなぐるぐる廻りの考察をしながら、結局は意欲の問題であることに思い至った。対象が二つあるからやる気が分散されるだけ。考える意欲さえあればアイデイアは自ずからでてくるだろう。
1月24日(土) ある集まりの席上で盲導犬のことが話題になった。私の弟のところでは盲導犬テストに落第したラブラドール・レトリーバーがそれは飼い主に甘えたい放題の優雅な生活をしているというと、別の人は警察犬に選ばれなかったシェパードがやはりだらしなく寝そべって我が世の春を謳歌しているという。それと比べて、盲導犬や介護犬、警察犬は本当に”けなげ”という見方はみな同じだ。盲導犬の「仕事中」には気が散るので話しかけてはいけない。勿論、おしっこしたり、吠えたり走ったりもしないように厳しく躾られているし、好きなワンちゃんにであっても近づくことはしない。その代わりに夕食が特別豪華なメニューであることもないし、高給が支給される訳もない。やっていられんワンとも云わず、寿命を縮めて人のために尽くす。こんなワンちゃん達に何か相応な褒章を与える術はないだろうか・・。別の面で私などは盲動システムやロボット開発をもっと急ぐべきと思う。介護ロボットは進化してきたといってもまだ未熟。火星の地表を探査する技術を考えると犬に代わるロボットやシステムなどやれば直ぐにできる。
1月25日(日) 「今日の作品」に「新型風向計(handicraft)」を掲載した。昨年2月から使用していた風向計が行方不明になったので新しく作り直したもの。なくなった理由は縦のシャフトと横の風向計を取り付けている止めナットが緩んで脱落したものをどなたかが持ち去った可能性が強い。影も形もないのでミニチュアベアリングから軸、翼など一式を全て作り直したが、設計図もない自由制作のこと、脱落(あるいは取り外し)を再発防止することを主眼に改良を行った。風力計(この風向計の反対側に対であるもの)には防水対策をしたところ一年を経て非常に調子がいいので今回は風向計にも防水装置を付けた。アルミの板からステンレスの心棒、小物部品に至るまでほとんどは手持ちの材料で済ますことができたのが自慢。自慢ついでにこれまでのものも大雨や大風、台風にも耐えてよく廻ったので、自分の作品ながら”褒めてやりたい”。

1月26日(月) 昨日の日曜日に部屋片づけをしたとき旧いスケッチファイルを見つけだした。自分が描いたことも忘れていた昔の絵をみながら時を忘れて楽しんだ。このホームページでは1990年以降の絵を抜粋して掲載している(ここ)が、その前の絵は出していない。1989年以前の絵となると恥ずかしいとか未熟とかいう感慨はなく懐かしさがいっぱいになる。ある種の絵には、”ガンバッテイル”ところが気持ちよく今の自分でも触発されるところがある。絵を描き始めてしばらくすると誰でもがやるように人を描きたくなった。一番簡単な自画像をいくつか描いたが、ある時期女性ばかり描いたことがある。といってもピカソのように夫人を次々と取り替えながら女性を描くなんていう芸当はできないので雑誌の模写程度の絵であった。これからしばらく毎日これらの女性像を中心にして「往年の作品」を掲載して見ようと思う。今日はまず「1989年女性1」を掲載した(1989-4-14の文字が読める。サインはまだない)。最近は女性は勿論、人を全く描かなくなってしまったのが少し寂しい。
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1月27日(火) 「中島健蔵展」と「田沼武能写真展」をみた(共に東京都写真美術館にて、2月22日まで)。中島健蔵(1903-1979)はカメラ大好きの文芸評論家。交際した文化人のスナップ写真はよそいきでない有名人の顔をとらえていて面白かった。井伏鱒二、亀井勝一郎、三島由紀夫、大江健三郎、有吉佐和子などは顔が分かるが、高名な人がこんな庶民的な顔をしているんだと初めて顔を知ったりして興味は尽きなかった。田沼武能(1923-)は現役の写真家である。「60億の肖像」と題するこの写真展は田村が120を越える国と地域を取材して”人間”のドラマを撮り続けた記録だ。会場の解説文に田村自身の言葉があった:「なんとすばらしい傑作だ、人間というやつは!(シェークスピア・ハムレットのセリフより)」。田村の写真には常にこの”人間万歳”の眼差しが見られて好ましい。
写真展をみるといつも「絵とはなにか」の原点を考えさせられる。今日は「1989年女性2」を「今日の作品」欄に掲載した。描く肖像は何を視点にしたのか・・。写真の肖像が今の時代にあえて白黒であることに気がついた。全てを映し出す写真でさえも白黒の方が想像力を広げることができるのは象徴的だ。

1月28日(水) 一週間先の天気予報が外れることが多く、腹を立ててもいいところだが何故かホッとする。40数年前にローレンツという気象学者が余りに気象予報が外れるのでカオス理論のきっかけをつくった。カオス(chaos=英語読みではケイオス)とは一般的には「天地創造以前の混沌とか無秩序」の意で使われるが、カオス理論は非常に複雑で不規則、デタラメな動きの中にも規則に従ったものがあるという見方をする。ローレンツは気象モデルの方程式をコンピュータで計算する過程で、入力する初期値を0.506127とすべきところを0.506としたところ、結果がでたらめと思える大きな相違になることを発見した。ほんのわずかな初期値の誤差がもの凄く大きな結果の差として表れる「初期値の鋭敏姓」はカオス理論など難しい理屈でなくても応用がきく。「三つ子の魂」は正に初期値の話しであるし、子供の時に親や教師に褒められた一言で生涯が決まった事例などは多い。ただし、天気以上にこみ入った人間の複雑系を方程式で解き明かし、将来を予測することなど出来ないところが人間を面白くしている。・・「今日の作品」欄に「1989年女性3」を掲載した。まだしばらくは毎日「女性版」で更新するつもり・・。
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1月29日(木) 息子のつれあい(嫁という文字は実感と一致しない)がキルトをやっているので一緒に「東京国際キルトフェステイバル(@東京ドーム、1月31日まで)」にいった。キルトについてはほとんど知識がないのでこの際に少し調べてみた。キルト(英語ではQuilt、フランス語でCuilte)の語源はラテン語の「詰め物袋」を意味するとか起源は古代エジプトまでさかのぼることなどを知ったが、自分流に解釈すると、元来、布と布の間に綿のような繊維をはさんで縫い合わせる材料は保温用の衣料として非常に有効であったものと思われる。更に着古した服の端切れを縫い合わせて利用するのは布地が貴重な時代には当たり前の知恵であっただろう。ヨーロッパからアメリカに渡った清教徒達はキルトのノウハウをそのままアメリカに引き継いだ。手工芸品は実用の域から芸術まで昇華していく。キルト展もいまは「布と針と糸を使った」芸術作品展である。膨大なキルトの大作をみながらキルトの世界も絵画と同じだなとの感を強くする。伝統様式とモダン、構図と色の組合せ、そして創作への挑戦など作者が葛藤する様が自分にも心地よい刺激になった。
「今日の作品」欄に「1989年女性4」を掲載した(スキャナが使えずデジカメ撮影)。


1月30日(金) いわゆる「青色LED訴訟」で東京地裁が会社側が発明者に200億円の支払いを命じる判決がでた(30日17:07)。この判決を聞いて喜ぶのは発明者以外に一体誰かいるのだろうか。技術者や開発担当者が張り切るか?とんでもない話しだ。まず同じ給料が保証されている上にチャンスがあれば生涯賃金の100倍の収入が得られるのであれば誰でもが特許や発明に関連できる職種につきたがる。それならば、成果主義の契約がベースとなり、技術者も儲けがなければ減俸・トレードという図式はこれまでにない厳しさに成らざるを得ないだろう。難しい開発の担当者ほど報われない。それに発明の対価といっても野球と違って誰か一人のホームランで勝ったと言えるケースは少ない。開発の成果が特許出願者だけのものになるのは論外だ。米国流に一人の能力を評価するシステムを日本にもとの意図で法律があるのなら米国のやり方がベストではない。法律の解釈だけで裁判官が判断したのであれば常識はずれだ。地裁の判決はとにかく過ぎたるは及ばざるが如し。今回、発明の対価を得た人間もこれから後に成果を出すことはまずないだろう。
「今日の作品」欄に「1990年女性A」を掲載した。
     1-31
1月31日(土) 「やきもの」とか「陶磁器」といっても色々な種類がある。瓦や植木鉢などに使われるものは「土器」、備前焼、常滑焼など吸水性のない素土を使い釉薬なしで焼成されるものは「せっ器(stoneware,せっ=火と石の字を並べた漢字にない当て字)」と呼ばれる。更に、益子焼、笠間焼、日常の食器などでお馴染みの「陶器」と、清水焼、九谷焼、伊万里焼、瀬戸焼などの「磁器」がある。陶器と磁器の違いはまず土の成分が異なる。陶器の土が長石分が数%であるのに対して磁器は10-40%の長石分を含む。長石分(ガラス質)が多い磁器は1300度前後で長石が溶融し全体が半溶融化するが、陶器は磁器のように半溶融化しない。磁器はガラスに近い状態であるので叩くと高い澄んだ音がする。・・こんな話題を書いているのはこのところ「陶芸作品」の”吸水対策”をやっているからだ。磁器は吸水性がないのに対して、陶器は釉薬がかからない部分には吸水性が残る。陶器の食器を使っているうちに風合いが変わったりするのは吸水性による。風呂場に磁器タイルでなく陶器タイルを使う場合、目地から水分を吸い込みひび割れを起こすこともあるという。自作の陶器を裏向きにして釉薬のない部分を”対策”するのもまた趣味の領域だ。
「今日の作品」欄に「1990年女性B」を掲載した。

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