これまでの「今日のコラム」(2004年 5月分)

5月1日(土) ゴールデンウィークにはあえてどこにも行かず、テニスなど運動をして体を動かしている。身体が疲労すると頭も鈍い感じなので今日は思い出話を書こう。高校時代の世界史の教師の一言が40数年を経た今も忘れられない。当時は米ソ冷戦の時代。この教師は「ソ連の脅威というが万一ソ連が日本に侵攻することになれば全く抵抗せずに手を挙げてなすがままになればよい。そうすると日本は歴史に残る」といった。その瞬間、私はある種のショックを受けたことをよく覚えている。真面目で謹厳にみえた先生だったが、世界史を専門にする教師がそのような発想をすることが理解できなかった。しかし教師としての知識と思想は全く別ものであることは直感で分かった。生徒はほとんどその考えに同調したとも思えない。教師と云う職業は恐ろしい。自分より未熟な生徒を教えているように見えながら、実は大勢の批評の目にさらされている。・・その後、ソ連は誰もが予想できなかった形で崩壊した。ふと、あの教師(実はやさしそうでもあった)はいまどうしているだろうと思う。 

5月2日(日) 毎日アール(コーギー犬)と一緒に朝の散歩にいく西郷山公園(東京/目黒区・元西郷従道の屋敷跡)から富士山が見えなくなる。西郷山公園(ここ参照)からみる富士山はこの公園の魅力の一つであり、前に何度もこのコラムにも富士のことを書いた覚えがある。それが今建設中のビルが富士山の真ん中にそそり立ってきた。さびしい限りだが公園の眺望権を主張する訳にはいかないだろう。今時、東京から富士山をみることができたのが幸運だったのだと言い聞かせる外に術を知らない。
富士山がみられないのは残念だが、ゴールデンウィークに非日常を満喫できる簡単な術を発見した。それは休日の数時間、テレビを一切スイッチを入れないことである。外部からの音声が全くないところで夫婦の会話などすると旅行先か別荘かという気分になって時間の長さを感じることができる。もっとも、こんな話をしたら、ある人から「私は普段テレビは見ないもん・・」と云われた。この術は日頃テレビを見過ぎの人用であった。

5月3日(月) 五月の声をきくと思い出したようにハーブの栽培をはじめる。去年はナスタチウムやバジル、唐辛子など結構長い間楽しんだ。ハーブについては初心者であるので今年は経験していない別のものにしようと目論んでいたところ、フェンネルをいただいた。これをきっかけに、ロ−ズマリー、サラダバーネットなどの小さな鉢植えを買ってきて育てている。栽培の問題は日照をどう確保するかだ。日光を求めてきめ細かく面倒をみなければならない。自然の力と人間の手間が絡み合って植物は確実に結果を出すところが面白い。
「今日の作品」に「皐月の休日」を掲載した。タイトルは特に意味はない。五月とか昼寝とか何でもいいが「憲法記念日」の作品であることには間違いない。

5月4日(火) 最近は小泉首相がゴールデンウィークに歌舞伎の襲名披露に出かけようが川崎大師の御開張に行こうが、またヒデの七回忌に弔電を打とうが、新聞やマスコミはクレームをつけなくなった。当たり前であるが進歩というべきだろう。それでも何かあると直ぐ「こんな事態に国の責任者が休みをとるとはなにごとか」という論調になる。「休暇」を何か罪悪と考える習慣はなかなか抜けきらない。休養、気分転換、リフレッシュなどは間違いなく仕事の効率を上げることができる。ただ、このような「休み」はもちろん貴重ではあるが、私はそれ以上に“充電期間”が人間にとっては極めて重要な役割を果たすのでないかとの思いを強くしている。惰性で仕事をするのでなく、特に創造的な仕事に携わる職業では充電が必須である。直接の仕事をしなくても「休み」の期間に頭は整理され新たな仕事への意欲が沸き上がる。政治家や実業家も「創造的な仕事」の範疇に入るとすると、”充電できること”はこうした職業人には必要条件であろう(休暇だけで充電できないのでは資格がない)。それにしても、首相も多くの今U-ターン最中の人々も、余りに充電期間が短すぎる。夏休みを欧米並みの長期休暇とすると日本はもっと進化するかも知れない・・。
5月5日(水) 能力三角形というのがある。三角形の面積は「底辺×高さ÷2」。人の生まれつきの才能や素質を底辺、努力による練習量を高さとすると、その人の能力は三角形の面積で表されるとするものだ。どんなに素質があっても努力なしに能力は産まれないし、同じ努力をしても適性で個人差がでる。小さい子どもを見ていると、子どもの個性は歴然と芽吹き始めている。運動の得意な子、本の好きな子、音感がすばらしい子、表舞台で目立つのが好きな子・・など。こどもには底辺の大きな分野を伸ばしてやりたいと思うのは自然であるが、「適性」の見極めはそう単純ではないと思える。底辺も環境次第でいくらでも伸び縮みするだろうし「潜在能力」は見えない場合もある。私は「好きこそものの上手」を信じたい。「下手な横好き」ということもあるが、継続して高さを伸ばすには、とにかく本人が好きで快楽を覚えることが一番だ。一生涯で考えると、一つだけの三角形が大きいことがいいとも限らない。人間は、むしろいくつもの三角形の集まった立体構造であるかも知れない。
5月6日(木) 五感とは云うまでもなく「人間が外界の刺激を感じる事が出来る五種の感覚=視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚」(新明解辞典より)である。最近の研究によると、以前考えられたよりも遥かに複雑に五感は相互に関連しまた脳や身体全てが五感と絡み合っているとみられている。「見る」という機能は目だけで見ている訳ではない。視力がいい人が知覚しないこともあれば、目の不自由な人が深くみることもできる。耳で聞くのでなく骨で聞く電話が宣伝されているが、身体(肌)で音楽を聴くことは誰もが経験する。なにより食は味覚だけで味わうものではなく、視覚、嗅覚、触覚、さらに聴覚まで動員して食事を楽しくする。人の知覚はすべてこんな調子で単一のセンサーでなく複合した感覚であるところが面白い。そこで私は絵などをみて感動するという感覚の構造に考えを巡らす。この場合、絵を見る事は単に視覚を働かせるだけでなく、あらゆる体験や知識それに本能とが結びつき、自分自身の中に新たな感情(心地よさとか楽しさ、興奮)を呼び起こす。一枚の絵からでも想像は無限にひろがる。感動とは五感をベースにして呼び起こされる一種の想像と価値の発見ともいえるだろう。五感というセンサーを通して、五感と無縁な想像や夢の世界が構築されることはまた興味深いところだ。
5月7日(金) 聖書/ヨハネ福音書(8-1)より:「律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕えられた一人の女を連れてきて、イエスに言った。”この女は姦淫の現場で捕まえられたのです。モーゼは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じています。あなたはなんと言われますか”。・・イエスは言われた。”あなたがたのうちで罪のない者がまずこの女に石を投げなさい”。それを聞くと年長者から始めて一人一人でていき、イエスがひとり残された・・」。この余りに有名な「罪なき者から石を打て」「そして誰もいなくなった」のシーンを思い出したのは、三菱自動車(昨年三菱ふそうバス/トラックに分社)製トレーラーのタイヤ脱落事故に関連した関係者逮捕の報道に接したときであった。もちろん死者までだした事故に対する認識の甘さなど論評されることについて全てごもっとも・・。それにしてもサラリーマンであるテレビや新聞の記者がきれいごとばかり並べるので、君たちはそれほど罪のない人なのか、そんなに無垢の職業なのかと問うてみたくなる。10年以上前であったか私が勤め人の時代に幹部が「企業人であるまえに社会人であれ」といった。建前にしてもそういう事が言える時代になったかと感無量であった。それでも組織の中で実感する本音とはずいぶん違和感を感じた。企業の風土は長年の蓄積の産物であるが一方で風土も変革されなければならない。いま特に三菱を弁護する理由はなにもないけれど、メーカーである三菱自動車(および関連)がこの逆風をきっかけとして強く再生するよう密かに応援している。<今日の作品に「菖蒲」を掲載した>
5月8日(土) 土曜の午前中にはテニスをやる。30年以上同じクラブの会員であると色々なメンバーの方々に巡り会った。初心者の頃にさんざん文句を言われながら指導を受けた先輩は数年前にコートでプレー中に倒れてそのまま息を引き取った。昔から知っていた大長老の方は80歳を過ぎても華麗なプレーをみせてくれていたが、しばらく姿がみえないと思っていたらお亡くなりになったという話を聞いた。会員をやめていかれた人も多い。そんな中で、私よりも古い長年の会員であった義兄は、「相手の嫌がるところにあえて球を打つ競技が好きになれなくなった」といって退会し、いまは音楽三昧である。その潔さや生き方に影響されるところが多いがそのまま私は真似をできない。けれどもテニスをやる時にその言葉を思い出して自分自身の闘争心を計るバロメーターとしている。仲間内の甘チョロテニスではあるが今の私には相手に勝つという闘争心がなければ面白くない。決め球を仏心をだして緩く打てば、相手から即反撃を受けるところに妙味を感じる。ミスをしたりポイントを取られると「悔しい」と思い、まだ闘争心が残っているとホッとする。それでも以前と比べると自分が負けても相手が喜ぶと思うソフトな気持ちが増えたのは確か。これからの課題はいかに闘争心を維持できるかだ。そう、相手に思い切り打ち難い球を打ち込もう。
5月9日(日) 初日を迎えた大相撲五月場所にいった。家に帰ってきても、まだ興奮の余韻が抜けきらない。故あって枡席の切符をいただいたのであるが、大相撲を観戦するのは初めて、蔵前の国技館に行くのも初めて、もちろん土俵から数メートルの正面枡席で飲み食いするのも初めて、とすべてが初体験であった。午後の早い時間に国技館に入り、三段目や幕下の取り組みから見始めた。途中、館内の見学などもして、中入りを迎えたのは午後3時40分。幕内土俵入り、横綱土俵入りの後、幕内力士の対戦は6時頃まで。この間、まったく退屈する事なく時間が経過した。最後の取り組みは横綱朝青龍と小結雅山。さすがに朝青龍の闘志と強靭な筋肉/足腰ばかり目立ち、朝青龍は31連勝。それにしても雅山にはせめて朝青龍をにらみ返す程度の意気が欲しかった。闘志を表に出す高見盛は時津海に敗れてしまったが、館内を盛り上げる明るさがあるのは間違いない。追風海(ハヤテウミ、名は英飛人)は名の通り立ち合いに高く飛び上がり奇襲した取り組みも印象的だ。安美錦に敗れはしたが追風海が好きになった。どんな取り組みにしても、土俵の上の二人の力士と行司の仕草を細かく観察すると、勝負が決まった瞬間からあと数秒間に非常に静寂な時間が流れるように感じられた。これはテレビでは分からなかったことだ。勝った力士と負けた力士、それに勝ち負けを判定した行司がそろって戦ったことを全て水に流してしまったかのような静かな表情をみせる。こんなところにも相撲の面白さを見た。
5月10日(月) テレビの長寿番組の一つ、「伊東家の食卓」(火曜日夜7時、日本テレビ系)を我が家でもみることがある。妻もこの番組のファンで以前テレビで放映した裏技をまとめた「裏技大全集」の単行本まで買ってきた。いわば日常の一寸した知恵の紹介番組であるが、昔の”おばあちゃんの知恵”が伝承される事もなくなった昨今の家庭では、このようなテレビ番組は貴重だ。それにしても「主婦の知恵」というのはすごいものだと感心させられるのもこの番組。電子レンジの活用法など際限なく主婦によって開拓される。私自身も画用紙を額に入れるときに輪ゴムを画用紙の裏に入れておくと絵がずれないとか、冷えてないビールを一分間で冷たくする法など、伊東家から習った裏技を使う事も多い。いまはinternetでもみることができ、ますます便利になったのでお勧めだ。<=最新はここ、以前の裏技はここ
「今日の作品」に「大相撲/呼び出し」を掲載した。大相撲では力士の取り組み以外に、行司や呼び出しがとても”絵になる”ことを発見した。(昨日、5月9日のコラム参照)

5月11日(火) 今日の東京は気温30度を越す夏日になった。毎朝犬の散歩で立ち寄る西郷山公園(目黒区)に常駐するホームレスさんはこのところ一人だけ。前に暖かい朝陽を浴びて3−4人のホームレスが一斉に芝生の上で日光浴をしているのに出会ってぎょっとしたこともあったが、相手が一人となると観察する余裕ができる。「ホームレスになって読む本」というタイトルがあったが、どんな新聞、雑誌、本を読んでいるのだろう・・。かなり前に「ある日、太宰治を読んでいるホームレスに出会う。翌日、彼は大江健三郎を読んでいた。次の日には川端康成・・」と書いた観察者がいた。そんなドラマチックなホームレスがいるのだろうかと、西郷山公園でしばらくチェックしてみたが、どうも本は読まないようだ。スポーツ新聞を持っているのはよく見かける。今日の西郷山のホームレスさんは木陰でニューヨークタイムズを読みながら涼んでいた・・などとレポートすると面白いコラムになったのに・・。
5月12日(水) 「ハンパモノ」の薦めを書きたい。半端とは全部がそろっていない不完全なことをいうが、私はモノ作り(家庭用品の製作、趣味の工作その他なんでも)の時の材料を購入する場合、ハンパモノのコーナーをみる。東急ハンズとか島忠には材木とかプラスチック素材のハンパモノがまとめてあり、そこで極安で材料を購入する事が出来る。半端といっても、長さ1mに統一した材料があるとすれば、これが0.7mとか0.3mに切断されたものが、規格外として別扱いになっているだけだ。例えば、規格品が300円とすると半端ものは30円という値段である。最近、石の世界でも同じであることを知った。大理石や高価にみえる石も規格寸法でなく一部加工されたものなどほとんどタダ同然で手に入る。処分に費用をかけるのであれば値段はいくらでもいいとい訳だ。自分では買う事はないが食料品などでも同じようなことがあるのだろう。一体、規格寸法とは何だろう。用途によっては1mの規格は全く意味をなさない。人間の場合、半端者の表現は好きでないが、規格通りと規格外れはあるかも知れない。考えてみると規格外の人材が活躍できる社会は明るい。
5月13日(木) フェルメールの絵に再会してきた。「ウイーン美術史美術館所蔵、栄光のオランダ・フランドル絵画展」でフェルメールの「絵画芸術<画家のアトリエ>」が日本にきているのだ(東京都美術館で開催中ここ、7月4日まで、後神戸に巡回予定)。現存するフェルメールの絵は総数35点と言われ、極めて数が限られているのでそれぞれの美術館で門外不出にしているところが多いのに、ウィーンから極東の日本までよくぞ貸し出しを許してくれたものと思う。お金もかかったことだろう。1996年にオランダ・ハーグで「フェルメール展」を見て以来、私はフェルメールに特別な親しみを抱くようになった(フェルメールについて、このホームページに解説とリンクあり=ここ)。フェルメールの絵は何度見ても、またどんなに時間をかけてみても飽きる事がない。「絵画芸術」は専門家から”畢生の傑作”とまでいわれる絵であるが、そんなことは関係なく、今日の展覧会でも、多くの大作にいささか食傷気味なところで、それほど大きくないフェルメールの作品に出会うとホッとしていつまでも一緒にいたい気分になる。絵の中の人物にも強引な押しつけが全くない。ルーベンスの巨大な絵画が強引でまとまりがないと思ったらルーベンス工房での共同制作であった。絵というのは正直なものだ。
「今日の作品」に「大相撲/行司」を掲載した。先日、国技館で相撲を見て行司は相撲の行事を司る役目で単なるアンパイアではないことを実感した。

5月14日(金) 昨日のコラムでは東京都美術館での混雑については書かなかったが、ウィークデーというのにかなり混み合っていた。いつもながら美術愛好家は多いなあと感心したが、次にいった国立博物館で開催されている「空海と高野山」はそれどころでない混雑でいささかたじろぐほどであった。この催しは弘法大師入唐1200年記念と銘打って一年前に京都で公開され、愛知を経て今東京で開催されているものだ(netはここ、東京は5月16日まで、その後和歌山へ移動予定)。長い間公開されているにも拘らず、まだこれほど大勢の人を引きつけるのは何だろう。日本人は好奇心が旺盛で、そこがまたパワーになるのかも知れない。仏像を見たり密教の解説を読んでいるうちに、それにしても日本人のベースとなっている宗教観は平和だなあとの思いを強くした。空海が唐に渡って密教を学んだ歴史は自然と日本と外国の関連を考えさせる。今の世界は仏教ではない宗教が複雑に絡み合った戦いの最中でもあることにも思いは及ぶ。混雑はしているが不思議に殺気立った気配は露ほどもなく、整然とした中に静けささえ感じられる展覧会場には、戦いとは対極にある自省の思想がみえた。
5月15日(土) 「運慶が護国寺の山門で仁王を刻んでいるという評判だから、散歩ながら行ってみると、自分より先にもう大勢集まって、しきりに下馬評をやっていた。・・」。夏目漱石の「夢十夜/第六夜」の書き出しである。見物人が「あれは眉や鼻を鑿(のみ)で作るんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中に埋っているのを、鑿と槌の力で掘り出すまでだ。」というのを聞いて、彫刻とはそんなものかとすっかり納得した筆者が家へ帰って薪を片っ端から彫ってみたが明治の木には仁王は埋まっていなかったというご存知のお話。先日、「空海と高野山展」(@国立博物館)で運慶と快慶の彫刻をたくさん見たときに、「夢十夜」を思い出した。運慶の「八大童子立像/制多伽童子像(国宝)=ここで画像が見られる」など表情が真に生き生きしている。この凛々しくしかも優しい表情をみていると、漱石でないが自分もひょっとしてこんな彫刻を掘り出す事ができるのであればやってみようかという誘惑にかられる。それが西洋の大理石でできた彫刻、ミロのヴィーナスやミケランジェロの彫刻などをみても決してそんな思いはでてこない。夢十夜はまさしく日本でしか見られない夢であった。<夢十夜はnetでは全文、ここで読めます。運慶の縁でこの名作をまた楽しむことができました。便利な世の中になったものです>
5月16日(日) 雨の日曜日、特に予定がなかったので久々にこのホームページの動画を改訂しようと思った。「コーギー動画=ここ」はもう2−3年改訂してない。何より全体に画像が小さすぎるので以前から機会を見て大きくしたいと考えていた。他の固定画も動画にしたい・・などやりたいことはいくらでもある。ところでいざ手をつけてみると、そう簡単に事は進まない。まず、オリジナルのスキャナ画像が見つからない。原画はどこだ・・という調子。1−2時間で片付けようとの思いは撤回し、ついには長期計画で出直す事にした。どうもこのところはコンピュータ仕事に集中できない。考えるためにはまだ充電期間が必要にみえる。いまは充電前に放電している時期かもしれない。こんな時には「今日の作品」に掲載した「舞」(グアッシュ&水彩)ができあがった。こうした抽象画は気持ちが発散できるので心の開放感が味わえる。まさに様式にしたがった創造ではなく”放電”する気分だ。
5月17日(月) 毎日、新聞各社のコラムをインターネットで読むが、たまに新聞を生で(変な言い方だ!)読むと、縦の文章が短く改行されながら横長に続くコラムは、画面で見るより何か権威がある雰囲気になり、その相違に驚く。ニュースの場合なども縦書きの印刷物の方が内容の如何にかかわらず重みがあるように見えるから不思議だ。形態にとらわれず真実を読み取るには単純な横書きインターネットの方がいいかも知れない。反対に小説を読むとか(今はインターネットで名作を読む事が出来る)、文章を味わいたい場合は縦書きの印刷物に限る。縦の印刷文字はページ全体を眺めて速読するにも適している。書は縦書きで字体の流れを楽しめる。考えてみると日本語の縦・横両用文化は実にユニークなものだ。横書きに統一する意見なども最近聞かなくなったのはむべなるかな。何事もやり方を一本化するのがベストとは限らない。どちらでも好きな方を選ぶ、便利な方を使うというシステムは豊かさの証明でもある。ここで、インターネットで縦書きを取り入れると新鮮なデザインが出来るかも知れないと閃いたがどうだろう・・。
5月18日(火) 友人の絵の展覧会に行くといつも「描く原点」を考えさせられる。それは職業画家の展覧会では感じない事だ。今日の展覧会は20人余のグループによる趣味で描いた「油彩・水彩展」。指導者の流儀を押し付けたところがなく全員が自分の個性を主張して描きたいように描いたのが見えてとても好ましかった。絵画の面白いところは絶対評価が定まらないところにある。ゴッホの絵が生前一枚も売れなかったことは知られているが、生前評価されずに後世認められた画家は枚挙にいとまがないし、その反対もまた限りがない。自分の評価など気にする事なしに、描きたいという欲求がほとばしり出る絵は見る人の心を打つ。専門家の上手な絵より下手でも(それを下手と言うべきでないと思うが)純粋な描き手の絵に感動することはしばしば経験する。自分の感性で発見するのが自分のお宝だ。そんなことを思いながら、一つ一つの絵を自分ならどう表現するだろうと想像しながら見て回る。そこで友人の絵からは勿論であるが名前も顔も知らない人からも絵に込めたエネルギを存分にいただく。・・見終わって帰る頃には、鑑賞者でなくやはり描く実践者になりたいとの思いを新たにした。
5月19日(水) 昨日は三橋達也(俳優・タレント)が亡くなったとの記事が目についた。趣味のライフル銃など持った元気なイメージが脳裏に残っているので80歳ときいても何か信じられない。今日はまた金田一春彦さんの死去が伝えられた。我が家の国語辞典、古語辞典の編者には金田一京助(春彦さんのお父さん)、春彦の名前が並んでいる。春彦さんは国語学者というより一昔前のテレビ番組でも親しかった。享年91歳。こんな時に昨夜、紀尾井ホール(東京)で館野泉さんの新たなる旅立ちというピアノコンサートが開かれて盛況だったことがテレビで報道されていた。フィンランド在住のピアニスト、館野さんは私とはそれほど歳の差は大きくない。それが、2−3年前に演奏中に狭心症?で倒れ、回復したものの右手ではピアノが弾けなくなったという。その後、左手だけで弾く音楽性豊かな楽譜を知り、リハビリを続けた結果、左手だけの演奏会に挑戦する。作曲家の間宮芳生(1929-)が館野のために作曲した左手だけによる新曲も加えて、昨夜はまさに「新たなる」左手ピアニストが旅立ちをした。有名な人にも有能な人にも、また普通の人にも、時は分け隔てなく、静かに確実に流れている。
5月20日(木) 韓国の人が日本語を学ぶと受け身の表現に驚くという話を読んだ事がある。私は先日「泥棒に入られた」し、今日は「雨に降られた」。毎日「教えられる」ことも多い。受け身とともに「あやふやさ」、「いい加減さ」もしばしば指摘される。私は主体性が希薄な日本独特の表現はユニークな文化であり、ある意味で貴重な存在であるとも思う。前にも書いた事があるが、一般的な日本人は一神教の厳密な宗教を信ずる事もなく、正義には疎いかも知れないが、反面、絶対的な価値を他人に押し付ける傾向は少ない。厳密さを議論し出すと大抵は争いになる。いい加減(適度の加減)の妥協が結局平和をもたらしている。ただし、これは日本人の理屈であり、外国人がそう思うかどうかは別だ。八百屋さんにいって、「そこのリンゴ三つほどちょうだい」というあやふや表現は最近なくなったと思っていると、若者はいう、「リンゴとか欲しいんだけど」。表現があやふやであっても、何より平和であればよい。他の世界に日本流を通用させるのは無理なのだろうなあ・・。
5月21日(金) 所用で新宿のパークタワーにいったついでに久しぶりに西新宿の街を歩いた。こんなことを言うと今時流行らないが、私は東京の街が好きだ。都会は冷たいとか、やはり田舎が住みやすいと言ってみたいが、田舎生まれで田舎育ちの私にとって、いまだに東京は憧れの都会である。山川の自然はないが人工の創造物が青空の下に美しくそそり立つ。人々は活発に動き回り、私はその中に浸っている。そんな幸せを感じるのが西新宿だ。いまでてきたばかりのパークタワー(建築画像はここ、またはここ)を振り返り、新宿駅の方向に戻るところで、東京都庁(写真サンプルはここ)の華麗な建築をしばし楽しむ。この風景はパリでもローマでもない。ただ超高層ビルといっても林立するだけでは、それほど面白くない(サンプル写真ここ)。建築デザインとして見るものが欲しい。都庁もパークタワーも丹下健三の設計となるとやはり建築家の名前がものをいうのだろうか。とにかく歩くだけで新鮮な気分になる街、何度目に触れても心地よい風景が西新宿にはあった。昼間の都会にもそんな魅力を見つけることができる。
5月22日(土) 北朝鮮による拉致被害者の家族の帰国が実現すると直ぐにそれだけでは物足りない、最悪のシナリオだなどと批判がでる。膠着状態の戦況を打開するために犠牲バントをして一点入れたとたんに、ホームランを打てば4点も入ったのに・・という議論だ。どこに行きたいか、何を食べたいか、何を歌いたいか・・を10人に聞けば10通りの希望がでる。政治は50−60%の支持率があれば政権を運営できるのはむべなるかな。それにしても、ご苦労さんの一言もなく、最悪だの最低だのばかり聞かされるとくたびれる。テレビは巨人−阪神戦を見る事にした。
「今日の作品」に「ロベリア」を掲載した。ロベリアはキキョウ科の花で別名を「瑠璃蝶蝶」という。ただし、絵は余りロベリアらしくないかも知れない。本物はまさに瑠璃色(=紫色を帯びた紺色)の蝶のように可憐だ。花言葉は貞淑・謙譲とか。

5月23日(日) 今日は大相撲5月場所の千秋楽。優勝決定戦で横綱朝青龍が北勝力を破り、3場所連続優勝を達成した。北勝力は6日目に朝青龍の連勝記録を35で止める大金星をあげたが、今日、白鵬に勝てば優勝という一番で敗れて、結局優勝は本命の朝青龍にもっていかれた。私は初日に枡席で大相撲を観戦するチャンスに恵まれた(9日のコラム参照)ので、今場所は特に興味深く大相撲をみた。初日を見ただけでも朝青龍の集中力はずば抜けていた。仕切のときの顔は勝負のみを見据えて怖いようであるが雑念がない美しさをも感じさせた。朝青龍の相撲は集中しているので躊躇がなく、相手より0.01秒でも素早く力を出すことができるようにみえる。それにしても、朝青龍を援護射撃した新入幕の白鵬(19歳)/敢闘賞、十両優勝の時天空はいずれもモンゴル出身(朝青龍に続く旭天鵬、朝赤龍も、それに旭鷲山は勿論モンゴル)。グルジア出身の黒海も活躍した。韓国出身の春日王、ロシアの露鵬、ブルガリアの琴欧州もいる。そういえば最近は相撲の八百長の噂など全く聞かなくなった。八百屋の長兵衛さんは外国力士が活躍する真剣勝負には出番がないだろう。こういう国際化は大歓迎。6月の北京場所では日本のオープンな国技を見直されるに違いない。
5月24日(月) 毎日、コラムを続けていると、書く事には濃淡の差がでる。ある程度のエネルギーが必要でも自分の考えを書きたいこともあるし、その日あったことを日記風に気楽に綴りたくもなる。今日は後者の気分だ。今朝のアール(コーギー犬)の散歩で「恵比寿ガーデンプレイス」にいった(このHPではここ)。朝の6時半頃にはほとんど人はいないが、若い外人のカップルが「コーギー、コーギー」といって近寄ってきた。サンフランシスコからきたアメリカ人でガーデンプレイスの脇のホテルに泊まっているという。家にコーギーを飼っていると言って電子手帳をとりだして写真を見せ始める。二頭の犬の写真をみるとアールとそっくりのコーギーだった。私もホームページのアドレスをメモして「コーギーも掲載しているのでみてね」という調子で手渡した。これが本日知り合った人。(帰宅後、ハッと思いつくとメモしたアドレスが、スラッシュ(/)すべきところにドット(.)としていた。自分のアドレスはよく間違うバカなわたし・・。)次は本日仕入れた雑学。カセットテープの対角の長さ、CDのデイスクの直径はいずれも同じで12cm。いずれもオランダ・フィリップス社の開発品。それでどうしたということもない。雑学というより雑知識かも知れない。
5月25日(火) いま陶芸で「宥座(ゆうざ)の器」を作っている。陶芸作品は「今日の作品」に掲載したところで、その作品紹介をすればいいのだが、粘土をこね始めた時点でわくわくして”公表”してしまう。出来上がるとどんなになるか分からぬままに、つい書いてしまうが、それでもアイデイアの段階で話したいところを、粘土の形を成したところまで我慢したものではある。さて、「宥座の器」とは、「宥(ゆう)」は右の意味で、「常にかたわらに置いて戒とする道具(勧戒の器)」のこと。孔子が魯国の垣公に謁見したとき目にした、傾けて置かれた器が「宥座の器」だった。これは「中が空であれば傾き、水が半分(適度に)入れば水中に浮き(=まっすぐに立ち)、水が一杯になれば沈む(=傾き覆る)」と聞かされ、孔子は「満招損、謙受益」(=多くを望み過ぎると悪い結果となり、ほどほどがいい結果を生む)と感心したといわれる。その後「宥座の器」は孔子の中庸の教えの象徴となる。私の陶芸はこれはただ水を注ぐ事による重心の変動を考えればできるのでないかと、白紙の状態から制作し始めたものだから完成してみると傾きっぱなしの器が出来上がるかも知れない。どうなってもオブジェとして楽しめればいいと割り切っている。それにしても、最近は「分をわきまえる」ことができずに「図に乗った」言動が多くて気になってしようがない。この陶芸がうまくできれば,側に置いてほしい人は多い。といっても、先ずは我が身の「宥座の器」が無事にできることを祈るばかり・・。
5月26日(水) 5月23日のコラムで大相撲で活躍するモンゴル他の外国人力士をみた(5/22コラムはここ)。他のプロスポーツの分野でもいまや外国人選手は珍しくはなく、国境のない時代が現実のものになりつつある事を実感する。リーダーが外国人という実績を不動のものにしたのは、日産のカルロス・ゴーン氏だろう。当初は大会社のトップが外人ではどうなるか不安もあったが、「結果よければ全てよし」である。昔、薩摩出身がいいとか長州はどうかとこだわった類いの純血指向は意味がなくなったのと同じく、出身の国にこだわることはない。それにしても、それにしても・・である。J-リーグ=サッカーの監督をあらためてみてみると、日本にはそれほど人材がいないものかと心配してしまう。<以下順不同>:鹿島アントラーズ=トニーニョ・セレーゾ(ブラジル)、浦和レッズ=ブッフ・バルト、ジェフ市原=オシム(オーストリア)、東京ヴェルデイ=アルデイレス(アルゼンチン)、清水エスパルス=アントニーニョ(ブラジル)、セレッソ大阪=アルベルト(クロアチア)、ヴィッセル神戸=ハシェック(チェコ)、大分トリニータ=ハン・ベルガー(オランダ)・・。これでもまだ全ての外人監督ではない!!
5月27日(木) 少々品はないが「百日の説法、屁一つ」という諺がある。一般には「長い間の苦労もちょっとした失敗で無駄になる事(新明解/三省堂)」として使われる。私はこの諺をとてもうまく表現したと思う反面、世評とか好き嫌いなどは本質とかけ離れたところで判断されるという、人の嫌らしいところを同時に表していると思えてならない。どちらかと言うと百日の説法をした坊さんの方を弁護したくなる。人間だから最後に屁がでることもあるだろう。それで説法のありがたさが無くなるのであれば、はじめからそんな人には説法など無駄というものだ。私も他人の書いたものを読む場合など、あるところで全く意見が異なる箇所にぶつかると全てが信頼できなくなることがある(これは自分のコラムを読んでいただく人も同じとは思う)。それでも冷静に考えると80%は同意見であったりする。どんな人でも100%考えが同じことはあり得ない。更に誤りのない人間などあり得ない。考えの違いや誤りが、許せないものか些細なことか、本質を見なければならないと冒頭の諺を思い出して自分に言い聞かせる。この諺も、以下の英文であればそれほどに気にはならない。"A good name is sooner lost than won."
5月28日(金) 「今日の作品」に「アイビー/グアッシュ&パステル」を掲載した。前回掲載した「ロベリア」も同じだが、始めにパステルでバックの色だけを描いた。その時点ではまだ何を描くか決めていない。指先に絵の具をつけて抽象画を描いてもよかった。結局、ライトグリーンの色をみているうちにパステルを塗った時には考えもしなかったアイビーを具象っぽく描き込んでしまった。目の前にそれがあったからだ。このアイビーには思い出がある。丁度自分のホームページを開設して間もない頃、1999年12月に代官山フォトコンテストにデジカメ写真を応募したところ入選し、いただいた賞品がこのアイビーの鉢(スタンド付き)であった(HP、1999-12-18コラム=ここに若干触れている。この入賞写真はHPの代官山ショウウィンドウ=ここ=の頭に使用している)。いま4年半経過しているがアイビーは以前より元気よく茂っている。アイビー(蔦)といっても何百種類と極めて多くの品種があることもアイビーを育てながら覚えた。このアイビーはもっともポピュラーな「ヘデラ・へリックス」だろうか。何がきっかけで植物を知る事になるか分からない。絵には最後にこれも始めは想像もしなかった”雀さん”を描いた。そんな自由と無計画性が楽しい。背景の色を先ず描くやり方をもう少し続けてみようと思う。
5月29日(土) この週末と月曜日まで、妻と私のスケジュールが共に何もなしとなった。滅多にないことなので旅行にでも行こうかと急遽パンフレットを集めてみたが、どうもみなピンと来ない。結局、家にいるけれども旅行に行った気分になって昼と夕食を外食にして非日常を味わうことで妻と意見が一致した。早速に昼から実践してみると、これが思いのほか非日常を楽しめる。家の周囲には恵比寿とか代官山で食事をするために遠路ははるばる出かけてくるような店がたくさんあるが、普段はほとんど入った事がない。温泉に行ったことを考えればどの店にだって入れる。美味しいと評判の店でやはりおいしかったと満足して店を出る時には、これはパリかローマにいる気分。いや東京にバカンスに来たと思ってもいい。我が家を山奥の温泉宿とする手もある。ただし、せっかくの非日常であるので、パソコンがなければもっと日常から離れられる。コラムのキーボードを旅先で打つようなことを止めてみるのもいいかも知れない。そういいながらもアール(コーギー犬)の散歩はいつも通りに続けている。
5月30日(日) 非日常の一つとして昨日の夕方にはテレビ(NHK教育)で能の「関寺小町」を楽しんだ。テレビでは能面のアップを見る事ができるし謡のテロップもみられるので能も馴染みやすい。能舞台の秘曲とされる名作をこれほど安易に目にしていいものだろうかと思うほど贅沢な気分になる。世阿弥の作とされる「関寺小町」はいわゆる”老女もの”の名品。才色兼備・絶世の美女とうたわれた小野小町(生没は不詳)は一方で老女としての伝説も多い。「関町小町」では百歳に及ぶという老女・小野小町は、僧や稚児たちと歌道について話をするうちに昔の栄華を思い出す。その夜の七夕祭りで稚児たちの舞を見ているうちに自らも舞い始める・・。単純なストーリーでありながら見ていて少しも退屈しないで小町(梅若万三郎)の動きに引きつけられた。この能を見ていたら、これまではただよく知られた歌として深くは鑑賞しなかった小野小町の歌が突如非常に身近に思えてきた:「花の色は移りにけりな いたづらに 我が身世にふる ながめせし間に」、「色見えで うつろふものは 世の中の 人の心の 花にぞありける」(各、古今集より)。1000年以上前に女性が詠んだ歌が現代でも全く色あせないのは驚くべき事だ!
5月31日(月) 「先のことなど分からない」・・ケセラセラの歌詞ではないが、先の事が分からないのは、いま天気予報をみれば実感できるようだ。今日の東京の最高気温は31度。強い風を伴った夏を思わす強い日差しが一日続いた。土曜日の予報では今日は雨ではなかったか、昨日の予報でもこんなに晴れ間が続くとは言わなかった。天気予報というのは気圧配置や雲の動きなどの理屈を聞いてもしようがない。知りたいのは自分の関係するごく狭い地域が晴れるのか雨なのかであり、隣り街は予報通りだったとしても、わが街は”はずれ”のことも多い。私は予報のはずれに文句をいい、何度も裏切られながらも、直ぐにそのことを忘れてまた次の予報を信用する。予報官よガンバレと応援もするのだが、これには私的な理由がある。祖父が明治の終わり頃に測候所長をしていて天気の予報もやっていた時代があった。祖母から、予報がはずれると近所を歩くときも小さくなっていたという話をよく聞かされたので、予報官の苦労を思いやりたいというところ。それにしても、現代の天気予報はもう少し工夫が欲しいと思う。気象予報士が各TVで活躍する時代であるので、個性ある予報士はどうだろう。NHKでは午後は曇り、夕刻には雨との予報ですが、私は雨は明日の未明までは降らないとみます・・などとやってくれれば、予報ではなく予想そのものを楽しめる。

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