これまでの「今日のコラム」(2006年 1月分)

1月1日(日) <元旦モード・・>
「時がすべてを解決する」と大袈裟にいうこともないが、元旦にはいつも時間の有難さを実感する。年末は大晦日の最後まで忙しい思いをして働きながら、全ては片付けられずにあきらめる。一晩寝て新年になったとたんに元旦モードに切り替わりゆったりとした気分になる。夫婦二人だけで朝食におせち料理をいただいていると、これが1日前の延長とは信じられないほど時間の過ぎるのを遅く感じる。朝食後、妻と明治神宮に初詣にいってみようとその場で相談して外出する。神宮の玉砂利をゆっくりと踏みしめながら参拝して帰ってきてもまだ朝の10時。テレビを消して、サンソンフランソアの弾くショパンを大きな音で聴き始めるとこれはもう正月の醍醐味としか言いようがない。夕方からは息子家族との新年会。その後、妻はニューヨークに住む娘とSkype(無料音声通信)で新年の情報交換。・・最近は「一年の計は元旦にあり」と意気込んで何かを元旦に計画しようとも思わなくなった。計画や実行は思いついた時に直ぐにできる。それよりも元旦に流れる他の日に変え難い特別のゆとりの時間が貴重に思えてきた。


1月 2日( 月) < 初夢・・>
初夢のことを書こう。昔、江戸では正月二日にみる 夢を初夢とした。この晩、庶民はいい夢をみようと宝船や獏(=夢を食う動物)の絵を枕の下に敷いて寝た。「一富士二鷹三茄子」が目出度い夢として流布したのもまたこの時代であった。日本一の富士山は末広がり、鷹は”つかみ取る”ので縁起が良い上に、高く舞い上がる上昇志向、ナスは”成す”で大願成就、更に毛がないので”怪我がない”=安全・・とくれば少しこじつけが過ぎる感じもする。西洋ではフロイトやユングなどによって夢は深層心理を分析する手段の一つとして研究されたが、「一富士二鷹三茄子」の夢をみる工夫は既に心理学的な療法にもなっているように見える。夢の学問は発達しなかったが江戸という平和な時代に夢による精神の遊びがあった。・・さて私自身は最近ほとんど夢をみることはない。朝目覚めた時に前々から考えていたことでアイデイアが浮かんできて忘れないうちにとメモすることはある。こういう時は身体も調子がいいので目覚めは体調のバロメーターになるが夢とは違う。今晩は一つ富士の初夢でもむりやり見てみようかな・・。

1月 3日( 火) <いろはかるた・・>
「いろはかるた」で遊ぶ習慣がいまのお正月にどれほどの家庭で引き継がれているのだろうか。ニューヨークに住む娘家族の話では、5歳になる孫娘にとって「いろはかるた」は日本の文化を学ぶための掛け替えのない道具であるようだ。「かるた」はポルトガル語のcart(英語のcard)から来ていることは知られているが、「いろはかるた」の内容を見れば見るほど日本の伝統文化の奥深さに感嘆する。「いろはかるた」といっても、江戸、上方、尾張などの地方で言葉が異なるがそれぞれに含蓄が深い。例えば、江戸では、「犬も歩けば棒に当たる、論より証拠、花より団子」が、上方では、「一寸先は闇、論語読みの論語知らず、針の穴から天覗く」となる(江戸、上方、尾張の比較はnetではここに詳しい)。私の好きなかるたを書き出してみよう:「瑠璃も玻璃も照らせば光る」、「良薬は口に苦し」、「鰯の頭も信心から」、「負けるが勝ち」、「油断大敵」、「縁は異なもの味なもの」、「瓢箪から駒」・・。改めて書いてみると、どれもが名文句で実に上手い表現をしている。・・ここで一つ閃いた。最近トランプのカードマジックが人気を呼んでいるが、「いろはかるた」を使ったカードマジックはどうだろう。「はい、ハートのエース」といってカードを見せる代わりに、「はい、知らぬが仏」などとやる。マジック用いろはかるたはできないものかなあ??

1月 4日( 水) <水仕事・・>
今朝の東京新聞のコラム「筆洗」(=ここ)を読むと、これを書いた筆者は台所の水仕事を専ら主婦の仕事として自分ではやらないのが当然とのニュアンスがあるので苦笑してしまった。いまどきの新聞記者でもそんな感覚なのか。私は最近では出来る限り台所仕事を手伝うが、これは特別なことではなく私の周囲では誰もがやっている。学生時代の友人夫妻の別荘を訪れたとき彼が当たり前のごとく台所の水仕事をする。別の友人は分担して料理も作る。一昔と事情が違うのは、今は主婦といっても専業主婦などほとんどいない。夫と同等以上に働き、夫はリタイアしたけれども妻は社会的に続けて活躍しているというケースは決して珍しくはない。さて、私の場合、茶碗や皿を自分で洗ってみると、陶芸の作品作りの上で色々なヒントを得る。例えば、細かい凹凸などがあると汚れがとれない。凝った形を作ってみても”洗い易い”構造でなければ使えない。余りに薄肉の仕上げは欠け易い。水洗いをした後の収納を考えると重ね易い方がよい。料理を盛りつけてみると、また器の実用面で新しい発見をする。食器を創作するからには台所での水仕事と料理は必須である。
1月 5日( 木) <データ分析・・>
テレビでロッテの久保投手のインタビューを聞いて感心した。久保は昨シーズンのパリーグ新人王。関大一高から実業団(松下電器)を経てロッテに入団したので25歳の新人である。プロ初先発で150km/hの速球を武器に完封勝利を飾り注目された。しかしある時から速球を痛打されるようになり勝ち星がなくなる。その苦労した時点での久保の行動が面白い。自分の勝ち、負けの試合を徹底的に「データー分析」した。そうすると豪速球よりも少しタイミングをずらしたり遅い球の方が打者を打ち取る確率が高いとみた。速球一本やりではプロの打者は直ぐに慣れてジャストミートされる。当然、相手の打者のデーターをも研究し、硬軟取混ぜた球を操り、シーズンが終わってみれば新人ながら10勝をあげた。・・勝負事は久保の分析がそのまま当てはまることが多い。私などはテニスの試合で球のスピードは全然恐ろしくないということをいつも実感している。球はそれほど速くなくてもほとんどミスをしない相手ほどやり難い。スポーツに限らず何事でも「全力を尽くす」というが、「全力を尽くす」とは「全知力を使う」ことであろう。

1月 6日( 金) <湯たんぽ・・>
湯たんぽのことを書こうと思ったら語源が気になった。調べてみると「たんぽ」は中国語の「湯婆」の発音からきたという解説がある。なるほど「タンメン(湯麺)」と同類と納得するが、本来は「湯たんぽ」でなく「たんぽ」だけでいいことになる。子供の頃には愛用した湯たんぽであるが最近は暖房器具として販売しているのを見た事もない(よく探せばあるかも知れない)。我が家ではこのところ湯たんぽの代用品を使用して重宝している。妻がテレビ「伊東家の食卓」か何かで仕入れたやり方であるが、湯たんぽの代わりに「ペットボトル」を使う。これが使ってみると想像以上に具合がいい。私は500ml容器を二個使うが、適宜2lのボトルでもよい。お湯(風呂の残り湯程度のそれほど熱くない湯)を入れて湯たんぽ代わりに使ってもお湯は漏れる事はない。就寝時だけ適度に温め、徐々に冷めていくので身体によく、電力を使わない省エネ型であるのは湯たんぽと全く同じだ。ペットボトルの容器は空気圧式ロケット(模型)や工作用などいろいろな用途があるが、初めて「湯たんぽ」として使ってみた人に心底敬意を表したい。
「今日の作品」に「マイカップ(陶芸/完成品)」を掲載した。前に粘土で制作途上の作品を掲載したが(12月20日コラム=ここ参照)、今日、今年初めての初窯(我が家の小型窯)で焼き上がったもの。自分専用のマイカップとしてこの茶碗でコーヒーを飲むのが楽しみだ。

  

1月 7日( 土) <スクワット・・>
昨日からヒンズースクワットを始めた。以前から自己流でスクワット風の膝曲げ運動を朝晩20回やっていたが、昨日テレビで85歳になる女優の森光子さんが毎日150回(75回を二度)スクワットをやっている話を聞いて、直ぐに真似してまず40回やってみた。運動後膝の感触がいいので就寝前にまた40回。これを習慣にする事にした(いいと思うことを即取り入れるのが私の主義)。スクワット(squat)とは言葉としては「しゃがむ」とか「うずくまる」の意だが、トレーニングとしては膝の屈伸による筋力強化。森光子さんがやっている「両手を首の後ろに当てて膝を曲げる」方式は「ヒンズースクワット」というようだ。妻の腰痛対策としてもこのヒンズースクワットは最適だと直感した。85歳の森光子さんがやっていることの影響は大きい。やる決心はその場だけだが、後はこれが継続できるかどうか。私については今日のテニスは絶好調。ヒンズースクワットの効果覿面だ(?)。<webでのヒンズースクワットのやり方例=ここ、あるいは、ここ
1月 8日( 日) <今日は何の日・・>
特別な話題がない時には「今日は何の日」をみる。365日の中で「この日」に焦点を当てると、コラムに書く書かないは別として興味深いことが多い。今日、1月8日は「平成がスタートした日」だった。そう云えば1989年、正月明けの7日に昭和天皇が崩御、その翌日8日に小渕恵三官房長官(後の総理)が新しい元号「平成」の文字を大きく掲げて発表した姿を思い出す。その平成も18年目を迎えた。また「今日は何の日」をみるとこの日が誕生日である有名人を教えてくれる。特に有名人の誕生日に関心を持つこともないが、生まれ年を見るとこの人こんな年だったかと思うことがある。いまや伝説の歌手となったエルビス・プレスリーも今日が誕生日だった。彼は1935年生まれだったが1977年、42歳の若さで亡くなった(メンフィスに墓がある/生きていれば71歳!)。同じく今日が誕生日の小泉純一郎、角川春樹、共に1942年生まれ。森英恵は1926年生まれ。・・他人の事ではなく自分にとって「今日は何の日」だろう。そう、2006年新しい仏間設計開始の日とでもしようか・・。

1月 9日( 月) <書家の書・・>
成人の日で休日。フギュアスケートの浅田真央(15歳)、安藤美姫(18歳)、卓球の福原愛(17歳)などスポーツ選手の例をだすまでもなく、世の中には未成年でも人間としての脳力が人並み以上に完成されている人は多い。特に20歳以上を成人と定めるのはただ法律のご都合といってもいいだろう。年齢など関係なく、若い人はまず色々な道で研鑽に励む。そしてその道を極めたとすると、さてそれからどこに進むのかが問われる。いや、一生、道を極めるべく突き進みますという人もいるだろう。けれどもほとんどの人は何らかの専門家に到達する。そこで金銭と名誉に守られるとその地に安住して終わってしまう。私はどんな分野でも専門性を打破しようとする人を応援したいと思っているが、そんな時、面白い言葉をみつけた。僧侶で歌人、かつ自ら書もよくした良寛(1758-1831)が挙げた”このまないもの”;「書家の書」、「詩人の詩」、「料理人の料理」・・。形式的な権威臭さを嫌う良寛の嗜好に私は全く同感である。大人が作り上げた形式と権威は、つまり通常の書家や詩人、料理人になる道である。こうした専門性を脱却して自由を得ることで、はじめて”良寛”が生まれる。新成人などとは言わない、今の若者には新たな良寛となるポテンシャルがあると信じる。

1月 10日( 火) <描きたい・・>
新年早々、やるべきことが重なり過ぎた。仕事で言えば同時に片付けるべき項目やプロジェクトが5個や10個あってもおかしくはないし、普通の主婦でも食事、洗濯、片付け、帳簿付け、銀行、友達付き合い、ダイエットトレーニング、それに子育てなどを同時にすると考えると、私などは甘ちょろいものと承知はしている。それでも、陶芸の磁器プロジェクトが四つ、陶芸の破損品塗装修理プロジェクトが一つ、箸の漆塗りプロジェクトが4セット、まな板リサイクル塗装プロジェクトが2セット、それに依頼された蕎麦湯注ぎ具の修理、その他を同時進行している(モノツクリ以外のパソコン仕事などはこれらとは別だ)。中で塗装工程が多いが、漆(相当)塗装は何度も塗りを重ねる上に毎回塗った後に24時間以上乾燥させるので、実施する順序に気を使う。面白いことに、こうしてスケジュールを調整しながら色々なことをこなしていると、無性に他のことをしたくなる。つまり絵を描きたくなった。今やっていることは強制されたり義務で行なうことは一つもない。それであるのに、以前仕事の忙しい時に「描きたい」と思ったのと同じ感覚になる。そこで今日、強引に描いたのが「今日の作品」に掲載した「2006-MUSIC<MIEUへの絵手紙>」である。こんな絵はがき程度でも描いている時は時間を忘れて楽しめる。

1月 11日( 水) <モーツアルト・・>
今年、2006年はモーツアルトの生誕250年である。モーツアルトは1756年1月27日にオーストリアのザルツブルグで生まれ、1791年12月5日ウィーンでなくなった(享年35歳)。生誕地のザルツブルグでは世界的なモーツアルトブームの中、記念コンサートや催し物など”モーツアルト狂騒曲”で盛り上がっている。何しろザルツブルグは人口15万の小都市(<参考>渋谷区の人口65万余)。250周年で人口の何倍もの人がザルツブルグを訪れて観光収入は30億円などと皮算用されているという。・・こんな話題をききながら、私はザルツブルグに行くことはできないので、せめて音楽に親しもうとCD棚からモーツアルトを探しだした。まずはじめにレクイエムを聴いた。久しぶりに聴いたモーツアルトにハマってしまい、次には交響曲41番(ジュピター)、35番(ハフナー)、続いてクラリネット協奏曲と終わりがない。どうして今までモーツアルトをもっと聴かなかったのか。これでは正に「宝の持ち腐れ」だ。足下に灯りを当てて見なければならない・・。

1月 12日( 木) <インプロヴィゼーション・・>
インプロヴィゼーションの復活を求めたい。インプロヴィゼーション=improvisation=を辞書で引くと「即席にやること、即興演奏(画)」とでている。この言葉は主に音楽に使われるが音楽以外の全ての分野でもインプロヴィゼーションの意味を見直すべきだと思う。私のとらえ方としては形式主義の反語的なニュアンスで即興を評価したい。ジャズやインド音楽などには今も即興演奏は残っているがバロック音楽でも初期には即興があった。会話の楽しみがその場の雰囲気に合わせたインプロヴィゼーションにあるように、音楽も即興が楽しいものであった違いない。今は形式の権化のような、お茶、お花、舞踊なども初めは即興の楽しさがあったのだろう。それが流派の権威を保つために形式化して即興が悪とされる。初心に帰れば即興は決して程度が低いものではない。閉塞状態の表現芸術や伝統芸能など全般の活性化にインプロヴィゼーションを見たいところだ。ただし、問題はインプロヴィゼーションの質であろう。安易な即興は形式に及ばない。インプロヴィゼーションにも名人芸を望まなければならない。

1月 13日( 金) <豹の斑点・・>
「今日の作品」に「豹さん<mieuへの絵手紙>(ペン&水彩)」を掲載した。例によってニューヨークに住む孫娘宛にだす絵手紙で絵は私が描き、宛名側の下半分に妻が文を書く。「豹」は手元にある豹のモデルを忠実に描いた。高さが20cmほどの木彫の豹であるが椅子に座らせた形が気に入っている。実は豹の他にライオン、象、キリン、シマウマがあり、それぞれ同じように椅子に座りテーブルを囲んで仲良く懇談している。その中の豹をとりだして描いたものだ。どの動物も実に穏やかな表情をしている。アフリカのケニア辺りで制作されたようだが正確には分からない。ライオンもシマウマやキリンと一緒に楽しそうにテーブルの上のボトルを飲み交わしている様は人間社会を皮肉っているようにもみえる。さて、この絵とは関係はないが、旧約聖書(エレミヤ書/13章)に豹の斑点の喩えで有名な文章がある。・・Can the leopard change its spots?(豹がその斑点を変えられないように本来の性格はなかなか変えられないの意であろう)。旧約聖書のその先はもっと強烈ではある:「もしそれができるならば悪に慣れたあなたがたも善を行なうことができる」。ここまで来ると人間の罪とか宗教観が絡んできて複雑になる。今はDNA を操作すれば豹の斑点も変えることができるといえばどのような回答が得られるだろうか。

1月 14日( 土) <セージ・・>
久しぶりに本格的な雨の土曜日。東京では夕刻に雷まで轟いた。外出した折に近所のハーブ屋さんで「パープルセージ」を買ってきて小さな鉢に植えかえる。私はハーブは勿論、植物全般について知識が貧困なので他の人には常識かも知れないが「セージ」についても今更感心することばかりある。まず、セージは紫蘇科のサルビア属。サルビアの名前は単独の花として知っていたが、サルビアとセージが同じ仲間であるとは知らなかった。確かに英語の辞書でもsageは「サルビア(salvia)」とでているし、セージの学名はSalvia officinalisである。Salviaの語源はラテン語のSalvare(=治療する、救う)で古代ローマ時代から保健薬として用いられたという。セージも防菌、防腐、精神安定など薬効は高いとされるが今は料理用のハーブスパイスの用途がほとんどだろう。ソーセージのセージがこの植物の名前からきていることも初めて知った。ソー(sow=雌豚)にセージを入れたソーセージが健康食として重宝されたのも納得出来る。セージ一つをとっても教えられることは多いが、このセージをしっかり育てることができるか・・その方が問題だ。

1月 15日( 日) <冬満月・・>
昨夜の大雨一過。今日の日曜日は朝から雲一つない。丁度日の出の時刻6時50分にアール(コーギー犬)を連れて西郷山公園(東京・目黒区)の丘の上にいた。この場所からは快晴の日には富士山をみることができるので朝の散歩の定番コースとしている。今朝は西南西の方向に真っ白な雪を冠った富士がみえた。東の空が赤く染まって日の出を迎えるころ、富士の少し右より(西方向)を見るとに見事な満月が残っている。しばし時を忘れて早朝の冬満月に見入っていた。家に帰って調べると、今日の東京での月没は7時35分。方位は300度(つまり真西=270度に対して少し北より)であった。現代の便利な月齢データーの恩恵に感謝しながら、一方で悠久不変なる自然を思った。「東の野にかぎろひの立つ見えて かへり見すれば月かたぶきぬ(万葉集/柿本人麻呂)」。1300年前の万葉の時代にも同じ月をみている。いや、2000年前、3000年前でも人は同じように冬満月に見入ったに違いない。

1月 16日( 月) <布の街・・>
「布の街」日暮里(にっぽり)で布の買い物をした。JR日暮里駅(東京)から鴬谷方面へ抜ける道は、「布の街」、「布の道」で知られる繊維問屋街。布と一言でいうが、これほどに種類が豊富なのかとカルチャーショックを受ける。既製服の激安店も並んでいるし、布専門の問屋といっても一般の買い物客OKである。これまで私は素材としての”布”には全く縁がない生活をしてきたので、見る物すべてが珍しい。ふと電気部品街の秋葉原を思った。以前はアキバの部品街を見て回るだけでも浮き浮きしたものだが、最近の秋葉原の事情を知人に聞くと新宿歌舞伎町が移転してきたような雰囲気ばかり目立って「部品街」の魅力は薄れたという。本当はどうであるのか、自分で確かめようと思うが、「布の街」では、丁度、昔の秋葉原電気部品街を歩いているような楽しい気分になった。布という素材の街の活気は、どんな完成品を見るよりもはるかに大きな可能性を感じさせる。
1月 17日( 火) <塗り箸・・>
「今日の作品」に「塗り箸(塗装工作)」を掲載した。この箸はほぼ一年前に自分で塗装再生した後、一年間使用して塗装部が一部傷んだので再度塗装をやり直したものだ(2004 年12月29日のコラムにその時の事情掲載、前回もhomemadeコーナーに写真を掲載した)。前回の時には軽く一回塗りを行なっただけだったが、今回は二色に分けてかなり徹底的に塗りをした。塗料は油性漆塗料(カシュー)を使用したが、これは本漆ではないが漆塗装と同等の塗りができる。その代わりに漆塗りと同じように猛烈に手間と時間がかかる。今回は数回の塗りを重ねたが(塗りの間に耐水ペーパーによる研ぎがはいる)、毎回24時間以上乾燥時間をとる。乾燥を確実に行なう事が箸や食品を扱う塗装では必須であることは体験的に学んだ。塗装の匂いを十分に除去するためには更に何日間も待たなければならない。こんな苦心の塗り箸であるので、完成写真はマットを敷いて華々しく扇型とした。

1月 18日( 水) <帰宅困難・・>
昨日は阪神淡路大震災から11年目の日であった。昨日今日の地震関連の報道の中で、今朝のNHKテレビでは都心で大地震が発生した時の「帰宅困難者」の問題を取り上げていた。最近は都心で働く多くの人を無理に帰宅させようとすることによるトラブルが指摘され、オフィス街に留まることも選択肢に含まれているようなのでホッとした。私たち家族の間では(今は毎日帰宅の必要はないが)万一の災害時には一刻も早く帰宅したり再会することは全く頭に入れていない。何日間も帰宅出来なかったり安否が確認出来なくてもジタバタしない。ただ、命があるか否かだけの問題と考えている。命があって生き延びることができれば必ずどこかで会うことができるのは、太平洋戦争・終戦直後の「尋ね人」の放送を例に出すまでもない。もし、どちらかが亡くなっていれば、それはどうしようもないことである(子供についても同じ。帰宅して瀕死の家族を救うなどできない)。我が家の特殊ケースで言えば、ピロテイー構造の一階に住んでいるので”想定外”の大地震が来た場合は先ず一階がぺしゃんこになる。この時には命は助からないだろう。「偽装設計」でなくても周囲には潰れそうな建築物が密集している。私たちの場合は帰宅・再会を話し合う以前に運を天に任せるしかない。

1月 19日( 木) <51Fの眺望・・>
今日は私の65回目の誕生日。息子夫妻と私たちが合流して一緒に六本木ヒルズ・森タワー51階のクラブで昼食をした。いま話題の六本木ヒルズからの眺めは、東京タワーを眼下に見るというところで先ず高さを感じる。レインボーブリッジや品川、羽田は直ぐ側にみえるし、東京湾を取り巻く千葉、神奈川方面に至る眺望は確かにすばらしい。ライブドアをはじめ同類の新興事業家がここに事務所をおくと東京あるいは日本を傘下に収めた気分になるというのは理解出来なくもない。しかし、51階からの景色を見ながら思ったのは、この風景はたまに見てリフレッシュするものであること。職場としてこんな場所で仕事をしていると感覚が傲慢になる。いつも他を見下していると、地道なアイデイアなど浮かんでこなくて安易な手法に走るのがお決まりであろう。東京地検が証券取引法違反(偽計、風説の流布)の容疑でこのビルの38階にあるライブドア本社を強制捜査したのが、一昨昨日16日ー17日。嫌でもこの捜査の進展が気にかかる。
「今日の作品」に「塗り茶碗」を掲載した。陶芸の素焼きの段階で底が剥離した(乾燥不十分とみる)茶碗を塗り物の手法で修復したもの。陶芸とは言えないのでhandicraftの作品とした。

1月 20日( 金) < 中国のインターネット・・>
情報が政治体制を左右する。ソヴィエト連邦や東欧諸国の共産体制がかつては予想できなかった仕方で崩壊したのも西側の情報が頻繁に伝わったことに一因があるとされる。北朝鮮が一般の国民へ外国の姿を知らせないことは体制維持のためには最重要であろう。いま中国のインターネット人口は一億人と推定され世界でも米国に次ぐ規模であり数年後には世界一(人数のみ)になると予想されている。この大市場を目指して米国のマイクロソフト、グーグルなどインターネット企業が激烈な競合をしているという。インターネットという自由な手法が拡大すると中国も変わるかと思うと、それほど単純ではないようだ。最近、中国で人権侵害を批判したジャーナリストが有罪となったが、これに関連しyahooが警察や当局に協力したことが判明した。これを契機にマイクロソフトの中国版MSN-Spacesでは「人権」とか「民主主義」の言葉が入力されると自動的に削除されるとか、グーグルのニュースでは中国の体勢を覆す目的のニュースソースは全て削除するとか、それぞれの米国企業が中国政府の逆鱗に触れない”努力”をしている実体が明らかになった。中国での極端な貧富の差やバブル状態を見聞きするにつけインターネットがこの国にどう根付くのか興味深い。
1月 21日( 土) < マイセン磁器・・>
土曜日の午前中はテニスと決まっているが雪ではどうしようもない。東京ではこの冬最高に降り続く雪の中、庭園美術館(白金)に「マイセン磁器展」を見に行った(明日22日まで開催=ここ)。18世紀の初めにドイツの王様が当時貴族や裕福層の憧れの的であった東洋の磁器(白い金と言われた)を”国産”するように厳命を下して磁器の製造に成功したのがマイセン窯であることはよく知られている。記録をみると17世紀前半の約50年間にオランダ東インド会社が中国から輸入した陶磁器は約300万個。17世紀後半には日本に目が向けられ30年余で実に190万個の伊万里焼きが長崎出島から輸出された。これらの手本を元にマイセンが新たな磁器の拠点を作り上げたことになる。いまマイセン磁器を見るとそのきらびやかな貴族趣味は自分には合わないが、磁器粘土を細かく彫刻する造形手法については一つのヒントとなりそうだ。・・雪の日の今日、夕刻からは陶芸教室の新年会だった。陶芸仲間の話を聞き、また午前中にみたマイセン磁器を思いながら、今年はどんな陶芸作品に挑戦するか構想を練る。オリジナルで一個か二個作るところに面白さの原点がありそうだ。

1月 22日( 日) < 磁器お椀・・>
「今日の作品」に「磁器お碗A(陶芸)」を掲載した。これは私の初めての磁器作品だ。これまでは専ら陶器を制作した。陶器は原料が土の中の粘土であるが、磁器は石(陶石)を砕いた粉を水と練って粘土にしたもの。長石成分が10%以上(Max40%)と陶器(数%未満)より多いため、吸水性がないとか、叩くと高い澄んだ音がでるなど磁器の特徴がでる。今回磁器の特性を活かそうと出来るだけ薄い肉厚のお碗を作った。けれども轆轤を使わず凸凹が残る手作りの味を出そうとしたのは自分としては結果的に失敗であったかも知れない。白が際立つ磁器お碗は形がスッキリ、シャープなものが似合う。民芸調の土臭さ、手作り感は磁器には合わない。プレゼントのためと思ってこんなお碗を三つ作ったが、やはり自分には他では見た事がない特別な形を工夫するのが似合っているか・・などと一時意気消沈した。このお碗をみて妻は使い勝手がとても良いし形も好きと言ってくれたので元気を取り戻したところ。今日の夕食はこの磁器お碗二つを使ってカレーライスだった。気に入られる場所で使用されるのが食器にとっても幸せであろう。

1月 23日( 月) < 松の事は・・>
「松の事は松に学べ 竹の事は竹に学べ」。夕方たまたまスイッチを入れたNHK教育テレビ「日本語で遊ぼう」で”今日の名文”として紹介されていたのが冒頭の言葉だ。幼児向けの番組であるにもかかわらず、この番組はいつも気合いが入っている。芭蕉のこの言葉がどのような時に発せられたのかは知らないけれども、あらためて聞くと実に含蓄の深い言葉だ。私は寺山修司の「書を捨て、町にでよう」とか、榊獏山の「野にいでよ、野に学べ」を同じニュアンスの言葉として連想する。いずれも「学ぶ」ということは書物から知識を取り入れることではないことを強調している。人工的な作為あるものから学ぶのではなく、ありのままの自然を自分の目で見て、そして自分で考えよと言っている。現代は芭蕉の時代よりもはるかに情報過多である。新聞、テレビ、マスコミから一方的にあらゆる知識や情報が伝達される。それらは書物どころでなく内容に信頼性があるか否かは問えない。芭蕉であれば「新聞に書いてあるから真実」などとは決して言わないだろう。本物の創造者である芭蕉、修司、獏山がそろって同じ事を言っているのが興味深い。
1月 24日( 火) < 堀江叩き・・>
ライブドア堀江逮捕を受けてマスコミは一転してワンパターンの堀江叩きを続ける。私は少し天の邪鬼にならねばならない。現在の進捗状況をみて一番ホッとして胸を撫で下ろしているのは誰だろう。村上ファンドか楽天か。つまり、この種の経済事犯の捜査は検察がどこに焦点を当てるかが分かれ道。村上ファンドを「やろう」とすればいくらでもできる(村上は例えばの話で、どんな企業、個人でも同じ)。突如として会社の中に入り込みパソコン100台を含むトラック何台分もの資料を押収する、個人宅に押し入り手当たり次第にものを持ち去る・・このような”法律に基づく”国家権力の発動をいつ、どこでやるかは検察の匙加減ひとつだ。その点、ライブドアは余りに老人方や旧権力側に評判が悪かった。いわば仁義も知らぬ成り上がりの若造にお灸をすえろの声があったに違いない。堀江氏を弁護するいわれは何もないが、少なくとも経営者としての倫理観の欠落だのお金への執着がどうのと言われるのを聞くと、それでは「あなた方はどうなのか」と問いたい。人は功罪両面で見なければ評価できない。
「今日の作品」に「磁器お椀B(陶芸)」を掲載した。1月22日のコラム(=ここ)に書いた「磁器茶碗」の対。


1月 25日( 水) < 川田正子さん逝去・・>
「川田正子さん逝去」のニュースをきいた。1934年7月生まれの71歳、入浴中に意識を失い病院へ搬送されたが帰らぬ人となったという。私の場合は戦中の童謡は知らぬが、戦後の彼女のヒット曲である「里の秋」、「みかんの花咲く丘」、「とんがり帽子」などみなお姉様が歌った曲として懐かしい。年齢的には妹の川田孝子さん(1936年10月生まれ)が実の姉に近く、ラジオから聞こえていた童謡を思い出す。今回の川田正子さんの逝去に関連して知ったのであるが、童謡の川田三姉妹(正子、孝子、美智子)と云われる中で、正子、孝子のデビューした音羽ゆりかご会の創設者で作曲家でもある海沼実が「里の秋」や「みかんの花咲く丘」を作曲している。海沼はその後、正子、孝子の母親と結婚して(母親は前夫と離婚)産まれた子供が美智子さんであるそうだ。3姉妹にもそれぞれの人生があったのだろう。川田正子さんのご冥福をお祈りする。そして、以下に懐かしい「里の秋」の詩を書き出してみた。戦争が終わり南方戦線から引き上げる父を待つシーンが感動を呼ぶ: 「しずかなしずかな里の秋/お背戸に木の実の落ちる夜は/ああ母さんとただ二人/栗の実煮てますいろりばた<歌詞1番>」、「 さよならさよなら椰子の島/お船に揺られて帰られる/ああ父さんよご無事でと/今夜も母さんと祈ります<歌詞3番>(作詞:斎藤信夫)」。

1月 26日( 木) < ヒトとイヌ・・>
「ヒトとイヌのホットな関係」という講演会に参加した(@国立科学博物館/東京・上野)。講師は東京大学の林良博氏(専門は畜産学、獣医学、動物科学など)。久しぶりに妻と机を並べて話を聴いたが、講師も出席者もみな犬好きが集まっているので何となく和やかで楽しい講演会だった。「犬と暮らしているとストレスがあっても通院回数が増えない」とか、「犬と暮らしていると冠状動脈疾患の人の生存率が高くなる」など医療的な効果を示すデーターがあるかと思えば、「ペット(犬が主)飼育による医療費の削減効果」として、独では約7500億円、豪州では約3000億円の節約効果がでたと豪州の研究が紹介されたりした。講師が、”犬のココロの科学”の難しさを正直に話したのも好感が持てた。犬はそれぞれの飼い主の影響を受ける、そして、飼い主もまた犬の影響を受けるので、お互いの関係によってイヌのココロと行動は千差万別となり、「科学」として成立しにくいと云う訳である。・・自分のイヌは我が身を写す鏡であるのだ・・と今パソコンのキーボードを打ちながら足下に丸まって寝ているアール(コーギー犬)のことを思わず見てしまった。

1月 27日( 金) < アイボがなくなる・・>
ロボット犬アイボがなくなるとは寂しい限りだ。ソニーはロボット事業から撤退し、アイボの生産も2006年3月末までに終了するという。アイボは高性能のロボットを初めて一般の顧客に市販したもので、20-30万円の高値でもマニアが飛びついた画期的な商品だった。生産中止となると10年後には骨董的な価値がでるかも知れない。アイボの生産中止はソニーが全ビジネスカテゴリーを見直し、縮小あるいは売却する事業整理の一環である。ソニーは昨日、2006年3月期の決算を当初200億円の赤字を見込んでいたが、一転して1000億円の黒字になる見通しと発表(連結売上高=7兆4000億円)。そして今日のソニーの株価は3年6ヶ月ぶりの高水準に回復した。事業整理の効果が表れるのはまだまだ先であろうが、「ソニー」というブランドには何か普通の家電メーカーでないものを期待するところがある。携帯型のテレビやウオークマンが発売された時に感じた「夢を現実にするメーカー」というイメージがなくなるとソニーに魅力はない。先進的なロボット開発を行なってきた人たちがリストラで行き場がなくならないことを祈るばかり・・。
「今日の作品」に「磁器お椀C(陶芸)」を掲載した。このお椀には白青磁の釉薬だけで模様をつけなかった。シンプルではあるが自分らしさが見えなくなってしまった気もする。

1月 28日( 土) <寄付・・>
マイクロソフトのビル・ゲイツ会長が結核撲滅の研究支援のため1000億円を寄付したというニュースがある(今日の12:40速報記事)。日本でも台風や地震などの被災者へ多くの義援金が集まるが、大金持ちが寄付をする”風習”が定着しないのは何故なのか。一つは税制の違い、大口寄付を国で奨励しようとする姿勢がないことが挙げられるだろうか。寄付をしようにも税金が面倒で躊躇するという話をよく聞く。日本では「善行」は密やかにやる美徳があってアメリカのように寄付することにより後世に栄誉を残すという考えがないためだろうか。といっても日本の金持ちが密やかに善行をしているとも思えない。日本にはブリジストン美術館(ブリジストンタイヤ、石橋正二郎氏)、松岡美術館(松岡清次郎氏)、ポーラ美術館(ポーラオーナー鈴木氏)など美術館を残している実業家は多いが、これは美術館を財団として引き継がなければ相続時に美術品が四散してしまうので、一種の相続対策だ。最近、「ヒルズ族」など新たな成功者、大金持ちの誕生を見るにつけ、アメリカ流に公共のためにお金を使わせて、代わりに名前を残すというやり方がないものかと思う。お金を稼ぐ事はよしとして、その使い道を教えればホリエモン類人種への見方が変わるだろう。
1月 29日( 日) <犬づくし・・>
我が家には9歳になるコーギー犬(アール)がいる。アールの母親(アン)は我が家の寝室でアールを含む4匹の子犬を産んだが2001年11月に亡くなった(このホームページはコーギーの紹介からスタートした=ここ)。いま日本では1200万頭の犬が飼われているといわれる。犬との共同生活で人は犬の恩恵を随分受けていると思うのに、昔からの犬に関する言葉には犬をバカにしている表現が多くて心外である。いろはカルタは「犬も歩けば棒に当たる」。「犬も食わぬ」は夫婦喧嘩、「負け犬の遠吠え」(臆病者の虚勢)、「犬死」(何の役にも立たぬ死に方)、「犬侍」(役に立たず恥知らずの侍)、「犬畜生」、「犬の糞で仇を討つ」となると犬に失礼千万。植物の名前もイヌフグリ、イヌツゲ、イヌマキなど犬を一段低くみて名をつけたものが多い。大体バカな人間どもが犬をどう呼ぼうとも抗議もせず相手にもせず、ご主人様を信頼している犬さまの方がリコウだ。・・これからアールと夜の散歩にでかける。大雨でもない限り早朝と夜の散歩を欠かしたことはない。このアールとの散歩のために私はすこぶる健康である。犬に感謝する日本語表現はないものか・・。

1月 30日( 月) <一日一回・・>
「ハーブ栽培の手引き」の小冊子を読んでいると、全般のポイントとして(1)性質を知る(2)過保護にしない(3)一日一回様子をみよう・・とある。これはハーブや植物の栽培だけでなくペットから人間まであらゆる”育てる”ことに関する奥義だと直感した。子育てや青少年の教育、企業での人材育成などにもぴったり当てはまるのでないか。植物の場合、私などは不慣れで毎日水をやればいいかと思うが、これは根腐れなどで鉢植えを駄目にすることがある。面倒の見過ぎは過保護である。(3)の「一日一回様子をみる」が秀逸だ。何をやれというのでなく「一回みる」だけでよい。確かに毎日みていると異常に気がつくので早期の処置ができる。ところが毎日一回様子をみるというのは意外に難しい。子育てならば親があれこれと言い過ぎないで一日一回優しく子供を「観察」できればいい子が育つに違いない。過保護でもなく、放任でもない距離が「一日一回様子をみる」に表されている。あたたかい眼差しがあるから様子が分かる。さて我が家のハーブ。私が一日一回一分間でもハーブの様子をみるように意識すると間違いなく見る目が変わってきた。以前はノルマとして鉢に水をやったもののハーブを見てはいなかったが、今は見るついでに時々は葉っぱをつまんで味見する余裕もできた。「一日一回様子を見る」はハーブ以外にも適応できそうだ。

1月 31日( 火) <役立たず・・>
1月26日のコラム=ここ=で犬を何の役にも立たないとする言葉(犬死、犬侍など)が多いので憤慨したが、これは馬や牛など「役に立つ」家畜に対して犬を「役立たず」としたことは明らかだ。役に立つ、立たないという場合、私はいま取り組んでいる”陶芸”と”絵画”を類推させてしまう。私は役に立たない陶芸作品も作るが、陶芸は大抵食器や花器など実用的な意味のあるものだ。これに対して絵画はまず実用性はない。絵がなくても生活に何ら支障は生じない。”番犬”ほどの役にも立たないとは云い過ぎか。だから絵画は難しい。一方で、お金とは結びつかないもの、労働力にもならないもの、道具にもならないものでも、人間の生活を豊かにするものは確かにある。”役に立たない”と云われても、美しいものをみて心豊かになることを選択するのが人間である。老子の時代から「無用の用」が説かれた。一見役に立たないと見えるものが大きな役割を果たしているという思想は大昔からあるのに人は直ぐに傲慢になってそのことを忘れる。「役立たず」という言葉を聞けば、実はどこかで絶大なる役に立っているのでないかと思いたい。

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