これまでの「今日のコラム」(2006年 2月分)

2月1日(水) <描きたいように描く・・>
このところ陶芸でやりたいテーマは限りなくでてくる。こんな時、逆に絵画を何とか続けたいと焦りを感じ始めた。そうかといってキャンバスに油絵を描くには焦点が定まらない。抽象画も描きたいが他人の模倣は避けたい。具象でも同じ事で自分のオリジナルをどう表現するか、在り来たりのものは嫌だ・・、考え始めると筆が進まない。初心に戻ろうと身近に目につく物をそのまま描いたのが「今日の作品」に掲載した「胡蝶蘭3(水彩)」だ。胡蝶蘭は前に二度描いているので”3”となった(昨年1/17の胡蝶蘭=ここ)。そんな絵の難しさに四苦八苦している折、今日「須田国太郎展」を見てきた(@東京国立近代美術館、3/5まで、案内=ここ)。須田国太郎(1891-1961)は美術史や絵画理論を学んだ後に自ら創作の道へ入った経歴が異色である。41歳で初個展というのも珍しいが時流におもねることなく独自の重厚な作風を確立した。時代の流行を追わず、他人の評判や絵の売り易さも気にせず信念に基づいて絵の道を極めたという風情で、私はとても好きな画家の一人だ。須田の一連の絵を見ていると、描きたいように描くという最も基本的な原則に従うことが全てだと悟る。”絵は難しい”と意識することが既に邪念であるようだ。絵は描きたいように描く、ただし全知全能・全身全霊を傾けて・・。それ以外にないのかも知れない。

2月2日(木) <モノの値段・・>
モノの値段が分からなくなる。今日、陶芸教室の仲間の一人が個展を開いているので見に行った。そこには700円、1000円、3000円などからセット物で3万円ほどまでの値が付けてある。教室での粘土代、焼成費を考えるとこれでは原価にもならない。それが素人の趣味程度の作品なら止むを得ないとも思うが、私の眼力で見る限りでは独創性がある上に極めて質が高くセンスもある。デパートなどで10-20倍の値段をつけているものでも、これほどに魅力はない。制作した本人は謙虚に自分で買う事ができる程度の値段をつけたというが、売る技術があれば10倍の値段でも売れるのでないかとこちらが悔しくなった。テレビなどであんなヤツがと思う芸能人が人気者であったり、インチキおばさんの占い師がスター気取りであったりするのが現実で、そんなマスメデイアに乗った高額人間を横目に見ながら本物の芸人は地道に芸を磨いているのと似ている。世の中そんなものだと云えばそれまでだが、モノでもヒトでも値段と本当の価値は別のようだ。・・そこで他人の陶芸品を買ったことがない私が酒注器を一個買ってしまった。

2月3日(金) <六本木ヒルズの土地・・>
今朝の産經新聞「産経抄」によると今をときめく東京・六本木ヒルズは乃木希典の生誕地でもあった。これは私も知らなかったが云われてみれば六本木ヒルズの中には毛利庭園がある。云うまでもないが乃木希典(のぎまれすけ/1849-1912)は日露戦争の旅順攻撃(1904-1905)の総指揮をとった陸軍大将であるが後に学習院長にも就任する(1907)。明治天皇崩御の際に夫婦で殉死したことでも知られる。没後乃木神社もできて神様として祭られた。その乃木希典は長府(いまの山口県下関)藩士の子として江戸・麻布の毛利藩邸で産まれた。10歳の時に長府に帰り萩で学んだが確かに生を受けたのは江戸の藩邸だ。戦後乃木を含むあらゆる神格化は否定される風潮であるが明治の偉人と六本木ヒルズの結びつきは何か象徴的だ。乃木希典が殉死してから100年も経っていないが、その辞世の句:「うつし世を 神さりましし 大君の みあとしたひて 我はゆくなり」。もう一つ、その昔、赤穂浪士が本懐を遂げた後四つの藩邸にあずけられて切腹したが、毛利藩邸はその内の一つでもあったという。六本木ヒルズの土地には多くの歴史が刻まれている。

2月4日(土) <表参道ヒルズ・・>
土曜日の午前中はテニス。自転車でテニス場に行く途中、今日はカメラを持って表参道ヒルズに寄ってみた。表参道ヒルズは一週間後の2月11日にグランドオープンなので今日は外観だけの下見だ。それも8時前の朝陽を浴びる時刻に前を通ったに過ぎない。それでも通りに面した250mほどの地帯は何かしら浮き浮きした雰囲気が感じられる。といっても、地下6階、地上6階として地上の高さをケヤキの高さ相当に抑えた設計であるので外観は周囲の景観と調和していて異色な建物にはみえない。よく知られているように関東大震災の後に発足した同潤会が建設したアパートは同潤会アパートと呼ばれ鉄筋コンクリート造りのアパートの先駆となったが、1927年(昭和2年)に建築された青山同潤会アパート跡を安藤忠雄設計で再開発されたのが表参道ヒルズである。「OMOTESANDO HILLS」の看板を入れて写真を撮っていたらそこにいた守衛さん(写真の車の脇にいる人)が深々と敬礼をしてくれた。これでは来週のオープンにも来なければならない。

2月5日(日) <梅香・・>
立春が過ぎて春もすぐそこまで来ていると云いたいが、昨日今日は東京都心でも氷が張るほど冷え込んでいる。朝の犬の散歩時に立ち寄る公園で梅をみると寒さに耐えながら出番を待っているけなげな蕾がある。寒さの中で梅を見ると正に「梅は寒苦を経て清香を発す」という言葉が実感として分かる。多くの人がこの言葉に励まされたに違いない。今に見ておれ、この苦しい時期を乗り越えれば、いい香りを放ち、花咲くことができると・・。私は梅の香りというと必ず思い出すのが母方の祖母である。祖母の名前は「梅香」といい、昔子供心にいい名前だと思った。いま見ても素敵な名前だ。名前がでたのでもう一つ。父方の祖母の名前は「まつ」といった。そう、松竹梅は名前としても昔は大人気だった。私のルーツはマツやウメにつながっている。常緑樹の松もいいが、今の寒さを乗り越えた梅の香りが待ち遠しい。

2月6日(月) <博士の愛した数式・・>
映画「博士の愛した数式」をみた(現在各地でロードショウ中)。前に原著(小川洋子著、同名の本)を読んだことがあるので調べてみると、2年前の2004年のお正月にこの本を読み、2004-1月5日のコラム(=ここ)で「正月にいい本を読んだ」と紹介している。映画もまた爽やかな仕上がりで心が洗われる。最近のニュースといえばお金目当てのあくどい商法や相変わらずの権力闘争ばかり目立つところで、「数式の美しさ」に魅せられた博士の物語は現実離れしているようであるが「美の感覚」は人間しか持ち得ないものであることに気がついて純な数式の美しさに感動する。数式の美は「神が与えてくださった美」の発見であるという。芸術の美も同じだ。名誉や金銭を超越して真の美しさを発見したり創造した時に人間も一番美しくみえる。映画では博士役の寺尾聡に対して義姉役が浅丘ルリ子。久しぶりに”ルリ子”さんに会えてこれも楽しかった。今でも覚えているが私が高校に入学した時に「中学で浅丘ルリ子と一緒だった」という同級生がいて羨望というより何か別世界を感じたものだ(浅丘ルリ子は中学在学中にデビューし既に有名だった)。つまりは私はルリ子さんとは同学年になる。浅丘ルリ子さんがまだまだお美しいのもうれしい。
「今日の作品」に「ミニ彫刻花器/陶芸(磁器)」を掲載した。昨年12月26日のコラム(=ここ)にこの花器の粘土品を掲載している。青白磁の釉薬が思ったよりきれいにできてくれた。

   粘土の状態
2月7日(火) <人の褌・・>
少々品はよくないが「人の褌(ふんどし)で相撲をとる」という言葉がある。相当する英語の諺は、”Draw the snake from its hole by another man's hand.”(蛇を穴から引き出す時には他人の手を使え)とあった。褌の方は他人の物を使って自分の利益にすることを揶揄する、あるいは、諌める言葉だと思うが、他人を出しにして要領よく自分がいい目をする事例は現代でも数知れない。他人の株を売り買いする商売や、他人の出来事や噂を売り物にする仕事が人気の職業であったりする。他人の手を使って蛇を引っ張りだすように他人を上手に利用して飯の種にするのがベストと考える人が多いのも確かだ。毎日コラムを書き続けていると余程注意していないと他人を批評する話題がでてしまう。これが一番簡単であるが批評は自分を棚に上げなければできない。現役のアスリートは決して競技相手の評論などすることはない。モノツクリの人も論評することは無意味で自分のモノ・現物が勝負となる。私も出来る限り自分で相撲をとりたいと思う。コラムでいえば自分の「今日の作品」を解説できればそれが理想形かも知れない。

2月8日(水) <海を汚すな・・>
以下CNNニュースからの転用。米国のある人が昨年8月に小瓶5個に手紙を詰めて海に流した。その人は先月英国から手紙を受け取りワクワクして開封してみると「海を汚すな」と叱責する内容で当惑しているという。昔からガラス瓶の中に手紙を入れて海に流したり風船に手紙を付けて空に放つなどは、どこの誰に届くか分からず、発見者と手紙を書いた人が親しく交流を深めるきっかけとなる夢のある通信手段だった。けれども今回報道されている発見者の言い分もよく分かる:「景色の良い湾の海岸を歩いていたところ、あなたが海に流した小瓶を見つけました。あなたは小瓶を流すことが大洋海流の実験だと考えていらっしゃるかもしれませんが、私は違う意見です。・・今後はどうか、当方の場所を汚さないようにしてください」。かつては夢のある行為であったものが時代と共に必ずしもいいとは云えなくなる典型であろうか。千や万に一つの偶然を楽しむことはできるが特別珍しくもない出来事は煩わしいだけとなる。「地球を汚すな」という時代に昔と同じ行為でも許されないことは多い
。冒頭の米国人は自分の先祖が英国の発見者の住む港から米国に渡ったという偶然を知り、発見者に伝えるそうだ。偶然が和解の元になるのを期待しよう。
2月9日(木) <自分らしさ・・>
「今日の作品」に「ミニ花器と花<mieuへの絵手紙> (水彩)」を掲載した。最近、久しく油絵を描いていない。絵というと水彩でそれも<mieuへの絵手紙>が多い。孫娘のmieu(5歳半)はいまニューヨークに住むが絵手紙を交換してもネット電話で話をしても退屈することがない。例えば私宛に描いて送ってきた絵について色から内容まで全てを細かく覚えていて自分で説明をする。私は一度手を離れた絵の内容などほとんど記憶にない。さて、この絵手紙は陶芸作品の素焼きが完了していると思って出かけたところ、まだできあがっていなかったので直ぐに家に戻り、陶芸の時間枠を使って描いたもの。昨日まで陶芸作品として写真を掲載していたミニ花器と花を1-2時間で描いた。前にも同じ事を書いた覚えがあるが絵については今は素直にあるがままに描く時期と思っている。抽象が描きたくなればその時描けばいい。無理矢理どう描くべきと枠をはめないで成り行きに任せることにしている。昨今は朝目が覚めると陶芸の構想や釉薬の選定について色々なアイデイアが頭をよぎる。保守やら革新が入り乱れるような交錯の中で出した結論は、格好つけない、他人や評判を意識しない、そして自分らしさをだす、つまり、やりたいようにやる・・であった。結局、陶芸でも絵でも全く同じことなのだろう。


2月10日(金) <オモチャ屋がない・・>
陶芸では柔らかい粘土が変形しないようにボールのように成形した粘土の内部に空気を封入したり、実際に風船を内部に入れて丸ものを成形するテクニックがある。風船よりも真の球に近いボールを陶芸に使いたいとゴムボールを探して廻った。まず、近所の100円ショップにあるのでないかと見に行ったが売っていない。それではオモチャ屋と思ったが、昔、駅前通りにあったオモチャ屋は飲食店に変わっている。雑貨屋にもゴムボールなど置いていない。スポーツ店には高級なボールしかない。近所にはオモチャ屋がない・・。元より立派なケーキ屋はあるが駄菓子屋はかなり前からなくなっている。考えてみると玩具も駄菓子もバカにした呼び名であるが、共に子供が自分で選び購入出来る貴重な品であった。オモチャは使い捨てもされるが自分で工夫して変身させると宝物にもなった。オモチャ屋がなくなっていくのは子供にとって大切なものを失う気がしてならない。・・ゴムボールを見つけることができないので、陶芸用には手持ちの風船を使用することにした。風船は以前渋谷までいって東急ハンズで買ったものだ。東急ハンズという大人用総合オモチャ屋のような店があるのでまだ救われる。

2月11日(土) <デビスカップ・・>
今日は何かと行事が多い。建国記念の日で休日。友引。身近なところでは表参道ヒルズ(東京・2月4日コラム=ここ=参照)オープンの日、代官山(東京)のオープンカフェ・ミケランジェロ(このホームページに掲載=ここ=)がリニューアルオープンの日(ホームページの写真を改訂しなければならない)などなど。関係のないところでは発明王エジソンの誕生日。今日の話題としては全く別に「テニス・デビスカップ戦」を取り上げたい。今日からイタリアのトリノで冬季オリンピックが始まって朝からトリノのニュースばかりだが、デビスカップ戦については一般のテレビでは一切でてこない。大阪の「なみはやドーム」で昨日から日本チームと中国チームが大激戦を続けているのを私はケーブルテレビで知っているが余りに一般マスコミから疎外されているので逆に応援したくなる。デビスカップもオリンピックと同じ国別対抗で国のトップ選手が勢揃いする。野球やゴルフなどと比べてもテニスの日本−中国戦はより感動的な真剣勝負をみせている。昨日、今日の結果は日本がシングルス2勝、ダブルス1勝。いずれも辛勝で中国の強さが目についた。中国が本腰をあげると第二のシャラポアが中国から出現する予感もする。明日が中国戦の最終日だ。今回は無理であろうが、せめてスポンサー企業がないNHKにはデビスカップ戦の放映をしてもらいたい・・。

2月12日(日) <想定外の面白さ・・>
焼き物(陶芸)をやっていると色々なことを教えられる。その内の一つは”想定外”の面白さだ。釉薬をかけて焼く時には一応自分で焼き上がりのイメージがある。けれども、焼成の微妙な温度や時間の違い、釉薬の成分のバラツキ、粘土成分のバラツキ、窯の中での位置などで仕上がりが異なる。それは名人でも同じことで、火の神様を完全にコントロールすることなどできない。「今日の作品」に掲載した「お椀A」もその意味で想定外なできであった。ところがじっくりと眺めてみると、これはこれで景色がよい。当初、炭化焼成(鞘<さや>と呼ぶ容器に炭と一緒に入れて焼く)であるので釉薬をかけない外側はもっと黒くなると思ったがそれほどでもない。それでも炭の焦げ跡もつき”やきもの”らしさがでている。イメージ通りにできたものがベストとは云えないところが面白いところだ。・・人生でも思い通りにいかないというのであれば”思い”とは案外陳腐かもしれない。現実を想定以上に楽しくする術(すべ)は焼き物と同じだろう。神様が定めた火加減が一番面白く出来ている。


2月13日(月) <カインとアベル・・>
唐突だが、アベルがなぜカインに殺されなければならなかったのか。手塚治虫の「聖書物語」を読みながらそう思ったので、旧約聖書を取り出して生の文章を読んでみたが結局理解出来なかった。旧約聖書の創世記にでてくる話。カインはアダムとイブの長子、アベルは第2子。兄のカインは農耕を営み、信仰の厚い弟のアベルは羊飼を業としていた。神に供え物(そなえもの)をした際、アベルとその供え物(子羊)は顧みられたが、カインとその供え物(地の産物)は顧みられなかった。カインは大いに憤って弟を嫉妬しアベルを殺す。聖書物語の初めての殺人行為が兄弟殺しである。カインは神に死をもって処罰されるかと思うとそうではない。だれもカインを打ち殺すことのないように一つのしるしをつけられて、エデンの東に追放される。カインはその地で妻をめとり子々孫々の系図へつながる。どうも私のような信仰にも聖書にも疎い者にとっては分かり難い話だ。アベルがキリストの前兆として犠牲になったにしては理不尽。信仰の厚い者が殺され殺した者が繁栄する。日本ではこんな状況を「神も仏もない」という。嫉妬の恐ろしさを云うならば残酷過ぎる。・・最後は物語だからどうでもいいか・・と投げやりになった。

2月14日(火) <テレビ朝日の業績・・>
時には別世界をみるのも脳の刺激になるかと、テレビ朝日の業績を話題とする。今日のニュースでテレビ朝日の株価が回復基調とあった。年当初に33万9千円の高値を付けた株価がライブドアショックで29万円台まで下がり、それが32万円水準まで回復しつつあるという(今日は約31万円)。視聴率競争でも健闘しているそうだ。この業界ではNHKの視聴率がトップであるので、これを除いて民放でテレビ朝日は万年4位と云われたらしい(TBS、フジテレビ、日本テレビの次)。それが最近はプライムタイム(19時から23時の時間帯)で視聴率3位のケースが目立ち、これにより業績も好調とか。つまり視聴率のアップに伴いスポンサーによる広告収入が拡大したという訳だ。業績規模がどれくらいかというとH18年3月の見込みで通期の売り上げ=2480億円、経常利益=161億円。テレビの業績をみるとスポンサーがあっての民放、スポンサー好みの番組を作るテレビの姿勢が改めて鮮明に浮かんでくる。テレビの一視聴者としては何ができるか。視聴率が高い番組でもつまらない番組を提供しているスポンサーの商品を買わないことだろうか。スポンサーが変わらなければテレビは変わらない。因に私は全くテレビ朝日に貢献していない。久米宏や古館伊知郎が”日本はどうなっているのでしょうね”などとコメントするのが嫌みで途中から一切見なくなってしまった。
「今日の作品」に 「お椀B(陶芸)」を掲載した。2月12日のコラム(=ここ)で書いた経緯と全く同じ作品。


2月15日(水) <天声人語にCT検査・・>
余りに驚いたので引用させてほしい:「焦土から立ち上がり、国際社会に復帰し、経済成長を遂げ、バブルが崩壊して今に至る。この激動の中、いわば視線を中空に漂わせたまま、なりふり構わずに突き進んできたのかも知れない。今は、足元を見つめ直す時だろう」。かの天声人語の結びの言葉である。さていつの文章でしょうか。何と何と今朝、2006年2月15日の新聞だ(NET=ここ/是非読んでみて欲しい)。私は今日の新聞のコラムであることが信じられなくて何度も読み直した。「坂の上の雲」を著した司馬遼太郎が急逝して10年になることに関連して書かれた文章だが、バブルが崩壊して10数年を経ている今、足元を見つめ直すもないだろう。10年前に既にこのようなことがどれだけ言われたことか!日本有数の影響力をもつ新聞のコラムに「この国の姿(天声人語さんの言葉)」をみて暗澹たる思いになった。
気分直しにCT検査のことも書きたい。今日、初めてCT検査を受けたがMRI検査との違いなどよく理解していなかったので自分のために整理してみた。CTはコンピューター断層法(Computed Tomography)でX線を周囲から照射しコンピューターを使って身体の断面を画像化する。これに対してMRIは磁気共鳴画像(Magnetic Resonanse Imaging)でX線を使うことなく磁石と電波を使い体内の様子を画像化する。CTは一方向からの検査だがMRIはあらゆる方向からの検査ができるので脳など検査には威力を発揮するなど対象によってそれぞれに適性があるようだ。CT検査はMRI検査と比べると検査時間が非常に短い。今日のCT検査時間はわずか数分!!

2月16日(木) <絶不調・・>
このところ失態やら失敗続きで,おまけに自信喪失。我ながらこの絶不調はどうしたことかと考える。例えば昨日は家で粘土をこねて制作した陶芸作品を乾燥している最中に蹴飛ばしてバラバラに壊してしまった。直ぐその後に以前自分で制作したマイカップをいじっている内にこれも部品を壊してしまった。それに家にある陶芸作品が端から気に入らなくなってきた。以前はあばたもエクボでいいところだけをみて、いとおしむように使ってきたものが、あらばかり目立つ。今日出来上がった陶芸の作品も気に入らない。先日(2月12日)のコラムで陶芸は”想定外の面白さ”があって出来上がったものが結果的にはいいと書いたが、これも出来上がりが”面白い”場合に限る。出来損ないや失敗作は認める訳にはいかない。更にもう一つ今日出来上がった仕掛けのある陶芸作品の方は思ったように作動しない。この作品も新たに作り直しか。これまでは周囲から何をいわれても我が道を貫いてきたが急に周りの批評が増幅されて身にこたえるようにもなった。・・こういう時に何をすべきか。進歩の一過程ととらえて挑戦を続けるなど云えば模範解答過ぎる。ただ黙って成り行きに任せて時間の経過を待つ。その内バイオリズムが変わってくるだろう・・。

2月17日(金) <トリノ五輪・・>
イタリア・トリノでの冬季五輪が開幕して一週間。日本はまだ一つもメダルを獲得出来ていない。日本人の成績を気にしなければ、世界のトップが見せるスピードや技を目の当たりにできるオリンピックはやはり面白い。だだし、私の好みとしては単純な競技が好きだ。中でもアルペンスキーやスピードスケートなど速さを競う競技がよい(スケートもショートトラックはこせこせしていて好みではない)。スポーツは誰が速いかが基本で、あとルールに従って誰が強いかでないだろうか。誰が美しく、技を披露するかはスポーツ競技として競い合う事はないのでないかと思ってしまう。ハーフパイプやフイギュアスケートはそれぞれ鍛えられた技は見事ではあるが採点をしなくても十分に楽しい。特にフイギュアスケートはミスを探し出す減点法よりも全体でどれだけ感動できたかが問われる芸術と類似している。個人差が生じて優劣が定まらないのが芸術である。オリンピックという舞台で感動を与えてくれればメダルの数は問題でない。感動の真反対はジャンプの原田選手のスキーの長さが規定(身長と体重から限度が決められている)を超えていたため勝負以前に失格となった例。こんなことでは大選手団に批判があがる。まだ五輪期間は半ば。これからどんな感動がみられるか注目だ。
2月18日(土) <いすの木・・>
早朝に犬(コーギー犬)を連れて立ち寄る西郷山公園(東京・目黒区)の梅が開花し始めた。この公園は今は目黒区の公園であるが西郷従道の屋敷のあったところとして知られる。西郷従道(1843-1902)は西郷隆盛(1828-1877)の13歳違いの弟である。隆盛が西南の役(戦争)に敗れ49歳で自決したのに対して従道は明治政府に留まり薩摩閥の重鎮となった人物。伊藤博文内閣で大臣を歴任した後、海軍初の元帥の称号を受けた。前置きが長くなったが、従って西郷山公園は今でも鹿児島(薩摩)と縁が深い。梅の木の側に最近「いすの木」の名前の樹木が植えられ”伊集院町”寄贈とある。前から気になっていたので「いすの木」について調べてみた。いすの木は別名ヒョンノキ・ユスノキともいい暖地に生え、大きくなると高さ25mにもなるという。葉に虫えいと呼ぶ粒が多くできるのが特徴のようだ。面白いのは鹿児島県日置郡”伊集院町”の名前が「いすの木」から由来していること。昔から多くのいすの木(ゆすの木)があった地に倉院が建てられ「いす院」と呼ばれた。やがて「いす」に「伊集」の字が当てられ伊集院が地名になったそうだ。伊集院町の町の木が「いすの木」になったのは当然とも云える。こんなエピソードを知り、今は高さが1.5mほどの木が10m-20mと成長していくと思うと「いすの木」を見る目が違ってきた。
<明日19日は小旅行のためコラム休みます>

2月20日(月) <はてな?の茶碗・・>
我が家のアール(コーギー犬)には留守番をさせて(食事、散歩は依頼)3夫婦で伊豆高原に一泊旅行をした。温泉に入ったり、早咲きの河津桜(net情報=ここ)を見て回ったり、久しぶりにのんびりした非日常。適度に刺激を受けながら気を使い過ぎることもない交遊の心地よい余韻が残るが、今日は陶芸の新作「はてな?の茶碗」のことを書く。タイトルの”はてなの茶碗”は古典落語で有名。安物の茶碗が漏れるので茶道具の目利きが”はてな”と首を傾げたのが、首を傾げるほどの名品と誤解されて、次々にエスカレートしながらついには千両で売れる。さらに”落ち”へと続く落語の名作だ(=ここ参照)。私が制作したのは科学的な「漏れる茶碗」であるので不思議ではないが一瞬”はてな?”と思う。サイフォンの原理を使ってあるレベル以上にお茶(水など)を入れると全てのお茶が下部から抜けてしまうもの。外部にこぼれないように漏れる水を下の容器で受ける二段型の構造(写真参照)とした。粘土の中に紐を埋め込んでサイフォンの水路を作るやり方は陶芸をやる人なら誰でも思いつく。写真でみるサポートの柱の両脇に水路が埋め込んである。ところが実際に完成して使ってみると不本意な個所がいくつかでてきた。例えば、水路の穴が小さいので一度水が流れると押し出す圧力がなくなっても表面張力で水が溜まってしまう(次に水を入れると早めに漏れる)とか、漏れ始めるまでの容積が少な過ぎる(サイフォンの高さが低過ぎる)などである。この新作は満足出来るものではないが、次の「はてな?の茶碗part2」の新デザインをする楽しみは増えた。

2月21日(火) <確定申告・・>
税の確定申告の季節。多くの人が数字とにらめっこしていることだろう。長い勤め人の時代には無縁だった税務署に職を辞してから繋がりが強くなるのは奇妙なものだが、税の仕組みも知ればそれなりに興味深い。インターネットで用紙を取り込みコンピューターで計算するやり方が普及し始めているが私は余り好まない。計算は単純であり特にコンピューターでやるほどのものではないし、自分で数値を書く方が気合いが入る。数値の証明書は勿論別途に必要であるので手間も大して変わりがない。情報や数値が印刷物になったり、コンピューターのデーターで示されると”手書き”よりもはるかに権威があるように見えるのは錯覚である。問題は内容の信頼性であるが手書きしている方が自分で中身を何度も確認できる。頭の老化防止に100ます計算をするのであればコンピューターなど使わずに手計算をしない手はない。ところで私が算数の計算をした成果は・・、陶芸でのお皿2−3枚の素焼き代ほど税金が還付されそう・・。

2月22日(水) <穴付き花器・・>
「今日の作品」に「穴付き花器(陶芸)」を掲載した。”穴付き花器”とは、どうも我ながらネーミングが上手くないが、中心部には円筒状の容器がありその周りの四面に穴を彫刻した板を配して全体として立方体の花器として使用出来るものを作った。写真のように小さな人形を穴に置く事も出来るし内部に蝋燭で灯りをともすこともできる。前に”ミニ花器”を試作して「作品」にも掲載したが、それをスケールアップした大型の花器である(ミニとの比較写真を陶芸コーナー=ここ=に掲載した)。この花器は形状は会心の作と云ってよいが釉薬での仕上がりが気に入らない。以前ならばこれも一つの作品と割り切るのだが今回は再度釉薬をやり直して、全く違うイメージを作り上げようと構想を練っている。妥協をしないこと、細部にこだわること、を自分のこれからの作品作りの基本にしようと決めた。よりよいものを求めるのが進歩の原動力だ。またの日に全く違った「穴付き花器」を「今日の作品」として紹介できるのを自分でも楽しみにしている。
  
2月23日(木) <敵失・・>
テニスでは相手が打ってきたボールを相手のコート内に返していれば絶対に負けることはない。たまにスーパーショットを放つプレーヤーよりミスの少ないプレーヤーが勝利をつかむのが常である。いま熱戦の最中であるトリノ五輪でも先行していた者が転倒したためリードされていた方に勝ちが転がり込むシーンがいくつかあった。政治がらみで民主党の長田議員がメールを材料にして自民党を追求したところ、メールの真贋の議論になり今日に至って永田議員が辞意をもらす事態に急展開した。これなど自民党にとっては正に”敵失”。大体メールが部分的に公表された時点でメールやコンピューターに詳しい人間は誰でもこんなメールは簡単に偽造できるといっていた。情報過多の時代に武器とする情報は余程真贋を見極めないと放った矢が自らに向かってくる典型だろう。それよりも、あと8-9時間後にトリノで行なわれる女子フィギュアスケート・フリーの演技でも結果的に敵失が順位を左右するかも知れない。勿論、日本人選手もミスの可能性はあるが、世界のトップはいわばスーパーショットの確実性で争われる。ミスをすれば敗れるがミスを恐れていては勝利は得られない。敵失などを意識せずに最高の技に挑戦するのがスポーツのいいところでもある。明朝の結果が楽しみだ。

2月24日(金) <女子の活躍・・>
今日は日本中で朝からニコニコ顔が多かったに違いない。トリノ五輪、女子フィギュアスケートで荒川静香が金メダルを獲得した。昨日のコラムで予想した通り、敵失の要素もあった、が何よりミスをしなかった荒川の偉大な勝利である。村主章枝は4位、18歳の安藤美姫は15位だがそれぞれにすばらしい。トリノ五輪も残りは後2-3日。代表選手113名の中でメダルは荒川の金一つに終わるかも知れない。それにしても日本の女子の活躍が目につく。国際大会で荒川に勝った浅田真央を中学生なので五輪には出場させないという層の厚さを誇る女子フィギュアスケートは云うに及ばず、マラソン、ゴルフなど世界的なトップ選手となると女子ばかりで、男子はかすんで見えないのはどういう訳か。日本男子は”銭になることしかやらない”といわれそうだが、それほど銭になることをやっているようにも思えない。この際、更に女子に活躍してもらった方が国際親善になると開き直ろう。こんな時代、女性天皇でも女系天皇でも一向に構わないと思うのだが話は別か・・?

2月25日(土) <ミンコフスキー・・>
古典の部類に入るかも知れない名著「生きられる時間」の著者、ミンコフスキーのことを知りたいと思ってネットで調べてみた。先ず検索で多くでてきたのが、数学者のヘルマン・ミンコフスキー(1864-1909)。この人物は空間と時間を別々の量ではなく四次元の多様体として統合し「ミンコフスキー空間」と呼ばれる空間を形作った。これがアインシュタインの一般相対性理論の数学的な基礎を与えたと云われる。私が探していたユージン・ミンコフスキー(1885-1972)はロシア生まれで20世紀にフランスで活躍した精神科医と紹介されていた。精神分裂病や精神病理学の著書が多く、「生きられる時間」(1933著)の副題も「現象学的精神病理学的研究」である。「生きられる期間」でミンコフスキーは時間を計量化されない質的なものとらえ、生きられる時間の内には動的な性質ともに静的な性質として空間的な性質も含まれるとする。・・こんな記述をみると精神科医のミンコフスキーは数学者のミンコフスキーの学問も学んだのでないかと推測したくなる。「生きられる時間」から、少し引用しよう。「死はその背後に一つの人生、生命のうちにある一つの生命、未来へ向う生成の勝利の行進のうちにある一つの生命の輪郭を描く。そしてこの行進はその後も続けられる。・・」。一枚の枯葉が樹木から散っていっても新たな木の葉に誕生を与えるように、一つの生命を切り取る”死”は結局生命からなにものをも奪わないと論じている。

2月26日(日) <郵便・・>
郵便の”郵”は飛脚の宿場や中継の場所を意味する言葉であるというが郵便とか郵送以外にほとんど使うことがない。便は文字通り”便り”や手紙であろう。面白いことに今は「郵便」という言葉を作った元の単語であるメールといえば、e-mailつまり、電子郵便を指す。「今日の作品」に「馬雪車<mieuへの絵手紙>(水彩)」を掲載したが、これは毎度ながらニューヨークに住む孫娘宛の絵手紙で私が絵を描き妻が表に文章を書いて送っているものである。メールであれば瞬時に相手に届くし、skypeなどインターネットを通して無料で存分に会話をできる時代であるのに、絵手紙という郵便はニューヨークに届くまで大抵二週間ほどかかる。この悠長な通信手段が逆に趣きあるものに思えるから勝手なものだ。この絵をe-mailに添付して送っても何もうれしくない。はがき一枚が郵便配達の人のお世話になり、飛行機に乗ってアメリカに渡り、更に郵便局からまた配達されるという”郵便”のプロセスがあるから「絵手紙」の価値があるのだろう。”前に送った絵手紙は未だ着かない?”と電話で聞いているのも奇妙だが、絵手紙に限らず、肉筆の郵便ではメールにはない「時間遅れ(タイムラグ)」がゆとりを感じさせてくれる。

2月27日(月) <犬の服・・>
最近、犬に服を着せて散歩をしている光景をよく見かけるようになった。私としては犬の服は好みではない。短毛の小型犬の場合には冬の体温調整のため洋服を着せて散歩に連れ出すのは分かる。けれども我が家のコーギー犬のような毛皮をまとい元来が寒冷地出身の犬種には服は不要であるし、服などない姿で走り回る方がずっと美しい。・・そんな私に思わぬ変化をもたらす事態があった。先に華々しくオープンした表参道ヒルズ(東京、青山同潤会アパート跡の再開発地/2月4日のコラムに写真掲載=ここ)に今日立ち寄ってみた時のこと。安藤忠雄の建築設計を見るのが目的で寄ったのであるが、地下3階から地上3階まで吹き抜けのスペースの周囲を緩やかなスロープで移動しながら店舗を見て廻った。元より買い物をする気は全くないし、ファッションとかアクセサリーなど私とは無関係の店ばかりであるが、目の保養を兼ねて丁寧にそれぞれの店の雰囲気を”視察”しながら巡回する。途中に犬の洋服専門店があった。何となしに店に入ったところ、これまで見たことのないカッコイイ犬の服が並んでいる。思わずアール(コーギー犬)に買うとすればどれにしようか探していた。アールは女の子で活動的だからこれはどうだ、こちらの方がいいか・・。本当に買ってやりたくなったが荷札を見て財布と相談したところで我に返って取り止めた。自分の子供を含めて服を買ってやりたいとこれほどに思ったことはない。どういう心境の変化か自己分析してみたがよくは分からない。そういえば近頃はアールを散歩に連れて行く時にアールも歳を取ったなあと思うことが時々ある。今のうちにアールだって格好いい服を着る機会があってもいいかも知れない。

2月28日(火) <世の動き・・>
世の動きを見るには電気街に行けばよい。・・ということでもないが、緊急に必要な買い物があり秋葉原に行ったついでに電気街や最近オープンした量販店などを見て回った。現在どのような電気製品、カメラ製品が最新版なのか時々見ておかないと時代に取り残される。そうかといって新しいものが以前と比べて格段に進歩しているかというとそうとは限らない。メーカーも新製品のネタがなくてモデルチェンジに苦労しているなと同情したくなる製品も数多い。勿論、必需品でなくてもお金があれば道楽として持っていれば楽しいだろうという製品もたくさんある。i Pod系統の携帯用のデジタルミュージックプレーヤー(兼データーレコーダー)はやはりすばらしいと思うが、私の場合は外に持ち歩きする必要性がほとんどない。いま欲しいのは高性能のイアホーン。耳に付ける小さなイアホーンでも高級スピーカーのような音質である。ただ、これも道楽の部類。コンピューター関連では無線化が流れか。確かにプリンターまで無線で作動させるのは便利だ。デジカメやテレビ、DVD関連、ハードデイスクなど新製品を眺めながら、結局、それらをいかに使うかの知恵が求められるのだろうと思った。道具が優れていれば優れているほど人はその有り難味を感じなくなるし、あえて云えば使い方が貧しくなる。古くても「愛用品」で十分に用は足りると、予定の材料だけを購入して新製品は何も買わずに帰宅した。

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