これまでの「今日のコラム」(2007年 8月分)

8月1日(水)  <バルテュス・・>
バルテュスのことを書きたい。実はこれまでバルテュスのことは名前を聞いたことがある程度でよく知らなかった。日本人でも外国人でも、どのような分野の人物でも何かの“縁”があるとその人と親しくなる。画家であればセザンヌの誕生日が私と同じだったこともあってセザンヌの専門書を2ー3冊読んだ。ゴッホは有名な「ゴッホの手紙」から興味を持った。クレーやカンデインスキーにしても生涯を知ってから、絵の見方が深くなったとも言える。さて、バルテュスさん(1908-2001)は20世紀の画家であるが、「芸術と脳科学の対話」(青土社)という本で能科学者・ゼキと対話していることで”縁”ができた。ポーランドの貴族の血筋をひくフランス生まれの画家で、絵画の大変革時、ピカソやダリ(シュールリアリズム)などと同時代に生きながら、具象画だけを描き通したと云う”異端児”である。専ら少女の絵を描いたことでも知られる(絵をみればこれを描いたのがバルテュスと納得がいく=例=ここ)。Wikipedia(Web百科事典=ここ)にもでているが、二番目の結婚が日本女性(節子さん、脳科学の本にも現れる)であるとか、勝新太郎と親交があったなど意外な親しみを覚えるところもある。脳科学と芸術との関係を探求しようとする先の本には合計6回の対話が掲載されている。それがバルテュスの理解者である能科学者とバルテュスの間に対話が成り立たないことがしばしばあり、かえって脳科学で芸術を分析しようとする難しさをみせて面白い。

8月2日(木)  <滝のような汗・・>
”滝のような汗”という表現を思い出す大汗をかいた。今日は午前中テニスに行く予定をしていたが早朝に激しい雨。出かける時刻になってもまだ降っているのでテニスは諦める。それならばと室内でビリーズ・ブートキャンプをやることにした。これは7月26日のコラム(=ここ)で書いたが、DVDにしたがってやるビリーのトレーニングエクササイズ。始めてまだ一週間だが毎日続けている。ただし、これまでは就寝前の夜にやっていた。今日は真っ昼間で蒸し暑い室内、勿論冷房などはしない。ほぼ一時間の間、身体を動かし続けていると正に”滝のような汗”となった。炎天下のテニスでもこれほどの汗はかかない。それが何とも気持ちのよい汗で気分も体調も良くなるからエクササイズとしてもよく出来ているのだろう。大汗をかいた後シャワーを浴びる。そして気がついたのは部屋を冷房したいと全く思わないことである。夏には汗をかくに限る。
「今日の作品」に「小皿/鯉(陶芸)」を掲載した。小皿シリーズの続き。2005年に制作した同じデザインの「鯉」(=2005-4-5=ここ) と比べると線描を強調した。


8月3日(金)  <横綱朝青龍・・>
横綱朝青龍が”いじめ”にあっている。日本相撲協会から2場所出場停止の前代未聞の処分を受けた。腰椎の治療のため夏巡業に不参加を申請していた朝青龍が母国モンゴルで中田英寿らとサッカーに興じている映像がフジテレビで放映されたことを発端にして相撲協会の巡業部の幹部が”頭に来た”。これがどんどんエスカレートして大問題とされてしまった。本場所に万全を期すため療養するにしてもお国のために遊びでサッカーをしてみせる程度動けるのは当たり前。こんなことを協会の小姑(こじゅうと)たちがよってたかって問題にして横綱をいびっている構図にしかみえない。横綱の品格を云々するのも笑止千万。朝青龍と比べて歴代の横綱の品格がぬきんでているとは思えない。今日の閣議後の会見で文部科学相がこの問題に触れて「日本の伝統的な文化である相撲は公益性のあるものだ。・・相撲協会も公益法人だという認識を持って、日ごろの指導を抜かりなくやってもらいたいと注文をつけた」と報じられている。日本相撲協会は財団法人。財団法人は民法に基づいて設立される公益法人の一つで、設立には、1)公益に関する事業を行う、2)営利を目的にしない、3)主務官庁の許可を得ると定められている。日本相撲協会の主務官庁である文部科学省から先の注文がでた訳であるが、私には朝青龍問題はむしろ日本相撲協会の危機に思える。歴史的に強い大横綱を協会内部で仲間としてサポートできない体質。「伝統的な日本文化」とは異質なものを排除する村八分文化であってはならない・・。

8月4日(土)  <阿久悠さん・・>
阿久悠さんが一昨昨日(1日)に亡くなった。享年70歳は今の時代としては早過ぎる。今日の東京MXテレビで石原都知事と阿久悠さんの対談を追悼番組として放映していた。確か4年前の番組の再放送であったが阿久悠さんの話はやはり興味深かった。有名な人、社会的に認められた人にも色々な種類の人がいる。その中でも作詞家&作家である阿久悠さんは組織の上に立って事を成したのではない。自分の頭で考え、改革し、創造する人であったことがよく分かった。この機会に阿久悠さんの公式ホームページ(=ここ)をみるとプロフィールの中の「免許・資格」の項目に「無免許人間最後の一人を志す」とあるのがこの人らしい。歌謡曲の作詞をする時に従来の”どうせ”この世は、とか“しょせん”私はなどの「言い訳」を排したというのも面白い。関連したレコード売り上げ6800万枚は歴代作詞家一位。亡くなって阿久悠さんほど詩のすばらしさをあらためて賛美された人を知らない。日本人にとっては”悪友”どころか宝を失った・・

「今日の作品」に「小皿/魚(陶芸)」を掲載した。小皿シリーズの続き。二年前に制作した同じタイプの「魚」の小皿は破損させてしまった。陶器もまた消耗品である。


8月5日(日)  <キリストの父・・>
「キリストの父の名前をほとんどの人は知らない」という記述があった。確かに、キリストの母は聖母マリア、マリア様の名前は誰でも知っている。マリアは天使から神の子を身籠ったことを伝えられ(受胎告知)聖なる子を産む。一方でマリアの夫はナザレのヨセフ。こちらは余り知られていない。キリストの生誕についての議論ではなく、この文章では、それほどに”父親の存在は影が薄くても、母親は強い。お母さん自信を持って!”と母親を元気づけている。これを書いたのは、五嶋みどり、五嶋龍という二人の世界的ヴァイオリニストを育てた母親の五嶋節さん(1949年生まれ)。この二人の天才ヴァイオリニストは節子さんがいなければ(もちろん指導をも含めて)この世に存在しなかったのは確かだろう。みどりさん、龍君のそれぞれの父親は母親と比べると目立たない。父は弱く、孤独であるなどと言ってみたくなるが、どうもそれだけではないようだ。最近のスポーツ界では父親の“汗の結晶”が目につく。プロゴルファーの横峰さくらさんのパパは娘の知名度を活かして国会議員になった。ボクシングの亀田三兄弟のトレーナーは父親。女子レスリング・浜口京子の父親は忘れられない思い入れを演出した。母親にしても父親にしてもある年齢以降に如何に親が子どもから手を引くかが問われる。マリアがそうしたように、神の子を預かっていると思って巣立ちをさせられれば十分だろう。

8月6日(月)  <世界百名瀑・・>
「世界百名瀑」という写真展をみた(@東京銀座松屋、8月13日まで)。全米写真家協会から最高写真家賞を受章している白川義員(しらかわよしかず/1935年生まれ)さんの“地球再発見シリーズ”の最新作である。今回の「滝シリーズ」は第10作目。これまでの、「アルプス」、「聖書の世界」、「仏教伝来」、「南極大陸」、「世界百名山」などに続いて、自然の原風景を通して人間を越えた偉大な霊性を考えさせる。時に傲慢な人間の所業を諌める宗教的なメッセージを受ける。とにかくもこの写真家のスケールは桁外れだ。地球が相手であるからチャーターしたヘリコプターや飛行機で空撮するのは知られている。お金もかかるが、一枚の写真を撮影するのに“命をかける”。それが大袈裟な言い方でなく、実際に白川義員が生き伸びているから私たちは彼の写真をみることができる。写真集の最後に写真撮影に助成金をだしたコニカ、小学館、凸版印刷の三社に「感謝の言葉」が綴られているが、「南極大陸」の取材費6億5千万円、「世界百名山」が4億千万円、「世界百名瀑」は借金2億円という。取材費の半額を助成してもらっても膨大な借金を背負いながらまた次の写真へ挑戦をする。このエネルギーはどこからくるのだろう。自分一人の利害など問題ではなく、奇跡の星、地球の美しさ、崇高さを全ての人間に伝える大きな使命感に燃えているように思える。
8月7日(火)  <蝉の声・・>
蝉の声で目を覚まされることが多くなった。蝉の声を聞くと必ず思いだされるのが、「 やがて死ぬけしきは見えず蝉の声 (松尾芭蕉)」の俳句だ。蝉の声はオスの成虫が鳴いてメスを呼んでいる声。オスが備えている発声器官とそれとすばらしい共鳴装置を使って必死に鳴く姿を思うと何か悲壮感が漂う。成虫になった蝉の生きる期間は比較的短いが(1週間と云うのは俗説で1ヶ月とか)地下で幼虫として過ごす期間(アブラゼミで6年)を考えると昆虫類では寿命は長い方になるそうだ。さて、先の俳句と同じく芭蕉(1644-1694)の句:「 閑かさや岩にしみ入る蝉の声 」はあらゆる俳句の中でも名句として知られている。後年、こうした俳聖芭蕉の俳句や詩歌界の巨人の歴史作品を次々に批判して世に出た正岡子規(1867-1902)が「蝉の声」をどう表現したか並べてみるのも面白い:「 蝉なくや五尺に足らぬ庭の松( 正岡子規)」。・・今日、駒沢公園(東京・世田谷)で見つけた蝉の写真を「今日の写真」で掲載する。撮影する少し前までは生きていたが、この時には既に死んでいた。羽が不透明であるのでアブラゼミだろうか。
8月7日

8月10日(金)  <水のドラマ・・>
8月6日のコラムで白川義員さんの「日本百名瀑」写真展に感激したことを書いたが、その後、たまたま滝を見る機会があった。その時、実際に流れ落ちる滝をしばらく眺めていて静止した写真とは全く異なった感動があることに気がついた。確かに名写真家が撮影した滝の姿は美しい。けれども規模はそれほど巨大な滝でなくても実物の水の流れは瞬間の静止画像では見えないものを見せてくれる。「今日の写真」(最下部)に「華厳の滝」を掲載した。写真としては在り来たりかもしれないが、実物では私は水のドラマをみた。流れ落ちる瞬間から下の滝壺に到達するまでの数秒間に水は無限の経過をたどる。ある部分に視点を定めてそれが一番下に達するまでを継続して観察すると、途中で霧となって消え入るもの、他とぶつかり合って形態を変えながら底に飲み込まれるもの、周りに包み込まれてもがくように下へ向うものなど千差万別である。何か落下開始が人間の生誕として底に到達するまでの生涯を見る思いがするほど多様な様相である。一粒一粒がみな新しく流れ始めてみんな異なる。けれども全体で見ると同じ流れが続いているようにも見える。底に到達した水滴は新たな水流を形成してまた流れを続ける・・。
8月10日華厳の滝(栃木県・日光)
8月11日(土)  <暑いですね・・>
「暑いですね」と挨拶をするけれども、できるだけ“暑い”と思わないようにしている。今日、東京の最高気温は36.4度。炎天下でテニスをするのはさすがに楽ではないものの、”暑い”といってみても気温は変わらない。この季節に暑くなければそれこそ問題だ。汗を流すために運動しているのだから絶好の天気でないかと痩せ我慢。それでも水分をいつもより多くとったり、省エネ(=不精ということ)動作を心がけるなど暑さ対策も忘れないでゲームを楽しんだ。最近ヨーロッパ(東欧)から帰国した知人によると、彼の地での暑さはこんなものではなかったという。死者がでたと日本でも報じられたが40度を越す猛暑が続き列車のレール点検などのため交通機関も大混乱だったそうだ。一方で現在のニューヨークの気温は14度。ニューヨークではこのところ異常に低い気温が続く。高くても、低くても、変動しても、変動しなくても話題にされるのが気温。「異常」なのか「自然(=平常)」なのかの判断は難しい。
「今日の作品」に「東照宮参道にて(ペン画)」を掲載した。参道の脇の石の上にタオルを敷いて座り、このペン画を描いていると何人もの人が側に来て話を交わしていった。フランス人など外人が遠慮なしに話しかけてきたのは場所柄なのだろう。


8月12日(日)  <国家予算・・>
「ブッシュ米国大統領が今後数年間にわたる科学および技術分野の政府後援費として336億ドルを出資する”American Competes Act"に署名した」というニュースをみて、4兆円ほどの金額が多いのか少ないのかさっぱり見当がつかない。そこで少々国家予算について勉強することにした。はじめに日本の国家予算。一般会計80兆円、特別会計200兆円(全て概算)などの数値をみるがとにかく分かり難い。 防衛、社会保障等の政策経費と国債利払費を足した一般会計、そして保険や年金など特定の歳入を特定の歳出に当てる特別会計(31種類=歳出規模は400兆円以上)、更に地方財政計画と呼ばれる地方の予算があり、それぞれに重複する部分があるので差し引きをしなければ真の中身は分からない。とにかく官(国)の予算としては240-280兆円規模である。これに対して、米国の国家予算(歳出総額)は2兆9000億ドル程度のデータがあった(340兆円/日本の一般会計に相当なのか? ちなみに軍事費=約4200億ドル)。米国の予算の仕組みまでは到底行き着かなかったが、それ以前に日本の国の予算の成り立ちに実に”弱い”ことを自覚した。この複雑な予算の仕組みを一般人でも分かるように解説できるならば構造改革などはるかに推進し易くなるのでないか。
8月13日(月)  <お盆休み・・>
お盆休みをとるところが多くなった。今朝はインターネットで毎日みる新聞各紙のコラムが”お休み”になっているので新聞休刊日であることを知ったが、これはお盆休みとは関係がないようである。新聞休刊日とは新聞配達をする若い人を慰労する意味で年に2ー3回休みを設けたものという私の認識はかなり古く、間違っていた。今は何と毎月1回の休刊日、年に12回もある。今日のように月の第二日曜日(翌日が実際の休刊)を休刊日にする月は、4,7,8,10月の4回もある。今時販売する商品を売り手側の一方的な都合で配達しませんと宣言出来る新聞とは随分殿様商売をしている。まあ、Webでニュースをチェックするので新聞の購買を止めてしまった自分としては”毎日が休刊日”でも一向に構わない。・・今日の午後、猛暑の中を銀座まででかけた。ところがお目当てのところは「お盆休み」で16日まで閉店。それならば絵でも見ようと日動画廊に寄ってみると、こちらも20日までお休み。そう・・、銀座は街全体がいまや”お盆休みモード”に突入していた。観光客、買い物客の数も少ない中で、お盆休みには関係のない外人の姿ばかり目についた。

8月14日(火)  <大根の葉・・>
「大根の葉(ペン画+水彩)」を「今日の作品」に掲載した。この奇妙な絵は現在我が家の居間に置いてある容器の様をそのままスケッチしたものである。葉のついてない大根の端3-4cmを切断して残し、本体を料理に使う。端の残り部分を切断面を下にして容器に入れておくと、大根は新たな葉をつけてこれほどまでに成長した。ポイントは切断面に水を絶やさぬように補充すること。ただし水が多過ぎても大根が腐って駄目になる。わずかな水だけで見事に葉を成長させる大根の生命力は感動的である。葉はもちろん無農薬。食べるには絶好だがいましばらく我慢して、どこまで成長するか観察するつもりだ。・・ところで「大根の葉」は京つけものでは「すずしろ菜」と上品な名前で売られている。ご存知、春の七草の「すずしろ」は大根のこと(清白とも表記される)。写生俳句の虚子はこんな俳句を詠んだ:「流れ行く 大根の葉の  早さかな(高浜虚子)」<この俳句も句界では「易水に ねぶか(葱)流るる 寒さかな(与謝蕪村)」と比較されて議論があるようだ>。


8月15日(水)  <葉っぱでおぼえる樹木・・>
「葉っぱでおぼえる樹木」という本をジュンク堂書店(=7月31日コラム参照=ここ)で買った(柏書房)。「原寸図鑑」とサブタイトルがあるように、葉っぱの原寸写真がでているし、見分けるポイントが細かく説明されているので、早速にこの図鑑を活用しようと庭から適当な葉を採って来た。それでも樹木の名前を特定するのは意外に難しく、恥ずかしながら随分時間をかけて判定したのが「モチノキ」、「ケヤキ」の二つである(下部写真)。分類でいえば、この二つ共に、単葉、広葉、切れ込みなし、であるが、モチノキは”鋸葉なし”、ケヤキは”鋸葉あり”となる。単葉に対して複葉があるが、これも一枚の葉だけでなく葉軸とのつながりで判断しなければならない。広葉に対する針葉は直ぐに分かる。切れ込みの有無は形状で判定出来る。ところが、ケヤキと同じ分類で形状や鋸葉などもそっくりの「ムラサキシキブ」は、葉の”触感”が異なる。慣れた人であれば即断できるだろうが、写真だけでは紛らわしい種類が多いことが分かった。・・人間は誰も目が二つ、口は一つ、耳は二つ。それでも同じ顔は二つとない。その中で、美女だとか美男だとか好みも分かれる。人間の感情とは不可思議なものだ。樹木や葉をみていると銘木も雑木も関係なくどれも自然の造形の美に感嘆する。樹木の名前も、興味と愛情があればこそ覚えられるのだろう。
8月15日/ケヤキ(左)&モチノキ

8月16日(木)  <国内最高記録・・>
今日、気温の国内最高記録が74年ぶりに更新されたことが夜のトップニュースとなっている。多治見(岐阜)と熊谷(埼玉)で40.9度を記録(越谷でも40.4度)。東京では最高37度であったようだが、この炎天下に2時間余りテニスをやった。太陽が照りつけていたので体感温度は軽く40度を超していただろう。こうなると限界状態での勝負である。試合中は生き残ることだけに集中して余計なことは一切考えない。大きく呼吸して心臓の鼓動を抑えて動けることが基本。もちろん熱中症にならないように注意する。身体の限界を確かめつつ意識に余裕があるかも見極めなければならない。今日は最後に相手の一人が暑さでギブアップ、試合は中断した。案外に自分もこの中断で救われたのかも知れない。帰途はいつになくヘトヘトに疲れていた。
「今日の作品」に「箸置(陶芸)」を掲載。陶芸教室での大作完成を待っている合間に家で作り、焼成したもの。一種類は「メビウスの輪」、もう一種類は「ラッコ」を箸置とした。


8月17日(金)  <何でも暑さのせい・・>
何でも暑さのせいにするのはどうかと思うが、このところ暑さで新しいことに取り組む意欲は減退するし、アイデイアも枯渇しているようにみえる。コラムには書かなかったが最近「トプカピ宮殿の至宝展」(@東京都美術館)や「北大路魯山人展」(@日本橋・三越)などに行っている。元気があるときには何かを吸収し、自分の創作に活かすヒントを得るのだが、今回は全く感動がない。展示品の内容によることもある(特にトプカピの至宝とはこんなものではないだろう)が、暑さで”感度”まで鈍っている。これまでは、展覧会でどんなに眠いときでも目が覚める、くたびれていても疲れを忘れるといった経験をしたことも多い。それなのにこの怠惰な反応はどうしたことか。まあ、人の意欲にも波があると思いつつ時期を待つ。・・そんな時にテレビで甲子園の高校野球をみる。日南学園に3点リードされた常葉学園菊川(静岡)が8回に二死から同点ホームラン。延長10回に逆転サヨナラのドラマを目の当たりにして目が覚めた。夏の甲子園には人を元気にする本物のパワーがあるようだ。

8月18日(土)  <ゲーム嫌い・・>
「ゲーム嫌い」を自認しているが最近のゲームが実によくできているのには素直に感心する。中でも評判の任天堂・Wiiを体験した。やってみたのは「Willスポーツ」である(Will対応のソフトは10種類以上ある)。テニス、野球、ゴルフ、ボーリング、ボクシングの好きなスポーツを選択して、実際に身体を動かしてテレビ画面を見ながら対戦する(周囲に身体を動かす十分なスペースが必要)。テニスでいえばリモコンをラケットと同じように握り(右きき、左ききも選べる)、サーブ、ストロークを実戦と同じ格好で腕を振る。画面のボールとタイミングを合わせて左右にも打ち分けることが出来る。リモコンの動き(=身体の動き)をキャッチするセンサーがテレビ画面のトップに設置してあり動作を即座に画面に反映させるので本当にラリーを続けているように遊べる。私には本物のテニスや野球(バッター)の方がお得意で、ゲームはうまくできないのでイライラすることも多かったが、ゲームの技術的な面には非常に興味がある(Willの開発担当者の座談会=ここ)。最近、このWillスポーツをカナダ・モントリオールのアスレチックジムで採用したというニュースがあった。ジムに通う人が余興で更に汗をかけると評判がいいという。脳トレも筋トレもゲーム機でやるのは味気ないと思うが、いやゲーム機だからこそ面白いのだと言われそうな時代になった。

8月19日(日)  <作品名・・>
作品名を真剣に考えると楽しいかも知れない。私はこれまで陶芸でも絵画でもいい加減なタイトルを適当に使っていた。本当に作品のことを思って熟考の末にネーミングすることはなかった。こんなことを書くのは、今日掲載した「今日の作品」のタイトルで悩んだからである。この陶芸作品、オブジェというほど大層なものではなく何の実用性もない。はじめは丁度団子のサイズを串刺しにしたようなものなので「だんご3兄弟」としようと思ったが昔のヒット歌謡の題名をあえて付けるのも見苦しいので止めた。何の用もなさないオブジェにどんな作品名がついているのか昔の朝日陶芸展の図録を調べてみた。いわく、「カオス」、「在ること」、「作品02」、「Lost ages」、「時の化石」、「何処(いずこ)」・・。どうも名前負けしそうなものが多い。それではと、現代陶芸の異才といわれた八木一夫さんの図録をみてみた。「壁体」、「球体」、「曲」、「遠い入り口」、「ニュートンの耳」、「発芽の様相」、「俳句」・・と 、こちらも作者の趣味を彷彿とさせる題名が続く(代表作の「ザムザの散歩」は私も大好きだ)。私はモダンアートの展覧会でみかける勿体ぶった作品名は好みではないが、八木さんの題名には抵抗が無い。さて、今日の作品は「コマサ玉連鎖(陶芸)」とした。他の題名を調べた割には面白味がでなかった。この玉を作った土は「コマサ」(コバルト、マンガン、酸化鉄を混ぜた土)、それぞれの玉の中心には6mm径の穴があけてあり、ガラス管を貫通させて玉の連鎖とした。今はガラス管の中をまたアクセサリー用の鎖を通してある。この3個のコマサ玉の用途をこれからも考えていきたい。新しい使い道が見つかればもっといい作品名が出来るかも知れない。


8月20日(月)  <千の風・・>
テノール歌手・秋川雅史が歌う「千の風になって」がミリオンセラー(シングルで100万枚以上売上)となった。クラシック歌手としては史上初とか。この歌は”人が死んでも姿を変えて再生する。命は永遠”のメッセージを語りかける。「私のお墓の前で 泣かないでください そこに私はいません 眠ってなんかいません 千の風に 千の風になって あの大きな空を 吹きわたっています・・」。この歌詞は新井満さんが英語詩を翻訳したものとして知られているが、新井さんは直訳せずに詩の本質をイメージして歌詞を作り上げたという。原詩は作者不詳とされるが、1932年にMary Fryeさんが書いた詩がオリジナルとされる説が有力である。”Do not stand at my grave and weep, I am not there, I do not sleep. I am in a thousand winds that blow,・・”<原詩全文を=ここ=でみることができる>。死後の世界観は宗教と深く結びつく。仏教では輪廻転生の思想があるがキリスト教は天国に行けるか否かだろうか。けれども米国でも「生まれ変わり」とか「過去生」の考えが一部に根強くあるのも確かであるようだ。そんな土壌が英語の原詩を生んだのだろう。英語詩でも日本語詩でも「千の風になって」は結局生きている私たちを勇気づける。

8月21日(火)  <ピタゴラスイッチ・・>
「ピタゴラスイッチ」という子ども向けTV番組が好きである。私がこのNHK教育テレビの番組をみるのは朝の8時過ぎの時間であるので正確には「ピタゴラスイッチ・ミニ」という短縮版番組かも知れない。今朝の”ピタゴラ装置”もよく出来ていて朝から芸術性豊かな傑作を鑑賞したような気分になって元気がでた。私自身も玉転がしのお遊びを創るので自分にない発想に出会ってうれしくなることも多い(こういう番組をWebで掲載していいのか知らぬがYou-Tubeで動画がみられる=ここ=)。この番組は既に日本国内の子ども番組の部門で最優秀賞を受賞しているし、海外でも評価されているようだ。私はつねづねテレビの芸能番組やバラエテイ番組の質の悪さには辟易させられるが、NHK教育テレビの子ども向け番組には感心する。ピタゴラスイッチのように世界中のどこにだしても誇れる番組もあれば、「にほんごであそぼ」のように日本の文化程度の高さを大人が見直しさせられる番組もある。今日の”にほんご”番組では「いろはにほへと」を実に鮮やかに教えていた。小学校の教室ではとても「いろは」をこんな風には教えられないだろう。子ども向け教育番組にはそろって制作スタッフの愛情と気合いが感じられるのには何か理由があるのだろうか。他の番組との落差が不思議でさえある。テレビとハサミは使いようか・・。

8月22日(水)  <ミラクル・・>
「ミラクル(奇跡)」などの言葉を安易に使って欲しくないが、「ミラクル大逆転」のスポーツ紙の見出しが大袈裟ではないと思える大逆転で佐賀北高校が初優勝した。今日は全国高校野球選手権の決勝戦。甲子園での熱戦を仕事をしながらテレビでチラチラみていたが最後は目が離せなくなった。広陵(広島)と佐賀北(佐賀)の対戦は広陵が7回に2点を加えて佐賀北を4−0でリード。佐賀北は7回が終わってわずか1安打で広陵の野村投手に完全に抑えられていた。8回、佐賀北の攻撃で一死満塁から四球ではじめて一点をいれてもまだ3点差。誰もが広陵の優位は揺るがないと思ったに違いない。それが佐賀北、3番の副島がまさかの逆転満塁ホームラン。そのまま5−4で佐賀北が勝利した。「事実は小説よりも奇なり」というが「高校野球は戯曲や劇作よりもドラマチック」である。・・高校野球が一期一会の茶会とすれば、プロ野球は毎晩同じメンバーでたむろする飲み屋の集まりという感じさえする昨今のプロ野球。野球ドラマの面白さを高校野球から学ぶべきはプロ野球でないか。
8月23日(木)  <待ちに待った作品・・>
待ちに待った作品が出来上がった。「今日の作品」に掲載した「取手付水盆(陶芸)」である。記録を見ると、この作品は6月20日に製作を開始している。6月末には素焼きにだし、その後の仕上げも順調だったので8月上旬には完成すると思っていたのが今になった。待ったけれども陶芸では時間をかけるほど結果は安定する。特に大物は粘土の乾燥が十分でないと割れが発生し易い。私は教室で焼成に時間がかかると丁寧に扱ってもらっているとスタッフに感謝することにしている。さて、この作品には油滴天目という釉薬を使った。光沢のある黒い釉薬の表面に油の滴のような模様(=酸化鉄の結晶)ができるので油滴天目と呼ばれる(天目とは黒釉のかかった陶磁器の総称。昔、中国天目山から日本に持ち帰った黒釉茶碗を天目茶碗と呼んだことが語源ときく)。油滴天目には国宝の茶碗があるので茶碗や容器を作る人も多いが私はこんな水盆を試みた。粘土で成形している時に、何を作っているのか聞かれて返答に困ったこともあったが“ハンドバック”のようだと喜んでくれる人もいて励まされた。私のこだわりはまたまた中央のトップから水を滝のように流すことにある。実は円形の骨組みの内部には水の通路となる穴があけてある。粘土に紐を埋め込んでおいて、焼成する時に紐を燃やして穴を貫通させる方式は大成功で完璧な水路を持った取手が出来上がっている。したがって今は盆の内部に小型ポンプを埋め込んだり水量を調整したりする工作に取り組んでいるところだ。「今日の作品」には陶芸のみの作品をまず掲載した(油滴天目部分の写真は別途に「陶芸コーナー」=ここに掲載した)。今回の作品は工作がなくても水盆として十分に使えるのでうれしい。工作が完成したらどうなるか、これも楽しみ・・。
  8月24日分
8月24日(金)  <あがき・・>
今朝の読売新聞のコラム「編集手帳」でシェークスピアの「リア王」にでてくる言葉が引用されていた。孫引きさせていただこう:「もっと良かれという足掻(あが)きが、すでに良い物を台無しにするのはよくあることだ」。これを読んで私と妻は大きくうなづき苦笑いした。・・昨日から「取手付水盆(陶芸)」の水流装置を作り始めている。まず小型ポンプを水槽の中に取付け通路に水を通し取手の最上部へ水を送る。取手の中央部から水槽へ水を落下させる。滝のように落下させたかったが結局3本の鎖を伝わって水が水面に達するようにした。水滴が周囲へ飛散しないように鎖を使うのが新しい工夫の一つであった。最後には勢いに乗って派手なアクセサリーの鎖を使うなど、試行錯誤の末にとにかくも今日一応完成させた。ところが、これをみて妻は”悪いけど、装置をつけないオリジナルの陶芸のままが一番よかった”との感想。実は私もそういう感じはないではなかった。何より水流装置がつくと陶芸の模様や釉薬のニュアンスなどに注意がいかなくなるのは確かだ。本来の陶芸の鑑賞には水流など余計であるかも知れない。それでも、この「水流装置」(「今日の作品」に掲載した)それなりには面白い。写真では見難いが三本の鎖を伝わった水が最後には一本に合流し水面で波紋を描いている。・・「あがき」とは「足掻き」と書く。馬が前に進もうとして前足で地面をかくこと、そして、手足を動かしてじたばたすること、どうにもならないのにいろいろやってみることの意に転じる。水流装置は悪あがきであったかどうか分からないが、私としては前進するために存分にあがいたことを後悔はしない。

8月25日(土)  <年齢・・>
年齢は人の交流の際に微妙な影響を及ぼす。70-80歳になっても”私はあなたより年上”と歳を強調されて困惑することも多い。私は40-50の歳になれば年上も、年下も関係がないと思っているが、50代後半の時、ある会合で「貴方(名前)もやはり団塊の世代ですか」と親しく話しかけられて少々辟易した記憶がある。団塊の世代とは自分より数年下の世代であるのに。これは甘くみられたものだ。貫禄もないのか、こんな会合に出るのはもっと若い世代なのかとうれしくなかったのは確かである。今日は息子が参加する室内楽と書道のコラボレーションのパンフレットを陶芸教室で配っていると、「そんなに大きな息子さんがいらっしゃるのですか」と若いお嬢さんに云われた。娘の娘は7歳になりますとは云わなかったが、それほど若く見られていたかと、こちらはうれしい勘違い。・・先日、ファッションモデルで活躍した山口小夜子さんが亡くなったが、どの記事にも「年齢は公表されていない」とある。1970年代にパリやニューヨークで活躍し、米国のニューズウィーク誌で「世界の6人のトップモデル」にも選ばれた彼女がどういう思いで年齢を公表しないのか理解はできない。享年を50歳前半から後半などと書かれるよりは堂々と歳を云えばいいものを・・。年齢は威張るものではなくても貴重なその人の歴史。年齢を重ねた女性にはそれなりの魅力がある。
「今日の写真」として朝の犬の散歩の時に撮影した「ショウウィンドウ」を掲載した。何だかよく分からないが、この日に感動した風景である。
8月25日@代官山にて

8月26日(日)  < ディアギレフ・・>
「ディアギレフのロシアバレエと舞台デザイン」のサブタイトルがある「舞台芸術の世界」を見た(@東京都庭園美術館=ここ=、9/17まで)。20世紀初頭、ロシアのカリスマ的な芸術プロデユーサー(20世紀最大のバレエプロデューサーとも呼ばれる) セルゲイ・ディアギレフ(1872-1929)の凄さを改めて知らされる展覧会であった。その当時最高の美術家、音楽家、舞踏家が ディアギレフのもとに結集し革新的な芸術活動を行う。 ディアギレフが活躍したのが丁度100年ほど前であるのが興味深い。1907年にはパリでロシア音楽の演奏会を実現しリムスキー・コルサコフ、スクリャービン、ラフマニノフなどの作品をパリで初演したという。ロシアバレエ団(バレエ・リュス)を旗揚げしてパリ公演を行い大評判となったのが1909年。 作曲家、ストラヴィンスキー(ロシア生まれ)の年齢は ディアギレフの10歳下。 ディアギレフの依頼で作曲した「火の鳥」、「ペトリューシュカ」、「春の祭典」のバレエ三部作はストラヴィンスキーの代表作になった(私はこの三部作が大好きだ)。しかしながら、ロシアのこうした前衛的な芸術活動のできた時代は長くはなかった。その後の1917年、ロシア革命とそれに続くソ連邦の時代・・。ソ連では結局みるべき芸術は生まれなかった。 ディアギレフの眠るヴェネチア(イタリア)の島に後にニューヨークで没したストラヴィンスキーも埋葬されたというのが何か象徴的である。帝政ロシアの最後の花火を打ち上げたディアギレフに関連した展覧会の後援にはロシア大使館も加わっている。
「今日の写真」は庭園美術館の庭園にあるキリンの彫刻。
8月26日@東京都庭園美術館庭園にて

8月27日(月)  < こだわりを捨てる・・>
こだわりを捨てるのには決断がいるが結果はいい方向に展開する。陶芸でこんな経験をした。粘土をこねて新作を作り始めたが余りに複雑な構造を考えていたので途中から形状を作り進めることが出来なくなってきた。このまま無理をして作ってもどうみても思ったようには完成しそうにない。1時間ほど制作を進めたところで方針を転換して別の構造に作り替えた。結果的にはこれが正解で当初の構造には無理があった。私は少々のことなら計画通りに仕上げるけれども今回の決断はわれながら早かった。「こだわる」とは「どうでもいい問題を必要以上に気にする(新明解/三省堂)と辞書にある。最近は「こだわる」をいい意味に使うこともある。これは、「他人はどう評価しようが、その人にとっては意義のあることだと考え、その物事に深い思い入れをする」(新明解/同)の解釈であろう。マニアが二番目の意味でこだわりを持つのは悪くはないが、視点を変えると「どうでもいい問題」にこだわり続けて人生の貴重な時間を無駄にすることも多い。「医者になることにこだわる」、「○○大学に入学することにこだわる」、「××の職業にこだわる」などなど、親がこだわり、本人がこだわり続けると悲劇になる。適性がないと見極めると素早く方向転換をする。こだわりを捨てると案外に結果がいいものである。
「こだわりを捨てる」のは「あきらめる」とは違う。Never give up! しかし、こだわらない・・。
8月28日(火)  < 世界中から100を選ぶ・・>
「世界中から100を選ぶ」ことがどんなに難しいことか・・。白川義員氏(写真家、8月6日コラム=ここ=参照)が世界百名山を撮影した際の話。世界百名山撮影プロジェクトを発足させて、世界中から百名山選考委員(15カ国)を構成して推薦された山を集計したが、半年議論しても160山以下に削ることが出来ず、各国の選考委員は百名山にふさわしくないと思われる山に×印を付けることまでしたという。いくら選考基準をきっちり作っても選考は全員一致とはいかない。今日読んでいた本の中に「世界中の絵画を30点だけ集めるとすれば何を選ぶか(いかなる時代の絵画でもよい)」というのがあった。この場合も二人の対談者の意見が全く噛み合ない。それぞれに歴史のある芸術品に順位をつけるのは邪道であろう。ところで世界遺産は現在までに851件が登録されている(文化遺産660,自然遺産166,複合遺産25)。登録されれば観光客が増えるという側面があるだろうが、考えてみると世界遺産に登録されると特別価値があると思うのは奇妙なことである。いまや「人類が共有すべき普遍的な価値をもつもの」は地球全体、地球上の全ての個所が保護・管理を必要とする「世界遺産」でないか・・。

8月29日(水)  < コラボレーション・・>
「書と音楽のコラボレーション」をみた。いや、見ると同時に、聴いたというべきか(@東京芸術劇場、5Fギャラリー、松本山兎書展にて)。バッハやハイドンなど室内楽の生演奏を聴きながら、畳2ー3畳の大きな紙に即興で書をつくりあげるデモンストレーションを見るのは贅沢な体験であった。展示されている書だけでも私には非常に興味深いものであったが、その場で筆に墨をたっぷり含ませて一気に書き上げるパフォーマンスに音楽が加わる。コラボレーションは単なる共演、合作、共同作業というだけではなく、お互いが影響し合い、単独であるよりも一層の輝きを増すことが期待される。今日のコラボの場合は室内楽のメンバーが書からどう刺激を受けたのかは分からない。けれども、もし演奏なしで書のパーフォーマンスのみをみたらと考えると、音楽がいかに気持ちよく作用していたかに気がつく。その意味で書と音楽のコラボレーションは成功だろう。・・どんな分野の専門家にしても異分野との交流を深めることによって視野を広めることができる。異分野に興味を持つと自分の分野に新たな光が当る。自分はどこの誰とコラボを組むことができるか、考えるだけで刺激になりそうだ。
8月30日(木)  <サブプライム・・>
「サブプライム」という言葉が目につく。「アメリカのサブプライムローンの焦げ付きに端を発した金融不安」、「アメリカの住宅バブル崩壊はサブプライム問題が契機」など・・。米国のローンで顧客に貸し付ける際に、優良顧客のことをプライムという単語を使う(prime beefというと最上級の牛肉、prime importance は最重要事項だ)。これに対して、プライム層向けでない貸し付けを「サブプライム ローン」として区別する(一般向けとか貧乏人向けとせずにsub-primeとするところがうまい)。いま住宅用のサブプライムローンが返済不能になる問題が表面化している。サブプライムの債券を組み込んだ金融商品の運用に失敗した証券会社の資金繰りが悪化するなど金融や株式市場全体の信用問題にまで波及して成り行きが注目されるところ。もともと住宅バブルと云われながらも米国での住宅価格が急激に上昇を続けたことが背景にある。米国では富裕層はプライムローンで低金利のローンを組めるが、所得水準が低く信用力もない層が利用するサブプライムローンは金利も高い。それでも住宅が値上がりすることを見込んで無理にローンを組むが、そのうち返済出来なくなるというのが破綻するパターンであるようだ。何か日本のバブル時代に金融機関が零細企業に融資しまくったことを思い起こさせる。サブプライム問題は対岸の火事ではない。成り行きによっては一挙に世界中が影響を受けて、われわれの生活も火の粉を被る可能性がある・・。
8月31日(金)  <今日は何の日・・>
「今日は何の日」かを教えてくれるWebサイトは多い。いくつかのサイトで今日は「二百十日」に当ると書いてあるが、どうもこれがあやしい。「二百十日」は立春から二百十日目である。我が家の「日めくりカレンダー」によると、今日は今年の243日目。今年の立春は2月4日(=35日目)であったから、計算としては、243ー35+1=209。アレ! 二百十日は明日、9月1日でないか? どこでどう間違えているのか不明。まあ、深くは追求しない。9月1日前後である二百十日は台風の襲来が最も多い特異日ともされるが、幸い今年は台風の心配はなさそうだ。8月31日の出来事というと丁度10年前、1997年「ダイアナ元英国皇太子妃、交通事故死」の大事件があった。真相は分からないが、もう10年を経過したのかと感慨深い。他の出来事で特筆するものはない。今日で8月、葉月が終わる。「葉落ち月」は今日までであるけれども、実際の葉が落ちるのはまだまだ先か。今日も残暑が続く・・。

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