これまでの「今日のコラム」(2009年 5月分)

5月1日(金)   <プロ野球で野村監督が監督通算1500勝・・・>
プロ野球で野村監督が監督通算1500勝を達成したことが何かと話題になっている。一昨日(29日)の楽天-日本ハム戦で野村監督率いる楽天が2-1で勝利。完投した楽天の田中将大投手(20)は野村監督に記念のウイニングボールをプレゼントした。これまで1500勝を達成したのは、鶴岡(1773勝) 、三原(1687勝)、藤本(1657勝)、水原(1586勝)で野村は史上5人目である。面白いのは野村監督(73歳)だけが負け数が1506敗と勝ち数より多い。これは監督通算勝利10位まで(参考までに、8位が王貞治1315勝、10位が川上哲治1066勝)でみても、敗戦数が勝利数より多いのは野村だけである。今朝の天声人語(朝日新聞)は野村の「勝ちには不思議な勝ちがあるが(相手のミスで思わぬ勝利を拾うなど)、負けには不思議の負けはない」という言葉を引用していた。負けの経験では野村の右に出るものはいない。強いチームならば監督なんていなくても勝てる(しばしば監督がいない方が強かったり・・)。弱小チームを強くするのが監督の力量とみれば野村の負け数もまた輝ける記録であろう。


5月2日(土)   <卓球の世界選手権・・・>
卓球の世界選手権が横浜で開催されている。今日は大会第5日目、女子シングルス4回戦では16歳の石川佳純が勝利し日本人として6年振りの8強入りを果たした。久しぶりに卓球の世界トップクラスの試合を見て卓球の技術の進化に目を見張る。10年前の世界トップの技量をほとんどの選手が易々とこなしている。ましてや50年前の卓球とは質が違う。攻撃のスピードは勿論めざましいが、なにより守備がすばらしい。卓球という競技は攻撃した瞬間に守備をすることを予測していなければならない。攻撃と守備の間隔が最も短いスポーツかも知れない。・・私が子供の頃、まさに50数年前であるが我が家の庭に卓球台があった。毎日のように兄弟や友人とピンポンで遊んだことを思い出す。当時、日本は卓球王国といわれた。調べてみると、例えば荻村伊知朗(1932-1994)は世界選手権でシングルス、ダブルス各2回の優勝を初め、何と世界選手権団体で5回も優勝している。私は現在、テニスしかやらないが、テニスのベースは間違いなく卓球だと今になって思う。

5月3日(日)   <妻のパソコンでいくつかのトラブル・・・>
妻のパソコンでいくつかのトラブルを抱えていた。午後6時15分頃インターネットでアップルのサポートセンターを調べる。たまたまこの日、午後7時に予約がとれたので、大至急パソコンやハードデイスクを外して車に積んで渋谷のサポートサンターに向かう。ノートパソコンではない旧型の大きなパソコンを両手で持ち上げながらサポートセンターの2Fへ。午後7時15分頃から調査開始。CDを挿入した後取り出すことが出来ないとか、ハードデイスクから音楽データーをi-tuneというソフトで読むことが出来ないとか、その他、懸案のトラブルが全て解決したのが7時45分。そして修理はしていないからと無料。こんな親切なすがすがしい対応がMac(アップル)ファンにはうれしい・・。
「今日の表紙」に「フレームH3 & 横長花器(陶芸)」を掲載した。「フレームH」を花器の台にしただけであるが、気分が変わる。


5月4日(月)   <いま白木の位牌(内位牌)・・・>
いま白木の位牌(内位牌)を預かっている。これは四十九日の法要で本位牌に移すまでのいわば仮の位牌である。位牌の知識などほとんど持ち合わせていなかったが今回色々なことを学んだ。仏教ではどんな宗派でも位牌を用いると思っていたが、そうではなかった。Wikipediaによると浄土真宗は「阿弥陀如来の本願により死者はすでに浄土に往生しているとされるので死者に対する回向という概念がなく位牌を用いない」と解説されている。何人かの知人にこのことをいうと、浄土真宗だけれども位牌があると言う人が何人もいた。Wikipediaは浄土真宗でも地域の慣習として用いる場合もあるとしているので厳密な区分けではなさそうだ。ちなみに浄土真宗では法名(真言宗や浄土宗でいうところの戒名)は法名軸や過去帳に記す。我が家のお寺は浄土宗であるので戒名を書いた位牌がある訳だ。・・日本には「仏教のお寺」はないと書いた本をみてギョッとした。言われてみると確かにお寺は全てどこかの宗派。そしてどの宗派が仏教の正統などということはない。やおよろず(八百万)の仏教が"いい加減”の戒律と慣習で成り立っていて強制的でないところが日本のいいところかも知れない。

5月5日(火)   <”倒せる風車”・・・>
”倒せる風車”を沖縄電力が設置するというニュースをみた。台風が来襲したときに倒して強風をやり過ごす。最近は風力発電が増えているが適度な風を要求する割には、台風のような強い風に対しては倒壊や羽根の破損が起きる危険性がある。そこで台風に「耐える」頑丈な風車ではなく、強風時には「倒して避ける」発想としたのが「倒せる風車」だ。私はこの風車の記事をみて、英国・テムズ川にかかる「ゲーツヘッド・ミレニアム橋」を思い出した。この橋は船が通る時に動くのであるが従来の開閉橋とは全く違う「倒せる橋(起こせる?)」とでもいうべき構造を持つ。デザインがすばらしい上に稼働させる動力が極めて少ないと言う優れもの。写真を見るだけでもため息がでる(例えば、構造=ここ、写真=ここorここ参照)。倒せる風車も倒すことを前提に橋と同じような釣り合わせ用の部材を最初から設置していると大型クレーンなど使わずに省電力で倒しと起こしができるだろう。風車の高さは38mとか。「ゲーツヘッド・ミレニアム橋」のようにトータルデザインを考えれば、台風がくると観光客が風車の下に集まるかも知れない。

5月6日(水)   <ブラインドタッチ・・・>
ブラインドタッチが未だにできず、妻や若者からバカにされる。いい加減に覚えたら・・といつも言われながら毎日パソコンのキーを打つとなるとキーボードを見て素早く進める方を選択してしまう。それでも一時は”特打ち”などのブラインドタッチ習得ソフトを使って練習をしたことはある。ところが実際に文章を打つ段になると易きについてキーを見る癖が直らない。最近になってまたコラムぐらいブラインドでインプットしようと思い始めた。いま、パソコン画面の奥のパネルに「キーボード配列」のペーパーが貼り付けてある。これには全ての指を色分けしてキーボードをどの指で打つか示してあり、本物のキーボードだけは見ないでこのコラムを打ち込んでいる。ただ実際には配列表をみるのではブラインドとは云えない。頭で覚えている配列が無意識で手に伝わるレベルに達するには、まずは時間がかかってもキーを絶対に見ない忍耐力が必要と思える。・・これしきの文章を書くのにいつもの3倍は打ち込みに時間がかかった。ガマン、ガマンのブラインドへの道だ。
5月7日(木)   <蒲田の「ユザワヤ」・・・>
蒲田の「ユザワヤ」にいった。「今日の表紙」に掲載した「立方体文字アクセサリー(陶芸ほか)」はユザワヤで購入した素材を使って、以前、名前やイニシアルを立方体に彫り上げて制作した(小物であるので家の電気窯で焼成した)陶芸品をアクセサリーに仕上げたものである<陶芸品の制作経緯は4月16日コラム=ここ=参照>。「ユザワヤ」に行けば手作り用の材料は大抵間に合う。しかも同じ材料にしても東急ハンズなどのDIY用の店と比べると割安感があるので機会があれば「ユザワヤ」にいく。といっても蒲田店(駅前の数カ所に11号館まで店舗がある)と吉祥寺店しか知らないので、この際「ユザワヤ」とはナニモノか調べてみた。創業は1955年、蒲田で初めは服飾材料(毛糸、布地など)の格安販売でスタートした。その後、手芸、工芸、園芸、文具、模型などのホビー材料、更に服地やイージーオーダーなども扱うようになった(勿論、陶芸材料も扱っている/世界のホビー材料・雑貨がキャッチフレーズ、ホームページ=ここ))。主に関東地方を中心に10数店舗を展開。売上げは220億円余。「ユザワヤ」の名前は創業者である畑中利元氏の妻の旧姓に由来するとか。畑中利元さんは創業からごく最近まで50年以上社長をしていたが今年の3月に畑中喜雄氏が社長となった。・・概要は理解したが、こちらとしては安価で質のよい素材が手に入れば言うことはない。


5月8日(金)   <囲碁棋士の藤沢秀行さん・・・>
囲碁棋士の藤沢秀行さんが今朝亡くなった。1925年生まれ、83歳の大往生だ。私は囲碁はやらないが、たまたま藤沢秀行が80歳の時に書き下ろした「野垂れ死に」という本(新潮新書)が手元にある(多分息子が買った本だ)。カバーには「破天荒に生きる」、「天才棋士と騒がれる一方、ギャンブルでつくった借金は億単位、正妻と三人の子供のいる自宅には三年間も帰らず愛人のところに入り浸り、酒での乱行も数知れず。そんな秀行さんも齢八十を超えた・・」とある。”秀行”の囲碁での天才振りは誰でも知っているし、はじめは1967年に獲得した王座位を、1991年に67歳の史上最高齢で何度目かの王座を再獲得するなど話題も多かった。囲碁以外での生き様はまさに破天荒。これはDNA(血筋)か。秀行さんは69歳の父重五郎と23歳の母との間に生まれた。父親の重五郎は清水の次郎長をよく知る柔術の使い手であったが製糸業を始めたと思えば相場で全財産を失うなど剛胆な人物であったようだ。一方で秀行には幼児の頃から好きな囲碁を教えた。ちなみに重五郎には母親の違う子供(つまり秀行さんの兄弟)が全部で19人いたという。秀行さんは本の最後にこう書いている:「残されたことはただ一つ。女房より先に死ぬことだ。絶対の先にくたばってやる。八十だろうが九十になろうが、野垂れ死んでやる」。・・時代とはいえ、ずいぶん好き勝手にお生きになったが”野垂れ死に”だけは出来なかったようだ・・。
5月9日(土)   <今日で2000回・・・>
今日で2000回・・、森光子さんが主演する舞台「放浪記」の通算上演回数である。しかも1920年生まれの森光子さんは今日が89歳の誕生日。この日も帝国劇場(東京)で4時間近くの舞台を出ずっぱりで演じきったと報じられている。森さんの放浪記初演が1961年(41歳)、その後代役なしで今日まで演じ続けているのは尋常な記録ではない。・・とインターネットのニュースをみて、ここまでコラムを書いたら、NHKテレビの生放送で公演を終えた森光子さんが特別番組で出演をしている。森さんの顔艶、表情、そして話のテンポなどとても89歳には見えない。50、60歳と言われればそうかと思う。森さんは体力維持のため毎日スクワットを150回やることでも知られるが、頭を使う自己管理も並のものではなさそうだ。生の森さんの姿を拝見すると、これは女性として、いや人間として”老い方”の理想モデルではないかと思えてきた。ちなみに放浪記の原作者、林芙美子は1903年生まれ、1951年に47歳で亡くなっている。「花の命は短くて苦しきことのみ多かりき」の句は有名であるが、放浪記は彼女が19歳から23歳までの日々を書き綴った私小説だ。

5月10日(日)   <「絵のない絵本」・・・>
「絵のない絵本」を読み始めた。できるだけ毎日の生活とかけ離れた分野のものに接したいと目に付いた本を手にしたのであるが、これが面白い。「絵のない絵本」はデンマークの童話作家、アンデルセンの童話である。ある夕方のこと孤独な作者は悲しくなって窓を開いて外を見た。そこで月と友達になる。月は毎夜部屋の中まで差し込んできてお話をする。月が語る世界中でみた三十三夜の物語が「絵のない絵本」。インド、ドイツ、スエーデン、フランス、イタリア、中国などで月が見た語り口は優しい。アンデルセン(1805〜1875)といえば「即興詩人」のほか、「裸の王様」、「みにくいアヒルの子」、「人魚姫」、「マッチ売りの少女」などの童話で知られる。70年の生涯を独身で過ごしたアンデルセンは旅行が大好きあったといわれ、ヨーロッパ中を旅して多くの旅行記を残している。「絵のない絵本」の次にはイタリア旅行記とでもいうべき「即興詩人」(森鴎外訳)を読んでみたい。
「今日の表紙」に「 立方体文字アクセサリーD」( 陶芸ほか) を掲載した。立方体アクセサリーシリーズの一環(制作経緯=4月16日コラム=ここ)。


5月11日(月)   <「低炭素社会」・・・>
「低炭素社会」という言葉が氾濫する。「低炭素型」とも使われるようだが、どちらにしてもこの日本語は好きではない。何より分かり難い。" low-carbonsociety "をそのまま訳してお役人が白書などで使用し始めたようだが、言葉だけ見ると低炭素とは何?、炭素とは元素記号でC、それがどうした?と思う。Wikipediaによれば低炭素社会とは「地球温暖化の主因とされる温室効果ガスの1つ、二酸化炭素の最終的な排出量が少ない産業・生活システムを構築した社会」とある。二酸化炭素削減社会が嫌ならば、いっそ脱化石燃料社会の方がまだ意味が分かる。さて、この目標社会の目玉となる電気自動車に関連して、ドイツの環境保護団体が電気自動車を導入しても削減される温室効果ガスは極めてわずかに過ぎないという"研究結果”を発表したと今日のCNETのニュースにでていた。ある仮定のもとに電気自動車を導入したとして「ドイツ全体での二酸化炭素排出量の削減は0.1%にとどまる」とか。この数値の是非はともかく、脱化石燃料化の意味から電気自動車は大いに開発を進めるべきと思うが、トータルでの「低炭素」を過大に期待するのは禁物だろう。
5月12日(火)   <2カ所の区役所・・・>
2カ所の区役所、病院、郵便局などを廻り歩いたが「コラム」に書く内容はない。本人は忙しくしていても他人が興味を持つ行動は少ないものだ。人が興味を持つか否かは別として何かその日に掲載できる「作品」がほしい。絵画や陶芸作品が「今日の作品」となればいいが毎日というわけに行かない。そんな時、歌とか句ができないものかと考える。これまでの自分に全く縁がなかった対象であるからこそ、新たな誘惑に駆られるのである。何でもそうであるが、上手い下手を言わなければ、誰でもできる。1年に365句とすると10年間で3600句。大した数ではない・・。一番の障害は自意識だ。他人の目を気にしないとは言うほど簡単なことではない。今日は勇気がないので俳人の句を掲載しよう:「汗ばめる母美しき五月来ぬ(汀女)」、「藪から鍋へ筍いつぽん(山頭火)」。

5月13日(水)   <旧約聖書の創世記・・・>
旧約聖書の創世記をひもといた。何かというと陶芸で「バベルの塔」型の創作オブジェ(あるいは遊具)を制作中なので、バベルの塔の原典である創世記の第11章を読み直したのである。この陶芸アイデイァは今になって思えば、息子を病院で看病しながら思いつき、ベッドの脇で設計図を何枚も書いた(2月24日、25日のコラム参照=ここ)。バベルの塔は創世記にでてくる天まで届く巨大な塔で神はこれを好まず未完成(あるいは崩壊した)となった話程度は知っていたが、改めて11章を読むと複雑である。創世記の11章は洪水で生き残ったノアの子孫たちが”同じ言葉”を使っていたことからはじまる。そして「天まで届く塔のある町を建てて有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしょう」と塔と町を作り始めた。それを見た神は「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ」として「直ちに彼らの言葉を乱し、互いに言葉が通じないようにしよう」と考えた。彼らは神によって全地に散らされ町を建てるのを止めた。町の名はバベルと呼ばれた。神がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させたからである。・・こんな聖書のストーリーを私なら一党独裁となって権力が集中した場合の人間の傲慢さに警鐘を鳴らしたようにとらえたいが他に色々な解釈がされる。「一つの言葉」を嫌うところの意味をどう解釈するか、バベルの塔を作りながら"混乱”するばかりである。

5月14日(木)   <セルフジャッジ・・・>
セルフジャッジは難しい。「セルフジャッジ」というのは、スポーツで審判が存在せずにプレーヤー同士でジャッジを行うことで、私の場合、テニスでは専らセルフジャッジである。セルフジャッジでラインの内外の微妙な判定を行う場合、”あやしきはセーフ”とはっきりしない時には相手側が有利な判定をするのが原則である。ところが自分の足下のボールを自信を持ってアウトと判定してもパートナーあるいは相手側がセーフとみることがある。当事者の判定は意図しなくても自分が有利なように見えてしまうのである。それが歳をとるとその傾向が強くなると感じる。公平に正確にカウントしていた人が年齢とともにあやふやになる。視力の衰えによるのか判断力のためか、よくは分からない。一方で、人間には錯覚がある。よくできた錯覚を体験すると(例えば=ここ=)私たちが見ているものは何を見ているのか確信が持てなくなる。まず自分は間違えている、あるいは正確に分かっていないとの前提でいる方が無難である。テニスでは最近私は自分で相手のボールがアウトとはコールしないことにしている。スポーツに限らず、年寄りは自信を持って判定することを止めた方が良さそうだ。

5月15日(金)   <ハッブル宇宙望遠鏡・・・>
ハッブル宇宙望遠鏡の修理が現在行われている。7年振りの修理で今日はカメラや観測データを地上に送信するコンピューターの交換が無事完了。宇宙飛行士2人の船外活動は7時間20分に及んだと報じられている。ハッブル宇宙望遠鏡は1990年にスペースシャトルディスカバリー号によって打ち上げられた望遠鏡でいわば宇宙の天文台。地上600kmで長さ13mの設備(主鏡径2.4m)が常時高精度の天体観測を行っている。この宇宙望遠鏡、これまで19年の間に修理や最新装置への交換を実に10回以上続けている。その都度、宇宙飛行士が望遠鏡まで到達して作業を行っているから、改めて人類の仕事場が今や宇宙に広がっていることの凄さを思う。ハッブル宇宙望遠鏡はアメリカの天文学者ハッブル(EdwinPowell Hubble・1889-1953)から名付けられた。ハッブルは膨張する宇宙のモデルを実証したとされるが、ハッブル宇宙望遠鏡により更に貴重な宇宙のデータが採取されているようだ。こちらは学術的な詳細は知る由もないが宇宙に浮かんだハッブル望遠鏡の写真を見るだけで感動してしまう(=ここ)。

5月16日(土)   <風景写真を上下逆さま・・・>
風景写真を上下逆さまにみると意外な景色に様変わりしてポップなアート作品ができあがる。街中を流れる川を主題にして川面のゆらぎや水に反映する建築物を撮影して意識的に上下逆さまに掲載した写真集をみて衝撃をうけたのは「風の旅人」という雑誌の中であった。先ずこの雑誌のことを書く。「風の旅人」は発行・発売がユーラシア旅行社。今時、広告がほとんどなく、一方で内容は濃く隅々まで神経が行き届いている"やる気のある"雑誌にみえた。インターネットで調べると、隔月発行されるこの雑誌のコンセプトは「大自然や人間のドラマを取り上げる“心の旅の雑誌”」とある(=ここ、編集長は佐伯剛氏/私のネット情報では氏は脳科学者の茂木健一郎氏とも親しい)。こういう雑誌を応援したいがベストセラー本を並べる本屋では見かけない。さて、冒頭の逆さま写真を撮るのは写真家、中野正貴氏。1955年生まれの氏は逆さま写真に限らず都市の風景を独特の視点でとらえる。彼のギャラリーをインターネットで見ることができるのはうれしい(=ここ、人間が一人もいない都心の風景「TOKYONOBODY」を是非見て欲しい。何かを考えさせられる)。
「今日の表紙」に「 立方体文字アクセサリーE( 陶芸ほか)」を掲載した。今回も「立方体文字」である。私のイニシアルを自分用のアクセサリーに仕上げた。


5月17日(日)   <”華麗なる系譜”・・・>
”華麗なる系譜”を持つご本人は一方で特別に気苦労が多いと推察する。民主党の新代表に選ばれた鳩山由紀夫さんは政界でも名門中の名門出身。祖父の鳩山一郎が吉田茂の後に首相になった時には鳩山ブームが起こった。その鳩山一郎の長男威一郎の秀才振りは私などにも眩しくみえる存在だった。東京帝国大学法学部をトップで卒業、大蔵省で主計畑を歩み大蔵事務次官に就任、その後政界に転出して福田内閣の外務大臣を務めた。それでも政界では官僚時代と比べると地味で目立たなかった。この鳩山威一郎さんを父、ブリヂストン創業者石橋正二郎の長女を母に持つのが由起夫さん(1947-2月生まれ)だ。当然、東大法学部出身かと思うと、そうではなく東大工学部(計数工学)だった。その点、弟の鳩山邦夫さん(現総務大臣、1948年生まれ)の方が秀才の誉れ高く(高校時代に代々木ゼミナールの模試で年間全てトップで通したとか、法学部での成績も抜群であったと逸話が残る)東大法学部を卒業した後、早くから政界入りをする。趣味でも蝶の世界的研究家とか料理の腕はプロ級とか話題の多い邦夫氏と比べられて、政界にはいるのも10年遅かった由起夫氏は何かとやり難かっただろう。これまではともかく由起夫さんの真価
はこれから決まる。首相になろうがなるまいが、そんなことは問題でない。歴史の評価に耐えられる行動が出来るか否か・・。
5月18日(月)   <映画「天使と悪魔」・・・>
映画「天使と悪魔」をみた。米国の小説家、ダン・ブラウン(1964年生まれ)の同名小説が映画化されたもの。世界各地で5月15日から一斉公開されている。同じ作者の原作による映画「ダ・ヴィンチ・コード」の続編であるが、原作は「天使と悪魔」(2000年)の方が「ダ・ヴィンチ・コード」(2003年)より前に書かれている。私は両方とも小説を読み、映画を見たが、映画に関しては今日見た「天使と悪魔」の方がよくできていると思った。このようなアクション映画について「科学思想に対する批判と抵抗」などと言うのは野暮だろう。スイスのセルン研究所で反物質の生成とかヴァチカンでの新しい教皇を選出するコンクラーベの行事、ローマ各地で繰り広げられる謎解きなど断片映像だけで結構楽しめる。私はヴァチカン広場からはじまって、サン・ピエトロ大聖堂、システィーナ礼拝堂、パンテオン、ナヴォーナ広場など以前訪れたローマの観光名所をその都度懐かしく思い出して満足した。・・考えてみると久しぶりの妻との映画鑑賞だった。そういえば前作の「ダ・ヴィンチ・コード」も妻と一緒に見た。そのほか「武士の一分」や「博士の愛した数式」などの名作映画を見たことも思い出した。映画っていいものですねぇ・・。

5月19日(火)   <5月の紫陽花・・・>
「5月の紫陽花(あじさい)」を「今日の表紙」に掲載した。久しぶりの絵手紙にしては簡素過ぎるか、あえて色も付けなかった。庭の紫陽花が今年は二年ぶりに花を咲かせそうである。小さい蕾をたくさんつけてこれからの梅雨を待っている。「5月の紫陽花」には花咲く前のエネルギーが満ちているように見える。それでも派手に飛びはねる元気でなく静かに時期を待つ落ち着いた風情だ。この紫陽花には特別の思い入れがあり、今年は花を咲かせてくれるとうれしい。昨年、花が咲かなかったのは私が剪定ミスを犯したからと自覚している。その後、何もしなかった結果、今は絵に描いたような蕾がざっと数えて30ほどある。下手な手出しをするよりは自然に任せるのがよさそうだ。一ヶ月後の開花を楽しみにしている。「紫陽花の つぼみ描いて 開花待つ」。

5月20日(水)   <ゴミや廃棄物・・・>
ゴミや廃棄物のことを考える。きっかけは一年ほど前に自分で製作した犬用の歩行補助車(手作り作品集=ここ=の2008-5-3写真参照)を分解処分をしたこと。今は専門業者が作った犬用の車椅子を重宝して使っているので試作した補助車は全く必要がない。車輪やネジ、ワッシャーに至るまで全て分解して部品として回収。捨てる部分は木材の一部とした。補助車程度ならば手間が面倒であれば全部を廃棄物で処分出来ないことはない。これが大型タンカーであればそうはいかない。大活躍したタンカーが古くなり不要となった場合、昔ならば深い海の底に沈めて処分したこともあるようだが現在はそんなことは出来ない。大変な労力とお金をかけて分厚い鉄板を切断するなどして僅かばかりのリサイクル材料と膨大な廃棄物をつくる。同じ事がこれからは宇宙の人工衛星などにも当てはまる。寿命となった衛星がゴミとなって浮かんでいても”廃棄”する訳にもいかないなど新たな問題もある。ゴミとか廃棄物は人間のために非常に役立ち、大抵は年数と共に価値を失ったものであろう。使用したときのありがたさがどんなに大きくても古くなったら処分に困る。一昔前に定年後の邪魔な夫のことを粗大ゴミと呼んだが、粗大ゴミはまだ処分ができる。何にしても処分ができないなら、いっそ活用を考えた方がよい。ゴミと呼ばれる中に希に”宝物”がある。

5月21日(木)   <「マスクが完売」のニュース・・・>
「マスクが完売」のニュースをみて、かつてのトイレットペーパー騒動を思い出した。産油国の原油価格引き上げ→大臣が紙節約呼びかけ→紙がなくなるという噂→一部でトイレットペーパー売り切れ→新聞報道→全国に波及(パニック)・・これが1973年のトイレットペーパー騒動の連鎖構造であった。今回、「マスク完売」のニュースと共にインターネットではマスクが通常価格の30倍で売れているなどの報道までされる。新型インフルエンザに関する日本での過剰反応はやはりマスコミが大きく関わっている。マスコミはいつも火をつけて煽るのが仕事である。大体マスクを予防で使用するのは日本(&アジアの一部)独特の風習のようだ。欧米で新型インフルエンザの感染が拡大しても、ほとんどマスク姿を見かけないのはマスクをする人は病原体を持っている人か顔を隠したい人で、他人からの感染を防ぐ目的ではマスクはしないからと言われる。今日は米国の保険局の医師が新型インフルエンザについて1957年より前に生まれた人は免疫を持つ可能性があるとの見解を示したとのニュースが入ってきた。これならば感染者には若い人が多いことが納得がいくが、どうなのだろう・・。これからのマスコミの報道に過剰反応しないために一つのデータがある。それは毎年の季節性のインフルエンザ(新型でない)でも多い年には日本で1万人以上の死者数がある(併発した肺炎などの死亡も含めて)ということ。マスクなしでもインフルエンザ対策には万全を期さなければならない。

5月22日(金)   <「グーグル・ロゴ」・・・>
「グーグル・ロゴ」が楽しい。私はインターネットの検索にはグーグルを愛用しているが、グーグルではページのロゴマークを機会ある度に特別のロゴを使う。"Google"のスペルをデザインしたハッとするロゴが掲載されるので検索の際にロゴをみる楽しみが増える。グーグルには専門のロゴデザイナーがいるが時に公募のロゴコンテストも実施する。たまたま今日のニュースでグーグルのロゴコンテストで米国・テキサス州の12歳の小学6年生が優勝したことが大きく取り上げられていた(=ここ)。これとは別に今日のグーグルサイトのロゴは見慣れない図案だと思っていたら、今日は米国の画家、メアリー・カサットの誕生日なのでこの画家の絵を図案化したものだった(googleサイトでは22日が過ぎると普通のロゴに戻ってしまうので、2009年の特別ロゴ集ページをリンクする=ここ=他のロゴも非常にユニークだ)。また2008年以前のホリデーロゴもここで見ることが出来る。・・ロゴ一つにグーグルという会社の文化とか考え方がうかがい知れる。
5月23日(土)   <四十九日の法要・・・>
四十九日の法要を終えた。何か書こうと思っても今日は筆が進まない(・・でなくキーボードを叩けない)。納骨も終えて一段落としたいところが、逆に諸々の疲れが噴き出した感じだ。こういうときには気持ちがよかったことだけを思いだすことにする。・・お寺の境内の樹木が新緑真っ盛り。何と美しかったことか。「お堂でれば 青葉若葉の 七七忌(しちしちき)」。

5月24日(日)   <"汝の隣人を愛せよ”・・・>
"汝の隣人を愛せよ”は聖書の中でも最も知られている言葉の一つだが、どう解釈するか、どう実践するのか・・。今日の新聞で来日したロシアのプーチン首相が「全世界を愛することは簡単だが、隣人を愛することは難しい」と話したとの報道があったが、個人的には単純に”隣人を愛する”ことは容易ではないとプーチンに同感するところがある。聖書の原文を見てみよう。「全ての戒め(いましめ)の中でどれが第一か」と質問されたイエスは第一の戒めは「・・心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、主なるあなたの神を愛せよ」と言った後、第二は「自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ」と答えるのである(マルコの福音書12章28-31節、およびマタイの福音書22章39節)。ここで「隣人とは誰か」の議論をはじめると際限ないが、自らがすすんで隣人となる、つまり自分以外の全ての人が隣人と理解することもあるようだ。ただ、私などはむしろ縁もゆかりもない遠くの人よりも欠点が見えて利害関係が生じる近くの隣人を愛する方が難しく、一方でそれだけに"意味”が大きいように思える。人類愛を標榜するよりも隣の人に不愉快な思いをさせぬ気遣いをする方がはるかに人のためになる。

5月25日(月)   <久しぶりにスンドゥブ・・・>
久しぶりにスンドゥブを食べた。我が家から歩いて数分の所に韓国料理のスンドゥブ専門店があり、気楽に外食をしたいときにこの店に行く。正確にはスンドゥブ・チゲというスープ料理であるようだが、韓国の純豆腐、水豆腐<=スンドゥブ>を使う。土鍋に肉や野菜、アサリ、ホタテ、エビ、それに豆腐(スンドゥブ)をごた混ぜにした辛みのスープ。スープと別に生卵とご飯がついて、卵やご飯をスープに入れて食する。これが実に美味しく味付けされている絶品なのである。辛さは三段階の辛さを初めに選ぶのであるが今回は中辛にして丁度よかった。ところで毎晩アール(コーギー犬)を車椅子で散歩するコースの途中には最近新しい韓国の餅カフェができた。そこのお姉さんと犬共々顔なじみになって、是非どうぞと誘われている。次には韓国の伝統的なお餅(トック)や韓国茶を試してみたい。
「今日の写真」に「紫陽花(あじさい)」を掲載する。表紙に掲載している「今日の作品」(ペン画)の紫陽花が数日間でこのように生長している。
2009-05-25

5月26日(火)   <”ブロイラーの椅子とお別れ”・・・>
”ブロイラーの椅子とお別れ”が今日の我が家でのトップニュース。30年以上我が家で愛用してきた椅子を処分することを決断したのである。「ブロイラーの椅子」とはハンガリー生まれの建築家にして家具デザイナーであったマルセル・ブロイヤー(1902-1981)がデザインした「ワリシー・チェア」と呼ばれる金属パイプを曲げて製作された椅子のこと。ブロイラーは有名なドイツの美術・工芸の学校、バウハウスで学び、ヨーロッパで活躍するがナチスを逃れて最後はアメリカに移住している。「ワリシー・チェア」は1925年に当時大量生産を始めた自転車の素材にヒントを得て、バウハウスの教官であったワリシー・カンデインスキーのためにデザインしたので一般的にはそう呼ばれている(カンデインスキーのための椅子という方が私には分かり易い/椅子の写真=ここあるいはここ)。廃却する椅子について、こんなに未練がましく書いてしまったが、実は、この数年間この椅子を使用することなく、ただ保管だけをしていた。皮革は劣化しクロムメッキのパイプやボルトが錆びるなどしたものを何度も修復したが、最近ついに皮革が完全に破損したので見限ったのである。それでもパイプ同士を接続している六角穴付きボルトを工具で全て外してバラバラにした後、皮革や布を強力鋏(はさみ)で切断、いざゴミとして廃却することとなると、さすがに色々な感慨が湧き出てきた。・・名品であっても寿命があると割り切って、これまで楽しませてくれた椅子に感謝である。

5月27日(水)   <宇宙ブログ・・・>
「宇宙ブログ」を時々みる。今現在、地球を廻っている宇宙ステーションにいる日本人宇宙飛行士の若田光一さんと日本の幾人かとのやりとりを掲載したブログである。若田さんは3月中旬に宇宙に行き、今も長期滞在中(6月まで)。地上の対談者は脳科学者の茂木健一郎、料理家&歌手の平野レミ、歌舞伎役者の市川團十郎、アニメ作家の松本零士、巨人軍の坂本勇人、ニュースキャスターの小林麻央など全く分野の異なる人を集めているところが面白い。それぞれに関心事の異なる人たちのメッセージに合わせて若田さんが宇宙から生の便りを出す。昨日は茂木健一郎が若田さんに「無意識的な変容」についてメッセージを送っていた(=ここ)。地球の外をまわる宇宙ステーションに住む人とリアルタイムで交信して、その内容を誰でもが見ることができる時代なのだ。こんなときに、地上の北朝鮮という独裁国家は韓国に対して「宣戦布告」の声明文。朝鮮戦争の休戦協定(1953年、56年前!)に拘束されないぞと脅かしたのが今日のニュースである。時代錯誤は止めろでは済まされないのが現実だ。平和な宇宙は夢であったかと思わせられるのが悔しい。

5月28日(木)   <10秒前に見た風景を再生する・・・>
「10秒前に見た風景を再生する」ことがいとも簡単に行われていることを知った。高速道路で車を走らせているときに一瞬すばらしい景色に出会っても直ぐに通り過ぎてしまうけれども、スイッチを入れると10秒前からの景色が記録される。そんなドライブレコーダーが普及している。風景の撮影もできるが、本当のところは万一の自動車の事故記録が主目的である。衝突事故などの際に衝撃を受けると自動的に前後20秒の映像を残すので事故の瞬間の記録として動かぬ証拠となる。「10秒前の映像」というのは実は常に記録をしながら10秒よりもっと前のデーターは順次消去しているということである。自動的に過去の記録を残すことが出来るのは私が持っているGPS(全地球測位システム)も同じである。例えばGPSを持って一日動き回ったとすると、(そのようにセットしておけば)後でパソコンに入力すると動いた経路が全て表示される。新型インフルエンザに感染してどことどこに立ち寄ったと記憶を頼りに供述しなくてもGPSの記録が"動かぬ証拠”となる。・・ところで人間の頭脳もまた見たモノ、通った経路を一旦は記憶はするものの直ぐに忘れるところが救いである。忘れること、消去することは肝心のことを記憶するために必須なのだろう。

5月29日(金)   <今日の虐殺・・・>
今日の虐殺・・と書くのも恐ろしいが、蜘蛛を3〜4匹、ダンゴムシを2〜3匹虐殺したことは間違いない。一年余り、掃除できなかった部屋を大掃除した際に、小さな家蜘蛛やダンゴムシを殺したのである。蜘蛛は蠅や蚊などを捕ってくれる益虫だとかいうけれども、蜘蛛の巣を張られては困る。ダンゴムシがどうして部屋の中にいるのか分からないが丸まったのを外に捨てた。肌を刺した蚊を叩き殺すのには罪悪感は持たないが、虫にしても何も敵対しない小さな命を奪う人間は勝手なものだと思う。殺生はしたくないと言いながら毎日肉や魚を食べることを止めるわけにもいかない。多くの命を”いただいて”みな生きている。蜘蛛とダンゴムシを処分した後、せめてもと、"許せ”と心の中でつぶやいた。
「今日の表紙」に「お昼寝するアール(ペン画)」を掲載した。アール(コーギー犬/12歳)は最近「要介護」の場面が増えてきた。昼も寝ていることが多い。


5月30日(土)   <”シロッコ”ってなあに・・・>
”シロッコ”ってなあに?と妻から聞かれて困った。車で街を走っているときにフォルクスワーゲンの新車の広告が目について、そこにScirocco=シロッコの名前があったのである。私にとっては「シロッコ」と言えば「シロッコ・ファン」はよく知っているが、さて言葉の意味は何だろう・・。ちなみに「シロッコ・ファン」とは多翼ファンといって円筒に多数の羽根をくっつけた簡単な送風機で安価で音が静かなので換気用などに多用される(写真例=ここ)。残念ながら妻に「シロッコ」の意味を即答できないのでネットで調べた。Wikipediaによるとシロッコ・sciroccoとは「初夏にアフリカから地中海を越えてイタリアに吹く暑い南風」とある。「サハラ砂漠を源としているので時に砂嵐を伴う」として砂嵐の衛星写真まであった(=ここ)。ところで、フォルクスワーゲンのシロッコは今週初め、5月25日に日本で発売が開始された新型スポーツクーペ。この際、宣伝に協力すると”スポーツカーなのに低燃費”であるそうだ(写真など=ここ)。更にフォルクスワーゲンの車の名前は「風」で統一されていると教えてくれた。ゴルフはGulf-Stream(メキシコ湾に吹く風・ドイツ語ではgulf=golfにて、DerGolfstrom)、サンタナ(Santa Ana wind)、ジェッタ(ジェット気流)など。ワーゲンの車名の意味を聞かれたら”風の名前よ”と答えよう。
5月31日(日)   <スーパーマーケットでは食料品を100グラム・・・>
スーパーマーケットでは食料品を100グラム当たりの価格で表示する。私はスーパーに慣れない時には実際に購入しようとするとパッケージとしては大きく表示してある価格の3倍、4倍するので戸惑ったこともある。今日、スーパーで鯵(あじ)が約80円、鮪(まぐろ)の中トロが約900円(各100グラム当たりの価格)と表示されているのを見ながら、いずれにしても食料品とは高いものだと嘆息した。食料素材でなく産業の基本となる鉄鋼素材は100グラム当たりにすれば概略7〜8円である(通常トン7〜8万円で表示する)。ステンレス素材でも30円そこそこ。鉄の比重は7.85だから容量の比較ならばもう少し変わってくるとか、鉄は食べられないと言われるとそれまでだが、多くの人手をかけて作りあげた鉄とは異なり、鯵も鮪も自然の命を捕獲して持ってきているのに過ぎないとみると割高感は残る。それにしても中トロが鯵の10倍以上するのは食物の価格がウマイ、マズイとか栄養の有無ではなく決められるのは確かである(昨日の我が家の鯵料理は絶品だった)。価格が需要と供給で決まるにしても食品の価格は全般に高すぎる。ちなみに、金属材料でも金の価格は、いま約30万円/100グラム(金は一般にはグラム当たりで3000円と表示される)。金に無縁な身としては、せめて100円を切る魚肉がもっと増えて欲しい。

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