これまでの「今日のコラム」(2009年 12月分)

12月1日(火)  <火事場の馬鹿力・・・>
「火事場の馬鹿力」のメカニズムは一部解明されているようだが、まだよくは分からない。人間が筋肉を使って力を出したり運動をする際に筋肉の活動は脳によってコントロールされる。脳は筋肉組織が破壊されるのを防ぐために筋肉の持つ最高限度の強度に対してかなりの安全率を見た「リミッター(制限装置)」を持っているらしい。通常は限度の50%程度で筋肉は活動しているのが脳が緊急時(生命に関わるなど)と判断すればリミッターを外しあらゆる神経を総動員して「馬鹿力」を発揮できるとされる。脳によるリミッターの働きは筋肉以外にあらゆる分野に機能しているように見える。そしてリミッターの働きは個々人でかなり差があるのでないかと思う。私の場合、テニスをしているときは膝が痛いとは一度も思わないのに、散歩するときには膝を感じてぎこちなく歩く。膝を意識すればするほど歩きにくい。交差点を早く渡ろうとしたり何かの拍子に緊張すると膝を忘れて走ったりする。どうもリミッターが低すぎるのか甘えているのか・・。一方で限度以上に頑張りすぎる人はリミッター機能が高すぎるように見える。痛いと感じたり、疲れたと思う時その人の脳がどれほどの安全率を見ているのか見極めるのが難しい。
「今日の写真」は久しぶりに訪れた自然教育園。「手を振りて 歓迎眩し ススキかな」
 
2009-12-01@自然教育園・東京/白金

12月2日(水)  <喪中はがき・・・>
喪中はがきで友人の死を知る。去年会って楽しく飲食をした友人が亡くなったり、賀状のやりとりはするもののしばらくご無沙汰していた友人が亡くなっていたり、いずれも奥様のはがきで初めてそのことを知る。そうかと思えば、夫婦で交流していた友人の奥様が急に亡くなったとの通知を受ける。お悔やみを言う前にただやりきれない思いばかり・・。一方でこちらから出した喪中はがきに丁寧な便りをいただいてしんみりする。今日は息子の8ヶ月目の月命日で墓参をした。運命と言ってしまえばそれまでだが、命とは何と無造作に消え去るものか・・。
2009-12-02@九品仏浄真寺
(東京)
12月3日(木)  <調子が悪い・・・>
調子が悪いのが自分でも分かる。何となく憂鬱な気分で集中力もないのである。熱はないのでインフルエンザではないし睡眠も足りている。原因らしきものを挙げるとすれば妻の体調不良か低気圧か、それとも・・。雨の中を外出して電車に乗ったら山手線・田町で降りるところを浜松町まで乗り過ごした。読んでいた本が面白くて気がつかなかったとは言い訳。次には有楽町で降りるところを東京駅まで連れて行かれた。京浜東北線に飛び乗ったからとは言い訳。建築会館に行くところ道を間違えてさんざん歩き回った。案内の地図が分かり難いとは言い訳。こんな絶不調の日でも「今日の表紙」に掲載した孫娘宛の絵手紙「トナカイ人形(ペン&水彩)」を描く時には雑念はなかった。夕刻から妻の体調も回復してきたようだ・・。

12月4日(金)  <未完成の魅力・・・>
未完成の魅力があるのは確かである。これからどうなるのか、仕上がりを想像するとワクワクする。人間の若者や新しいプロジェクトなども同じ未完成の魅力があるが今回は陶芸の粘土の話である。これまで陶芸の未完成品をこのページで扱うことはなかったが「今日の写真」に制作中の粘土を掲載した(下)。「今日の写真」といえば専ら外出したときの風景と決まっていたが、制作途中の作品でも「今日の写真」でかまわないと思い付いたのである。掲載した"未完成品”は茶香炉。今朝、茶香炉の話がでたので直ぐに概略のアイデイァを図面にした。たまたま土鍋(タジン鍋)を作った耐熱用粘土が余っていたので勢いに乗って家で制作し始めたものである。この茶香炉は蝋燭(ろうそく)の火で温めてお茶の香りを出す。機能は単純であるが形が自由なので夢が広がる。完成すると"何故だ”の不満がでたり諦めの境地となることも多いが未完成品には未来がある。可能性を信じてこれから仕上げにかかりたい。「茶香炉の 粘土を削る 冬の暮れ」
2009-12-04茶香炉粘土

12月5日(土)  <茶香炉・・・>
”茶香炉を侮ってはならない”と言い聞かせる。昨日のコラムで茶香炉の制作途中の写真を掲載して完成の期待を書いたが茶香炉はそれほど甘くはなさそうである。それは火を使うことにある。インターネットで「茶香炉」を検索して調べていると茶香炉が原因でマンション火災を起こした事例が紹介されており消防署が再現実験までやっていた。この中に蝋燭の炎が直接皿に当たるとき煤(すす)が多量に付着して危険とか、蝋燭のロウの蒸気が多量に発生する条件になると蒸気が蝋燭の炎に引火して炎が急激に拡大、茶香炉の開口部から炎が噴き出すほど激しく燃焼することがあるとか、火災発生のメカニズムと合わせて注意点が列挙されていた。早速に制作中の粘土の形状を一部変更したが、完成させたとしてとても直ぐにプレゼントはできない。何度も安全確認テストを繰り返した後にはじめて実用になりそうだ。それにしてもインターネットで事前にこんな危険性をキャッチできてよかった。安全を確認した後、”茶香炉完成”として改めて写真を掲載することにしよう。

12月6日(日)  <俳句のリズム・・・>
俳句のリズムは日本人の心の底に深くしみ込んでいるのでないか。最近、写真俳句(写真に俳句を添付するやり方=ここ=参照/毎日30点の投稿が掲載される)に興味を持って以来、多くのニュースのタイトルが俳句調になっているの気がついた。例えば今日のスポーツニュースでみると、「ツエガエ・ケベデ 福岡マラソン 5分台」(ケベデが日本初の2時間5分18秒の記録で優勝した)、「優勝は 丸山茂樹 男子ゴルフ」、「石川遼 19位でも 賞金王」(年間賞金獲得額一位<1億3800万円>は18歳の石川遼)という調子。季語がなくても、多少の字余りがあっても、5-7-5のリズムが心地よい。もう少し並べてみよう。「ハイブリッド 1割に迫る 新車販売」、「日本女子 高さに負けず 競い勝つ」(バスケット)、「新幹線 システム故障 3時間」・・。伝えたい内容のエッセンスを簡潔に表すのがニュースのタイトルであるから俳句と同じ調子となるのはおかしくはないが、ニュースの見方(読み方)が変わってきたから面白い。
12月7日(月)  <奇跡のピアニスト・・・>
奇跡のピアニスト、マドレーヌ・マルローのピアノを聴いた。題名のない音楽会の録画を見たのであるが、何が”奇跡”かというとマドレーヌ・マルローさんは1914年生まれで95歳の現役のピアニストなのである。しかし彼女のピアノ演奏についてはことさら歳を強調する必要はない。日本人の若手ピアニスト(一部)の叩き付けるような強烈な音に辟易していた耳にはピアノ音楽とはこのようなものなのだと安心して彼女の音色に浸ることができた。95歳でこのようなピアノ演奏をすることができる事実は人間の可能性を教えてくれるものであり、奇跡と言うより高齢者の希望となるだろう。マドレーヌ・マルローさんの夫は作家で政治家でもあったアンドレ・マルロー氏(1901-1976/ド・ゴール政権で文化相を務め日本の文化通としても知られた)。夫とは62歳で死別したことになる(アンドレ氏は最初の妻と離婚後1948年に弟の未亡人であったマドレーヌさんと結婚したという)。マドレーヌ・マルローさんは毎日時間があればいつでもピアノに向かう。それは演奏会のためのノルマとか義務ではない、もちろん名声を求めた野心もないだろう。ただピアノを弾くのが楽しくてしようがないに違いない。
2009-12-07@東京・渋谷
「赤きいろ みどり葉仲良く 冬日向」 

12月8日(火)  <光が当たると・・・>
光が当たると人は輝く。「スポットライトが当たる」とか「脚光を浴びる」という表現もあるが注目されると同じ人物が立派にみえる。女性の場合は実際に更に美しくなることもある。小説「坂の上の雲」の主人公、秋山好古、秋山真之兄弟も司馬遼太郎が光を当てなければ歴史の中に埋没して一般には名も知れていないだろう。このような小説家の力は凄いものであるが、逆に光が当たらぬが故に名も知られていない人物も数知れないことでもある。・・光の加減で暗闇の中に霞んでしまうか華々しく輝くかの差が出るのは樹木も同じである。今日訪れた「自然教育園(東京・白金=ここ)」では既に終わったと思っていた紅葉が夕日に最期の輝きを見せているのに感動した。何日か前に紅葉のピークは終わっていたので今日は冬景色でも見ようと"色"は期待していなかったのである<自然教育園にはウオーキングで行くことができ、しかも65歳以上は入場無料>。それにしてもあと1〜2週間の輝きかと思い、写真を撮って下に掲載した。今日の句はその場で作ってメモしたもの。
「明日は散る 紅葉(もみじ)に優し 日の光」    「日を浴びて また輝ける 枯れ葉かな」
 
2009-12-08@自然教育園(東京・白金)
12月9日(水)  <冷却時間・・・>
冷却時間が長くかかることを忘れていた。久しぶりに家の電気窯で陶芸の試作品を焼成開始。今日の午前1時には所定の焼成温度(1180度、耐熱用粘土を使用したので若干低めの温度に設定)に達しているはずであるので夕刻には窯を開けることができると終日楽しみにして待っていたのである。ところが夕方6時でも110度。90度を切ると扉を開けることができるのでまだ20度の温度低下を待たなければならない。1180度までは11時間かけて加熱したが、その後は自然冷却である。断熱された窯からの放熱で温度が下がっていくので、1000度近辺では1時間に200度ほど低下するが徐々に温度低下の時間は長くなり100度付近では1時間に10度も下がらないことがある。そういえば最高温度から90度の扉オープンまで以前24時間かかったことを思い出した。窯の中の内容物の量でも温度の下がり方は変わるが、「自然」の温度低下カーブに任せる以外ない。・・ということで陶芸試作品の紹介は明日までお預け・・。

12月10日(木)  <茶香炉が完成・・・>
茶香炉が完成した。この茶香炉の話は粘土で制作中の12月4日、5日にコラムに書いたが(=ここ)、昨日は更に焼成状況にまで触れた。それだけ陶芸教室でなく家で制作した陶芸作品は久しぶりで張り切った訳である。家の窯で焼いたので茶香炉というものを制作しようと思い付いてから、設計(デザイン)、制作、焼成を合わせて一週間もかからずに試作品が完成したことになる。「今日の表紙」に蝋燭の火をつけて使用中の写真を掲載したが、これと同じようなものが2セット完成した(追って掲載)。陶芸コーナー(=ここ)には上部の皿と本体を別々にした写真も掲載したが、本体側の丸い頭のある皿支えは途中で設計変更して追加したものである。蝋燭の火と皿の距離が余り近すぎると蝋の異常燃焼を起こすことがあるとの情報で急遽サポートの頭を伸ばしたが、結果的にユニークな形になったので満足している。掲載した写真では蝋燭の位置を若干上げて使っているがもっと下げることもできるフレキシビリテイがある。さて問題は茶香炉としての機能。香りの程度とか継続性、お茶の種類、コーヒー豆や紅茶はどうか、日本茶も茶香炉用のものはどう違うか・・。もちろん、安全性の検証もこれからの課題。完成してからが”勝負”となるのが試作品の所以(ゆえん)。当分の間色々な香りをテストするのがまた楽しみでもある。


12月11日(金)  <バッハの平均率・・・>
バッハの平均率を聞きながら玉露の香りを楽しむ。外は冷たい雨。こんな日に昨日完成した茶香炉が早速役立った。茶香炉は今のところ使用勝手も問題ない。茶香炉で焚いた玉露の香りは強すぎずに心地よい。丁度バッハの平均率も同じ感じであることに気がついた。両方とも押しつけがなく気持ちが安らぐのである。平均率を聞いたついでに「平均率」の意味を調べたので、少しこれを書いてみよう。平均率とは1オクターブの音程を均等な周波数比で分割した音律で、1オクターブを12等分する12平均率が一般的。この場合隣り合う周波数の比が半音となる。1オクターブ(=ドからド)の周波数比は1:2(例えば、下のド=220HZ、上のド=440HZ)。平均率の場合どの音程の間の周波数比も同じである。一般的に2つの音の周波数の比が単純であるとき、音が協調して美しく響くとされる。純正音程と呼ばれる音程では、そのためドとソ(完全5度)を2:3(1.5倍)の周波数比とするが、平均率ではこれが若干ずれる(といっても完全5度で周波数比は1.489307)。バッハの「平均率」は必ずしも12平均率ではなく”ほどよく調律された”という程度との説もあるようである。いずれにしても平均率の意味や音楽の歴史を気にするより私は何も知らずに「バッハの平均率」を聞いている方がよさそうだ。「バッハ聞き 玉露香るや 冬の雨」

12月12日(土)  <面白いこと・・・>
面白いことがあればその日は充実する。毎日同じ繰り返し、マンネリ化した生活を続けているように見えても実は面白さがいっぱいということもあり得る。ところが面白いことの内容は人によって全く異なるところが"面白い”。面白いことは「発見」にある。他人が興味を持たなくても発見があれば面白くなる。一昔前に「路上観察学」といって普段は見過ごしている路上に隠れている何でもない景観を観察することが流行したことがあったが、これなど正に面白さを発見して普及させたものであった。書物も面白さの宝庫であるが、これも人様々。自分が面白いと思っても他の人には興味がなかったり、その反対もある。その気になれば世の中にはいくらでも面白いことを発見できるのは確かである。悟りきった振りをして"世の中面白くない”などとは言わぬことにしたい。サミュエル・ウルマン(例えば=ここ=参照)流にいえば、「歳を重ねただけで人は老いない。興味がなくなり面白さの発見ができなくなるときに初めて老いが来る」。

12月13日(日)  <吹きだまり・・・>
吹きだまりの落ち葉にはまた情緒がある。モミジ、ケヤキ、ハルニレ、ナラ、イチョウ、ササ、ヤマボウシ、その他名を知らぬ葉が混ざって層をなしているので近所にこれほどの樹木があるのかと改めて感動する。吹きだまりの落ち葉は風による流体力学の実験のように少しの出っ張りの影に積もっているかと思えば、壁の側の広い空間では渦を巻いたように中間部分に落ち葉がまとまって溜まっている。落ち葉を鑑賞だけしている訳にいかないので落ち葉掃きをする。都会のコンクリート道路にある落ち葉は美観はさることながら歩行者が滑りやすく掃除をしなければ危険なのである。昨日、今日だけで大きなゴミ袋に5〜6杯の落ち葉をとっただろうか。それでも掃除をしている最中に強い風が吹くと新しい枯れ葉が落ちてくるし、あっという間に目の前の枯れ葉群が風と共に見えない先まで飛んでいく。飛んでいった枯れ葉がどんな場所で溜まっているかは分からない。吹きだまりの落ち葉は葉っぱの発生源とは遠く離れた場所から流れてきたものも多いのだろう。「偶然に 枯れ葉集うや 吹きだまり」(TAK)
「今日の表紙」に「茶香炉B(陶芸)」を掲載した。前回掲載した茶香炉Aと一緒に制作した作品。


12月14日(月)  <特急あずさ・・・>
特急あずさで新宿ー松本を往復した。中央本線の特急あずさは勤め人時代にしばしば利用したが最近は信州方面に行く場合も車を使うのでほとんど乗るチャンスがない。久しぶりに車窓からアルプスの山並みを懐かしく眺めていると以前この景色を絵はがきに描いたことを思い出した。帰ってから調べるとやはりこのホームページに絵はがきを掲載している(=ここ=と=ここ)。これが何と14年前、娘宛に描いた絵はがきだ(今は娘の娘宛に絵はがきを描いている)!今日は車窓からデジカメで写真を撮り、下に俳句を添えてみたが14年前の方が迫力があるかも知れない。松本では松本城、別名烏(カラス)城の場内で”雪吊り”と”わらぼっち”の写真を撮った。”わらぼっち”は藁(わら)を束ねてつくった防雪用のキャップ(帽子)であるが一つ一つ作り手が凝った形を工夫しているのが面白い。
「車窓より 飛び去るアルプス 雪化粧」(TAK) 「烏城(からすじょう) 冬日を浴びる わらぼっち」(TAK)

2009-12-14

12月15日(火)  <土偶展・・・>
土偶展をみた。この展覧会は今年(2009年)9月から11月にかけてイギリスの大英博物館で開催された"THEPOWER OF DOGU"の帰国記念展で、国宝3件重要文化財23件など縄文時代から弥生時代に至る日本の代表的な土偶と関連した資料が展示されている(@東京国立博物館、2010年2月21日まで)。以前からこの土偶展に行くことを決めていたが、今日軽い気持ちでオープニング初日に見に行って大ショックを受けた。やや極端に表現すれば、土偶を見始めたとたんに言葉をなくし胸は高まり足はすくむ。時間が停止したような感覚で、ただ”感動した”などという言い方では済まない。土偶から発するパワーが思っていたのと全く違うのである。写真でこれらの土偶を見たことはある(例えば=ここ=)。けれどもやはり"現物”は違う。360度周囲のどの位置から見てもその力強い造形には圧倒されるばかり。写実は容易であったであろうに縄文人の感性はあえてデフォルメされた造形で「祈りの形」を表現する。今から5000年から10000年前という想像を超えた時代に日本の各地で制作された土偶の造形をどう解釈すべきか。あれこれ言葉で書くのはむなしくなる。何が何でも本物の土偶に接することを多くの人に勧めたい。
2009-12-15@東京国立博物館/土偶展開催中

12月16日(水)  <アバクロ・・・>
「アバクロ」の日本進出がNHKのニュースでも取り上げられていた。「アバクロ」の日本一号店(アジアでも初の旗艦店)が昨日銀座にオープンして開店前から長蛇の列ができたという。「アバクロ」とはアメリカのカジュアルウェアブランド「アバクロンビー&フィッチ」(Abercrombie & Fitch)。ブランド商品とは全く縁のない私がこんな話題を取り上げられるのは理由がある。ニューヨークに住む娘から土産でもらったアバクロのTシャツを3〜4枚持っているのである。文字が逆さまに貼り付けてあったり綻びそうな風合いの"かっこいい”Tシャツを気にせずに着ていたら、出会った若者から”そのアバクロはどこで買ったのですか”と尋ねられたことがあった。その時日本では手に入らないアバクロはマニアの若者には垂涎の的であることを知った。アバクロはニューヨークではじめはスポーツショップとして創業したが今はカジュアルファッションブランドとして俳優や歌手などの有名人が愛用する人気ブランドに成長した。娘によればニューヨークの店は上半身半裸のイケメン販売員(モデル)がうろうろしていたり、大音量の音楽が鳴り響き異様な雰囲気ではあるが決して高級品を扱うのでなく買いやすいという。アバクロ銀座店はやや高めの価格設定と報じられているが、少なくとも一昔前に銀座の象徴であった老舗の高級店よりも、ユニクロ、H&M、ZARAそして今回のアバクロの方がまだ親しみが湧くのは確かである。

12月17日(木)  <陶芸の部品・・・>
陶芸の部品ができあがった。「今日の表紙」に掲載した「cube型floor-lamp/parts」であるが、これから"工作”をして「cube型floor-lamp」が完成する。どのような工作をするかの解は一つではない。色々な組立方がある中で試行錯誤しながらまとめていく課程が楽しいのである。もちろん初めにある程度の計画は持っていた。けれども出来上がった部品をみると別の考えが浮かぶ。こうしなければならないという制約がないのが創作のうれしいところだ。完成作品まではまだ時間が掛かるので待ちきれずに「部品」を掲載したが、完成した暁(あかつき)には「陶芸」ではなく「陶芸+工作」と呼ぶことにしようか・・。

12月18日(金)  <スエーデンの友人・・・>
スエーデンの友人へ長文の返信メールを書きながら何とも云えぬ複雑な思いになった。この友人は元来はエンジニアで仕事がらみで知り合ったのであるが、仕事以外でも"馬が合い”、個人的な付き合いが続いている。今年は息子が病気だというとお見舞いと合わせてCDを送ってきて、是非この音楽を聴かせてあげて欲しいと言ってきた。息子が亡くなった時には本当に親身になって悲しみ、慰めてくれた。年の瀬のクリスマスと新年を迎えるにあたって、また丁寧なメールを頂戴したが、その中で、あなたは悲しみを乗り越えるのに陶芸など”creativework"が役立っているように思えると書いてある。そしてこのホームページの陶芸欄をみて今年は”Tower of Babel(バベルの塔)”が”standalonepiece of art"で、息子への特別の思いが込められているように見えると言ってくれた。バベルの塔(陶芸コーナー=ここ=参照)についてこれほど核心を突いたコメントをもらったことはない。日本人の場合、そう思ったとしても遠慮して言わないことがあるのかも知れないが、ほとんど無反応である。作者にとっては作品を認めてくれて背景まで思いを寄せてもらうことは実にうれしいのであるが・・。”友情”や"思いやり”は国籍や言葉とは関係なさそうである。
「今日の表紙」に 「cube型floor-lamp/parts2(陶芸) 」を掲載した。昨日掲載したpartsを並び替えたもの。


12月19日(土)  <スパム・・・>
スパムに関連した悪質なウィルスや不正プログラムがアップルコンピュータのMacOSを新たな標的にしそうだという嫌なニュースをインターネットでみた。スパムとはインターネットを利用した迷惑メールで営利目的のメールを無差別に大量配信する。最近はインターネット接続機能を持つ携帯電話に対する配信も膨大で大きな社会問題であるが解決できていない。冒頭のニュース記事によれば2009年に送信された電子メールの内スパム(迷惑メール)が87%を占めるという。その数、実に40兆通を超え、全世界の人が5000通のスパムを受け取る勘定になるというから恐ろしい。スパムの内、2%が悪意あるウィルスや不正プログラムを含むが、これまでは専らWindows関連の機種が攻撃目標とされた。私はMacを使用しているのでウィルス対策はWindowsと比べると楽なものだった。ところがMacの市場シェア増加に伴い2010年にはMacも攻撃対象になると"予想"されるという訳だ。有り難くない予測を受けてどう対策するかはこれからだが、今更ながら他人を困らせて喜ぶ連中を何故撲滅できないかと疑問に思う。法律による罰も軽すぎるのでないか・・。

12月20日(日)  <フロアランプ・・・>
フロアランプ(陶芸)を一応完成させて写真を「今日の表紙」に掲載した。陶芸コーナー=ここ=には明かりをつけていない写真も合わせて掲載している。"一応完成”と書いたのは、このような完成スタイル以外に色々な応用編が考えられるからである。スリットの幅を変えるだけで感じが変わるし、ブロックの中央にある四角い穴にLEDランプを設置することもできる。同じような組立式の立方体照明具は陶芸を始めた当初、2002年7月に制作している(=ここ)。この頃、立方体シリーズをあれこれと制作したが、立方体の「ランプ」はいま見てもアイデイアがユニークだ。7年前と比べると陶芸の経験は多少つんだけれども創作のアイデイアは以前の方が湧き出ていたかも知れない。前に自分で作った作品を拡張させるのは悪くはないが真のオリジナルでないところがやや寂しい。完成させたフロアランプの撮影をしながら、エネルギーを蓄えて次なる創作を模索しようと自分に言い聞かせる・・。


12月21日(月)  <「留意する」・・・>
「留意する」という言葉の使い方を覚えた。先週デンマークのコペンハーゲンで開催されていた国連気候変動枠組み条約(UNFCCC)のCOP15(Conferenceof Parties15=第15回締約国会議)は米国など主要26か国が非公式の首脳級会合で取りまとめた「コペンハーゲン協定」を「留意する」との結論で閉幕したと伝えられる(参加は105カ国?)。「留意する」の英文は「takenote」。原文では「The conference of the parites decides to take note of the Copenhagenaccord of the 18th of December 2009.」。協定に合意できずに留意するとした苦肉の結論は明らかだが"心に留める”だけでも意味があるのだろう。日本語の「留意」を辞書でみると「無視することが無いように気をつけること。また、そのように言動すること」とでている(新明解/三省堂)。”無視しないでメモ(ノート)する、覚えておく”、こんな国際合意があるのである。私は「健康に留意する」事にしよう。
12月22日(火)  <今日はいつになく文句・・・>
”今日はいつになく文句が多い”と妻から言われた。テレビをみながらコメンテーターの言うことが的外れだとかドラマの脚本が悪いとか、端から文句を言うとの指摘である。家の中での内輪話であるが言われてみればその通りで、こういうときは体調が悪いか精神状態がよくない。同じものに遭遇してもいいところに目を留めるか悪い箇所を見るかで発言が全く異なる。いわゆるプラス思考かマイナス思考かで人生の過ごし方まで変わるのも確かであり、できる限りプラス思考をしたいが、自分の言ったことが一番聞こえない。たまに会う人で会っているわずかの時間に必ず他人の悪口や文句を言う人がいるが、おそらくその人は自分が会話している相手がそれほど不快になるとは思っていないのだろう。他人を褒める人に会うとホッとするのと同時にその人自身を見直すが、案外にこのような人は希である。インターネットのブログでも文句や不平、中傷ばかりが氾濫する。その点、脳学者、茂木健一郎のブログサイトには安心して訪れることができる。彼は税金の申告漏れでマスコミから叩かれて(つまり一部の視聴者が直ぐに反応するので)NHKの「プロフェッショナル(仕事の流儀)」の番組を降板することになったようであるが、私は茂木健一郎が決して他人のことを悪く書かないのにはいつも感心する。マイナスの批評はせずにプラス面の感想のみを書くことはなかなかできることではない。<茂木健一郎 クオリア日記=ここ
「今日の表紙」に「モカドンブリA(陶芸)」を掲載した。たまにはこうした実用になるものも作る。モカウェアと呼ばれる模様付けを中央部に行った。モカウェアについては2009-6月4日のコラム参照=ここ=。


12月23日(水)  <今さら蕪村・・・>
今さら蕪村でもないだろうと言われそうだが、蕪村の俳句はやはりいいと最近思う。シェーンベルクの音楽を聴き、ストラビンスキー、ベートーベン、モーツアルトに感動するけれどもバッハが一番落ち着くといった感覚に似ている。このところインターネットで近現代の俳人の句や毎日投稿される素人俳句をみる機会があるが、時に古典に戻り蕪村を繙く(ひもとく)とホットするのである。蕪村の句は芭蕉ほどにポピュラーではないが、「菜の花や 月は東に 日は西に」とか「春の海 終日(ひねもす)のたり のたりかな」は誰でも知っている。秋から冬にはこんな句がある:「落穂拾ひ 日あたる方(かた)へ  あゆみ行く」、「初冬や  訪んとおもふ  人来り」、「鴛(おしどり)に 美を尽くしてや 冬木立」、「木枯らしや 何に世わたる 家五軒」。一週間後の大晦日に使えそうな次の句などは私は大好きだ:「いざや寝ん 元日はまた 翌(あす)のこと」。

12月24日(木)  <林鶴梁・・・>
「林鶴梁の日常<ある文人代官の幕末日記>」という本を読んだ。本のカバーには「夏目漱石など明治・大正期の若者を魅了した幕末の文人官僚・林鶴梁。19年に及ぶ日記からその暮らしぶりを描く・・」とある。一般的には林鶴梁(はやしかくりょう)の名はほとんど知られていないが、林鶴梁(1806-1878)は幕末の動乱の時代に坂本龍馬や福沢諭吉のように歴史の表舞台に立つことは決してなく、最期まで徳川幕府を支えようとした幕臣かつ漢学者であった。この林鶴梁が38歳(1843年)から56歳(1861年)までの私的な日記を現代文で紹介したものが冒頭の本である。幕臣といっても同心ー組頭ー火の番ー学頭ー代官ー学問所頭取などという20段階以上の履歴を経験しながら、左遷あり、また登用されることもあり、現代のサラリーマン以上に浮き沈みを繰り返す様が何ともリアルだ。日記には客を接待をしたり接待されたりした場合の内容(ご馳走や金銭)なども細かに記録されている。激動の時代には走り回った人間ばかりが注目されるが家族を守りながら忠実に職務を果たし、しかも後世に影響を及ぼす人がいる・・。
「今日の表紙」に 「モカドンブリB(陶芸)」を掲載した。同じようなドンブリを4個作った内の一つ。


12月25日(金)  <フランス大使館・・>
フランス大使館がクリスマスには臨時休業することに思いが至らなかった。東京・広尾にあるフランス大使館は最近リニューアルされた。新たに新館が完成したので旧館が取り壊されることになっているのであるが、取り壊し前に旧館のスペースを使って「NOMAN'S LAND」と名付けられたイベントが開催されている。日本人、フランス人を中心に世界各国の70人近いアーテイストが建物の解体を計算に入れた現代アートを披露しているという(案内=ここ、2010年1月31まで、入場無料)。そこで今日は天気がいいので妻とハイキング気分で歩いてフランス大使館を目指した。ようやく旧館にたどり着くと「本日臨時休館」であったのである。それならばとフランス大使館周りの住宅街をまたウオーキング。フィンランド大使館、パキスタン大使館、アルジェリア大使館(建設中)の横を通って有栖川公園までいった(他に中国大使館、ドイツ大使館などもある)。こんな風に広尾を歩いたのは初体験、有栖川公園も十年ぶりぐらいであろうか。アートを見るチャンスは逃したが非日常気分は満喫した。
「今日の表紙」に 「モカドンブリC(陶芸)」を掲載した。モカドンブリシリーズの続き。
    
2009-12-25@フランス大使館旧館   &有栖川公園(東京・広尾)

12月26日(土)  <父の論文・・>
父の論文をインターネットで読むことなど想像もしていなかった。父は1987年に90歳で亡くなったから勿論インターネットとは全く無縁。それが親戚筋からインターネットで父の書いた文章を読めると教えられた。早速検索して調べてみると特別な専門分野の雑誌であるがいくつもの記事を見つけることができた。本人とは無関係に「資料」としてインターネットに掲載されているらしい。中でも昭和2年の講演会の資料である論文にはある種の感動を覚えた。タイトルは「○○珪素鋼板製造について」。珪素鋼板に必要なる電磁気性質、珪素鋼板標準規格と外国品との比較、製造工程、需要状況、将来予測などを記載した、この時代の最先端技術に関する全部で27ページの大論文であった。昭和2年(1927年)といえば父は30〜31歳、私などは影も形もない時代。私は父が歳をとってからの子供であったので技術者としての父の姿をほとんど知らない。遊んでもらったことも少ないし昔風に背をみて育っただけである。それが若々しいエンジニアとしての論文を読むと今さら父の別の姿に接したような親しさを感じる。インターネットは故人をも掘り起こすものか・・。
「今日の表紙」に 「モカドンブリD(陶芸)」を掲載した。モカドンブリシリーズの続き。


12月27日(日)  <「ノーマンズ ランド」・・>
「ノーマンズ ランド」の展示をみてきた(経緯は一昨日25日のコラム=ここ=参照)。フランス大使館の旧館(東京・南麻布)を使って現代アートを展示するイベントでサブタイトルが「創造と破壊」とある。新館が完成して間もなく旧館が取り壊されるに当たり破壊の前に創造の機会を与えたということだろうか。パンフレットには「解体前のフランス大使館旧庁舎を見る唯一のチャンス」とか「最初で最後の一般公開」とある(2010年1月31日まで、入場無料)。「ノーマンズ ランド(NOMAN'S LAND」とは無人地帯とか統治されていない(所有者のいない)土地を意味する。フランス大使館はいわばフランスの領土、いま新庁舎ができて旧庁舎はフランスでもなく日本でもない土地なのだろうか。さて現代アートの中味となると毎回アートとか創作の難しさを痛感させられることが多いが今回もその例に漏れなかった。同じ敷地内で東京芸術大学先端表現科の人たちの作品も展示されていた(こちらは本日まで)。どちらにしても現代アートという枠で逆に発想が定型化されていないだろうか。芸術もアートも意識せずに人間が生きることのみから創られたであろう縄文時代の「土偶」の力強さを思いだしてしまった

2009-12-27@フランス大使館旧庁舎

12月28日(月)  <タジン鍋・・>
「タジン鍋-1」(陶芸)を「今日の表紙」に掲載した。年末の鍋料理の時期にぴったりと間に合って昨日完成したものである。 タジンとはモロッコの鍋料理のこと(アラビア語?)で野菜や肉をゆっくりと蒸し煮にするところが特徴。最近タジン鍋は日本でも流行になり調理器具の店でよく見かけるようになったが、一般には鍋の蓋の形状は中央が尖った三角錐形あるいは富士山型をしている。この構造によりタジンでは水を使わずに野菜など食材の蒸発した水分を蓋の上部で冷却により水滴として鍋に回収するという水の環構システムが可能となる。そのため食材を炒める油も必要なくて、旨味が凝縮されたヘルシーで美味しい鍋料理が出来るという訳である。私はタジンの蓋をモロッコ風でなく写真のように深い球形とした。内容積を増やすことができるし高さがあれば水蒸気が凝縮して水滴になり鍋に戻ると見込んで制作したのである。昨日、今日と続けてタジン料理。はじめに水を入れなくても十分に汁が得られるのは想像以上だ。この冬は存分にタジン鍋を楽しめそうである・・。


12月29日(火)  <女性の顔をしたロボット・・>
自分の顔をしたロボットをプレゼントするという"景品”があるのに驚いた。たまたま見た年末特集のテレビで紹介されていたのであるが、その人の顔そっくりに仕上げた特別製のロボットがプレゼントされるというのである。日本人女性型ロボットとしては最近産総研・ヤマハが開発した「HRP-3C未夢(ミーム)」がある。このロボットは大きさを日本人女性の平均身長とし、更に顔もリアルに作ってある。瞬き(まばたき)をしたり目元や口元の筋肉を変えて感情表現をするので評判になった。ヤマハの技術も加わって歌も歌う(YOUTUBE動画の歌<例>=ここ、記事=ここ)。それにしても未夢ちゃんならまだ可愛いからいいが冒頭の景品に中年のオバサンが当選してリアルな顔と表情を再現したロボットをもらっても、さて何に使うのだろう・・。
12月30日(水)  <年の瀬に時の流れを・・>
年の瀬に時の流れを思う。喪中であるので特に正月の準備はしないけれども時間だけは確実に経過していく。ふと気がつくと今年も残り一日。このコラムを始めて12月11日で丁度10年になると気をつけていたがとうにその日は過ぎ去っていた(1999-12月11日よりコラム開始)。10年という歳月をどうみるか、長いようで一瞬であったような感じでもある。10年どころか人の一生もまた宇宙時間で見れば一瞬。地球上に人類が登場した時点を東海道線の神戸駅、現代を東京駅とすると、キリストが誕生した時点(2009年前)は東京駅の手前180mという喩えがあった。縄文時代といってもせいぜい有楽町駅か。紫式部が活躍した時代は東京駅に滑り込もうとしている位置になる。人類の歴史から見ると100年、1000年のスケールが何と短く見えることか。それでも一人一人は大したことはできないようにみえても、やはり人が生きている意味は大きい。一瞬の輝き、わずかな灯火(ともしび)でお互いに人は温もりを共有できる。どんな時の流れにあっても瞬間瞬間に他の人を温めている人はその温かみを次の時代に伝えている。

12月31日(木)  <2009年は・・>
2009年は私と妻にとって忘れられない年になってしまった。38歳の息子を癌で亡くすという不運は心の深層では癒されることはないが妻とはお互いに少しでも前を向いて進むように励まし合う。人の運命が何で左右されるかなど誰も答えられない。努力とか能力、善行が現世では報われるとは限らないので太古から神仏への信心が生まれたのであろう。今年は元旦からいくつもの神仏に「祈り」続けていた。しかし「祈り」も結果を見ると空しい。むなしいからと言って祈り以外に出来ることが何かあっただろうか。こんな年が暮れていく・・。「今一度 レクイエム聴く 大晦日」(T)
。合掌
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