これまでの「今日のコラム」(2013年 04月分)

4月1日(月) <久しぶりに通常の陶芸作品・・・>
久しぶりに通常の陶芸作品「酒器」を表紙に掲載した。今年になって陶芸作品というと専ら「32面体」に関連した部品ばかりを掲載しており、お茶碗とかお皿などの一般陶芸と縁遠くなっていた。実のところ、前に「32面体」の完成写真を掲載したが、また総分解して組み立て直している最中なので、「32面体」の製作はまだ終わってはいない。それでも今回掲載したような普通の作品を作ると自分でもホッとする。「酒器」のタイトルを付けたこの容器は日本酒でも入れて盃(さかずき)に注ぐ使い方を考えたが、他に花器として花を活けてもよい(陶芸コーナーに花を入れた写真を掲載=ここ)。三本足の酒器の形は古代中国の青銅器にもあるが自分で適当にアレンジして制作した。この半年間、いわばオブジェ陶芸(32面体)を続けたので、これからしばらくの間は、実用的な小物を作りたい・・。


4月2日(火) <今日は息子の命日・・・>
今日は息子の命日。毎年満開の桜と命日が重なるのだが今年の桜はもう散り始めている。雨の中を墓参りすると既に墓前に溢れるばかりの花束が置いてあるのに感激した。墓の花入れには入りきらないので桶を借りて花束をいれた。缶ビールやお酒も置いてくださった方もいる。缶ビールの一つは墓前で一緒に飲んで語り合ったのだろうか、栓が開けてあった。恐らくは息子の友人たちが来てくれたと思われる。丸4年の歳月を経てもまだ墓参りに来てくださる方々に感謝。墓参の後、親しい親戚と食事を楽しむこともできた。一期一会ではないが同じ条件での集まりは二度とない。この貴重な時間を有難いと思う。桜だって満開はほんの瞬時。「桜花 何が不足で 散りいそぐ」(小林一茶)と言われても桜に不満がある訳ではない。「散る桜 残る桜も 散る桜」(良寛)が生ある全てに共通の真理であろう。いっそ、「散る花を 南無阿弥陀仏と いうべかな」・・。
 
2013-04-02 @九品仏浄真寺(東京・世田谷区)/ 散った桜が地面を埋めている

4月3日(水) <「神は細部に宿り給う」・・・>
「神は細部に宿り給う」という。元来は建築のデイテール(細部)の設計に関連して世界中に広まった言葉であるようだが、私は美術、音楽,工芸品。その他ものつくり全般にこの言葉を当てはめて納得する。どのようなものでも遠くから見た全体像も重要であるが近くに寄って鑑賞する時に見える細部の美しさに感動が何倍も増幅される。少し離れると見えない細部にも全神経を込めた作者(演奏者)の”神業”を見られることほどうれしいことはない。・・先日、一旦は完成写真を掲載した陶芸作品「32面体」の細部が気に入らなくて総バラシして再度組立を始めた。時間をかけて制作したのに最後の仕上げが不本意では許せない。恐らくは今度完成したところで遠目には違いは分からないだろうが、”神は細部に宿る”と自分に言い聞かせてまたコツコツと組立をしている。冒頭の言葉はル・コルビジェなどと並んで20世紀モダニズム建築を代表するドイツの建築家、ミース・ファン・デル・ローエ(Mies van der Rohe/1886〜1969)の言葉とされる説が有力だがWikipedia(=ここ)にはこの言葉の記載はない(ミースはバルセロナチェアをデザインしたことでも知られる)。またミースの言った「神は細部に宿り給う」を世界に広めたのはドイツの美術史家アビ・ヴァールブルク(1866〜1929)との説もある<参考まで>。

2013-04-03 昨日の息子の命日にニューヨーク在住の娘家族から送られてきた花束

4月4日(木) <「健康のためなら死んでもいい」・・・>
「健康のためなら死んでもいい」は一昔前にアメリカ人の健康好きを皮肉っぽく言い当てた言葉で評判になった。米国人の健康志向は相当のものらしい。ちなみに日本人の平均寿命は世界トップクラスであるが100歳以上の高齢者(2012年日本人5万人余)でみると米国の方が人口比で2〜3倍多い。今や日本の高齢者も「健康のためなら死んでもいい」だけでなく「医者に行くためになら病気になってもいい」、「薬をもらうためなら身体を壊してもいい」」など長寿への努力は負けてはいない。ところで、亡くなる直前まで元気に長生きしてコロリと逝くPPK(ピンピンコロリ)という標語がある。これは長寿日本一の長野県で普及させた運動であるが関連したサイトに以下が掲載されている;「入院が長くなると健康でなくなる可能性が高い」、「薬は少なめが健康の秘訣」(=ここ)。PPKと思惑通りにいくかどうかは別にして、米国、日本にかかわらず、真に感銘を受けるのは”生き甲斐”を持って楽しく生活している高齢者だ。健康に恵まれた時に何をやりたいのか、と問うのは語弊がある。世の中には健康に恵まれずにハンデイを負っていても全力でやりたいことに取り組んでいる人も数多い。生きている間に何がやりたいのかを自分自身で考えなければならない。
4月5日(金) <「鬼の霍乱」・・・>
「鬼の霍乱」といわれるかな? 珍しく体調を崩した。喉がおかしくなり熱っぽいので風邪だろうか。この2〜3年風邪をひいた記憶もないのでやはり「鬼の霍乱」でもしようがない。それでも「霍乱(かくらん)の「かく(霍)」の字をどう書くのか考えてみたり、外の空気に触れないから調子が悪いのだろうと草とりをしてみたりする元気はある。明日は台風並みに風雨が強まるとの予報なので鉢植えを室内に取り込むこともやった。妻が3時のおやつに特別サービスで作ってくれた”苺大福”を三つも食べた。食欲は十分にあるようだ。他に今日中にやるべきことは何か・・。そうだ、毎日800日近く継続しているWiiの体重測定とバランス年齢計測はやっておこう。それと今日のコラムはこの程度。それでは早々に床に就くことにします・・。
4月6日(土) <「無心・無作為で作られたものは美しい」・・・>
「無心・無作為で作られたものは美しい」。「用の美」を唱え、民芸運動を起こした思想家(美術家)、柳宗悦の言葉として知られるこの言葉に共感した私の友人が、ある益子焼の土瓶にまつわる生涯をかけた自分史(原稿用紙に手書き)を送ってくれた。柳宗悦さんとも親交があった益子焼きの絵付け職人、皆川マスさん(1874〜1960)の作らしき土瓶(絵付けに銘はない)を友人が手に入れたのが1969年。昨年2012年に益子で偶然マスさんの孫娘ヒロさんに遭遇して、改めて鑑定してもらったところ間違いなくマスさんの絵付けと判明したという経緯だ。43年間土瓶の美を堪能し続けた友人はこれを後の世に伝えなければならないと顛末記を書いたという。私はこの機会にインターネットで柳宗悦(1889〜1961)の「民芸とは何か」を読み返してみた(=ここ)。これは正しく名著だ。今の時代のモノツクリにも当てはまる説得力のある言葉が並んでいる。このような刺激を与えてくれた友人に感謝。
2013-04-06今晩の風雨で明日はないと思われる花を撮った

4月7日(日) <池上(東京・大田区)で昼食・・・>
池上(東京・大田区)で昼食をとった後、店の前で池上本門寺の花まつりのパレードに出くわした。今日は池上本門寺(日蓮宗大本山)の春祭りの真っ最中。明日4月8日のお釈迦様の誕生日をお祝いしての花まつりパレードだった。一日早いがお釈迦様の誕生日は4月8日。花祭り、花会式などと並んで普通は灌仏会の名で行事が行われる。お釈迦様は誕生した直後に四方に七歩づつ歩き、右手で天を指し左手で地を指して「天上天下唯我独尊」と唱えたとの言い伝えあるのはご存知の通り(写真=ここ)。仏教の解釈は奥が深く、「天上天下唯我独尊」一つをとっても色々な解釈がされる(私は=ここ=の解釈に同感)。ちなみに「花まつり」は桜が満開になる時期でもあるので明治以降に名がついたという。今年に限って桜はすでに散ってしまった「花まつり」。パレードに先導されてせっかく本門寺まで行ったけれども「甘茶」もいただかずに早々と家に帰ったのが心残りだ。
 

2013-04-07 @池上本門寺にて


4月8日(月) <表紙に掲載した「32面体=再組立終盤<陶芸作品>」・・・>
表紙に掲載した「32面体=再組立終盤<陶芸作品>」を見て、何故、又?と思われる方がおられるかも知れない。1ヶ月近く前に同じような写真を掲載して、その後完成した「32面体」の写真も紹介した。作品作りの話題としては終わっているが、作品は一度完成させた32枚の板を全て分解した上で、辺・角度の微調整のやり方を変えたり、結束材料を変えたりしてより確実な固着方法で今も再組立が進捗している。今日掲載した写真も前回の組立方と内容は違っているが、制作の詳細過程は第三者にはどうでもよいことか。このような作品作りは時間と経済性を無視した自己満足の世界だから楽しい。最近、世界で売れっ子のアーテイストがお金持ちのコレクター(お客)が何を欲しているか徹底的に"市場調査”をして”効率よく”アートを制作する話を聞いたことがある。アーテイストにも色々あるが、効率が悪くても自己満足とされても無心でモノを作る姿の方に共感を覚える。

拡大写真=ここ
4月9日(火) <少々くどいと思われるかも・・・>
少々くどいと思われるかも知れないがお許しいただきたい。今日も32面体の組立用の部品(結束用)を表紙に掲載した。右の三本がビーズを接着剤で接着したタイプで初めはこれで組んだ。左の三本が最新の結束材。今はこれを使っている。簡単に書いているが、32面体を組立てるためには結束具が360個必要となる。右の接着剤タイプの360個全てを私が自分で制作して一度組上げた。欠点は強く締めると接着部が外れたり芯金が切れること(柔らかい芯金で弱い)。これを全て外して左側の一本のワイヤをネジって使うタイプに変更した。この方がかなり強度がある。新しい結束具は妻が見るに見かねたのか300個ほどを丹念に作ってくれた。一部には旧型の結束具も使用しているが妻の応援で随分助かった。32面体は妻との合作となった。完成品だけをみると目にもつかないところでささやかなドラマも展開している。
  2013-04-09 32面体結束状態
/ここだけで30本使用
4月10日(水) <ロシア料理の店、マトリューシカ・・・>
ロシア料理の店、マトリューシカ(恵比寿駅アトレ6F)で食事。ビールはロシアビール「パルチカNo.9」。パルチカは0番がノンアルコール、その後、少しづつアルコールの度数が増えて3番が普通のビール(アルコール4.8%)、4番が黒ビール、9番はアルコール強化ビール(アルコール8.0%)であるがそれほど強くは感じない美味しいビールだった。食事はボルシチ、ピロシキ、つぼ焼きなど。最後はロシア紅茶が定番。決して贅沢な料理でない。フランス料理、イタリア料理、中華料理らと確かに違う個性があるところがうれしい。味と雰囲気に浸って話し込んでいるとあっという間に二時間が経過していた。

4月11日(木) <「人のふり見て我がふり直せ」・・・>
「人のふり見て我がふり直せ」は毎回テニスの時自分に言い聞かせる言葉だ。高齢者同士の素人テニスであるためか、歳を重ねるにつれて顕著になるのが、カウントの誤り(試合の勝ち負け数、ゲームカウントなど)とジャッジのミス(セーフ、アウトの微妙な判定)だ。勿論、全く悪気はないのだが人によっては自信を持ってカウントを間違えることもある。セルフジャッジも意識せず自分に有利な判定がでやすい。目では自分に都合良く見えてしまうことがあるようだ。審判がいなければ微妙な判定は相手に有利にするのがフェア。それにしても正確なカウントや的確なジャッジで信頼していた人が”加齢のため”か急に怪しくなることもある。他人事ではない。最近は、ゲームカウントの表示器を毎回使用するけれども今日はゲーム途中のポイントカウントが分からなくなった。勝敗にはこだわらないし、お遊びと言ってしまえばそれまでだが、自分ではやはり「フェア」な”ふり”をしたい。
表紙には「32面体/ 半完成」<陶芸作品再組立>を掲載した。今になって再組立の決断が間違いなかったことを確信。


4月12日(金) <目黒天空庭園・・・>
目黒天空庭園に行ってみた。先月末に開園したばかりの東京・目黒区の公園で、ニュースでも取り上げられたように首都高速道路の大橋ジャンクションの屋上を目黒区が借り受けて公園とした(紹介例=ここ)。大きなループ状のジャンクションは騒音対策のため道路を壁と屋根で覆った構造としているので屋上の公園も24mの高低差のあるループ状。ループの内側の地上部には広大な広場があり今日は少年たちが野球をやっていた(下の写真。4枚目)。屋上庭園の広さは約7000平方メートル。できたばかりであるので植栽が初々しい。この大橋ジャンクションは家から下北沢の陶芸教室に通う途中に位置するので建設中のジャンクションの脇を頻繁に通った。丁度一年前、目黒川沿いの満開の桜の季節には首都高のジャンクションとしては珍しく風格のある壁面が既に完成しており、外観のコロッセオ風な壁面に興味を持って毎回工事現場を通り過ぎたことを思い出す。陶芸の途中で気が向けば天空公園から富士山を眺めるなんていうことができそうだ・・。
 
2013-04-12 @目黒天空公園にて
 

4月13日(土) <代官山・蔦屋書店で・・・>
代官山・蔦屋書店で本を買い、そのまま歩いて西郷山公園まで行った。桜はすっかり終わっていると決め込んで気分転換だけのつもりだったが公園では何と八重桜が満開。いくつものグループが車座になって花見をしている。こちらも穏やかな天気につられて草の上に座って買ったばかりの本を開く。本は昨日発売開始された村上春樹作「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の旅」。村上春樹さんの文章は読みやすいので読み始めると止まらなくなった。少し前に芥川賞を受賞した黒田夏子さん(75歳)の「abさんご」では”ひらがな、横書き、固有名詞なし”のユニークな文章に読み続けるだけで悪戦苦闘したのと真反対だ。それに少し読み始めるとタイトルの「色彩を持たない」が主人公・多崎つくるの高校時代の友人たち(赤松、青海、白根、黒埜<くろの>)が全員”色”のついた名前であるのに主人公だけが”色彩を持たない”という意味であることが分かるなど進展が早い。八重桜が満開の公園の雰囲気と村上春樹の新作とが気持ちよくマッチしたので、これからは八重桜を見ると村上春樹を思い出すことになるかも知れない。
2013-04-13 八重桜@西郷山公園(東京・目黒区)

4月14日(日) <今日、午前10時30分・・・>
今日、午前10時30分、ついに「32面体」(陶芸作品)を完成させた。完成時刻は最後の正五角形一枚を結束具でつなぎ全面の"蓋(ふた)”が完了した時とした。それぞれの板の結束は表面に結び目の見えないように内側で結束用の針金を結んでいるので最後の一枚を如何に固定させるかが組立上のポイントの一つであった。自分で言うのもおこがましいが非常に上手いやり方で最後の一枚をつなぐことができたので喜びも一入(ひとしお)。誰かに伝えたくて直ぐにニューヨークに住む娘家族に電話(スカイプ)をして(現地時間13日夜10時頃)i-Phoneで32面体の実況中継をした。今回完成した「32面体」は球体にすれば直径約650mm、正五角形12枚と正六角形20枚からなる近似球体はサッカーボールと同じ作りだ。3月24日に完成写真を掲載したように一度は組み上げたものを全て分解して再度組み直した経緯がある。結果的には自分でも「再組立」に満足している。半年がかりの大作完成に今度こそ本当に祝杯をあげたい。

 32面体別角度(拡大画像=ここ
4月15日(月) <春眠不覺曉・・・>
「春眠不覺曉  處處聞啼鳥 夜來風雨聲  花落知多少」<春眠(しゅんみん)暁(あかつき)を覚えず 処処(しょしょ)啼鳥(ていちょう)を聞く 夜来(やらい)風雨の声 花落つること知る多少>。孟浩然の詩に今更ながら”うまい”と感心する。今朝、目が覚めたのはいつもより1時間も遅い時刻。am6:30は掃除の時間なので直ぐに道路掃除へ。ところが昨夜来、大風が吹いていたので道路のゴミは吹き飛ばされてほとんど掃除の必要はない。ただ向かいの家(会社)の姫リンゴの花びらが雨で濡れた地面にこびり付いているのと、それでも風で飛ばされた大量の花びらが敷地の片隅に積もっているのを掃除する程度で済んだ。大風による道路掃除の効果を最大限発揮させるためには道路脇にしぶとく成長してくる雑草(タンポポやクローバなど)を除去しておくのがよいと経験的に承知しているのでこのところ雑草取りにも励んでいる。雑草があるとそこが吹きだまりとなって一挙にゴミが蓄積する。道路は綺麗になっていても最終的にゴミはどこまで飛ばされているのだろう。”吹きだまり”を心配することもあるが、風にお任せしかない。春の大風も自然による大掃除のメカニズムとみるとただお見事・・。
32面体<陶芸作品>別アングルの画像

4月16日(火) <映画俳優の三国連太郎さん・・・>
映画俳優の三国連太郎さんが亡くなった。享年90歳。痴呆になったり病気で長く患うこともなくほとんど最期まで現役を通した幸運者であった。三国連太郎さんについて特別に映画で感動したとか影響を受けたことはないけれども、改めてこの方の生涯を見ると人間の「運」と「容貌(&体格)」の大きさを思う。名優が亡くなったとのことでマスコミは”真摯な姿勢を貫いた”などと持ち上げるし勲章まで授与されているが、三国連太郎さんの生き様は尋常ではない。俳優としてのベースにあった「容貌と体格」は名前も明らかでない海軍軍人の父親のDNAであろうか。徴兵から逃亡して捕まったあと中国大陸に送られるが奇跡的に生きて帰還したのも運の強さ。4度の結婚まで勲章のように見られる得な役回りの俳優さん。時代を鮮明に写し取った俳優の一生を読んでみると人それぞれの感想があるに違いない=Wikipedia三国連太郎=ここ

4月17日(水) <「色彩を持たない多崎つくると・・・>
「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」(村上春樹の最新作)を楽しく読み終えた。”楽しく”というのが重要で無理のない平易な文章にはホッとさせられる。内容も高齢者に囲まれた私の日常とかけ離れたものなので理屈なしにリフレッシュできた。余計なことかも知れないが世界的な小説家である村上春樹さんでも非常に馴染み易い文章であるが故に”文芸評論家”と称する人たちに好き勝手な評論をされるのでないかと心配する。”評論家”は自分ができもしないのに大抵”上から目線”で勝手なことをいうから・・。美術や音楽でも同様で実践者でない人間がどうして威張って評論をするのか不思議に思うことがよくある(実践者が評論する時には自分の作品を棚上げして他人のアラを探す)。前にも書いたことがあるが、民芸運動を起こした柳宗悦が「無心・無作為で作られたものは美しい」と無名の職人の陶芸作品に美を見出したような審美眼がどの世界にも欲しい。文芸は作為の面白さもあるが難解な文章でもてはやされる作家より村上春樹の方が格段に好きだ。
 
2013-04-17 カタバミとコデマリ (庭で撮影)

4月18日(木) <お客様は神様です・・・>
お客様は神様ですといったのは歌手の三波春夫だった。切符を買ってコンサート会場まで来てくれた”お客様”を神様と見て真剣に自分の芸を披露するのは芸人根性だろう。今日は親戚、知人の3夫婦が我が家のお客様だった。お客様が家に来ていただくのはうれしいことであったり、楽しくもあるが、最近は特別に有難いことだと思うようになった。他人の家まで遠路はるばる足を運んで貴重な時間を使う”見返り”に何が与えられるかなどと考えると、とても招待はできないが好意に甘えてお出でいただく。お客様があると家の中が少しは片付くという目に見えるメリットもある。来ていただいただけでも有難いのに、今日のお客様には「32面体」<陶芸作品>を見ていただいた。このような作品は興味があるかどうかで見方が全く異なるが、今日のお客様は熱心に細かく見ていただいたのが何よりうれしい。本格的な”お茶”はでなかったけれどもお互いにこのように集まる機会は最期かも知れぬと、一期一会の言葉が心に深く響く・・。
 
2013-04-18 「シクラメン  来客前に 身づくろい」/「タケノコに サンショウ添えて 和の香り」

4月19日(金) <昨日の初夏の気温から今日は冬・・・>
昨日の初夏の気温から今日は冬の気温へ。体調を崩しやすい気候の中で「脳と病気」の関連を考察しようとするがとても手に負えない。このところ咳が完全に抜けきらないので自分で咳が出ないようにコントロールを試みる。確かに息を吸う時は鼻、吐く時は口を心がけると咳がかなり押さえられるが長時間は続かない。それより何かに集中して緊張していると全く咳がでなくなる。今日は自転車で陶芸に行く時には咳が出て困っていたが、土練りを始めると咳を気にすることもなくなった。テニスをやる時も咳など忘れてしまう。「病は気から」とか「万の病は心から」など昔からの格言もあるが今は「気」とか「心」を「ストレス」と置き換えてストレスが万病の基であることは定説となっているのだろう。ところが「ストレス」とは何者で脳の作用とどう関連しているかがどうもよく分からない。当然、気温や気圧など天候にも脳は反応していると思われるがストレスや病気とつながりも明確ではない。工学系では構造物の強度を検討するのに詳細に「ストレス(応力)」を算出する。その上でストレスの数値に対して安全率を考慮して絶対に破損することのない部材が選ばれる。人間に負荷されるストレスと脳の働きについてもっともっと解明が進めば「病」を防ぐ上で革新的な手法が出てくる予感がするがどうだろう・・。
 
2013-04-19 @目黒川緑道での川辺風景

4月20日(土) <「今日の写真」(下)に「大橋ジャンクション」・・・>
「今日の写真」(下)に「大橋ジャンクション」の外観を掲載した。首都高速渋谷戦と中央環状線(新宿・品川)を結ぶジャンクションで、先月末にこのジャンクションのループ状のスペースを活用して屋上に「目黒天空公園」がオープンして話題となった。このコラムでも4月12日分に天空公園の写真を掲載している(=ここ)。今日は午後から雨模様の予報だったので午前中に自転車で陶芸教室にいったが、その途中でこの風景を撮影した。写真の左側が目黒川、建物に沿って正面に進むと国道246号(玉川通り)にでる。コロッセオ風にデザインされたジャンクションの景観は屋上の天空公園と合わせて、近隣にとってはただの”迷惑設備”になりがちな高速道路のジャンクションに特異な付加価値を付けた。このようなジャンクションの工夫は”やればできる”というサンプルになりそうだ。これまで川の景観などを全く無視して安易に建設し続けた高速道路の作り方も知恵を出せば別の方策はある・・。
<参考までに、空中から見た大橋ジャンクション:公園建設前(3年前)=ここ、公園建設後=ここ
2013-04-20 大橋ジャンクション外観(目黒天空公園土台)

4月21日(日) <冷たい雨が降る中を墓参り・・・>
冷たい雨が降る中を墓参りした。今日は母の命日。息子が眠るお墓であるので毎月息子の月命日には墓参するが、母の命日に墓参りをしたのは久しぶりだ。母が亡くなって27年。何だかあっという間に過ぎ去った。姉や兄弟が多かったから母とは単独に親密であった訳ではないけれども母の晩年になって聞き役になった思い出が多い。考えてみると母がポツリポツリと自分の人生を語り始めたのは丁度今の私の年齢の頃であった。今になって母がもし結婚していなければ、子供が一人、二人で終わっていれば、私はこの世に存在しなかったとふと思う。せっかく「孝」のつく名前を付けてもらったのに何も親孝行できなかったと悔やんでみるがどうしようもない。お寺の山門の側にシャガ(著莪)の花が咲いていた。シャガを詠んだ俳句では「譲ることのみ多き日々 著莪の花」(塙 義子)が好きだ。
表紙の「今日の絵」には久々に「mieuへの絵手紙・春が来た」(ペンと水彩)を掲載した。もっとシンプルな絵を描くつもりが張り切り過ぎて筆が止まらなくなった。

 
2013-04-21 @九品仏浄真寺(東京・世田谷)


4月22日(月) <久しぶりの国立新美術館・・・>
久しぶりの国立新美術館(六本木)は新緑に囲まれてまばゆいばかり(下の写真・右)。午前中は強風の中、テニスを楽しんだが途中青山通りのに面した「こどもの城」に鯉のぼりがはためいているので5月も間近と気づいたところだった(下の写真・左)。国立新美術館では知人(妻の友人)が出展している春陽展をみた。国立新美術館のような大きな美術館で開催される公募展ではいつも同じような感想を持ってしまう。今日も知人の作品については妻とあれこれ語り合いながら何分間も絵画を鑑賞した。ところが何百点もある絵画の全数をじっくり鑑賞することは到底できない。好き、好きではない程度の判定基準で次々に目を移しても時間が足りない。もう重点的に一部を鑑賞するしかないのである。そして毎回思うのは人間の個性が絵画では極めて赤裸々に現れること。何百人の人たちが精魂傾けて自分が一番いいと思う表現をした絵画は一つとして同じものはない。それらを他人がどう感じるかはまた千差万別。つくづく人の感性は皆違うと思う。グループや学校では絵画に入選とか順位付けを行うが、これも絶対評価ではあり得ない。様々な絵をみていると、それぞれの人の生き様が表現されているのであって他人がいいとか好きでないとか勝手に評価すべきものではないような気がしてならない・・。
 
2013-04-22 左=こどもの城(東京・青山)    右=国立新美術館(六本木)

4月23日(火) <金色と銀色のペンを・・・>
金色と銀色のペンを手に入れた(妻からのプレゼント、時々文房具をもらう)ので、金銀を使って何か描きたいと思った。先ず思いついたのが金閣寺と銀閣寺。京都の鹿苑寺(ろくおんじ、通称金閣寺)は建物の内外に金箔を貼ってあるので金色を使って描くのに最適かも知れない。銀閣寺(慈照寺)は銀箔は貼られてはいないけれども地味な銀閣寺を銀色で描くのは面白いだろう。そんなことを思いつつ金閣、銀閣を調べているいる内に屋根の頂上にそれぞれが「鳳凰」を頂いていることに気がついた。そうだ、金と銀の鳳凰を描こうと「mieuへの絵手紙」に先ず「金閣の鳳凰」を描いたのが表紙に掲載した「今日の作品」。金閣の鳳凰は実際に金色をしているので金の色付けは自然ではあるが、金色をスキャンしてインターネットの画像で表示する段になるとオリジナルの色がでにくい。まあ、それほどこだわることもないか・・。その後、続けて銀閣の鳳凰を描いていると久しぶりに京都を訪れて金閣、銀閣にも行ってみたくなった。
  2013-04-23 @北沢川緑道にて

4月24日(水) <am10:00、巾7〜8mの大シャッターが開く・・・>
am10:00、巾7〜8mの大シャッターが開くと同時にShimachu(島忠ホームセンター)店内に入り買い物。午後からは雨模様との天気予報だったので購入したビニールテープを使って午前中に修理工事を終わらせる。行動は素早かったが途中から雨が降り始めたので予定を大きく変更せざるを得なかった一日だった。・・昨日の「金閣の鳳凰」に続いて今日の表紙には「銀閣の鳳凰」(mieuへの絵手紙)を掲載。昨日のコラムに書いたように、この絵は”銀色のペン”で描いた。これで金閣、銀閣の屋根に頂く鳳凰を金銀で描くことは楽しく終了した。この際、金閣(鹿苑寺),銀閣(慈照寺)の歩みに注目すると、金閣寺、銀閣寺の総本山である相国寺(しょうこくじ)を含めて建造されてから現代に至る600年余の間が焼失と再建の歴史であることを再認識させられる(相国寺派歴史年表参照=ここ)。年表には”相国寺全焼”、”鹿苑寺焼失”が何度出てくることか。1950年に金閣寺が放火により全焼した事件も思いだす。歴史遺産の防火対策は万全だと思うがここは鳳凰の霊力でしっかりと守ってもらいたい・・。
  2013-049-24 モッコウバラ(木香薔薇)

4月25日(木) <ミスをしない方が最後に勝利・・・>
ミスをしない方が最後に勝利する。テニスでは毎回実感することだ。最近のテニスでは少々の剛速球で攻め込まれてもかわし方が上達した。守りに守っているとその内相手が自滅する。午前中のテニスでも同じように戦いながら今日は飛躍して「将棋」を連想した。将棋のプロ棋士とコンピュータソフトによる5番勝負「将棋電王戦」が結局3勝1敗1引き分けでコンピュータ側の勝利で終わったことが将棋界のショックとして伝えられている。先週末に行われた第5戦で敗れた三浦弘行八段は敗戦後「正直言ってどの手が悪かったのか分からない」と語った。勝ったコンピュータソフト(GPS将棋)は670台のパソコンをつないで使用し、1秒間に2億5千万局面を読むことができるという。プロ棋士がコンピュータに敗れた原因として「戦い方」を指摘した人がいた。コンピュータの攻撃力は突出しているので人間側は防御を完璧にしなければならないという。人対人の対戦であれば攻撃は最大の防御などと攻撃優先の戦略が可能であるがコンピュータ相手の場合、攻撃する際のほんのわずかなほころびをコンピュータが突いて人間が不利になるケースが多いとか。攻撃しようとする際にスキが生ずるのはテニスも同じだなと妙に納得するのである。それにしても将棋のコンピュータソフトがここまで強くなるとコンピュータと対戦させられる天才棋士たちが何か可哀相になる。絶対にミスをしないテニスマシーンが相手なら勿論テニスはやらない。人間同士の戦いのみにドラマがある。
4月26日(金) <酢豚つくりモリモリ食った・・・>
「酢豚つくりモリモリ食ったブス」。今日みつけた傑作回文の一つだ。日本でのコピーライターの先駆者とされる土屋耕一さん(1930〜2009)の作。土屋さんは「君のひとみは10000ボルト」(資生堂)のキャッチコピーなどで有名であるが回文の名手でもあった。「軽い機敏な子猫何匹いるか」(=これも回文です)の題を付けた回文集も出している。冒頭の文章は「スブタツクリモリモリクッタブス」と仮名で書くとなるほど逆から読んでも同じだと納得する。このような言葉遊びにも文化を感じる。特別な才能に恵まれた人が創り出した作品にフツウの人は感動させられる。日本には昔から和歌や俳句にも回文を盛り込む遊び心があった。回文でなくても「いろは」なども驚異的な文章力だ。言葉の「名品」は絵画や建造物と同じく貴重な歴史遺産として作者名と共に保存をしたい。
今日の写真(下)には緑道で見かけたテッセンの花を掲載。写真を撮りながらこのテッセンを育てたというお爺さんとしばし話し込んだ。
2013-04-26 @北沢川緑道にて(東京・世田谷)

4月27日(土) <最近「自由」について・・・>
最近「自由」について考えさせられるが、これは実に奥が深い。自由の定義によるが自分は自由だと思っている人でも自由かどうか大いに疑問がある。特に考え方が本当に自由なのか分からない。人は成長し生きていく過程で経験を通して考え方が形成される。養育歴、学歴、友人歴、読書歴、就職歴、専門歴など、たまたまの経歴が考え方の基本となる。それが信念となると他の広い考えや真理とは無縁の"信念”ができあがる。そして自分だけの信念に束縛されて自由な考えができなくなることがある。こうしてみると、真に「自由」な人がいるのだろうかとも思う。・・キリスト教に入信して「自由」を得るという考えがあることを知ったが、いわば神の真理をみる自由であろう。仏教でも煩悩の呪縛から解放され、全ての執着から離れて「自由」を獲得する「解脱」の境地を教える。宗教における「自由」の考え方は自由でありそうに見えて実は束縛だらけの現代でも生き方のヒントになる。
2013-04-27胡蝶蘭はまだ元気

4月28日(日) <風もなく穏やかに晴れ上がった・・・>
風もなく穏やかに晴れ上がった日曜日。散歩にカメラと一緒に本を持参して公園のベンチでしばし読書した。公園での読書は先日蔦谷書店で買ったばかりの村上春樹の本(最新作)を持って近所の公園に行って読んで以来。この時に覚えた贅沢な味が忘れられずに今日も気温約20度の陽気のもとで外気に触れながら本を読む(やはり蔦谷で買った別の本です)。公園にはこの時期至る所でアヤメが咲いている。アヤメは非常に種類が多く、それぞれの名前は分からない。本を読んだベンチの側では葉の花を背にしてアヤメが咲いていたので写真を撮った(下)。後で調べると、このアヤメはニオイアヤメ(オリス)というらしい。ところで、どんな本を読んだのか。少々気恥ずかしいが書いてしまう:「藝人春秋(水道橋博士著/文藝春秋)」。著者のサイン、イラスト入りの本。読後感は後にしよう。
2013-04-28 @中目黒公園(東京・目黒区)

4月29日(月) <「昭和の日」で休日・・・>
昭和の日」で休日。前の天皇誕生日だ。一時はこの日を「みどりの日」としたが、その後「みどりの日」を5月4日に移し「昭和の日」とした。色々な経緯があるにしても、とにかくも休日になるとこちらのテニスはなし。1〜2年前からテニスは平日会員となったので土曜日、日曜日それと休日にはプレーができないのである。代わりに少しは身体を動かそうと午後2時間ほど散歩した。最近は望遠レンズ付きの大型デジカメを散歩の時に持って行くので適度の重量負荷をかけることができる。今日は本も持参したのでトータル数kgをバッグに入れて早足で歩いた。天気が良かったので歩くだけで汗もかいた。以前、歩きながら"考え事”をすることができると散歩の時間に頭を使ったことがあったが今はほとんど何もしない。陶芸や絵画のアイデイアを歩きながら思いつくことがなくなってしまったのは何故だろう。その時々で歩き方にも波があるようだ。やりたいようにやると割り切って気にはしない・・。
今日の写真(下)の左は「ツキヌキニンドウ」=スイカズラ科の常緑ツル植物。右は「(赤花)ツボサンゴ(壺珊瑚/別名ヒューケラ)=雪の下科。新しくできた「目黒天空公園」にはこの種の植栽が豊富だ(4/12コラム=ここ=参照)。

2013-04-29 @目黒天空公園にて

4月30日(火) <今日の表紙に「mieuへの絵手紙・金と銀」・・・>
今日の表紙に「mieuへの絵手紙・金と銀」(金銀マジックペンと黒ペン)を掲載した。前回、前々回と同様に金と銀のマジックペンを使って描いたもの。前には金銀で金閣、銀閣を連想して(4/23コラム=ここ=参照)鳳凰を描いたが、今回は特に具象のイメージはない。金閣銀閣とは別に「金と銀」のフレーズからどうしても童謡「月の沙漠」の歌詞とメロデイーが頭に浮かんでしまう。「・・金と銀との鞍(くら)おいて・・、金の鞍には銀の甕(かめ)銀の鞍には金の甕 二つの甕はそれぞれに紐で結んでありました・・」。そうだ、鞍(くら)と甕(かめ)を描こうと思ったけれども全くイメージが湧かない。そこで掲載したような金と銀の「紐(ひも)」ができあがったという次第だ。「金と銀」の絵手紙を描きながらYouTubeで童謡「月の沙漠」を聴いた(=ここ)。ちなみに「月の沙漠」は作詞加藤まさお、作曲佐々木すぐる、大正12年(1923)作。千葉県御宿海岸のイメージで作詞され、「砂漠」でなく「沙漠」の文字が使われている。このYouTube「月の沙漠」は何と小鳩くるみさんが歌っている。懐かしや懐かしやと感激しながら、小鳩くるみさんは今どうされているかと調べると、昔の童謡歌手小鳩くるみさん(1948年生まれ)、本名、鷲津名都江(わしづなつえ)さんは今は「目白大学外国語学部及び目白大学大学院言語文化学科教授」とある。「月の沙漠」の綺麗な歌声と合わせて、関係のないこちらまで何か誇らしげになって気持ちよく「紐」を描いた。


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