これまでの「今日のコラム」(2013年 12月分)

12月1日(日) <いそがしく時計の動く師走・・・>
「いそがしく時計の動く師走かな」(正岡子規)。師走になると時の流れが早く感じられる。今日は先ず九品仏・浄真寺にお墓参りをした。毎月2日が息子の月命日で、昨年も一昨年も12月2日の月命日にお墓参りをしているが、今回は一日早い墓参。12月初めのこの時期はお寺の境内の紅葉が真っ盛りでお墓参りと合わせて毎年紅葉を楽しむ。今日も天然記念物に指定されているお寺の大イチョウの黄葉や樹々の紅葉を満喫した。それにしても今日の境内はいつになく混雑していた。画用紙を広げて絵を描いているグループから老夫婦、若いカップルまで大勢の人が快晴のもとで見事な紅葉に歓声を挙げる風情。そう、今日は日曜日であった。秋の紅葉は確かに私たちの宝物かも知れない。良寛(1758〜1831)がこんな詩歌を残している:「形見とて 何か残さむ 春は花 山ほととぎす 秋はもみぢ葉」。
 
2013-12-01 @九品仏・浄真寺(東京・世田谷区)にて

12月2日(月) <柿干して 今日も 二人で・・・>
「柿干して 今日も 二人で 雲もなし」・・と、これは水原秋桜子の句:「柿干して けふの ひとり居 雲もなし」をもじって作ったのでオリジナリテイーはない遊び。「雲もなし」といえば、今日の午前中は雲一つない晴天の下でテニス。風もなく温かな快晴であったので運動すると思った以上に汗をかいた。「干し柿」は都内の無人スタンドで購入した少々の渋柿に妻が干し柿用の糸をつけたもの。我が家には軒下はなく、どこに吊るすのかと見ていると組立式の物干に吊るした。ささやかな干し柿でも秋の風物詩に見える。夕日で紅葉が映えるとき干し柿も負けてはいなかった<今日の写真=下>。最後にまた他人の句:「つるし柿の あたり 夕日がまだ残り」(西尾栞)
2013-12-02

12月3日(火) <友人夫妻と特別展「井戸茶碗」・・・>
友人夫妻と特別展「井戸茶碗」が開催中の「根津美術館」に行った(12/15まで、案内=ここ)。井戸茶碗とは16世紀朝鮮半島から渡来した高麗茶碗と呼ばれる茶碗の一種。朝鮮では日用雑器として作られたものであるが、日本では素朴な風情の茶碗が侘び茶の道具として珍重される。利休、遠州などの茶人の心を引きつけ、信長、秀吉ら戦国武将に愛された井戸茶碗の魅力とは何か。国宝の井戸茶碗、重要文化財に指定されている井戸茶碗、何の指定もない井戸茶碗などを見比べながら鑑賞しても私の眼力では差異は分からない。それより今回は友人の鑑賞法に感心した。彼は井戸茶碗70数点の出品目録を手にして、印を付けながら見て回る。印とは、もし茶碗をただであなたにあげますと言われてもらうものを○、もらわないものを×。つまり自分の目で見て積極的に好きなもの、欲しいものを○、そうでないものを×という訳だ。来歴や他人の評価でなく自らの眼力だけで判断する姿勢は貴重だ。私の趣味からいえば大振りの「大井戸茶碗」より小振りの「小井戸茶碗」の方が自分の手に馴染むように思えて好ましい。それにしても豪華絢爛と対極にある井戸茶碗が茶人だけでなく最高権力を持った武将たちをも魅了した根源には何があるのだろうか。日本人の感性は本来的に突出した贅沢とか豪華さを相容れないのでないかと思えてくる・・。
 
2013-12-03@根津美術館にて

12月4日(水) <「黒檀の馬」・・・>
「黒檀の馬」を読んだ。ご存知の方も多いだろうが、「黒檀の馬」はアラビアンナイト<千夜一夜物語>にでてくる物語。アラビアンナイトというと、アリババと40人の盗賊、船乗りシンドバットの冒険、アラジンの魔法のランプなどが有名であるが、私は「黒檀の馬」を知らなかった。来年は午年(うまどし)。そろそろ年賀状の図案を考えなければならないと「馬」の図柄を調べているうちに「黒檀の馬」に出会った。黒檀の馬は乗れば空を飛んでどこへでも飛んで行ける馬で、上昇したり下降したりする運転技術も必要。黒檀の馬を操れるようになると、丁度現代のヘリコプターのようにお城の城壁を飛び越えたり自在に動き回れる。アラビアンナイトの昔に空を飛ぶ馬を想像して創りだしているところがすばらしい。そして黒檀の馬を使って美男王子、美女王女らが繰り広げる物語は今読んでも面白い。果たして「黒檀の馬」は来年の賀状に役に立つか、それは今は何とも分からない。
12月5日(木) <今日はモーツアルトの命日・・・>
今日はモーツアルトの命日。モーツアルトは1791年12月5日にウィーンで亡くなった。享年35歳(1756年1月ザルツブルグ生まれ)。モーツアルトの幼児の頃からの神童ぶりはよく知られているが、この天才の生涯は決して”甘い”ものでなかったことを改めて思う。モーツアルトは7人兄弟姉妹の末っ子で、自分と一人の姉以外全員が幼児期に死亡している。そして22歳の時に母親が死亡、31歳の時に父親が死亡・・。その間華々しく演奏や作曲を披露する機会はあったとはいえ、”神童”に対する妬みや嫌がらせも尋常でなかったことは想像に難くない。そのモーツアルトの残した遺産を220年以上経た現代の我々が享受している。今日、久しぶりに部屋で聴いたCDは、ウィーンフィル演奏(指揮カールベーム)の「レクイエムニ短調K626」。この曲はモーツアルトが亡くなる時まで作曲していた“死者のためのミサ曲”で、未完のまま残されたので死後弟子が補筆して完成させたと言われる。いくら天才でもモーツアルトは後の世に音楽の再生装置を使って自分の作曲した音楽が地球上の至る所で無限とも言える大勢の人を元気づけることなど想像もしなかっただろう。この際、モーツアルトの残してくれた偉大な遺産に改めて感謝。
12月6日(金) <「The Setting Sun」・・・>
「The Setting Sun」というと誰の小説のタイトルか? もう一つ並べると分かる;「No LongerHuman 」。そう、太宰治の「斜陽」、「人間失格」の英訳版のタイトル。太宰の小説は英訳だけでなく世界中で飜訳されて読まれていることを、太宰治文学サロン(三鷹市下連雀)に行って知った。今日は友人の絵の展覧会があったので三鷹まで出かけた。ついでに展覧会場の近くにある禅林寺に寄り太宰治と森鴎外の墓参りをした(太宰が尊敬した森鴎外の墓の直ぐ向かいに太宰の墓が作られた)。三鷹は太宰が住んだ街。太宰治文学サロンも案内に従って初めて訪れたものだ。太宰治は今でも若者に人気があるようだが、私は昔小説を読んだ頃(若い時期)と少々見方が変わってしまった。青森・津軽地方の名家の出身で普通人からみれば贅沢三昧ともいえる生活をしながら退廃的なジェスチャーをしてみせるのは許すとしても、幼いこどもと妻を見捨てて愛人と入水自殺した顛末が許せない。それも38歳という若さで若い女性を道連れに死ぬ権利がどこにあるのか。太宰はこの女性の前に別の女性と入水自殺を図り女性だけを死なせた前科もある。小説家だから許された身勝手な行動を今更どうこう言うことはないが、死ぬのなら独りで死んで欲しい。もっともっと苦悩しながら、もっともっと生きたいと思いながら命が続かない人が山ほどいる・・。
 
2013-12-06@禅林寺(東京・三鷹市)     太宰治と森鴎外(本名森林太郎)の墓

12月7日(土) <久しぶりに目黒川沿いを散歩・・・>
久しぶりに目黒川沿いを散歩した。以前はこのコースを毎日のように散歩をしたけれど、陶芸教室が下北沢に移ってから自転車で目黒川に沿った道路を走るようになった代わりに、川沿いを歩く機会がほとんどなくなってしまった。今日は以前と同じように散歩の時に橋の名前をどこまで覚えているかチェックしながら歩いた。次の橋は・・と直ぐに名前が出てくるとマル(○)。100点満点ではないが意外に記憶していたのでチョッピリ安心した次第。今日通過した橋はこれだけ:中目黒公園橋ー田楽橋ー皀樹(サイカチ)橋ー宝来橋ー日の出橋ー別所橋ー桜橋ー宿山橋ー朝日橋ー緑橋ー天神橋ー千歳橋ー柳橋ー南部橋。14の橋があった(書き出してみるのもノートレだ>。ほとんどの橋には特徴がないので橋の形を見ただけでは名前は分からない。何橋の隣りが何という順序で覚えているので橋自体への愛着が伴っていないのが難点かも知れない。橋にも名前を連想させるような特徴をつければ面白いと思うが、無理だろうか・・。

12月8日(日) <無事是貴人・・・>
「無事是貴人(ぶじこれきにん)」の言葉を年末のこの時期に味わう。年末を迎えてこの一年とにかくも無事であったことを感謝することは吝かではないが、仏典(禅語)でいう「無事」は少々意味が異なる。「求心やむところ、すなわち無事」(臨済禅師)というように、悟りを開くために心をくだいて一生懸命に迷い考えることを止めることが「無事」。そして「貴人」とは、貴族を意味するのでなく、真に尊ぶべき人、悟りを得た人をいう。つまり善悪、正邪、美醜などにとらわれて迷い悩んだり、外に向って深遠なる道を”求める事を無くすこと”が悟りへの道とでもいうのだろうか。遠くに悟りを求めるのでなく、自然体で本来自分が生まれながらに持っている仏性に気づきなさいということにもなる。ここでは人の肉体は自分で作ったものではない、仏が与えた命であるから生まれながらに仏性を持っている・・と教える。他人や外界ばかりを見てイライラするのでなく、全てを手放し心を空にすると新境地が得られるとは今も通用する禅の教えであろう。

12月9日(月) <この冬一番の寒さの中・・・>
この冬一番の寒さの中、今日は午前中テニスで汗を流した。寒いといっても東京の気温は5〜6度程度だから運動すると汗をかく。テニスはかれこれ50年近く続けているので技術以外に色々な事を体験して学んだ。「好事魔多し」なんていう諺もテニスで実感した。体調が良くて身体もよく動く時に限ってやり過ぎて肘を痛めたり身体を壊す。調子に乗って無理をするとろくなことは無い。「図に乗るな」、「謙虚であれ」は身体の経験からも自戒の言葉のトップにある。「力を抜くこと」も若い時にはできなかった。無駄な神経や必要でない力を使って疲労する愚に気がつくには多くの失敗が役に立った。完璧なんてあり得ない、失敗ばかりしても許容されるところがテニスの良いところでもある。失敗にくよくよしない、先をみて行動するのみ・・。自分が主役でないことも学ぶ。パートナーと組んで相手と対戦するのであってパートナーとは信頼感がなければならない。相手をよくみて独りよがりでなく耐えることも必要だ。勝負事だから勝つに超したことはないが、素人テニスは勝ちにこだわることもない。プレーするチャンスがあることだけで”ただ感謝”が掛け値なしの本音である。

12月10日(火) <「ファミリーヒストリー」というNHKの番組・・・>
「ファミリーヒストリー」というNHKの番組がある。私は再放送でしか見たことがないが、著名人の家族の歴史を本人に代わってNHKが徹底取材して家族の絆を見つめる。本人が知らない衝撃の事実や思いもよらないルーツが発掘されて驚きあり感動ありのドキュメンタリー番組だ。最近、私も自分の人生を振り返る機会が増えた。そんな時に父母や祖父母の程度でも、そこに至る経緯、ヒストリーをほとんど知らないことに気がつく。母が亡くなる前に色々と話をしたい気配を感じながら聞けなかったことを後悔したり、移民であった父の両親が如何様に絆ができ如何にして日本に帰ることができたのか知りたかったとか、今になってはどうしようもないことばかりが頭を駆け巡る。一方で、NHKのように戸籍や資料を調べたり親戚をたどってある程度の事実はつかめるとしても生きた人の”真実”までは分からないだろうし、知ってどうなるのとも思う。「人に歴史あり」。どんな経緯であれ先祖のお陰でこの世に存在することを感謝しながら、できることは自らの歴史となる生き様に目を向けることだろうか・・。
12月11日(水) <昨日の風雨で今日の落ち葉掃除は・・・>
昨日の風雨で今日の落ち葉掃除は大変だった。近所の道路や吹きだまりに溜まった落ち葉も含めて30リットル袋3杯でも足りないほどの量。それでも落ち葉掃除はノルマでなく今や楽しい習慣となっている。「病んで医を知る」の諺と比較するのは余り適切でないかも知れないが、今いる場所を転居しなければならない事態になったところで何か今の家や庭が愛おしく思えて、ここに住む間だけでも家と近所をできるだけ掃除しようという気になる。今日も池の水面を一杯に埋め尽くした落ち葉を見ながら(下の写真a)、このような掃除ができる幸運を思った。二年先、三年先には掃除をすることもないだろう。次の落葉シーズンにはどうなっているだろう・・。そういえば今日の午後訪れた自然教育園(=ここ=)の展示ホールでは、この40年間に”白金の森”の形態がどのように変わったかを解説していた。初めは松のような針葉樹が背が高かったけれども落葉樹がどんどん大きくなる。一方で成長は遅いは常緑樹が徐々に伸してきて落葉樹と競り合う・・。森も常に変化をしている。有為転変は世の習い。生々流転ともいう。そのような流れの中で瞬間の「紅葉」を愛でるところがいい。
 
2013-12-11a=池の落ち葉と金魚と空と      b=恵比寿ガーデンプレイスにて
 
c=自然教育園(港区白金台)にて

12月12日(木) <人は始めることさえ忘れなければ、 いつまでも若くある・・・>
「人は始めることさえ忘れなければ、 いつまでも若くある」は、哲学者・マルチン・ブーバーの言葉。若くはない高齢者には希望を与えてくれる。マルチン・ブーバー(1878〜1965)はオーストリア生まれのユダヤ人で、この時代の多くのユダヤ人と同じくナチス政権を逃れてイスラエル(エルサレム)に移住した学者である。この人の著作は日本でも多く翻訳されているが、私がネットで調べてみて仏教関係の人からもブーバーの思想が支持されているところが非常に興味深かった(例えば=ここ=)。ブーバーは冒頭の言葉以外にも示唆にとんだ言葉を残しているので一部引用させていただく:「人生、出会いで決まる」、「ひとりひとりは、いまだかつてこの世に存在しなかった独自の存在である。したがって、自分にしか果たせない使命を持って、この世に存在しているのだ。もし同じ存在があったとしたら、この世に私が今いる必要はない」。・・ブーバーの著作をネットで注文しようと思いつつ・・。
2013-12-12庭の紅葉は今が盛り

12月13日(金) <今日、13日の金曜日は・・・>
今日、13日の金曜日は私にとって快適な日となった。NHKの朝ドラが終わった頃に家を出て、何といっても一日よく歩いた(といっても一万数千歩程度だから大したことはないが)。特に運動もせずに用事のある箇所を廻っただけで歩数を稼いだのは、自動車も自転車も使わなかったことによる。今日、都内を歩いた「区」を書き出してみると、渋谷区、目黒区、大田区、品川区、世田谷区とこれだけ。東京都の中でも偏っているのは否めない。歩く以外にバスには乗った。普段は車で動く範囲をバスと歩きで移動すると思わぬ道を通るので面白い発見がある。自家用車よりバス、バスより自転車、自転車より歩きの方が移動中に充実感があるはどうしてだろう。移動中の時間は食事の時間と同じにも見える。内容があれば芳醇な時間となる。ただ腹に入れるだけの食事であれば短時間で十分だ。「歩き」は時間と周囲の風物を味わう”ゆとり”があって初めて可能な贅沢かも知れない。
12月14日(土) <最近、マルベリーが・・・>
最近、マルベリーが気にいっている。ここでいうマルベリーは英国製のブランドでもなければ店の名前でもない、普通の「桑の実」のこと。毎食後のデザート(?)でいただくのは、Black Mulberriesとある黒い桑の実の乾燥品。私の唯一健康診断で引っかかる”鉄分不足”の補給用として娘からプレゼントされたものだ。レーズン(干しぶどう)ほど味がなく初めは馴染めなかったが徐々に甘過ぎない味と歯ごたえがこたえられなくなった。何より「桑の実の栄養価」(例えば=ここ=)を見ると、これはもう止められない。桑の実がこれほど効能があるのに、今はそれほど注目されていないのは桑の木の衰退が関係あるのだろうか。一昔前には絹織物の元となるカイコの餌として桑は極めて重要な作物であったのが今は様変わりした。昔の日本では桑がいかに身近であったかは、桑田、桑沢、桑名、大桑などの名前を見ても分かる。そういえば、「夕焼け小焼けの赤とんぼ・・」の歌詞の先に、「山の畑の、桑の実を、小籠に摘んだは、まぼろしか・・」とあった。・・これからは、もっと「桑の実」を食べようといいつつ、今あるMulberryの袋はアメリカ土産であることに気づいた。日本製の「桑の実」を見つけなければならない。

12月15日(日) <宇宙のことを考える人・・・>
宇宙のことを考える人を尊敬してしまう。ましてや”宇宙の構造”など尋常の頭脳では想像もできない。宇宙でないものは何か、無なのか、宇宙の始まりとは何か、何故宇宙があるのか、どのような力が作用したのか・・。宇宙はもう神の領域のように見えるところで、これを考察する人間も人間でよくも気が狂わないものだ。宇宙スケールで見ると、人類が生誕してからの時間でさえ瞬時、国も、地球も、太陽系も、銀河系もほんの塵に過ぎないか・・。表紙に今日の作品して「COSMOS茶碗(陶芸)」を掲載した。「宇宙の構造」の画像をヒントにして制作した茶碗(反対面では一輪挿し)。対象形の曲面が面白いと思っただけで、宇宙構造との関連は理解しないまま適宜形状を造り上げた。先に陶芸教室で同じような大型容器を制作中だが、家で創って電気窯で焼き上げた試作品が先に出来上がったもの。COSMOSのタイトルにこだわらなければ、陶芸としての可能性を持った形状とみたい。これからは応用編をもう少し考えてみよう・・。

 
2013-12-15夕刻墓参にいった九品仏・浄真寺(世田谷区)にて

12月16日(月) <老いは全てが衰退することでは決してない・・・>
老いは全てが衰退することでは決してない」とある本に書いてあった(「ヒトはどうして老いるのか」/田沼靖一著/ちくま書房)。20歳を過ぎると神経細胞は毎日平均10万個以上死んでいく。けれども、認識や思考と言った最高次の機能を司る領域で神経細胞が増えるところがあるという。そして脳全体では神経細胞は減少するが経験や知識、思索による知性と感性は高齢になっても発達し得ると今の脳科学では証明されている。脳の力は神経細胞の数だけで決まるのではなく、神経細胞同士が結びつくネットワークで脳は強化されるという訳だ。脳に新鮮な刺激を与えることによって高齢者でも進化するという見方であるが、では何をすれば良いのか。この本で著者は高齢者が知性と感性(直感力を含めてもいい)で判断した道を実行する”勇気”が必要と言っている。それは確かに思える。”○○すべき”と自分に言ってもはじまらない。能書きだけならば他人が書いた教科書のようなもの。自分で考えた道を実行するか否かがポイントであろう。・・こう書くこと自体も容易だが・・「言うは易く行うは難し」Easier said than done。
12月17日(火) <プラシーボ効果・・・>
プラシーボ効果は薬治療に関連して昔からよく知られている。乳糖やブドウ糖、生理食塩水など薬理作用のない(=薬の成分のない)ものをエライお医者さんが「これは痛みによく効くよ」といって患者に飲ませると実際に痛みがなくなるなど効力がでることがプラシーボ効果。偽薬効果といえば言葉が悪いが、暗示効果による心理療法で患者から喜ばれるのであれば言うことはない。医学としてプラシーボ効果がどう評価されているのか知らないが、私は人間の心と身体(神経)は想像以上に強く結びついていると確信している。薬だけでなく健康食品や諸々の試作物、極端に言えば運命に至るまで「良く思い込む」ことは決して悪いことではない。むしろ自己暗示で運命を切り開くことさえできる。「鰯の頭も信心から」とは軽蔑的に使われることがあるが「信心」を侮ってはならない。また「心頭滅却すれば火もまた涼し」という。先人たちは意識せずに身体のセンサーが心の持ち方で変わることを体得していた。薬学とは無関係に、プラシーボ効果を心と脳科学を合体させて研究すれば新しい分野が開拓できそうだが、どうだろう・・。
表紙の写真は「COSMOS茶碗」に庭の万両を活けてみた。


12月18日(水) <雪が降りだしそうな寒さ・・・>
雪が降りだしそうな寒さの中、義兄の墓参り。谷中(東京・台東区)にあるお寺に毎月墓参りにいくことにしているが、この近辺に以前はほとんど縁がなかったのでお寺の周りを巡ると毎回新しい発見がある。今日も根津駅の側でイタリアンの食事をとった後、谷中近辺を散策した。初めは「下町風俗資料館」に行こうとしたが歩くには遠かった(上野の不忍池脇)ので、墓のある寺の直ぐ側の「下町風俗資料館付設展示場=旧吉田屋酒店」に寄った<下の写真左、参考サイト=ここ)。このような江戸情緒を感じさせる建造物で残っているものは今やほぼ100%、役所(台東区など)の所有物だ。個人の所有物を代々引き継ぐことはできない現実をここでも見せられる。江戸情緒とは異なるが、今日は谷中の街を歩くだけで多くの巨木が目を引いた<谷中霊園の中にも何本もの巨樹がある>。下の写真右にはヒマラヤ杉の写真を二葉掲載した。お寺の敷地にある樹木ならともかく個人の土地の中でこの巨樹も最早維持できないのでないかと心配しながら「保護樹木」の名板をみる・・。
 
2013-12-18 旧吉田屋酒店           谷中1丁目のヒマラヤ杉の巨木 (右)=@ 玉林寺

12月19日(木) <毎年今のシーズンになると・・・>
毎年今のシーズンになるとスエーデンの友人とクリスマスの挨拶を交わす。同時にお互いに近況報告をするのが習慣だ。今日は最近使うチャンスがめっきり減ってしまった英文で、長い手紙を書いた。自分でもおかしくなるくらい簡単なスペルを間違えたりしながらも意外にすらすら文章が書けたのでひと安心・・。スエーデンの友人には丁度1ヶ月ほど前に「マイクロ・ヘリコプター」を発送した(11/20コラム=ここ=参照)のだが、昨日このクリスマスプレゼントが届いたとの連絡を受けた。予想通りというか期待以上に大喜びをして早速飛ばして遊んでくれたようだ。考えてみると日本で彼ほどマイクロ・ヘリコプターを喜んでくれそうな友人を思いつかないのが少し寂しい。・・今晩はこれからグレゴリアンミサにでかける。昨年も参加したので信者でないが何となく雰囲気は分かる。「ミサ」はカトリック教会における「感謝の祭儀」。使われるグレゴリオ聖歌は中世から受け継がれている典礼曲でハーモニーのない単旋律の音楽だ。しばし別世界に浸ることができれば幸い・・。

12月20日(金) <昨日から降り続く冷たい雨が・・・>
昨日から降り続く冷たい雨が今日の午前中には止んで午後は晴れとなる予報(東京都心)だった。確かに正午頃に一旦雨が止んだけれども、間もなく黒雲が来襲し激しい雨がぶり返した。夕方も未だ雨が残る。天気予報としては"ハズレ”とみるが気象予報士さんはミスとは言わず一言の弁解もしないだろう(近頃の、民放テレビに出る気象予報士は何故スター気取りで横柄な態度なのだろう)。こんな日、朝昼夕と3回道路の落ち葉掃除をした。雨の中、勿論濡れ落ち葉。道路を通る人が滑りそうになるほど積るので掃除するのだが、いくら掃いても濡れ落ち葉はとりきれない。今の時期はほとんどがカエデ。カエデは地面に積っていても、掃除の後残っていても、「絵」になることを発見した。「大地面 キャンバスとして 濡れ落ち葉」(TH)
今日の表紙に「COSMOS茶碗/裏面」(陶芸)を掲載した。裏面としたが裏も表もない容器のつもり。奥深く沈み込む穴の形状が面白いので、この茶碗を創った。


12月21日(土) <学則不固・・・>
「学則不固、過則勿憚改=学べば即ち固ならず、過ちては即ち改めるに憚ること(はばかること)なかれ」(論語)。<たまには論語など書き出してみようと書き始めると横書きの漢文は随分と違和感があるものだ>。引用した孔子の言葉(論語)の全文はもう少し長いが(=ここ=参照)、君子でもなんでもない私は冒頭の二項目を常に自分に言い聞かせたいところだ。ほんの少し学び、経験しただけで自分の考え方を固めてしまう人が何と多いことか。自分自身の間違いを気づき訂正することが何と難しいことか。高齢者は特にフレキシビリテイー(融通性)がなくなる傾向があると指摘されるが、まさに論語でもフレキシビリテイーの重要性を説いている。古典を繙く(ひもとく)とハッとする箇所に遭遇し刺激を受ける・・。
今日の写真はサンルームの天井ガラスに張り付いた濡れ落ち葉。濡れた状態と半分乾いた状態を並べてみた。
 
2013-12-21ガラス上の濡れ落ち葉

12月22日(日) <迷惑メール対策・・・>
迷惑メール対策に本気で取組まなければならない事態となった。これまで携帯メールに届くのは知り合いからのメールと他はユニクロとマクドナルドに限られていた。ユニクロもマクドナルドも登録したのでしようがない。マクドナルドの情報は役に立つこともあった。それがこの3〜4日前から突然迷惑メールが大量に送られてくる。初めは削除だけしていたが、今は開封せずに「迷惑メール」の場所に入れた後まとめて削除する。それでもまだしつこく続くので放置できなくなっている。ソフトバンク携帯のアドレスに単純な名前を設定したため迷惑メールのターゲットとして検知されててしまったのかも知れない。それにしても今になって何故(登録したアドレスが漏洩したのでないでしょうね)。インターネットで調べるとソフトバンク携帯の迷惑メール対策が色々と解説してある。これも携帯やパソコンを詐欺の道具にする悪い奴らに対抗するために必要な現実か。防御に習熟するのもまたうれしい進化。早々に対策に取組みましょう。
今日の写真(下)はいずれも約8000歩のウォーキング途中で撮ったもの
 
2013-12-22 @恵比寿ガーデンプレイスのクリスマス飾り  南天と目黒川の鷺

12月23日(月) <今日は天皇誕生日。天皇陛下は80歳・・・>
今日は天皇誕生日。天皇陛下は80歳を迎えられた(昭和8年、1933年生まれ)。日本人の平均寿命は男性が79.9歳、女性が86.4歳だから、ようやく平均寿命と並ばれたといえる。子供の頃を考えると80歳とはとんでもないお年寄りに思えたが現在では寿命の平均値に過ぎない。私の周囲にも80歳で元気な知り合いが多い。親戚筋の兄姉をはじめ、メール交換する外国の友人、いつも啓発される国内の友人など、気がつくと軒並み80歳だ! 今年80歳で亡くなった大島渚、川上哲治さんたちが早すぎるように見えるとは大変な時代になった。人間を次の5種類に分ける見方がある:1.いなくてはいけない人 2.いたほうがいい人 3.いてもいなくてもいい人 4.いないほうがいい人 5.死んだほうがいい人。これは何を基準に、誰にとってか・・と疑問がわくが、高齢者には厳しい分け方だ(どこかの国では、昨日までの同志を”いないほうがいい”と抹殺した)。私が80歳の友人から元気やパワーをいただくことを考えると私にとって友人は皆”いなくてはいけない”存在だ。2020年の東京オリンピックの年にほぼ相当の年齢となる自分がそのような存在になれるかは何の保証もない。

12月24日(火) <「火曜日」は・・・>
「火曜日」は気をつけなければならない。今日は火曜日であるけれども昨日の月曜日が休日。そうすると月曜日を休館にしている美術館は休日を開館して翌日の火曜日を休館とするところが多い。今日は何も考えずに「智美術館」(=ここ、「現代の名碗」開催中)に行ったところ「本日休館です」、・・で昨日が休日だと気がついた。あえて時間をやりくりして港区虎ノ門まで出かけたので、それでは〜と近くの「城山ガーデン」に入ってみた。城山ガーデンは都心の一等地に超高級マンションやオフィス棟、スエーデン大使館、テレビ東京のビルなどが総合的に配置されたゾーンで近づき難い雰囲気だ(案内=ここ)。それでも一般の人が通れる広場や通路もある。昔、豪族の城跡があったという「城山」の紅葉はほとんど終わっていたが樹木が多く、一方人影がない別世界だった。東京は広く、そして、深い・・。
 
2013-12-24 @城山ガーデン(港区虎ノ門)
にて
12月25日(水) <「数寄者(すきもの、すきしゃ)」とは・・・>
「数寄者(すきもの、すきしゃ)」とはこういう人物かと納得。川喜田半泥子の説明に"近現代を代表する「数寄者」"と紹介されていたのである。川喜田半泥子(1878/明治11年〜1963/昭和38年)は15代続く伊勢の豪商の家に生まれ16代当主となった後、若くして財界、実業界で活躍する一方、生涯を通して陶芸、書画、茶道、建築、俳句などを嗜み多くの優れた作品を残した。中でも陶芸での名品が有名である。同時代の陶芸家、荒川豊蔵、金重陶陽、三輪休雪、加藤唐九郎らと交流を持った(あるいは支援した)がこれら専業の作陶家とは一線を画し、自由で奔放な作風を確立したとされる<ちなみに、KJ法でお馴染みの川喜田二郎先生は半泥子の次男>。今日みた「現代の名碗」展(@智美術館=ここ)では先にあげた人間国宝の陶芸家たちの作品以上に何より川喜田半泥子の作品が印象深かった。展覧会には現役の一流作家の茶碗も並べられており、歴史作品と比較しながら興味深く見ることができた。半泥子の思い切りのいい、自由闊達な茶碗をみていると、専業ではなく「数寄者」と言わしめた陶芸以外の諸々の経験があったからこそ、その独自な境地を持った茶碗が生まれたように思える。
2013-12-25智美術館入口にて

12月26日(木) <よい年を! 別れの挨拶・・・>
「よい年を! 別れの挨拶 暮れテニス」(TH)。今日は今年最後のテニスだった。気温は4.8℃と寒い。それでも風はなく曇り空で太陽も邪魔にならない絶好のテニス日和のもと存分にプレーを満喫した。誰にというのでなく云いたい:今年一年楽しませていただきました。ありがとう・・。
庭の紫陽花の葉が色づいて、これも最後の輝きを見せている(下の写真)。「紫陽花の 葉が美しや 年の暮れ」(TH)。
表紙には陶芸作品「COSMOS茶碗/裏面」に花を活けてみた。

  2013-12--26

12月27日(金) <年賀状を出す相手の顔を・・・>
年賀状を出す相手の顔を思い浮かべながら一言書くのが今の時期。同窓会でも会ったことがなく中学以来60年間賀状の付き合いだけの人がいた。また40年前の新入社員教育で縁ができて以来、賀状のやりとりを続けた人たちも既に定年を迎えてそれぞれの道を歩んでいる。もし、どこかで出会ったとしても誰だか分からないだろうと思う人が結構多い。「本年もよろしく」と日常の挨拶ができる人は限られるものだ。年配の知人で年賀状は自分からは一切出さずに受け取った人だけに返事を書くという人がいた。先生など目下の人からだけ賀状を受けとる人はそれもありかも知れない。けれども、私などは自分から賀状を出さない事態は社会生活そのものが危ないのでないかと思ってしまう。面倒くさい、余計な付き合いはしたくないは老人の性向。それでは何をやっているの、何が面白いのと問われる。生き甲斐なんて大抵は余計なところにある。面倒だから物事やり甲斐があって面白い。たかが年賀状であっても案外に生き様がでてしまうのか・・。

12月28日(土) <今年最後の陶芸作品・・・>
今年最後の陶芸作品「COSMOS容器a」(陶芸)を表紙に掲載した。直径約230mm×高さ200mmのこの容器、制作の経緯については11/16付けコラム、粘土乾燥時の状況については11/22付けコラムに書いた(=ここ)。釉薬は初め素手で織部釉を塗り、線の近辺以外は拭き取り最小限を残した(土は貫入土=白系)。焼成時は写真で見る上部を下として脚の部分をフリーにして窯に入れた(反対面写真は追って掲載予定)。前に書いたが粘土乾燥時に四本の脚のうち一本が折れてしまったが、これは焼成した後接着して完成させた。色々と経緯はあるが、形状自体は気に入ってる。第二、第三のCOSMOSを制作すると、形状は同じでも全く異なった”宇宙”ができそうな可能性を感じる第一弾だ。


12月29日(日) <大掃除の時節・・・>
大掃除の時節、今はインターネットで掃除やリフォームのテクニック、最新の掃除道具、修理用具などを存分に見せてくれる。今日は「染めQ」という塗料が我が家の話題を独占した。これはナノテク技術で塗料の粒子を従来の100分の1にして面の微細な凹凸の内部に粒子が入り込むことができるようにしたもので、結果、金属やプラスチックから家具、木材、皮革、ビニールレザー、布、ジーンズなど大抵のものに素材の感触を変えることなく塗布することができるとされる優れもの。塗るというより「染める」感覚で素材の色を変えることができるので「染めQ」の名が付けられた。古い家具やバスタブの再生などにも有効で実際にホテルなどでもリフォーム用として使用されているという。我が家でもリフォーム需要は山ほどあるので「染めQ」によるリフォームを試みようかと検討を始めた。「染めQ」を扱う「kk染めQテクノロジー」という会社(=ここ)は以前自動車用の塗装をやっていた会社。この会社の社是「ヒトのやらないことをする」,「ヒトのやれないことをする」が気に入った。
今日の表紙には 「COSMOS容器B」(陶芸) を掲載。昨日掲載した写真の撮影アングルを変えたもの。


12月30(月) <人間にとって成熟とは何か・・・>
「人間にとって成熟とは何か」(幻冬舎新書/曾野綾子著)を読んで本の題名と同じ疑問が深まってしまった。食物の場合、野菜やお刺身などは新鮮さが第一であり、一般的に年月を経ると味が落ちて腐る。人は食物を如何に腐らせないで長期間食用にできるかを探求して多くの熟成技術を見いだした。採りたての材料にはない味を時間をかけて創り出す技はすばらしい。冒頭の本で著者の言いたいことはほとんど同感であるが、曽野さんが女性国会議員の実名を挙げて”○○の言動は未成熟”と何度も指摘する箇所など逆にご本人の未成熟さを露呈しているようで気持ちのいいものでなかった。成熟した人ならば他人の長所だけを強調するものだ。人間は年齢を重ねると「熟成」した独特の味をだすこともあるが、年齢と無関係に若い人でも成熟した考えができている人も多い(歳とともに腐ってしまう例はいうまでもない)。年齢を重ねることと「成熟」とは相関が大きくはないというのが私の考えだ。そして年齢が上の人が下の人に言い聞かせる構造は意味をなさない。102歳の日野原重明さんが82歳の曾野綾子さんに「歳をとるということはな〜」と説教すると滑稽だ。恐らくは著者(曽野さん)に出版社が提案して「成熟とは何か」を書かせたものだろうが、作家の成熟は小説の中身で見せてほしいと思った。
表紙には陶芸作品「 COSMOS容器C」を掲載。以前掲載の作品を上下逆にした写真。この状態で使用しても面白そうだ。

 
2013-12-30 代官山T-ゾーン(蔦屋書店)には門松ができた

12月31(火) <大晦日。1年前のこの日・・・>
大晦日。1年前のこの日、6ヶ月後に義兄が亡くなるとは夢にも思わなかった。義兄は83歳であったが全てに行動的で身体の悪いところもなく私たちが心底敬愛する人であった。”マサカ”の急逝で衝撃は大きく半年は経過しているが明日からのお正月は私たちも準喪中として静かに過ごす予定だ。人は誰でも、これからの1年で何が起こるか予測はできない。ただ、自分たちは、この2013年を健康で大過なく過ごせたことに感謝するのみ。「亡くなりし 義兄を思う 大晦日」(TH)。
皆様、よいお年をお迎えください!

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