これまでの「今日のコラム」(2014年 1月分)

1月1日(水) <明けましておめでとうございます・・・>
明けましておめでとうございます。
朝食前に明治神宮へ初詣にいった。南神門から本殿前の広場に入る付近(下写真)で妻がi-Phoneを取り出してニューヨークの娘のところに電話(スカイプ)をする。話をしながら「これが南神門・・」などと目の前の風景をニューヨークの娘や孫娘に見せていたのが今年初めのトピックだ。ニューヨークはこの時間大晦日の夕方。個人が世界とつながる進化の一方で神様に幸運を祈るのも現代の姿であろう。帰宅した後、年賀状をみながら美味しいお雑煮の朝食をとる。今年がよい年となりますように・・。

 
2014-01-01 @明治神宮(東京)

1月2日(木) <墓参りに行くとお寺の仁王門の脇に・・・>
墓参りに行くとお寺の仁王門の脇に大きな門松が建ててある(下の写真参照)。このお寺(九品仏・浄真寺/東京世田谷区)は毎年正月には門松を建てるのでお馴染みだがお寺の門で神様をお迎えするという鷹揚なスタイルが私は好きだ。今日は息子の月命日で墓の前にはまた缶ビールが供えてあった。毎度のことで、どなたの心遣いかは分からないけれどもありがたい。昨日の元旦に続き今日も穏やかで温かい天気。このようなお正月は自然体に限ると頭も身体も休息している。
 
2014-01-02 @九品仏・浄真寺/東京

1月3日(金) <今日は家具再生のスタート・・・>
今日は家具再生のスタート日。昨年末に購入した「染めQ」を使って、先ず手始めに小型のサイドテーブルを塗り直してみた。「染めQ」については昨年暮れ、12/29日のコラムで書いた(=ここ)。色の塗り直しと行っても、今回は先ず耐水ペーパーで汚れを落とした後、クリーナーで再度洗浄、その後、密着性の高い「染めQ」をプライマーとして塗布して最後に白色染めQを塗る行程で結構手間をかけた。再塗装が完了したテーブルの写真を下に掲載する(ポインセチアの花はアクセントとして置いただけ)が、このようなテーブル4個が今日の成果だ。我が家は遠からず今の家をでて転居しなければならないので家具を整理し始めている。古い家具でも持って行くものは、この際リフォームをしようと年の初めに着手をした。「染めQ」を使うリフォームがうまくできるようだと、これから再生作業で忙しくなりそうだ。
2014-01-03

1月4日(土) <ニューヨークは気温マイナス13℃・・・>
ニューヨークは気温マイナス13℃で大雪だという。ニューヨークに住む孫娘が雪の上で遊ぶ犬の動画(You Tube)を見せてくれた。そんな娘家族に小荷物を送ろうと郵便局(土曜日であるので本局)へ行くと随分待たされた。待ち時間にKindle(アマゾンの電子書籍)でまた「重力とは何か=アインシュタインから超弦理論へ、宇宙の謎に迫る=」(大栗博司著)を読み返した。時間があるとこの本を開くが私には宇宙の構造は何度読んでも理解できない。けれども天才科学者たちが宇宙の謎に迫ろうとする気迫だけは分かる。この本の中で、あの車椅子の物理学者、ホーキング博士がしばしば登場し”ブラックホールの蒸発理論”などとんでもない発想をした学者だと知り、別個に博士のことを調べてみた(=ここ)。ホーキング博士は1942年1月イギリス生まれ(何と年齢は私の丁度1年下だった)。今は車椅子に座り特別な意思伝達装置を使って会話する姿をテレビでみるが難病である筋萎縮性側索硬化症を発症したのは21歳、その後症状の進行が弱まり発症から50年以上経った現在も健在であるのは奇跡的であるという。その間、理論物理学、宇宙論などの分野で多くの業績を挙げる一方、2度結婚し、2度離婚している事実も知った(2度目は69歳で離婚!)。しかも、間もなく72歳になる年齢であるのに宇宙船に乗る予定もしている。ホーキング博士を知ると改めて人間の能力の深さ、不可思議さに圧倒される。一般人も可能性を決めつけてはならないのだろう

 
2014-01-04 @鍋島松濤公園(東京・渋谷区)の水車小屋  右は代官山T-SITEにて「書」のデモ

1月5日(日) <書店でのセルフレジ・・・>
書店でのセルフレジを初体験した。今は自動車のガソリンを入れる場合、セルフは当たり前で、私たちはセルフ以外のところでガソリンを補給することはほとんどなくなった。けれども書店でのセルフは初めてだ。この代官山T-siteの蔦谷書店でのセルフは実に優れもの。本を何冊でもレジの場所に積み上げると即座に金額が出る。お金を入れるとお釣りもきっちり出てくるのでそのまま本を袋に入れて持ち帰ればいいのだが、私は初めてで万引きと間違えられないかと定員を呼んで確認してしまった。勿論、お金を払わずに書店を出ようとすると警報がでるなど防御装置があるのだろう。このようなシステムが可能ならばコンビニやスーパーでも導入してもよさそうだが、まだお目にかからない。一方でカードによるキャッシュレスは進んでいるので、セルフレジは時間の問題でコンビニやスーパーにも導入されると思われる。買い物のやり方も日進月歩。自分で動かなければ買物もできなくなるぞ・・。
今日の写真(下)は代官山・朝市(蔦谷書店の隣にて)。朝7時から朝市開催で、この時間すでに蔦谷書店もオープンしている。
2014-01-05 @代官山・朝市

1月6日(月) <自分だけよければいい・・・>
「自分だけよければいいとは思わない」という言葉に考えさせられてしまった。その後に続く言葉が問題。「だからできる限り被災地に寄付をする」、「ボランテイアで貧しい人を援助する」となると立派だ。けれども「だから子供たち、孫たちのことを考える」と続くと素直に同意できなくなる。人は自分一人の満足で片付かないから人間同士が殺戮をする歴史を繰り返してきたとも言える。「自分の子供と子々孫々の繁栄のため」、「自分の一族のため」、「村のため」、そして「国のため」・・。いずれも”自分だけよければいい”とは決して思わないが故に、いわば身内の利権を確保し財を拡大させるために障害となる相手に勝とうと粉骨砕身する。そうかといって一方で「他人に良いこと」も少々怖い。他人とは誰なのか。国と国の駆け引き、外交などはこうした微妙なせめぎ合いなのだろう。限られたパイの場合、小さな個人が皆”自分だけ”で我慢すれば最も多くの個人が満足できることは確かである。
今日の写真(下)は最近東京・南青山のできた台湾発パイナップルケーキブランド「SunnyHills(微熱山丘)」の国内1号店(=ここ=)。建築家、隈研吾氏の設計した組木格子の作りがユニーク。テニスの帰りに自転車で前を通り撮影した。
2014-01-06 @SunnyHills(微熱山丘)<東京・南青山>

1月7日(火) <自分より強いもの、優れたものに接する・・・>
自分より強いもの、優れたものに接すると幾つになっても脳は活性化するのでないか。昨日のテニスではいつになく強い相手と対戦し、珍しく闘争心を呼び起こされた。気を抜いて楽しくお付き合いするときと全く別で、精神が高揚して脳が興奮する感覚となる。歳をとると競うのでなく楽しくプレーできればよいと思いがちだが、こんな闘争本能は今しばらく維持しておいて悪くはない。読書の場合も同じだ。一ヶ月前にコラムに書いた(2013-1/12=ここ)「マルテイン・ブーバー」の本をインターネットで購入して読み始めると、これがかなり難解。この本「我と汝・対話」(岩波文庫)は冒頭の「世界は人間のとる二つの態度によって二つとなる」からはじまって、<われ-なんじ>、<われ-それ>が語られるのだが、1ページを何度も何度も読み返しながら先へ進む。十分に理解はしていないかも知れないが何か奥深い哲学に接した気持ちになる。いくら年齢を重ねたとしても自分が接した世界はほんのチョッピリ、自分が学んだことなど塵に等しいと考えると、この世の中はまだまだ知らないものだらけだ。逆の見方をすれば、脳に刺激を与えてくれるものが、“優れたもの”とみよう。
今日の表紙には陶芸作品に山茶花を活けた「COSMOS容器D」を掲載した。



1月8日(水) <「鵯」と書いてヒヨドリ・・・>
「鵯」と書いてヒヨドリと読む。「鵯の こぼし去りぬる 実の赤き」(蕪村)。昔から千両や万両の赤い実をヒヨドリが食い荒らすのは当たり前であったのだろう。今朝、庭の苔が異常にほじくり返されているのに気がついた。いよいよヒヨドリの活動が始まったのである。以前、このコラムでも書いたことがあるが都会の真ん中でもヒヨドリがある期間活発に庭を荒らす。一番の被害が「苔」。苔にくちばしを差し込んで虫をとるなんていうものではなく、苔を広くむしり取って放り投げるのでヒヨドリの仕業は直ぐに分かる。以前は目の前で1日に何度もほじくり返す現場をみたことがある。今日は苔を元に戻して補修しながら”ヒヨドリも子育てや生活がかかっているのだろう”と不思議にヒヨドリに同情的だった。この苔のある庭も間もなく他人の手に渡るのだからとアキラメや打算があるのだろうか。観光用の苔庭はヒヨドリなど鳥被害を防ぐのに尋常でない苦労をすると聞いたことがある。美しさを維持するためには自然に任せる訳にいかない。ヒヨドリさんに苔の代わりになるオヤツでもあげようかとも思うが・・。
2014-01-08 ヒヨドリに荒らされた苔

1月9日(木) <「今日のゴミ箱」の写真・・・>
「今日のゴミ箱」の写真を孫娘が自分のブログに掲載する。13歳になる孫娘はニューヨークのマンハッタンに住んでいるが、時々の「ゴミ箱」写真がその都度実に的確にニューヨークという街を表現するので感心する。昨日掲載された「ゴミ箱」写真はゴミに埋もれてゴミ箱が見えない風景。どこの道にもクリスマスツリーを横たえて捨てる人が多いのでゴミ箱が見えませんと解説があった。ニューヨークではゴミを選別して出す必要はないので、燃えないゴミも燃えるゴミも一緒に捨てる。日本に住む外国人(欧米、アジア、他世界中からきた人々)が例外なしに驚くのは日本のゴミの捨て方が極めて厳格であることだという。可燃ゴミ、不燃ゴミ、資源ゴミ、粗大ゴミなど細かく分別して捨てなければならない。更にそれだけではなく、私たちの街では、例えば資源ゴミでは、新聞・段ボール類は種類別にひもで縛る、ビンと缶は別の袋(中身の見えること)に入れる、ペットボトルはラベル等をはがし、内部を水ですすいで、つぶす・・など細部まで指示されている。そして大部分の日本人がそれをきっちりと守るところが驚異的だ。どうみても東京で「今日のゴミ箱」を取り上げても面白くなさそうである。

1月10日(金) <無意識に生じる身体の反応・・・>
無意識に生じる身体の反応は頭で意識するよりはるかに正確であるようだ。今日はこの冬一番の寒さとなり早朝の道路掃除のときも手がかじかむほどだった。外出時は元より家の中でも当然防寒対策には気を使っている。ところが家の中で両足の指がかゆくてしょうがない。靴下を脱いでみると真っ赤になってしもやけ寸前にみえる。これは靴下の上に更に温かな部屋履きスリッパを掃いていると収まった。自転車で陶芸教室に行った際には手袋をしていたのに自転車を降りた直後に手がつってしまった。これもお湯で手を温めてやると正常に戻った。足の指にしても手の指にしても自分では我慢できないほど寒さを感じていないのに”勝手に”身体が反応している。身体の反応とはある種の危険信号で脳に対して警報を出しているのだろう。過労の場合も自分ではコントロールできずにある限度を超したところで身体が壊れて当人を休ませようとする。どうも人は自分の身体をコントロールできると過信しないほうがよさそうだ。「無理がきく」なんて言わずに身体の出す警報を素直に受け入れよう。
表紙には陶芸作品「COSMOS容器E/花を活ける 」を掲載。庭には山茶花がまだ咲いている。万両の赤い実も今が盛り。


1月11日(土) <”精神年齢はあなたより上”・・・>
”精神年齢はあなたより上”と孫娘の歳を聞いたとき妻から言われてしまった。それもよかろうと、最近は孫娘のネタを書くのを躊躇しなくなった。ニューヨークのミドルスクールに通う孫娘が今年から学校で全てがペーパーレスになった状況を綴っているので引用してみよう<学校中でWIFIが通じているから彼女のブログもiPadで休み時間にupするという>。「・・生徒全員にiPadを配って、授業のノートとか宿題とか教科書とかテストとかプロジェクトとか、全部iPad・・」、「例えば、宿題は、iPadで本とか記事を読んでiPadのGoogle Docsに感想を書いて、学校のウェブサイトに”宿題の提出”っていう場所があるからそこに入れます・・」。こんな調子だ。「鉛筆とかペンとか消しゴムを使わなくなりました」とも書いている。日本でも似たような動向にあるのだろうが明らかに教育の手段がいま大転換期にある。これからの子供たちが文字を書くことができるのか心配になるが、2〜3日前、ニューヨークから届いた荷物に孫娘の手紙が添付してあり、手書きで美しく丁寧な文字(勿論、日本語)であったのをみて少々安心したところである。

1月12日(日) <今日の表紙に「Mieuへの絵手紙・枯葉」・・・>
今日の表紙に「Mieuへの絵手紙・枯葉」(ペンと水彩)を掲載した。年の初めの絵手紙としては我ながら地味すぎると思いながら、これが現状の姿かも知れない。陶芸の作品造りにしても、絵を描くにしても、明らかに集中していない、無心でないことが自分でも意識できる。つまり、このコラムでも時々書いているが、今住んでいるところを離れて転居するため検討の真っ直中にある。そうすると生活のベースが定まっていないのでのんびりと道楽する気分にはなれない。生活が安定していて初めて”創作”ができるのかと、今更「ゆとり」の大切さを考えさせられる。といっても、松尾芭蕉や種田山頭火など毎日旅をしながら俳句や創作活動をした例はいくらでもある。要は生活のリズムと精神的な余裕がポイントなのだろうか。このところ2,3日妻が不在で自分で料理を作ることになった。久しぶりに自分の手料理で俄然張り切っているから創作は不調であるけれどモノツクリへの意欲はあるとみたい・・。

1月13日(月) <「今日の写真」として「ポインセチア」・・・>
「今日の写真」として「ポインセチア」を掲載する(下)。ポインセチアはクリスマスの花とされるが、飾る花の少ない今の時期、華やかな赤色で元気づけてくれる。もっとも真っ赤な部分は花ではなく、中央部の花を包む「苞(ほう)」と呼ばれる葉である。真っ赤な「苞葉」と濃い緑の葉とのコントラストが鮮明だ。赤がキリストの血(贖罪の血)の色、緑が永遠の命を表す色として赤と緑がクリスマスの色であるのでポインセチアがクリスマスの花となったとの説明があった。そういえばクリスマスにつきものの装飾である西洋柊(ひいらぎ)も真っ赤な実と緑色の葉である。それにしてもポインセチアは見るからにメキシコ原産で、日本原種の植物にはこのような派手さはない。今はクリスマスと関係なくポインセチアを楽しんでいるが、実はこのシーズン二代目の鉢。はじめのポインセチアはあっという間に苞葉、緑の葉ともに駄目にしてしまった。原因はおそらく”水のやり過ぎ”。ポインセチアは意外にデリケートな植物で、置き場所、温度管理、水やりなど注意しなければ直ぐに枯れてしまうことを失敗から学んだ。
2013-01-13ポインセチア

1月14日(火) <「人間は動物である」・・・>
「人間は動物である」と突然に気がついて嬉しくなった。早朝に起きて道路掃除など一仕事するのが、今はさすがに寒さがこたえる。暖房なしで動かずにじっとしていると少々着込んでいても身体が深々と冷えてくる。それが帚(ほうき)を持って勢いよく掃いたり素早く動いたり、とにかく「身体を動かす」と寒さを感じなくなる。そうか、人間はもともと「動くもの」
なのだと妙に納得した次第。何が何でも身体を動かす、それだけで身体が温まり結果が出るという発見は思った以上にインパクトがあった。植物のように動かず寒風にさらされているだけだと枯れてしまう。動物は動くことができる。身体が温まった後でも「行動」すれば何か結果が出る、じっと考え込んでいることは止めようと、何でも良いから動くことにした。その一つの結果が「今日の作品」に掲載した「Mieuへの絵手紙・万両」(水彩)。ほんの30分ほどの時間があり、手を動かす気になれば絵手紙一つ描くことができた。行動しない理屈を考える前に「動いてみる」とエネルギーが燃焼するのは間違いない。

1月15日(水) <「今日の言葉」・・・>
「今日の言葉」を書いてみよう。今日の作品、今日の写真はその日に自分が作ったもの、自分が撮影したもので唯一を表現できるが、今日の言葉はこの日に感動した言葉として昔から伝えられる言葉をそのまま引用させていただく。世阿弥の風姿花伝より:「住する所なきを、まず花と知るべし」。世阿弥のいう「住する所なき」とは、現状のまま留まり続けないこと、安住することのないこと、つまり変化するところに「花」をみる。今日、偶然この言葉をみたときに、本来の意味とはズレるが今住んでいるところを去り新たに住む所を探している今の時期、自分を元気づけてくれる言葉となった。正に現状に安住することなく新天地をのぞむ今こそ、一番面白い花の時期かも知れない。世阿弥の一言をみただけで大いに励みになるから人の心は実に単純ではある。もう一つ、「老後の初心忘るべからず」もまた今味わっておきたい。
「今日の写真」は庭にやってきたヒヨドリ。先日来、毎日飛来して庭の苔をほじくり返すのがこのヒヨドリの一群だ。
2014-01-15ヒヨドリ

1月16日(木) <最近の信じられないこと・・・>
最近の信じられないこと筆頭は”細川護煕さんの都知事選立候補”だ。アノ細川さんが”まさか”である。細川さんとは陶芸の展覧会でご本人と話をしたり、著作(不東庵日常=陶芸家としての号が”不東”で陶芸修行に関する本)にサインをいただいたりした、いわば一種のファンとしては幻滅の至り。細川さんは60歳を機に政界を引退して晴耕雨読の生活をするという潔さ(いさぎよさ)に魅力があった。抹茶茶碗などの本物をみる目も確かであったから陶芸作品のセンスもすばらしかった。オリジナリテイの面では特筆できなくても”陶芸家”として陶芸が本職の息子さんより人気があった。それが74歳にして(一昨日1/14が誕生日)都知事選立候補とは何を考えているのか。「脱原発」を主張したければ知事選でなくても、いくらでも議論する場はある。細川さんの立候補をみると74歳で出馬しようと考えるほどに日本人の寿命が延びたのかと感慨がわく反面、年令によって状況判断の能力がそれほどまでに落ちたのか(自分を見る力が衰えたのか)、ボケてはいないのかが心配になる。「晩節を汚す」といって出馬を止める人が周囲にいなかったのか。やはりお殿様の考えることは我々一般人には理解し難いとファンクラブからは脱退だ。

1月17日(金) <初めて顔を合わせた人・・・>
初めて顔を合わせた人と内容のある話をする機会が少なくなった。挨拶程度は交わすとしてもビジネス的な話はほとんど顔見知りの人に限られる。今日は珍しく初対面で3〜4人の人と色々と話をするチャンスがあった。といっても、電力会社の技術サービスの人とか設備工事の関連の人など肩肘張るような人たちではなかったが、それがそろって誠実でごまかしが無く、しかも応答が的確で、こちらが何故か分からぬままに感動してしまった。当たり前の応対であったかも知れない。けれども私にはごく普通に仕事をしている人たちが皆、善意に気持ちよく対応してくれるのが特別のことのように思えた。これが当たり前なら、こんな日本人の中にいて幸せである。後で考えてみると、善意の対応がこれほどうれしかったということは、最近は真逆の事例に接することが多かった証なのだろうか。闇があるから昼間がまぶしく見える。陽光に感謝する心は忘れないようにしよう。
今日の表紙に「Mieuへの絵手紙・庭」(水彩)を掲載した。孫娘のMieuがこの池をもう一度見ることができるかどうかを思いながら描いた。


1月18日(土) <「絵はがき」が旅行に関する絶滅危惧種・・・>
「絵はがき」が旅行に関する絶滅危惧種のトップに挙げられていた(CNNニュース記事より)。孫娘宛に150枚ほどの「絵手紙」を送り続けてきて、これからも絵手紙を作成しようと思っている身としては見過ごせないニュースだ。記事によれば旅行者の60%が家族や友人に何らかの便りを送るが、その中で絵はがきが占める割合は16%だという。そして米国では1951年に45億通配達された絵はがきが、1980年には18億通、2013年には10億通に激減中とか(ちなみに日本での年賀はがきの配達枚数は約20億弱)。e-mailがこれほど進んだ現状を考えると当然であり、”危惧”するには当たらないと思えるし、むしろ直筆の便りは価値が上がるのでないか。参考までに、絶滅危惧種として挙げられた10位までは次の通り:「旅の思いでスライドショウ」、「旅行ガイドブック」、「インターネットカフェ」、「アナログ型目覚まし時計」、「折りたたみ地図」、「トラベラーズチェック」、「写真アルバム」、「航空機ファーストクラス」、「豪華堅牢な旅行トランク」。こうしてみると全て道具が進化した当然の結果であり、生物の絶滅を危惧するのとは訳が違う。絵はがきも良いものは残るだろう。私の絵手紙はこれからも続けようと思う。
1月19日(日) <「楽茶碗と新春の雪松図」・・・>
「楽茶碗と新春の雪松図」の展覧会を友人夫妻と一緒に見に行った(三井記念美術館にて、1/25まで開催=ここ)。この友人夫妻とは前に「井戸茶碗」の展覧会にもご一緒した。「楽茶碗」は重要文化財に指定されている長次郎(初代)の黒楽茶碗(銘俊寛)からはじまり現代の15代楽吉右衛門さんまで楽家代々の作品を並べて一挙に展示してある。「伝統」と言うのは容易だが、400年以上の歴史を背負って初代と同種の「茶碗」を制作する楽家が現代まで続いていること自体が奇跡のようにも思える。円山応挙の代表作「雪松図屏風」は毎年この時期に展示される国宝。新春にふさわしく雪の中に凛として立つ松の姿を楽しんだ。松の根元には金粉を勢いよく散らした描き方が面白く見えた。・・今日はたまたま私の誕生日。美術館を出た後、東京駅日本橋口まで歩いて地上27階のレストランでランチとする。ビュッフェ式のランチが美味しく、また友人夫妻と長時間話し込んでいても気持ちよく対応してくれるこのレストランが気に入った。その名は、TENQOO(天空の意だろう)。
2014-01-19 TENQOOのある27階には写真のような展示物もある

1月20日(月) <大寒の今日・・・>
大寒の今日、午前中は凍えるような寒さの中でテニス。午後は、全豪オープンテニスの生中継を全部見てしまった。オーストラリアは日本の反対で真夏の盛り。錦織とナダルの戦いは大接戦だったが残念ながら錦織が敗れて8強入りはならなかった。テニスでは全豪オープン、全仏オープン、ウィンブルトン選手権(全英)、全米オープンの4つの大きな国際大会があり「グランドスラム」呼ばれる、あるいは4大国際大会全てに勝利することを「グランドスラム達成」などという。何故「グランドスラム」といわれるのか知らなかったが今日初めて納得した。「グランドスラム」は、Grand Slamで、元々はコントラクトブリッジ(トランプゲーム)で圧勝する意味の言葉が、スポーツなど色々な分野で「完全制覇」の意で使われるようになったようだ(ちなみにコントラクトブリッジではsmall slamもある)。slamは辞書では「ぴっしゃりと閉める」とあるが、他のものが入り込む余地のない完全な状態を表すのだろう。同じ「スラム」でも貧民窟やスラム街の方はslum。日本人の発音で「グランドスラム」と言うと誤解されるかも知れない。ところで今日錦織に勝利したナダル(1986年スペイン生まれ、27歳)は全豪、全仏、全英、全米の全てのテニス大会に優勝した実績があり(ただし同じ年内の年間グランドスラムではない)、しかも2008年のオリンピック北京大会のテニスシングルスで金メダルを獲得しているので「キャリア・ゴールデン・スラム」を達成したと称される。

1月21日(火) <詩人の吉野弘さんが先週15日に死去・・・>
詩人の吉野弘さんが先週15日に死去したと報じられている。吉野さんは1926年1月16日生まれであるから87年間1日も余すことなく生涯を終えられたことになる(そういえば今年は昭和89年だ!)。吉野弘さんの詩は結婚式のスピーチなどでよく引用される「祝婚歌」が知られているので、この機会に改めて目を通してみた(例=ここ)。「二人が睦まじくいるためには 愚かでいるほうがいい・・」ではじまる詩は結婚する姪のためにつくられた詩とされるが、確かに若いカップルにも分かり易く感動的である。けれども私はこれはむしろもっと大人、うまい言い方がないが熟年夫婦とか高齢者の夫婦が味わうべき詩ではないかと思えてくる。この詩は20代や30代の若い作者では書けない。恐らくは吉野弘さんも50〜60歳を過ぎての作品でないかと推測する。「正しいことを言うときは 少しひかえめにするほうがいい 正しいことを言うときは 相手を傷つけやすいものだと 気付いているほうがいい・・」。何だか70歳代の夫婦でも教えられることばかりの「詩」が続く・・。
1月22日(水) <2〜3日前から左肩の関節に違和感・・・>
2〜3日前から左肩の関節に違和感がありアレコレと対応に苦心して来た。テニスで右腕ばかり使い過ぎかと左でウェイトトレーニングをするとかウォーキングの時に意識して左腕を大きく振るとか横になって一番楽なポーズを続けてみるとか果てはマッサージチェアの世話になるまで、年齢のせいでガタがきたかと少々弱気になりながら出来ることをやってきたけれども目立った成果はない。今日になって妻が”花粉症かと思っていたらどうも風邪みたい”と言った所で閃いた。もしかすると体温はそれほど上がっていないけれども(37度で平熱より若干は高い)体内に風邪のウィルスが侵入して免疫システムがウィルスをやっつけようと必死に戦っている真っ最中かも知れない。風邪をひかないように身体を鍛錬したりうがいや手洗いはやって来たつもりだがウィルスと考えると納得がいく。そうすると何が必要か:睡眠でしょう・・。
 
2014-01-22 @恵比寿ガーデンプレイスにて 右は家のポインセチア

1月23日(木) <古代インドでは四住期・・・>
古代インドでは四住期といって四季の移り変わりのように人生を四つの時期に分ける考え方があった。「学習期(がくしょうき)」、「家住期」、「林棲期」、「遊行期」の四つ。元来はバラモン教徒への教えとして「学ぶ時期」、「働き、子育てをして家庭をつくる時期」、「森林に隠棲して修行する時期」、「身にあるものを捨て自由に遊行する時期」を設定したものとされる。現代的な解釈では、心身の発達をさせる「学習期」、社会的責務をこなす「家住期」、自己の成熟をさせる「林住期(=林棲期)」、自己を解放させる「遊行期」とみる。注目すべきは人生の後半になるに従って楽しめるのが人生とするところだ。社会的な責任を免除されて自由になって自己を成熟させ、更に諸々の束縛から解放されて動き回る。こんな後半生を実践できれば歳を取るのもうれしくなるだろう。輝ける「遊行期」はこれからだと思いたい・・。

1月24日(金) <新聞がまだ生き残っている・・・>
新聞がまだ生き残っているのが不思議でならない。今日は病院の待合室で久しぶりに新聞に目を通しながら、また新聞の不思議を思った。私は随分前に新聞は一切購読しないことに割り切った。インターネットでは日本の新聞社だけでなく外国のニュースなど情報は無限と言ってよいほどに入手できる。勿論テレビの情報もある。家庭に配布される新聞はニュース種がなくても毎日何枚ものページを埋める新聞社としての努力の結果であるけれども多分に新聞社としての価値判断が大きく反映されるのが紙面であろう。タイトルの付け方、活字の大きさ、そしてニュースの取り上げ方・・。ネットの情報では朝日新聞社が都知事選に絡んである候補に不利な情報を集め報道する全社作戦に取組んでいるなどとささやかれているが、新聞の読者は記事だけを見て大きく影響を受ける。朝日新聞の創刊は1879年、明治12年とされるが菓子店でもない企業が135年も継続していること自体が驚異でもある。三井、三菱、住友など大財閥の企業をはじめ創業期の名前で今も続いている企業はほとんどない。以前書いたことがあるかも知れないが新聞というと毎日の膨大な紙の消費を思う。朝日は何と朝刊だけで760万部余。毎日これだけの新聞紙が使い捨てされる。猛烈な量の樹木の伐採を伴う製紙業に貢献してきたとしても、ペーパーレス化は時代の流れだ。新聞がいつ変わるか、注目しよう。
1月25日(土) <夜眠れないほどの関節痛・・・>
夜眠れないほどの関節痛に苦しみながら我も人並みと悟る。睡眠だけは大得意で”眠れない”ことなど理解できなかった。床につく前に適度に身体の筋肉に負担をかけた上で、嫌なことは考えず感謝の気持ちを持ち創造的なテーマを頭に浮かべていると朝までぐっすりと眠れる・・と、これはあくまでも健康で理想的な状況だった。発熱がありどのような位置に身体を横たえても関節が痛い状態では眠ることができない・・。私たちは立場の違う人のことを実はほとんど理解できていない。障害のある人たちのことを思いやるといっても何も分かっていないのだろう。ほんのわずかな苦痛であるが自分で痛さを感じたところで改めて健康の有難さを思った。
夜は陶芸教室での食事会。これも仲間と楽しく会食できるのは当たり前でなく貴重な機会であり幸運の結果であると思えてくる・・。

1月26日(日) <為せば成る・・・>
「為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の 為さぬなりけり」。ご存知、江戸時代中期の米沢藩主・上杉鷹山が子息に詠み与えたとされる歌。このような同じ単語や一部を繰り返して歌の中に詠み込む「畳語歌(じょうごうた)」が江戸時代に流行したらしい。今日は畳語歌を集めてみた。誰もが知っているのが:「月月に 月見る月は 多けれど 月見る月は この月の月」。次:「人の非は 非とぞ悪みて 非とすれど 我が非は非とぞ 知れど非とせず」。「今今と 今という間に 今ぞなく 今という間に 今ぞ過ぎ行く」。一休の作とされるこんな歌もある:「南無釈迦じゃ 娑婆じゃ地獄じゃ 苦じゃ楽じゃ どうじゃこうじゃと いうが愚かじゃ」。・・こうして現代でも共感する畳語歌をいくらでも拾いだすことができる。日本の言葉文化は実に豊かだと改めて思う。 
1月27日(月) <「ミクロファンタスティック」・・・>
「ミクロファンタスティック」が今日インスピレーションを得た本。この本は息子が残した本であるが久しぶりに本棚から取り出して見たところ、その驚異的な画像に目が離せなくなった。西永奨による「ミクロファンタスティック」(考古堂出版/ここ参照)は走査電子顕微鏡による写真集。電子顕微鏡によって昆虫や植物、人間の臓器などのミクロの世界が撮影されているのであるが説明なしでは何者かは分からない。ただ幻想的かつ神秘的。想像した形状でなく私たち自身が実際に所有している内蔵物がアートに見えるから不思議だ。例えば「舌の表面の糸状乳頭」、「小腸の絨毛」、「脂肪組織」、「内耳の有毛細胞」、「各所の血管鋳型」などぞっとするほど美しい。ミクロの世界には未知なる構造体であふれている。息子の遺品でもあるこの本から何か新しい創造物ができないか考え始めた。

1月28日(火) <正月の 末の寒さや 初不動・・・>
「正月の 末の寒さや 初不動」(久保田万太郎)。今日1月28日は一年で最初の不動明王(不動尊)の縁日で「初不動」と呼ばれる(ちなみに毎月28日が不動明王の縁日)。万太郎は恐らくは深川不動尊(東京・門前仲町)にでも行ったのだろうか。私の家の近くには目黒不動尊がある。この日「初不動」を詠んだ俳句は意外に多いことを知った。「前髪に ちらつく雪や 初不動」(石田波郷)、「北空へ 片寄る雲や 初不動」( 福川悠子)。今日は比較的気温が上がったが、昨日、一昨日は東京でも雪が舞いそうな寒さだった。この時節、日によって寒暖の差が大きく変化しながら春へと向う。個人的には未だ風邪が完治せず”しんどい”初不動だった。「けだるさを 叱咤激励 初不動」。「ウィルスに 負けてたまるか 初不動」(TH)。
1月29日(水) <最近のマッサージチェアの進化・・・>
最近のマッサージチェアの進化には驚かされる。単に背筋や腰部をもむだけでなく両脚、両腕を含めてマッサージのパターンは多岐に渡る。10年前と比べると性能が格段に進歩した上に価格は安くなっているから驚異だ。今日はまたビッグカメラの健康用品売り場で最新型マッサージチェアの体験をさせてもらった。ビッグカメラではこの種の健康器具を”ご自由に”使用することができるので機会があれば立ち寄って色々な機種を試してみる。最新式の特徴は個々の人の体型に合わせてきめ細かいマッサージをするところだろうか。指圧の名人がツボを押さえるのと同じように有効なツボを全身から探し出してマッサージするプログラム機能が付いたりする。マッサージチェアもまた日本で独特の進化を遂げた生活用品の一つであろう。マッサージチェアで至福の一時を過ごしながらも以前はマッサージチェアなどに見向きもしなかったと思いつく。マッサージチェアを必要としない、有難いとも思わない健康体が何よりベストかも知れない・・。

1月30日(木) <相変わらず体調が優れない・・・>
相変わらず体調が優れないところで、今日は飛び上がるほど元気になるニュースが流れた。「30歳の日本人女性が率いる国際研究チームが生物学の常識を覆す発見を世界に先駆けて公表」である。理化学研究所の研究ユニットリーダー小保方(おぼかた)晴子さんが細胞に酸性の溶液で刺激を与えるという単純なやり方で万能細胞<「STAP細胞」>を作ることに成功したと発表した(Youtubeニュース=ここ)。STAP細胞の成果は30日付の英国科学誌ネイチャーに発表されて海外の研究者からも賞賛の声が上がっていると報じられているが、2011年に成果を一度ネイチャーに論文を投稿した時には掲載は拒否されて「細胞生物学の歴史を愚弄している」と審査者からメールが届いたという。それをベテラン研究者が小保方さんをサポートしてデーターを解析し直して昨年再投稿したとのエピソードも感動的だ。小保方さんが再生医療を研究始めたのは2006年に早稲田大学の理工学部(応用化学)を卒業した後で留学先の米国ハーバード大を含めて周囲のよき協力者に恵まれたことを素直に話すところも感じがいい。”常識を覆す”研究を若手に任せる風土が日本にあるとすれば未来は明るい。

1月31日(金) <久しぶりに自然教育園・・・>
久しぶりに自然教育園(東京・港区白金台=ここ))までウォーキングで行った。このところ風邪っぽい症状が続いていたので1週間以上散歩もしなかった。いくら理屈を言っても身体が動かなければ何もできない。さて、今日から復調なるかどうか・・。自然教育園で撮影した写真を下に掲載するが、今日もこの公園の手入れがいいのに感心した。自然教育園の名の通りここは通常の日本庭園とか西洋庭園に見られる人工的な造作はない。そうかといって決して”放置”した自然ではない。手入れをしなければ枯れ葉や枯れ枝の山ができるところが今日見ると見事に掃除が行き届いているし樹木の剪定も行っている。”自然のままがよい”などと不用意に言う人がいるがコントロールされない自然は残酷である。弱きものは滅亡し強きものだけが生き残るのが自然の姿。その点、この自然教育園ではある程度は自然淘汰に任せてはいるが希少な植物を意図的に守っているように見える。前回来た時には高さ20mほどの大きなイイギリの上部に沢山の赤い実が垂れ下がっていたが今日は全て地上に落ちて赤い実を引きつめた絨毯のようになっていた(下の写真)。別のイイギリの巨木が朽ちて倒れていたのも印象的。
 
2014-01-31自然教育園にて、下はヒメガマの穂綿(左)と地上に落ちたイイギリの実(右)

これまでの「今日のコラム」(最新版)に戻る

Menu +  Picture + Ceramics  + Gallery +  Corgi +  Ebisu /Daikanyama  +  Special  +  Links