- 江戸で初めての上水道をつくった男 -

お菓子な旗本 大久保主水


6.藤五郎、三河一向一揆で被弾する


 『御用達町人由緒』や『大久保惣系譜』などによると、大久保藤五郎は、三河一向一揆に参戦したとされている。他の資料も交えて、藤五郎の活躍を追ってみることにしよう。

■戦場となった大久保一党の本拠地・上和田
 一揆が勃発すると、大久保一党はすかさず自分たちの本拠地である上和田に引きこもった。なぜなら上和田は、土呂、針崎など一揆勢が岡崎を目指す経路にあり、守りの要衝となっていたからだ。一揆勢はたびたび上和田を攻め立てた。賊が上和田に迫りくると、狼煙をあげて岡崎に知らせる。その知らせを見るや、岡崎城から応援がやってくる。賊はそれをみてすかさず退居する。一進一退。もどかしい戦いが延々とつづいていたという。
 戦いが本格化したのは、十一月二十五日、勝鬘寺の一揆勢が岡崎攻撃のため、小豆坂へ出動してからだ(『家康傳』)。大久保忠世は一族の兵百七十余を率いて小豆坂に登り、家康のいる岡崎城に合図の狼煙を上げた。それを見て攻めてこないと判断した一揆勢は一気に攻め込んだ。鉄砲の一斉射撃で大久保氏は多くの死傷者を出した。そこに、岡崎城から家康が五百余名を率いて駆けつけてきた。家康の姿を見て、一揆方に与した家臣の蜂屋半之丞は鑓を抱えて逃げ出したという。「半之丞ガ鑓先にハ誰カ向ハン」といわれた半之丞も、いくら信仰上の理由とはいえ、主君家康に向かうのには躊躇せざるを得なかったということだろうか。

■針崎の戦いで被弾
 十一月二十六日、針崎に構えていた一揆方は出原本坂に向かい、岡崎を一気に攻め落とすべく総攻撃をかけてきた。ここで立ちはだかったのは上和田の大久保一党で、数時間にわたる激戦が繰り広げられた。
 一揆方からは渡辺半蔵、源蔵の兄弟。さらに槍の蜂屋半之丞らが先頭に立って坂を駈け上がってくる。迎え撃つは黒田半平、植村庄右衛門、大久保与市郎、そして、大久保藤五郎らである。さらに、戦いが始まったことを聞きつけ、家康が岡崎から駆けつけてきた。最前線へと馬を駆る家康は、上和田を通過する。それ、殿が来たということで、大久保一党三十六騎はすかさず主君を取り囲み、ともに馬を走らせる。身を挺して主君を守ろうというのだ。ところが敵の鉄砲隊が横合いに潜んでいた。銃声が一斉に響き渡る。雨のように襲いかかる銃弾。そのなかの一発が、馬上の藤五郎の腰に命中。力を失った藤五郎はあえなく落馬し、馬だけが走り去っていった。
 さて、家康の登場にびっくりした敵は、蜘蛛の子を散らすように逃げていく。逃げる敵を深追いするには及ばない。引き返してきた一行は怪我人を収容にかかる。大久保与市郎とその家来が藤五郎を抱え起こして馬に乗せ、上和田の城に戻っていった。
 負傷者には家康から薬が手配された。その薬のおかげでしばらくすると傷はふさがった。しかし、大きな後遺症が残った。下半身不随。自力で立ち上がることも、歩くこともできない身体になってしまった。
 と、『御用達町人由緒』などを参考に想像も交えて書いてみると、以上のようなことであったと思われる。

『御用達町人由緒』

 (略)廿六日針崎の賊等打出原本坂欲襲岡崎。上和田の士聞之駈合相戦事及数刻。此敵兵渡辺半蔵、同源蔵、蜂屋半之丞進先登。味方黒田半平、植村庄右衛門、大久保与市郎、同藤五郎等戦之。此時鉄砲藤五郎当腰手負上和田へ引退。雖疵平愈足不自由にて御陣供奉難叶、三州居住仕(略)



 翌永禄七年(一五六四)正月七日、再び小豆坂で合戦があり、さらに同月十一日、一揆勢が大久保一族の上和田を攻撃したのに対し、家康が岡崎城を出てこれを救っている。このときは家康自身も銃弾二発を受けたが、具足が固かったため命拾いをしたほどの激戦であったと伝えられている。
 戦に出ることを免除され、上和田に引きこもった藤五郎。このときまだ二十歳そこそこではなかったか。三州宝飯郡赤坂郷に知行三百石を家康から賜った。

 三百石取りというと中級クラスの武士だ。江戸時代(慶安二年)に入ってからの資料だが、三百石取りなら六百坪ほどの屋敷を将軍から拝領している。また軍役規定というものがあり、石高によって戦の際の引率者の数も決められている。三百石で必要な供揃いは侍一人、甲冑持一人、槍持一人、馬の口取一人、小荷駄一人、草履取一人の計六人が最低限必要で、侍一人に従者が六人というグループでつねに移動し戦っていた。しかも、人件費はすべて家禄で雇わなくてはならない。
(2018.05.03)



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