- 江戸で初めての上水道をつくった男 -
お菓子な旗本 大久保主水
7.藤五郎を下半身不随にした鉄砲について
鉄砲については鈴木眞哉『鉄砲と日本人』『刀と首取り』に詳しいので、ここではその記述をもとに書いていくことにする。
■最新の火縄銃が伝来
さて鉄砲伝来といえば種子島が有名で、天文十二年(一五四三)にポルトガル人が初めてもたらしたことになっている。しかし、この定説も揺らぎ始めていて、文亀元年(一五〇一)説、永正五年(一五〇八)説、大永年間(一五二一〜)説など、さまざまな伝来説があるという。しかし、種子島に鉄砲が伝わったのは事実で、この種子島モデルを基に日本製コピーが普及したといわれている。その種子島に渡来した火縄銃は、一五二一年にヨーロッパで新登場したモデルと同じもので、当時の最先端の火縄銃だった。
日本で最初に鉄砲で撃たれて死んだ武士の記録が残っている。天文十九年(一五五〇)のことで、阿波(徳島県)の三好長逸と足利義輝・管領細川晴元との小競り合いで起こった。晴元の足軽部隊が鉄砲を用意していて、三好弓介の部隊の侍一人に弾丸が当たって戦死したのである。このことは、公家衆の山科言継が日記に書きとめているという。
この前後から鉄砲は一気に普及していたようで、天文十八年には斉藤道三との会見に織田信長が弓鉄砲五百挺を携えていったとか、紀州の雑賀(和歌山県和歌山市)では子供にまで鉄砲の訓練をしていたという記録が残されている。また、天文二十四年(一五五五)に信長が自ら鉄砲を撃ったとか、同年に甲斐の武田晴信(信玄)が長尾景虎(上杉謙信)に対する前線の拠点に鉄砲三百挺を送り込んだという記録もあるという。
■機先を制するために使われた鉄砲
鉄砲衆は、最前線に配備されることが多いという。それは、敵の先手を撃ち崩し、敗形に追い込むことが鉄砲に期待されたからだ。先手には勇将が充てられるのが通例で、その中でも勇敢な者が先に立ってくる。彼らを撃ちとめれば先手は動揺し、それが全軍に波及して崩れるケースが多いという。実際、戦死者の半数ほどは鉄砲が原因で死んでいる。銃創が直接の原因でなくても、負傷したり落馬したところを槍で突き刺されたり、溝川へ落とされて踏み殺されたりして死んでいくことが多いようだ。負傷者の半数から七割以上が鉄砲疵という記録もある。また、鉄砲は意外と至近距離から発射されていることが多いようだ。十間(約十八メートル)ぐらいまで敵を引きつけて狙い撃つことが多く、ときには三間(約五・四メートル)や一間半(約二・七メートル)程の距離から狙うこともあったようだ。戦国時代というと白兵戦というイメージが固着しているが、実際の戦闘はどうも様子が違うらしい。
負傷して動けなくなったり落馬した武士は、首取りの恰好の餌食になった。これは、当時の戦功は首級のあるなしで決まったからだ。鉄砲で倒して槍でとどめを刺し、刀で首をとる。これは、戦場で一般的に見られた風景だという。
鈴木氏の論考に沿って述べてきたが、永禄六年(一五六三)、鉄砲に撃たれて落馬した藤五郎は、危うく首取りを免れた武士だったのかも知れない。
(2018.05.17)