- 江戸で初めての上水道をつくった男 -

お菓子な旗本 大久保主水


8.文献に見る藤五郎の存在について


 家康を苦しめた三河一向一揆については、天下のご意見番と称された大久保彦左衛門忠教(ただたか)が元和八年(一六二二)に書いた『三河物語』に詳しい。しかし、残念ながら藤五郎の名前は登場してこない。
 また、榊原忠次が書き上げ、天明三年(一七八三)に幕府に献上された『御当家紀年録』にも詳細が記されているが、こちらにも藤五郎の名は見あたらない。
 『朝野舊聞?藁』(東照宮御事蹟第二十九永禄六年癸亥)は、平安前期の皇族である貞純親王から家康の死去までの期間について、資料集成の形で編集された徳川氏創業史で、文政六年(一八〇九)に編集が始められ、天保十三年(一八四二)に完成している。事象に関して様々な文献が集められ、その文献の文章にしたがって歴史が描き出されている。当然ながら、三河一向一揆についての記載もある。文献の中核をなしているのは『三河物語』『家忠日記』『松平記』などだが、これらのなかに、大久保藤五郎の名前は見えていない。すでに記したが、膨大な人名が列挙されている『三河物語』にも出てこないということが、いささか心配な気持ちになる。後年、江戸時代になって菓子司になった男に戦功譚は必要ない、ということなのだろうか。こんな『朝野舊聞?藁』だが、渉猟した資料の中に大久保主水由緒書があっていたと見えて、そこからの引用が次のように書かれている。

大久保藤五郎某は鉄砲に中りて疵を蒙る。藤五郎某は寛永諸貞享書上に所見なく、大久保主水由緒書にも又其父の名を記されども七郎右衛門忠世等が一族なりしと思はればここに記す
大久保主水由緒書同先祖大久保主水初藤五郎、権現様御奉公仕。三州上和田に一家共一所罷在候。永禄六年十月一向宗蜂起の刻、一家不残上和田に引篭候。同十一月廿六日[按するに廿七日の誤りなり]賊等岡崎欲攻、大久保一家駈合相戦。此節藤五郎鉄砲腰に当、疵平癒以後歩行不自由に罷成、知行三百石被下置、国三河上和田罷在候

 しかし文面を見ると、「大久保藤五郎某」という書き方をしており、疑問視しながらも引用している様子である。全面的に信用するわけではないが捨て置くわけにもいかない、というような中途半端な態度が感じられる。こうなってくると、藤五郎は大久保一族のなかでどういう存在だったのか、知りたい思いが増してくるのである。

※寛永諸家系図伝
寛永十八年(一六四一)に幕府が諸大名、旗本に命じて提出させ、編纂した系図。

※貞享書上
天和三年(一六八三)に大名、旗本などに命じて提出させ、貞享元年(一六八四)に編纂した諸家の系譜。

(2018.05.17)

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