しかし文面を見ると、「大久保藤五郎某」という書き方をしており、疑問視しながらも引用している様子である。全面的に信用するわけではないが捨て置くわけにもいかない、というような中途半端な態度が感じられる。こうなってくると、藤五郎は大久保一族のなかでどういう存在だったのか、知りたい思いが増してくるのである。大久保藤五郎某は鉄砲に中りて疵を蒙る。藤五郎某は寛永諸貞享書上に所見なく、大久保主水由緒書にも又其父の名を記されども七郎右衛門忠世等が一族なりしと思はればここに記す
大久保主水由緒書同先祖大久保主水初藤五郎、権現様御奉公仕。三州上和田に一家共一所罷在候。永禄六年十月一向宗蜂起の刻、一家不残上和田に引篭候。同十一月廿六日[按するに廿七日の誤りなり]賊等岡崎欲攻、大久保一家駈合相戦。此節藤五郎鉄砲腰に当、疵平癒以後歩行不自由に罷成、知行三百石被下置、国三河上和田罷在候
※寛永諸家系図伝
寛永十八年(一六四一)に幕府が諸大名、旗本に命じて提出させ、編纂した系図。
※貞享書上
天和三年(一六八三)に大名、旗本などに命じて提出させ、貞享元年(一六八四)に編纂した諸家の系譜。
(2018.05.17)