- 江戸で初めての上水道をつくった男 -
お菓子な旗本 大久保主水
9.藤五郎、故郷で菓子をつくりはじめる
■趣味はお菓子づくり?
一命をとりとめた藤五郎だが傷は重かった。「歩行困難」「立つこと叶わず」「廃人」など史料によって異なるが、厳しい言い方でつたえられている。若さと意欲は溢れていても体の自由は効かない。一族の面々が華々しい活躍をしているなか、何もせず時を過ごすのはどれほど悔しかったか。上和田に引きこもり、忸怩たる思いで毎日を過ごしていたに違いない。
こんな藤五郎には一風変わった趣味嗜好があった。餅菓子などをつくるのが好きで、いろいろと工夫しては楽しんでいたという。いつ頃から始まったかは分からない。傷を癒しながら何気なしに身につけたものか、それとも幼い頃から家族がつくるのを真似たのか。戦国武将の趣味が菓子づくりというのもほのぼのした感じがする。
■つくった菓子を家康に献上
藤五郎が菓子づくりに没頭していたのはまだ国内で砂糖がつくられる以前のことで、白砂糖の登場で和菓子が劇的に変化しつつある時代でもあった。砂糖はまだ珍しく、甘味料としてはまだ甘葛煎(あまずら)や飴を使っていたのかも知れない。たくさんつくれば家族や親戚などにも配ったりするだろう。評判がよければ、嬉しくなってさらに色々と工夫をしてもつと美味しいものを作ろうとする。それがますます評判を呼ぶ。だれかが「殿にも食べてもらったらいい」といったのだろうか。それとも心中密かに「殿に献上しよう」と思っていたのかも知れない。とうとう藤五郎は、家康に献上することを決断するのである。
●藤五郎の菓子はどのようなものだったのか
果物を水菓子と呼ぶように菓子の始まりは果物だった。
人が手を加えてつくった菓子の原型は、奈良・平安時代に輸入された唐菓子にあるという。唐菓子は米粉、小麦粉などを原料に飴、甘葛煎(あまづら)などの甘味、または、塩味をつけて油で揚げたものだ。飴は蒸し煮した穀類を糖化したもので、甘葛煎は蔦の一種だ。まだ日本に砂糖がなかった時代の話である。
砂糖を初めて日本にもたらしたのは、七五四年に唐から渡来した僧鑑真だといわれる。これは黒糖で、薬として献上されたようだ。鎌倉時代には砂糖の輸入も増大し、室町時代になると菓子にも砂糖が使われるようになった。
和菓子は茶道とともに発展した。奈良時代に宮中で茶会が催されるようになり、鎌倉時代に茶苗が輸入されると茶道は一気に華開く。足利将軍義政(一四四〇〜八〇年)の東山時代は、まさに茶道の時代だといってよい。秀吉と千利休の逸話など、エピソードには事欠かない。この時代には饅頭、羊羹など茶道に使用する菓子である点心が多く輸入され、羊の肉などのかわりに小豆餡を用いて日本風に多彩につくり変えられていった。また製粉用ひき臼も渡来して米粉の製造も可能になり、蒸す技術も格段に向上した。
そして、南蛮菓子の伝来である。その嚆矢となったのは室町時代、種子島のポルトガル船の漂着(一五四三)だ。鉄砲やキリスト教とともにカステラ、金平糖、ビスカウト、有平糖などか初めて日本につたえられたという。これは、和菓子の製法に大きな変革をもたらした。白砂糖はそれまでの菓子の味を一変させ、砂糖は製菓材料として重要な役割を担うこととなっていく。砂糖の輸入は、急増。慶長年間(一五九六)には鹿児島の大島で、また、享保年間(一七一六)には九州や四国で甘蔗が栽培されるようになり、国産の黒砂糖が生産されるようになった。精製された白砂糖や氷砂糖はまだまだ輸入品が大部分で、貴重な存在だった。
(2018.05.17)