- 江戸で初めての上水道をつくった男 -
お菓子な旗本 大久保主水
10.当時の戦国状況を、ちょっとおさらい
藤五郎が上和田で忸怩たる隠遁生活を送っている間に、国内の情勢は大きく変化していた。
甲斐の武田信玄、相模の北条氏康、駿河の今川義元は甲相駿三国同盟を結んでいた。永禄三年(一五六〇)、今川義元が桶狭間で織田信長に討たれたが、今川氏真が家督を継いで三国同盟は継承された。今川氏の人質のようなかたちで今川軍に属していた松平元康(徳川家康)は岡崎に帰還。今川氏と同盟関係を結びながら、織田氏との戦いをつづけていた。しかし、氏真が織田氏を討つ意志がないことが分かると、今川氏と決別して織田勢と同盟関係を結ぶ。さらに、信玄と織田信長の関係が深まって、信玄が駿河に侵攻。こうして三国同盟は永禄一〇年(一五六七)に破綻する。
三国同盟の破綻後、北条氏は越後の上杉謙信と同盟。家康も上杉謙信と結び、信玄包囲網を形成していた。しかし、元亀二年(一五七一)に北条氏康が死ぬと、後を継いだ北条氏政はこの関係を破棄し武田信玄と同盟。これによって信玄包囲網はもろくも崩れてしまう。また、今川氏は氏真の代に没落して戦国大名の地位から脱落していた。
こうしたなか、家康は次第に力をつけていた。三河統一後は、信玄と結んで今川氏真を掛川城に攻略(永禄十二年/一五六九)。さらに信長軍との連携で朝倉・浅井連合軍と戦った姉川の戦(元亀元年/一五七〇)では、主に朝倉氏と戦い、数で倍する朝倉軍を撃ち破っている。一戦一戦力を伸ばしていった。
さて、北条氏との同名で背後を突かれる心配がなくなった武田信玄は、元亀三年(一五七二)十月三日、二万五千の兵とともに甲府を出立。徳川領の遠江・三河へと侵攻を開始した。
一方、浜松城を居城としていた家康の兵力はおよそ八千。家康は信長に援兵を依頼するが、それを合わせても一万一千程度といわれる*。信玄は只来城、二俣城を攻め落とすと浜松城へと向かった。しかし、武田軍は浜松城を素通りして三方ヶ原へと進軍していってしまった。籠城覚悟だった家康は、思わず信玄の追撃に出た。これが信玄の思うつぼ。まんまと城から導き出された家康は、三方ヶ原での野戦で反転してきた武田軍と正面衝突。大敗し、命からがら浜松城に逃げ帰ったといわれている。いわゆる三方ヶ原の戦いである。
*兵数については諸説あり、織田の援軍は二万ともいわれているが、正確なところは分からない。
(2018.05.30)