- 江戸で初めての上水道をつくった男 -

お菓子な旗本 大久保主水


11.藤五郎、家康に自慢の餅を献上する


 江戸城内では毎年六月十六日、大名・旗本が登城して将軍から菓子を賜る嘉定の儀式が行われていた。古くは平安時代からある風習といわれるが、その儀式を家康が取りいれるきっかけが、三方ヶ原の戦いにあったという。このエピソードに、大久保藤五郎は深く関わっている。

 さて、この戦で出陣した家康は羽入八幡に陣を張ったという。『嘉定私記』によると家康は、ここでたまたま裏に十六という文字が記された嘉定銭を拾った。嘉定銭は正しくは嘉定通宝といい、十三世紀初めに中国・南宋時代に鋳造されたもので、渡来銭として日本でも盛んに流通していた。
 嘉定通宝を略せば、嘉通。「かつう」という言葉の響きが「勝つ」にもつながる。戦いを控えて偶然拾った銅銭が「勝つ」と告げているように思えたのだろう。家康はこれを幸運の兆しととった。さらに、偶然にも家臣の大久保藤五郎からタイミングよく菓子がとどけられたのだ。嘉定銭に加え、藤五郎の菓子を、さらにめでたいことだと家康は喜んだ。
 菓子は饅頭、羊羹、鶉焼、阿古屋、寄水、金飩の六種類で、饅頭は小麦粉の皮で餡を包んで蒸した酒饅頭。羊羹は蒸羊羹。鶉焼は鶉餅を焼いて焦げ色をつけたもの。阿古屋は●(米編に、参)粉餅に小豆餡をのせたもの。寄水は、● (米編に、参)粉を棒状にしてねじって蒸したもの。金飩は、砂糖を包み込んだ●(米編に、参)粉の団子である。
 藤五郎は家臣の仙水清左衛門と熊井五郎左衛に菓子をもたせ、陣中見舞いにやってきた。戦に出られない身体となった藤五郎の、せめてもの貢献だったのだろう。家康は兵たちにも配れといい、藤五郎とその家来は長持ちのふたや菓子船に盛り分け、陣中の兵たちに菓子をふるまった。

 藤五郎が菓子をとどけたのには、単に趣味でつくっていたからだけではないようだ。当時の兵糧は、米や乾飯(ほしいひ)が主だった。米は焚いていないもので、必要に応じて配給された。一度に多く支給すると酒にして呑んでしまう輩もいたらしい。この米を焚いて握り飯にして食っていた。また、乾飯は天日で乾燥させた飯のことだ。携帯に便利で腐らず、必要なときに水で戻して食べていたらしい。
 『雑兵物語』には、こんなことまで書いてある。荷縄は里芋の茎をなって味噌で煮てあるから刻んで水でもどせば汁の実になる、食える草木は実はもちろん根や葉も馬にくくりつけろ、松の木の皮は煮て粥にして食べろ、籾が濡れて芽を出したらそのまま育てて根と一緒に食べろ・・・。また、息切れしたときは梅干しを見ろ、見るだけで食べるな。梅干しを見ても喉が渇くなら、死人の血でも泥水の上澄みでもすすれ、ともいっている。戦場が飢饉状態になることが、よくわかる。
 実戦に出たこともある藤五郎は、こうしたことをよく知っていた。だから、出陣前に柔らかで旨い菓子をぜひ食べて貰いたいと願ったのだろう。

 とはいえ、三方ヶ原の戦いは、家康にとって負け戦となる。そんな負け戦にまつわるエピソードを、後々まで『嘉定私記』に、嘉定の儀式のいわれとして書き残すのは、いかがなものかと思うのだけれど、これもひとつの伝説としてとらえるのがよいのかもしれない。

(2018.05.30)

徳川記念財団 財団だより 幕府の年中行事「嘉祥」

東京都立図書館 『嘉定私記』

とらや 菓子資料室 虎屋文庫 歴史上の人物と和菓子 「徳川家康と嘉定」



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