- 江戸で初めての上水道をつくった男 -
お菓子な旗本 大久保主水
12.江戸の水道の見立てを仰せつかる
大久保藤五郎忠行が、主君家康から駿河に参上するよう申し渡されたのは、天正十八年(一五九〇)の初夏のことだ。当時藤五郎は生まれ故郷である三河国宝飯郡赤坂郷で、知行三百石を拝領して暮らしていた。三河一向一揆で銃弾を受け、武士として主君に貢献できなくなった代わりに、家康に菓子を献上するようになっていた。
幼いときから側近として仕えてきた藤五郎がつくる餅菓子を、家康は毒味役も通さず安心して食べたという。三方ヶ原の戦いのエピソードも、そうした類のひとつではないかと思われる。
天正十八年、秀吉・家康連合軍は小田原の北条氏をうち破る。七月十三日、秀吉は家康を駿河から関八州に移封した。これについては、秀吉は家康を辺鄙な関東に追いやったといった説もあるようだが、いまは問わない。家康は秀吉の命を受けるとすぐさま駿河から引移りの準備にとりかかった。
その準備のなか、藤五郎は駿河に呼び寄せられた。お目見えしたのは七月十二日のことで、偽書ともいわれる『天正日記』には次のように書かれている。
『天正日記』
十二日 くもる 藤五郎まいらる 江戸水道のことうけ玉ハる
家康は藤五郎に上水を整備するよう申し付けたようだ。なぜそのような仕事を藤五郎に命じたのか、その理由ははっきりしていない。菓子づくりに長けていたから水を見立てさせたというようなこともいわれているが、とくに根拠があるわけでもなさそうだ。
ところで冒頭に書いたように、日本初の上水道は小田原早川上水だといわれている。家康は天正十八年(一五九〇)年の小田原征伐でその存在を知り、自分が治めることになる江戸においても、同じような水道を布設しようとしたのではないだろうか。そう考えるのが自然なような気がする。
(2018.05.30)
国立国会図書館 『天正日記』